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第一章 日常
02 四月(二)
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チーズとトマトソースを乗せたトーストを食べ、重たい瞼を擦りながら玄関を出ると、眠い頭が瞬く間に覚醒した。
「やあ、おはよう」
「お、おは、おはよう……なんで」
「たまには一緒に行こうと思って」
生徒会に所属している幸春さんは早い。玄関の柵に寄りかかり、眩しい笑顔を見せた。
「急いで出てきたの? 寝癖ついてるけど」
「ええ? 違う、別に急いでたわけじゃ。あー、あーっ」
「なんて声出してるの」
幸春さんが、俺の頭を撫でている。本格的に、これは身長は伸びない方がいいんじゃないかと思い始めてきた。
「湊も髪、伸びたなあ。今度一緒に切りに行く?」
「いいの?」
「たまにはふたりで出かけよう。子供だった頃はいつも海や森で生き物捕まえたりしてたな」
「懐かしい。今もカブト虫を見ると捕りたくなるし」
「俺も」
ふたりでフェリーに乗り、海のよく見える端に腰を下ろした。
何度見ても綺麗だ。水面がダイヤモンドのように輝いていて、時折魚が飛び跳ねる。
「今日、どうして一緒に行こうって待っててくれたの?」
恥ずかしかったが、疑問を口にしてみた。
幸春さんは海から目を逸らし、何もない真っ白の天井を見上げる。
「この前、拓郎がまたやらかしたみたいで」
「………………ああ」
この前を指しているのは、間違いなく玄関前での出来事だ。バケツをひっくり返し、大事な宝物を盗られた事件。一生、傷に残る。
「ケガはなかった?」
「うん、平気。転んだのは俺が滑らせただし。どうして分かったの?」
「飴の袋持ってたから、問いつめた。あれはは家族で俺しか持っていないはずだし、食べた跡がゴミ箱に入ってたんだ」
「すごい。探偵みたい」
あまり暗い雰囲気にはなりたくなくて、わざと明るく言ってみると、幸春さんの顔は曇っていく。失敗した。
「いつもごめん」
「今さらだよ。もう慣れた」
「慣れてほしくない」
「だって慣れないと。儀式の相手だし」
曇った顔は土砂降りに近い。幸春さんは、頭を俺の後頭部にごつんとぶつけた。
近い。良い香り。幸春さんの匂い。
「そっか……うん。そうだよな」
「我慢……は、本当はしてた。ごめん、春兄の家族なのに」
「それは関係ない。家でもやんちゃで手を焼いているのに、他の家の人からすればもっともな意見だよ。回りが甘やかしすぎる」
真っ向から切り裂いてくれると、俺も心が軽くなる。
「これから……ちゃんと言ってほしい」
「分かった……言うよ」
「飴の代わりに、今度は違うものをあげるから」
「チョコ?」
「さあ……どうだろう」
よかった。いつもの幸春さんに戻っている。彼の濁った顔は苦手だ。誰だって好きな人には笑顔でいてほしい。たとえ叶わない恋でも、今ある幸せも大事にしたいから。
校舎で別れ、教室に向かった。生徒はまばらで、半分も集まっていない。
「なあ、お前……仁神だよな? 男同士でやるって本当か?」
分かりやすく、俺は嫌な顔をして席についた。
「悪いけど、儀式の内容については教えられない。禁忌だから」
「なんだよそれ」
おかしいことなんて何も言っていないのに、なぜかクラスメイトは笑う。おかしい要素はどこにもない。
「俺たちからすると、稲荷島に住んでいない人は『外』だから。何も話せない」
「あいつ、べらべら喋ってたぜ」
「あいつ?」
「お前の、コレ」
下品にも、指で輪を作り、中指を入れる。
「お前と祭りで結婚して、夜にはセックスするってよ」
「なにそれ、バカみたい」
男子生徒はそれ以上何も言ってこなかった。
伝統ある風習を貶され、腹が立って仕方がなかった。きっと中学生のときのように、この先も言われ続ける。それに、簡単に話してはならない内容を、拓郎は外の人間に話してしまった。俺にしてみたら拓郎も同罪で、同じくらいに憎らしく感じた。
今日は一限目から体育がある。俺はトイレでこっそり着替え、体育館に急いだ。なかなか目の覚めない一限でも、今日は好きな人の顔を見られたから元気だ。
「三年と一緒かあ」
体育館の半分は、三年生が使っている。知る顔を見つけてしまい、目が離せなくなる。心臓がおかしい。口から飛び出そうだ。なんてかっこいいんだ。
幸春さんも俺を見つけては目を見開き、悪戯っ子の笑みで手を振った。かっこいいだけじゃなく、めちゃくちゃに可愛い。
近くには生徒会長の姿もあり、俺を見ては睨んでいる。
「同じクラスだったんだ……」
仲が良いのか、座ったまま談笑している。二年早く生まれていたら、あそこに座っていたのは俺かもしれないのに。儀式の相手は……もしかしたらと考えて、こめかみを揉みほぐした。ずっと考えないようにしていた妄想だ。それだけは口にしてはいけないし、思ってもいけない。当日は……きっと死にたくなるから。
「ほら、仁神、次はお前だ」
仁神は俺しかいない。助走をつけて走り、板に弾かれるままに勢いよく飛ぶ。
声にも悲鳴にもならない声は、なんと例えたらいいのだろう。太股の内側に跳び箱の角が当たり、マットに転げ落ちてしまった。柔らかいものがあってよかった。
「おい、大丈夫か?」
「へ、平気です……すみません、ちょっと保健室に」
「ひとりで行けるか?」
「はい」
むしろひとりの方がいい。恥ずかしくて体育館半分を見られなかった。合わせる顔がない。
体育館と保健室が近く、壁伝いになんとか引き戸を引いた。保健の先生はいない。勝手にソファーに座らせてもらい、楽に足を投げ出した。太股の痛みで気づかなかったが、左の足首に違和感がある。
歩けるし、骨には異常はないはず。大きく息を吸って吐き、繰り返しているうちに痛みも引いてきた。薬も必要ない。
「はあ…………」
よりによって、好きな人に見られてしまった。元々運動が苦手でも、あんなに盛大に失敗をさらけ出してしまったのは……実は何度もあったりする。運動会や球技大会、そのたびに幸春さんは、絆創膏をくれたり、泣きべそをかく俺と手を繋いで家まで帰ってくれた。
しばらく時計を見てから立ち上がると、ここに来たときよりも痛みはだいぶ引いている。身体に鞭を入れてドアを開け、俺はアグレッシブに閉めた。
「待って待って、ちょっと、こら」
「ああー、だめだめ! なんでいるの!」
「様子を見に来た」
「靴、じゃま!」
「邪魔じゃない」
隙間に入っているスニーカーが憎らしい。俺とのサイズ感に愕然とする。
仕方なく、もうほんとに仕方なく、扉を開けた。
「打ったのは足だけ?」
「………………うん」
「どこ?」
「太股と……足首」
「首ってつく場所は大事にした方がいい。ソファーに座って」
優しい幸春さんの隣には、なぜお前のために付き添わなければならないといった不愉快そうな顔の生徒会長がいる。分かっています。全力で俺が嫌われていることを。
嫌なら帰ればいいのに、生徒会長まで中に入ってきてしまった。俺の隣に幸春さんが座り、さらに隣に生徒会長が座る。ちょっとした地獄絵図。
左足首は少し熱を持っていた。
「派手にやっちゃったね」
「うう……見られたくなかったのに……」
「何を今さら。運動音痴なのは知ってるから。隠す必要ないよ」
「清々しいくらいにひどい……」
「でも水泳は得意じゃない?」
「まあ……海に囲まれて育ったし」
「人魚姫みたいだもんね」
「なんか……やだ」
「どうして?」
「……恋しても叶わないで散るじゃん」
棚を漁る幸春さんの手から包帯が落ちる。
湿布をハサミで切りサイズを合わせ、肌に貼りつけた。幸春さんは包帯に集中していて、巻き終わるまで無言だった。
「恋してるんだ?」
さらっとしている言葉でも、俺に突き刺さる重みは違う。
どういう顔で返事をすればいいのか、正解が見えてこない。
俺はソファーに座っていて、幸春さんは地べたで片膝をついているものだから、本物の王子様に見えた。さらさらしている髪の毛は、風に揺られてシャンプーの香りがする。
一人分を空けて座る生徒会長の視線が痛い。なぜここにいるのか、聞きたいのに聞けない。
「さあ、できた。学校が終わったら、病院に行った方がいい」
何事もなかったように、幸春さんは太股を軽く叩くと立ち上がる。聞いてほしかったような、触れないでいてくれた優しさも混じり、複雑な気分だ。
「少し休んだら教室に戻りなよ。行こう、アキ」
アキと呼ばれた生徒会長は、もう俺を見ていない。幸春さんと次の授業の話をしながら保健室を出ていってしまった。
呆気ない別れだ。緊張していたのは俺だけで、幸春さんからすれば、手のかかる弟の世話をしたにすぎない。二年の差は大きい。
ひとりで立ってみると、きつく巻かれたおかげか、痛みはそれほどでもなかった。
放課後は海沿い近くにある病院に行き、太股と足首を診てもらった。太股は大したことはなくて、足首は軽い捻挫。一週間は安静にしているようにと言われ、家に戻った。
「今日は炊き込みご飯?」
「そうよ。これ、お隣さんに持っていって」
「えーっ」
「なによその声。いつもは嬉しそうに持っていくじゃない」
「別に嬉しくないって。捻挫しててあんまり歩きたくないだけ」
「捻挫?」
体育の授業と、病院での話をした。保健室での出来事はごっそり省いて。
自室に戻ると、さっさと着替えを済ませてふて寝した。向こうのカーテンは動かない。もう一度枕に突っ伏した。生徒会で忙しいのに、帰っているわけがない。
二時間ほど寝ていると、母が夕食だと呼びにきた。
「宿題はちゃんとやりなさいね」
「分かってるよ」
炊き込みご飯と魚の煮つけが並ぶ。今日は父は仕事で遅くなるので、母とふたりきりの夕食だ。
「拓郎君がね、捻挫のこと心配してたわよ」
「拓郎が? あるわけないじゃん」
全否定せざるを得ない。海の水がすべで消えてなくなる以上にありえない。
「いい子よねえ。ずいぶん変わったわね。昔は悪戯ばっかりしていたのに」
「……本気でそれ、言ってる?」
やめておけばいいものを、一度口が開くと止まらなかった。
「拓郎は昔も悪で、今は暴力的な面がなくなっただけ。昔は俺、殴られてたし。なんでそれが褒められるの? 悪いこともせずにルールを守って生きている人間がいるのに。普通に戻っただけで絶賛される理由は?」
「そんなこと言って……あなたたち結婚するのよ? そんな様子で大丈夫なの?」
「大丈夫なわけない。大丈夫に見える? けどやるよ。この島は大好きだし、それが観光に繋がるわけだし。あくまでビジネスとしてだけどね」
母のショックを受けた顔ったらない。本当に傷ついているのは俺なのに。心も体もぼろぼろだ。好きな人とは結ばれない、苦手な人と身体を繋がなければならない、おまけに幸春さんとギクシャクする。散々だ。
美味しいはずの夕食は半分以上残し、部屋にこもってひたすら机に向かった。復習も予習も完璧だ。明日の授業が楽しみだと気を紛らわせ、布団に入った。
「やあ、おはよう」
「お、おは、おはよう……なんで」
「たまには一緒に行こうと思って」
生徒会に所属している幸春さんは早い。玄関の柵に寄りかかり、眩しい笑顔を見せた。
「急いで出てきたの? 寝癖ついてるけど」
「ええ? 違う、別に急いでたわけじゃ。あー、あーっ」
「なんて声出してるの」
幸春さんが、俺の頭を撫でている。本格的に、これは身長は伸びない方がいいんじゃないかと思い始めてきた。
「湊も髪、伸びたなあ。今度一緒に切りに行く?」
「いいの?」
「たまにはふたりで出かけよう。子供だった頃はいつも海や森で生き物捕まえたりしてたな」
「懐かしい。今もカブト虫を見ると捕りたくなるし」
「俺も」
ふたりでフェリーに乗り、海のよく見える端に腰を下ろした。
何度見ても綺麗だ。水面がダイヤモンドのように輝いていて、時折魚が飛び跳ねる。
「今日、どうして一緒に行こうって待っててくれたの?」
恥ずかしかったが、疑問を口にしてみた。
幸春さんは海から目を逸らし、何もない真っ白の天井を見上げる。
「この前、拓郎がまたやらかしたみたいで」
「………………ああ」
この前を指しているのは、間違いなく玄関前での出来事だ。バケツをひっくり返し、大事な宝物を盗られた事件。一生、傷に残る。
「ケガはなかった?」
「うん、平気。転んだのは俺が滑らせただし。どうして分かったの?」
「飴の袋持ってたから、問いつめた。あれはは家族で俺しか持っていないはずだし、食べた跡がゴミ箱に入ってたんだ」
「すごい。探偵みたい」
あまり暗い雰囲気にはなりたくなくて、わざと明るく言ってみると、幸春さんの顔は曇っていく。失敗した。
「いつもごめん」
「今さらだよ。もう慣れた」
「慣れてほしくない」
「だって慣れないと。儀式の相手だし」
曇った顔は土砂降りに近い。幸春さんは、頭を俺の後頭部にごつんとぶつけた。
近い。良い香り。幸春さんの匂い。
「そっか……うん。そうだよな」
「我慢……は、本当はしてた。ごめん、春兄の家族なのに」
「それは関係ない。家でもやんちゃで手を焼いているのに、他の家の人からすればもっともな意見だよ。回りが甘やかしすぎる」
真っ向から切り裂いてくれると、俺も心が軽くなる。
「これから……ちゃんと言ってほしい」
「分かった……言うよ」
「飴の代わりに、今度は違うものをあげるから」
「チョコ?」
「さあ……どうだろう」
よかった。いつもの幸春さんに戻っている。彼の濁った顔は苦手だ。誰だって好きな人には笑顔でいてほしい。たとえ叶わない恋でも、今ある幸せも大事にしたいから。
校舎で別れ、教室に向かった。生徒はまばらで、半分も集まっていない。
「なあ、お前……仁神だよな? 男同士でやるって本当か?」
分かりやすく、俺は嫌な顔をして席についた。
「悪いけど、儀式の内容については教えられない。禁忌だから」
「なんだよそれ」
おかしいことなんて何も言っていないのに、なぜかクラスメイトは笑う。おかしい要素はどこにもない。
「俺たちからすると、稲荷島に住んでいない人は『外』だから。何も話せない」
「あいつ、べらべら喋ってたぜ」
「あいつ?」
「お前の、コレ」
下品にも、指で輪を作り、中指を入れる。
「お前と祭りで結婚して、夜にはセックスするってよ」
「なにそれ、バカみたい」
男子生徒はそれ以上何も言ってこなかった。
伝統ある風習を貶され、腹が立って仕方がなかった。きっと中学生のときのように、この先も言われ続ける。それに、簡単に話してはならない内容を、拓郎は外の人間に話してしまった。俺にしてみたら拓郎も同罪で、同じくらいに憎らしく感じた。
今日は一限目から体育がある。俺はトイレでこっそり着替え、体育館に急いだ。なかなか目の覚めない一限でも、今日は好きな人の顔を見られたから元気だ。
「三年と一緒かあ」
体育館の半分は、三年生が使っている。知る顔を見つけてしまい、目が離せなくなる。心臓がおかしい。口から飛び出そうだ。なんてかっこいいんだ。
幸春さんも俺を見つけては目を見開き、悪戯っ子の笑みで手を振った。かっこいいだけじゃなく、めちゃくちゃに可愛い。
近くには生徒会長の姿もあり、俺を見ては睨んでいる。
「同じクラスだったんだ……」
仲が良いのか、座ったまま談笑している。二年早く生まれていたら、あそこに座っていたのは俺かもしれないのに。儀式の相手は……もしかしたらと考えて、こめかみを揉みほぐした。ずっと考えないようにしていた妄想だ。それだけは口にしてはいけないし、思ってもいけない。当日は……きっと死にたくなるから。
「ほら、仁神、次はお前だ」
仁神は俺しかいない。助走をつけて走り、板に弾かれるままに勢いよく飛ぶ。
声にも悲鳴にもならない声は、なんと例えたらいいのだろう。太股の内側に跳び箱の角が当たり、マットに転げ落ちてしまった。柔らかいものがあってよかった。
「おい、大丈夫か?」
「へ、平気です……すみません、ちょっと保健室に」
「ひとりで行けるか?」
「はい」
むしろひとりの方がいい。恥ずかしくて体育館半分を見られなかった。合わせる顔がない。
体育館と保健室が近く、壁伝いになんとか引き戸を引いた。保健の先生はいない。勝手にソファーに座らせてもらい、楽に足を投げ出した。太股の痛みで気づかなかったが、左の足首に違和感がある。
歩けるし、骨には異常はないはず。大きく息を吸って吐き、繰り返しているうちに痛みも引いてきた。薬も必要ない。
「はあ…………」
よりによって、好きな人に見られてしまった。元々運動が苦手でも、あんなに盛大に失敗をさらけ出してしまったのは……実は何度もあったりする。運動会や球技大会、そのたびに幸春さんは、絆創膏をくれたり、泣きべそをかく俺と手を繋いで家まで帰ってくれた。
しばらく時計を見てから立ち上がると、ここに来たときよりも痛みはだいぶ引いている。身体に鞭を入れてドアを開け、俺はアグレッシブに閉めた。
「待って待って、ちょっと、こら」
「ああー、だめだめ! なんでいるの!」
「様子を見に来た」
「靴、じゃま!」
「邪魔じゃない」
隙間に入っているスニーカーが憎らしい。俺とのサイズ感に愕然とする。
仕方なく、もうほんとに仕方なく、扉を開けた。
「打ったのは足だけ?」
「………………うん」
「どこ?」
「太股と……足首」
「首ってつく場所は大事にした方がいい。ソファーに座って」
優しい幸春さんの隣には、なぜお前のために付き添わなければならないといった不愉快そうな顔の生徒会長がいる。分かっています。全力で俺が嫌われていることを。
嫌なら帰ればいいのに、生徒会長まで中に入ってきてしまった。俺の隣に幸春さんが座り、さらに隣に生徒会長が座る。ちょっとした地獄絵図。
左足首は少し熱を持っていた。
「派手にやっちゃったね」
「うう……見られたくなかったのに……」
「何を今さら。運動音痴なのは知ってるから。隠す必要ないよ」
「清々しいくらいにひどい……」
「でも水泳は得意じゃない?」
「まあ……海に囲まれて育ったし」
「人魚姫みたいだもんね」
「なんか……やだ」
「どうして?」
「……恋しても叶わないで散るじゃん」
棚を漁る幸春さんの手から包帯が落ちる。
湿布をハサミで切りサイズを合わせ、肌に貼りつけた。幸春さんは包帯に集中していて、巻き終わるまで無言だった。
「恋してるんだ?」
さらっとしている言葉でも、俺に突き刺さる重みは違う。
どういう顔で返事をすればいいのか、正解が見えてこない。
俺はソファーに座っていて、幸春さんは地べたで片膝をついているものだから、本物の王子様に見えた。さらさらしている髪の毛は、風に揺られてシャンプーの香りがする。
一人分を空けて座る生徒会長の視線が痛い。なぜここにいるのか、聞きたいのに聞けない。
「さあ、できた。学校が終わったら、病院に行った方がいい」
何事もなかったように、幸春さんは太股を軽く叩くと立ち上がる。聞いてほしかったような、触れないでいてくれた優しさも混じり、複雑な気分だ。
「少し休んだら教室に戻りなよ。行こう、アキ」
アキと呼ばれた生徒会長は、もう俺を見ていない。幸春さんと次の授業の話をしながら保健室を出ていってしまった。
呆気ない別れだ。緊張していたのは俺だけで、幸春さんからすれば、手のかかる弟の世話をしたにすぎない。二年の差は大きい。
ひとりで立ってみると、きつく巻かれたおかげか、痛みはそれほどでもなかった。
放課後は海沿い近くにある病院に行き、太股と足首を診てもらった。太股は大したことはなくて、足首は軽い捻挫。一週間は安静にしているようにと言われ、家に戻った。
「今日は炊き込みご飯?」
「そうよ。これ、お隣さんに持っていって」
「えーっ」
「なによその声。いつもは嬉しそうに持っていくじゃない」
「別に嬉しくないって。捻挫しててあんまり歩きたくないだけ」
「捻挫?」
体育の授業と、病院での話をした。保健室での出来事はごっそり省いて。
自室に戻ると、さっさと着替えを済ませてふて寝した。向こうのカーテンは動かない。もう一度枕に突っ伏した。生徒会で忙しいのに、帰っているわけがない。
二時間ほど寝ていると、母が夕食だと呼びにきた。
「宿題はちゃんとやりなさいね」
「分かってるよ」
炊き込みご飯と魚の煮つけが並ぶ。今日は父は仕事で遅くなるので、母とふたりきりの夕食だ。
「拓郎君がね、捻挫のこと心配してたわよ」
「拓郎が? あるわけないじゃん」
全否定せざるを得ない。海の水がすべで消えてなくなる以上にありえない。
「いい子よねえ。ずいぶん変わったわね。昔は悪戯ばっかりしていたのに」
「……本気でそれ、言ってる?」
やめておけばいいものを、一度口が開くと止まらなかった。
「拓郎は昔も悪で、今は暴力的な面がなくなっただけ。昔は俺、殴られてたし。なんでそれが褒められるの? 悪いこともせずにルールを守って生きている人間がいるのに。普通に戻っただけで絶賛される理由は?」
「そんなこと言って……あなたたち結婚するのよ? そんな様子で大丈夫なの?」
「大丈夫なわけない。大丈夫に見える? けどやるよ。この島は大好きだし、それが観光に繋がるわけだし。あくまでビジネスとしてだけどね」
母のショックを受けた顔ったらない。本当に傷ついているのは俺なのに。心も体もぼろぼろだ。好きな人とは結ばれない、苦手な人と身体を繋がなければならない、おまけに幸春さんとギクシャクする。散々だ。
美味しいはずの夕食は半分以上残し、部屋にこもってひたすら机に向かった。復習も予習も完璧だ。明日の授業が楽しみだと気を紛らわせ、布団に入った。
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