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エピローグ

エピローグ─真実の愛は存在しない─

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 送っていくと行ったままジルは戻ってこなくなった。
 今日、アーサーは帰る日だが、心配だからと言ってもう一日泊まることになった。
「あんなジルは初めて見ました」
「彼にも譲れないものやプライドがあります。今はそっとしておきましょう」
「何があったが気づいているんですか?」
「見当はついています。ただ、彼が乗り越えなければならない問題なのです。今はそっと見守りましょう」
 ジルがおかしくなったのは、ナディアが恋人がいると告げたときからだ。最初はナディアに気持ちが向いていて、ショックだったのだろうと慰めの言葉を口にしようとしたが、アーサーに止められる。
「ジルの遊びはひどいものですが、私が知る限りでは昔からではなかったのです。きっとそのときに何かあったのでしょう」
 アーサーは端末を取り出し、誰かにメールを送る。
「探しもの、捜し人を当てる得意な人に任せることにします」
「僕に何かできることはありますか?」
「私の側にいて下さい」
 アーサーはにっこり笑って、肩に手を置いた。
「あなたがいれば何もかもうまくいきますから」
 アーサーの端末に電話がかかってきた。
 渋々肩から手を下ろしたアーサーは、画面を見てから低い声で対応した。
 声色でだいたい分かる。あれは間違いなく弟を愛する兄だ。先ほどメールを送った相手も察しがつく。
 不機嫌そうな声でも、あれが素の一つだと分かれば愛おしく感じる。
 すぐに電話を切ると、
「こちらに向かうそうです。三人でジルの元へ向かいましょう」



 自分は異端だと気づいたのは、ジュニアスクールを卒業したあたりだった。
 思い出したのは、一年ほど前から同棲している少年が引き金だった。
 キッチンで紅茶を入れながら楽しげに電話をしている姿に、素直な性格に羨望の眼差しを向けてしまう。
 兄弟子が紹介したい人がいると言い、弟弟子としてとってほしいと頼んできた少年。背筋を正して紹介をしているが、すぐに特別な存在だと分かった。
 女性に甘い言葉をかけ、誘い、ベッドへもつれこめば、異端者だと忘れられた。一瞬でも楽になれた。
 彼女からロジェの名前が出たとたん、どうあがいても逃げられない運命なのだと悟った。
 ハンドルを握る手が震え、風の噂で聞いた彼のいる店へ足を運ぶ。
 ガラスに映る姿を見たとたん、一瞬で目を奪われた。ロジェは大人びて、長かった髪を切りそろえている。
 ロジェはこちらを見た。驚愕の表情を浮かべ、グラスを洗う手が止まる。
 キッチンの奥にいる人と何か話すと、エプロンを剥ぎ取りこちらへ向かって歩いてくる。
「驚いた。どうしたの?」
 穏やかで、滑舌の良い声はいつも耳をくすぐる。
「仕事はいいのか?」
「もう休憩時間だったから。何年ぶり?」
「さあ……経ちすぎて忘れちゃったよ」
 五年と六か月。長いようで短かった。忘れたときは一日もない。
 ロジェの案内で、職場から少し離れたカフェに入ることになった。
 花で彩られた異世界は心とかみ合わず、ちぐはぐな店内に居心地の悪さを感じる。
「ここ、けっこう好きでね。たまにこうしてお茶をしたくなる」
「彼女と?」
 ロジェの顔色が変わった。が、すぐに元通りになり、
「誰かからの悪知恵?」
 最悪なパターンとなって返ってきてしまった。
「適当に質問しただけだ」
「そのわりには会いにきてくれるし、そもそも僕の職場をきっかり当てるなんて、神のご加護かな」
「ナディアの件について聞きにきた」
 ロジェははっとし、だが何か考えあぐねているようだった。
 おそらくはここ数日の行為を知らない。
「申し訳なく思っているよ。洗いざらい話すと、君の居場所はお節介な弟子の兄から聞いた。ナディアと君が特別な関係にあったのは知らなかった。知らないで、俺は彼女とベッドを共にした。彼女は子供ができたと言って病院に行ったが……懐妊していなかった」
「……なるほど」
 ロジェはやってきたコーヒーにゆっくりとミルクを垂らす。
 時間を欲しているかのようだった。
「それでジルは苦しんでいるんだね。でも一番苦しいのはそうじゃないだろう? 好きでもないのに女性とセックスに溺れて、好きなふりをするのに心底疲れた顔だ」
 ああ……その目だ。
 絶望的に憎しみと軽蔑の目を向け、さよならも告げずに去っていく姿は、一度も振り返らなかった。
「最後の別れからだいぶ時間が経って、君はおぞましいほどに荒れた。噂は聞いていたよ。ナディアの件は耳に入っていなかったが。ちなみにいうと、ナディアは虚言癖がある」
「虚言癖?」
「僕は確かに彼女と付き合っていた。だが一年も前の話で、もう終わっている。おそらくだが、女遊びの激しい君が知らない方面へも喧嘩を売っていたんだろう」
「……なんだかどっと疲れたよ」
「急に現れて何かと思えば。これに懲りたら、もう少し自分を労ってくれ。君はよく無茶をしていたからね」
「そうだったか?」
「それが僕らの別れた理由の一つさ」
 女々しい考えが浮かび、ジルはコーヒーを飲むふりをしてカップに口をつける。
 飲みたかったわけではない。考えがまとまらず、間がほしかっただけだ。
「彼女はコーヒーが飲めたかい?」
「ナディア? ああ、よく飲んでいたよ」
「……俺は騙されやすいのかも」
 まるで詐欺師だ、と自分の愚かさを痛感した。同時に、痛い目を見せてくれた彼女にいずれ感謝をする日を心待ちにしたい。
「昔は君を恨んだりもした。けれどお互い若かったんだ。君も自分を認められる年齢じゃなかったしね。彼らのように、素直に生きられたらきっと楽だったと思う」
「彼ら?」
 ロジェの視線の先には、心配そうにこちらを見つめる目が四つ。
 一人は会釈し、もう一人は会釈した男の腕を掴んだまま不安そうに見つめている。
「弟子は取らない主義じゃなかった?」
「あまりに可愛かったものでね。できの悪い子ほど好物なんだ」
「ジルもあの子たちように、素直に生きるべきだよ」
「その通りだな」
「これ」
 ロジェはメモ帳を出し、ペンを走らせる。住所と電話番号だ。
 ここでさよならを告げられると思っていたために、顔色を変えた。
「実は今、積極的な女性から交際を申し込まれていてね」
「店の中にいた女性?」
「ああ。賢く穏やかな人だ」
「それは何より」
「もし素直に生きる気があるのなら、きっとこれは役に立つ。もし要らないのなら、破り捨ててくれ」
「必ず連絡するよ」
 ようやくジルは頬の筋肉を緩ますことができた。
 ロジェが去る代わりにやってくる少年たちに、コーヒーでも奢ろうかとメニュー表を手に取った。
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