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第三章 母を追って

051 海を越えて

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 ナタリー・ドヴィエンヌは、意思の強さが目に宿る気高い女性だった。
「きれい……」
 隣に座る女性は独り言を言いながら、目にハンカチを当てた。
 オペラ歌手三人とも素晴らしいが、ナタリーが群を抜いている。
 高音の伸びが秀でていて、赤い唇がよく動いた。
 気づけば彼方も涙を流していて、アーサーから借りっぱなしのハンカチを取り出していた。
 コンサート会場から出ると、数日前に送ったメールに対する返事が届いてた。珍しいこともある。時差を抜かせば、彼はすぐに返事をくれる。
──遅れまして申し訳ございません。メールを送りづらい場所におりました。ナタリー・ドヴィエンヌは私の母ですが、どうしてそれを?
 ロビーに貼られているポスターの写真を撮って、彼に送った。
──すっごい美人で驚きました。目元と鼻筋がよく似ています。アーサーさんはお母さん似ですね。
 メールではなく、電話が鳴る。
『もしもし、お久しぶりです』
「お話ししたかったです。今、どこにいるんですか? 騒がしいですけど」
『空港です。お気になさらず。母は日本にいるのですか?』
「はい。チケットを取って観にきたんですけど、素敵な歌声でした。こっちにいるって聞いていないんですか?」
『ほぼ連絡は取りませんから。あまり返ってきませんし』
 あっけらかんとしている。寂しくなった。
『そんな声を出さないで下さい。慣れていますから。すみません、そろそろ飛行機に乗る時間です』
「ええ、また今度」
 気の利いた言葉も言えず、電話を切った。寂しさ倍増だ。

 今朝のニュースで知ったのは、ナタリーは今夜の便でフランスに帰るということ。
『日本は素晴らしい国。ゴミも落ちていない。衛生面でも優れている』
 インタビューで彼女は日本を褒め称えた。
 気になったのは、彼女はフランスに帰ると言ったこと。
 アーサーの家にお邪魔したときに感じたのは、母親の居場所がすっぽりと抜けていて、イギリスとフランスの別々で暮らしているらしい。
 祖母には今夜出かけると伝え、彼方は空港へ向かう。
 国際ゲートには、スーツを着た男性が何人か腕時計を見ている。芸能人特有のお出迎えはないが、非日常めいた現実だった。
 やがて現れたのは、ブランドのバックを持ったナタリーが現れた。
 男性たちが気づく直前に、彼方はフランス語で声をかける。
『ナタリーさん、コンサートとても素晴らしかったです』
『それはありがとう』
 穏やかさの中に、仕事上の姿勢を貫き遠そうとする彼女の姿だった。
『アーサーさんと友達なんです』
『あの子の?』
 ナタリーの顔に変化が表れた。
『とてもお世話になっています』
『そう』
 彼女は目を伏せ、またねと言葉を残してゲートを潜っていく。
 見えなくなるまで、彼方は呆然と立ち尽くした。
 彼女の存在感に圧倒された。宝石の澄んだ部分だけを取り出したような、有無を言わせないオーラをまとっている。
 それだけではない。アーサーの名前を出したときの彼女の顔は、まるで──。



 遠い空と海を越えて『お客様』がやってきた。
「ずいぶんなところにお住まいですね」
 流暢なシンハラ語を披露し、英語で大丈夫だと述べても彼は構わず続ける。
「ナーサ、お茶をお願い」
「かしこまりました」
 ナーサが部屋から出ていくと、ふたりきりになってしまう。できれば会いたくはなかった。
「どうぞおかけになって」
 男は向こう側のソファーに座り、辺りを見回した。
「美しい絵画ですね。部屋も油絵の香りがしますが、お描きになるのですか?」
「趣味程度です」
「とてもお上手ですよ」
 彼は嫌みのない笑みをこぼし、美しいと漏らす。
 アーサー・スタッフォード。名ばかりの元婚約者。
 彼の頬を叩いたというのに、何のことはないと言わんばかりにいきなり現れた不思議な男。
「絵を描きたくて海沿いで生活を? ご実家へご連絡をしたら、いないと告げられて驚きました」
「ここは父が経営しているホテルなんです。ひと部屋借りて……と言えば聞こえはいいでしょうね。実際は閉じこめられているだけです」
 ナーサが紅茶とクッキーを持ってきた。
 彼女は身の回りの世話をしてくれる女性だが、実際は見張りだ。
 彼も気づいているのか、ナーサがいると話をすっぱりと止めてしまった。
 彼女の足音が遠のいたところで、
「お茶をしたら、ご一緒に散歩でもどうでしょう」
「外出するには許可がいります」
「誰に求めたらいいですか?」
「祖父か父です」
 アーサーは端末で電話をかけ始めた。
 乱れのないシンハラ語を披露すると、一分ほどで電話を切る。
「今日は天気もいいですし、散歩にはうってつけですね」
「スリランカの天候はご存じないのですか? これだけ太陽が出ていても、いきなりスコールが降りますよ」
「それはそれで楽しそうです。子供みたいにはしゃぎましょう」
 仕立てのよい高級スーツを着て、彼は言った。
 濃いめの紅茶を飲んだ後は、ホテルを後にして海沿いまでやってきた。
「遠くで雲が出ていますが、気づいたらもうすぐそこまで迫ってきます」
「イギリスから離れて外国に来たときは、スイーツや文化だけではなく、こうした何げない日常に触れるのも楽しみの一つです」
 どこの国を想像しているのか、子供みたいに笑っている。
「一つ、伺いたいことがあります」
「なんでしょう」
「絵描きというのは、何かの隠語ですか?」
 海水が迫ってきて、足下を濡らす。
「すごい潮の香りですね。ホテルにばっかりこもっていると、実はそれほど感じないんです」
「私には、潮と油絵の具と微かな薬の香りに感じます」
 潮の香りに油絵の具の匂いも混じっているが、薬の香りはほとんどしない。気づくのは不可能なほど。
「鼻がいいのですね。感心します」
「お上手なやり方です。絵に薬を混ぜて輸出しているとは。ですがそれでうまく通るとは思えませんが」
「通ったら運が良かったくらいのものです。実際は別の方法で運んでいるみたいですが、そちらは私は知りません」
 波に足を取られ、バランスを崩した。即座にアーサーが腕を掴み、ターニャを引き寄せる。
「ありがとう」
 離された腕がじんじんする。力の強さは男性だと意識させられてしまう。
「どうにもならない運命ってあると思いますか?」
「あります。ですがあなたの今していることはいずれ終わりがきます」
 アーサーは迷いなく告げた。
 ターニャは何度もこらえようとしたが、溢れる涙は止められなかった。
「悪いことをしているって自覚はあるの。何度も警察へ行こうとしたわ。でも結局もみ消されるだけで、何もできない。私ね、純粋に絵を描きたいの。絵でご飯を食べていくって大変なことだけれど、夢を叶えたい。絵の勉強がしたい」
「ヨーロッパで絵を教える師は何人かいます」
「お知り合い?」
「ええ。どちらかというと、私よりも父と仲良くして下さっている方です。あなたが勇気を出せば、運命は変わるかもしれません」
 アーサーは不敵に微笑むと、背筋がぞっとした。
 紳士的な態度はどこまで本当なのか、分からなくなった。
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