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第二章 アーサーを追って

029 暖かな紅茶

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「ええ……、ええ、そうです。はい。……お願いします」
 警察への通報を終えると、キッチンからは嗚咽が聞こえてくる。
 無理もない。引きずった跡が黒く残り、何かに手を伸ばしたまま倒れた女性。良いのか悪いのか判断がつかなかったが、彼方は綺麗に畳まれてあったバスタオルを被せた。彼女自身も、きっとこんな姿は誰にも見られたくないだろう。
 彼方も喉が焼けるような熱が這い上がってきて、息を止めて必死で耐えた。
 バスタオルからはみ出た女性の手が、何か握っている。
 緩く握っていたのか簡単に取れた。
 携帯電話の番号が書かれている。
 心臓が普段と違う音を鳴らし始める。似た体験をしたのだ、ついこの間。
 父の家に上がったときだ。写真立ての中に紙が隠されていて、携帯電話が記されていた。
 発見したのはアーサーで、その後は、多分元に戻した。多分というのは、手元を見ていないからだ。
「すみません……大丈夫です」
 急に声をかけられて、彼方はとっさに紙をポケットへしまった。
「バスタオルをかけてあげたんですね……なんてひどい有り様だ。この人は誰だろう?」
「元奥さんじゃないんですか?」
「冷静になって考えてみると、背格好も違います。僕の知らない人です」
 新妻は腕をさすり、遺体から目を逸らした。
「僕、ちょっとアーサーさんに連絡してきます」
「ええ、お願いします。彼にもまたご迷惑をかけてしまいました」
「アーサーさんは気にするタイプじゃないと思いますよ」
 彼方は一度外へ出て、端末で紙切れの写真を撮った。
──元奥さんの家にいますが、知らない誰かが亡くなっていました。腐敗が進んでいますが、新妻さんがおっしゃるには元奥さんじゃないらしいです。それと、これを握っていたんですが、分かりますか?
 写真つきでメールを送る。
 五分経っても返事がなかったので戻ろうとした矢先、画面が光った。
──手を引きなさい。
 アーサーではない。数字とアルファベットが乱雑に組み合わさったメールアドレスで、登録されていないものだった。
──君は関わるべきではない。
 二通目も同じアドレスからだ。
 呆然と画面を見つめていると、パトカーが数台こちらに走ってくる。助手席にいる警察官と目が合ったので、軽く頭を下げた。
「君が通報者? カラスがやけに多いな……」
「僕が来たときからです。ずっと木や屋根に止まっていて……中に来て下さい」
「他には誰かいる?」
「一緒に来た方がいるんですが、中で待機しています」
 ぞろぞろと彼らが現れても、カラスは一向にいなくなる気配はない。
 もう一度画面を見るが、アーサーから返事は届かないままだった。

 一連の長い聴取を終える頃にはくたくたになっていた。
 日の沈んだ真っ暗な道で新妻と別れ、彼方は店を目指した。
 ドアにあるプレートもなく、カーテンで中の様子が見られない。だが隙間からは光が漏れている。
 ドアを開けると、アーサーはカウンター席でうなだれるように天を仰いでいた。
 物音に気づいたアーサーはこちらを向き、すぐに立ち上がった。
「もう帰っているのかと思いました」
「彼方さん……」
 アーサーは彼方に両手を伸ばすが、はっとしてすぐに引っ込める。
 上げかけた手が迷い、彼方も結局下ろすしかない。
「連絡もないので心配しました。こちらからメールを送っても返ってきませんでしたので」
「メール?」
 メールといえば、数時間前に画像つきで送ったはずだ。
 端末には二通のメールが届いていて、どちらもアーサーからだった。
 心配する内容で、鼻の奥に痛みが出る。
「この時間帯だと、警察の聴取を受けていたんです」
「警察?」
 アーサーの声から察するに、まるで今初めて聞いた言い方だった。
 間違いなく、彼方のメールは届いていない。履歴はアーサーに送っているのに。
 一連の流れを話すと、アーサーは何度か頷き、温かな紅茶を入れてくれた。
「ありがとうございます。アーサーさんの紅茶を頂くたび、ほっとします」
「それはよかったです。日本人は毎日みそ汁を飲むそうですね。私の紅茶も毎日飲んで頂きたいです」
「紅茶を毎日。それは幸せな時間ですね」
「ふふ……そうでしょう。それで、亡くなっていた方は新妻さんの奥様ではなかったと?」
「はい。はっきり答えられるのは特徴がそれだけ違ったんだと思います」
「あなたにこのような役回りをさせてしまい、申し訳なく思っています」
「アーサーさんはここに残るべきでしょう? 気にしていません。正直、水も飲めないないかと思ったんです。吐きたくてたまらなくて、でも紅茶は美味しく飲めました」
「もう一杯どうぞ」
「ありがとうございます」
 ストレートの次は蜂蜜をたっぷりと入れて飲んだ。これはヌワラエリヤというスリランカの茶葉で、喉を通った後に残るすっきりした渋みが特徴だ。ストレートに向いているが、蜂蜜を入れるとまろやかになる。
「女性の側に、紙が置いてあったんです」
 ポケットに隠した紙切れを彼に渡した。
「とんでもないことをしてしまいました。遺留品かもしれないのに……」
 アーサーは凝視し、声にならない声で何かを呟いた。
「こちらは私が預かってもよろしいですか?」
「え? ええ……構いません」
 アーサーは紙を受け取ると、何事もなかったかのようにティーカップへ口をつけた。
 隠し事をされている。電話番号についても、アーサーは何も言わない。
 彼方は膝の上で拳を作り、
「僕の回りで何が起こっているんでしょうね。僕の父も誰かへの電話番号を持っていましたし。写真立ての中に、隠すように」
 とだけ言った。
 アーサーは意味をくみ取り、
「大事な人に秘密を作るのは、作った側もとても心が苦しい。それでも秘密を持ってしまうのは、きっと守りたいからだと思います。大事な人を守るために、秘密を作る」
 あくまで客観的に、アーサーは答えた。
「気になる点しかないかと思います。ですが今は騙されたままで、安らかに時間を過ごしてほしいです」
「いつかは教えてもらえますか?」
「いつか……ですか」
 アーサーは天井を見上げる。
 またもや心臓が警鐘を鳴らし始めた。ほしいと思う言葉をくれない。最近のアーサーはいつもこうだ。適当な穴埋めを求めているわけてはないが、前はもっと違っていた。
 返事の代わりに、彼は肩に頭を乗せてきた。
 息をするたびに息が首筋や耳に当たる。何も言わないでいると、重みが増した。
 彼が体重をかけるたびに、心に積み重なった負担が軽くなっていく。
 言葉ではうまく言い表せない感情はとても厄介で、切なくて、苦しい。
 お腹から空腹の音が鳴ると、小刻みに揺れる振動が伝わってくる。
「笑ってしまってすみません。お腹が空きましたね。何かご用意いたします。それと……」
 アーサーは振り返る。部屋の淡い光が彼を照らし、逆光をも味方につけている。
「あなたが帰ってきてくれて、とても嬉しい」
 ただいま、と口に出そうか迷い、結局言えなかった。
 恥ずかしいのと、アーサーがすぐにカウンターの中へ行ってしまったから、タイミングを逃したのだ。
 アーサーは唸る彼方を見ては、楽しげに眺めていた。
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