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第二章 アーサーを追って

025 春野雪音という人

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 アーサー・ドヴィエンヌ・ラナウェーラ・スタッフォード。
 長すぎる名前だったが、連呼しているうちに頭から離れなくなってしまった。まるで恋したみたいに。
 アーサーはおそらく本名。ラナウェーラはスリランカの曾祖母の名字。スタッフォードはファミリーネーム。
「じゃあ、ドヴィエンヌは?」
 聞けば答えてくれたかもしれないが、アーサーはドヴィエンヌについて一言も触れなかった。もしかしたら、スタッフォード以上に腫れ物扱いなのかもしれない。

──久しぶりに飯食わね?
 メールの相手は早見秋人だった。
 食堂でたまに会う彼とは、挨拶するくらいの仲には戻っていた。
 わだかまりは多少残っていても、時間が自然と導いている。
──食堂でいい?
──OK。
 講義室を出てまっすぐに食堂へ向かう。
 人に囲まれている彼は、最近はひとりでぼんやりしていることが多い。
 カツ丼に手をつけず、テーブルに肘をついたまま遠くを見ていた。
「こんにちは」
「よう」
 夏休み期間であり、人はまばらだ。
 太陽の光を避けるように日陰になる端へ座り、いただきますと独り言を漏らした。
「俺も冷やしそばにすればよかった」
「こんな暑いのにカツ丼とか」
「だよなあ」
 愚痴を零しながらも、早見はカツを頬張る。
「今週から文化祭だし。お前はどうすんの?」
「僕はとくに出店もしないよ。サークルにも入ってないし。でも園芸サークルには行こうかって思ってる。春野さんと約束したから」
「春野?」
「春野雪音さんっていって、たまに会うとハーブティーをごちそうしてくれるんだ。カフェを開くらしいから、行くって約束してて」
 春野、春野、と早見は何度か呟いた。
「どんな子?」
「茶髪のふわふわした髪型で、喋り方もふわふわしてる。わたあめみたいな感じ」
「わたあめみたいな子なんていたか? 園芸サークルはテニスサークルの近くだからよく会うしけっこう話すんだけど、そんな子見たことないぞ」
 早見は真顔で言い、みそ汁をかき込んだ。
 食堂で別れ、彼方は園芸サークルへ向かう。
 いつもは春野ひとりだが、今日は二、三人の部員が土をいじっていた。
「すみません、春野さんはいますか?」
「春野?」
「春野雪音さんです。茶髪で、ボブヘアーの……」
「……いたか? そんな人」
 男は立ち上がり、後ろを振り返る。
 期待とは裏腹に、誰も知っていると声をあげる者はいなかった。
「クッキーの作り方は? それを考えた人は?」
「さあ……誰だっけ? 作り方が書いた紙なら棚の上に置いてあったけど」
 女性特有のか細い線で、右上がりな字だ。
 彼方が飲んだ同じ水色のハーブティーが置かれている。これも彼女が考えたレシピのうちの一つだろう。
 彼方は目の前が真っ暗になった。
 彼女と会ったのは数回だが、確かに目の前にいた。ハーブティーやクッキーをごちそうしてもらい、悩みを聞いてもらった。まぎれもない事実だ。存在していないなんて、ありえない。
 ふらふらになりながらもお礼を言い、アルバイト先へ向かう。
 穏やかに迎え入れるアーサーだが、彼方の顔色を見て顔を曇らせた。
 すぐにイスへ座らせ、
「何があったんですか?」
「アーサーさん……どうしよう、僕が見たのは幻かもしれない」
「目に見えないものを信じるのは難しいですね。よく分かります」
「友達がいないんです。いるはずなのに、いないんです」
 流れを説明すると、馬鹿げた話だとも言われかねないのに、アーサーはいつも誠実だ。
 時折相づちを打ちながら、彼方が口を閉じるまで辛抱強く耳を傾けた。
「春野雪音さんですか。連絡先は知っていますか?」
「交換してないんです。園芸サークルにいて、僕は勧誘まで受けてるのに、誰も知らないなんて……」
「考えられるのは、春野さんは人を避けて活動していたか、園芸サークル自体にあまり行かなかったか。彼方さんと会っていた間、他のサークルの方とはすれ違ったりしましたか?」
「そういえば……」
 いつも会うときは二人きりだった。もともと人数も多くはないだろうと思っていて、気にしていなかったのだ。
「文化祭で、園芸サークルはカフェを開くんです。行く約束したのに……」
「ちなみにいつですか?」
「今週の土曜日からです」
「私もお邪魔してよろしいですか?」
「えっ……アーサーさんが? 本当に?」
「日本のフェスティバルは大好きですから。出店でたこ焼きを食べてみたいです」
「定番ですし、多分あるとは思いますけど……」
「踊るかつお節を、ぜひ拝見したい」
 アーサーの目は真剣だ。占うときの瞳そのままだ。
「それに、あなたと良い想い出を作りたい。お友達の春野さんにも興味がありますしね。待ち合わせは、あなたの家にしましょう。迎えに行きます」
 手間がかかる、とお断りを入れる前に、祖母の話を持ち出した。ぜひ挨拶に伺いたいと。
 彼方は何も言えなくなってしまい、笑顔に乗せられるまま何度も頷いた。

「おばあさま、お久しぶりです」
「まあ、まあ、アーサーさん」
「本日は彼方さんを一日お預かり致します。帰りは送りますので、どうぞご心配なく」
「アーサーさん、一人で帰れます」
「よろしくお願いしますね。またお茶しましょか」
「はい、ぜひ」
 繰り広げられる会話に、彼方は穴があったら入りたくなった。
 彼の背中を押して外に出ると、太陽の光を浴びて蜂蜜色の髪が照りを増す。
「どうしました?」
「いや……あの……、アーサーさんの髪は光に当たると綺麗だなあって」
「漆黒の髪は艶が乗りますが。私の初恋の人も、黒髪でした」
 アーサーは彼方の伸びに伸びた髪に触れ、指先に巻きつけた。
 アーサーは最近、彼方の髪に触れる。頻度が前より多くなっているが、嫌な気はまったくないので彼方は黙って触られるがままに身を任せている。
「あの後、知り合いに春野さんのことを聞いてみたんですが、やっぱりみんな知らないって言うんです。変な話、白昼夢でも見てるんじゃないかって思いました」
 アーサーは行き先を告げると、タクシーはゆっくりと前進した。
 アーサーの口から大学名が出ると、なぜだか背中がこそばゆい。
「春野さんとは、何時頃いつも会ったりしていましたか?」
「講義が終わった後なんで、夕方が多かったかも……。もしかして夕方に出る幽霊説、信じてます?」
「ふふ……まさか。ちゃんと人だと思っていますよ」
 大学前に到着すると、すでに人だかりができていた。
 大きなウサギの着ぐるみが子供に囲まれている。派手な看板に出迎えられて門をくぐると、屋台がずらりと並んでいた。わたあめやクレープといったスイーツ系もあるが、香りはソースにかき消されている。
 アーサーは一度はクレープに吸い寄せられるも、目的を思い出したのか隣のたこ焼きの前で止まった。買おうとしていた女性たちも、アーサーを見て止まっている。
 大ぶりのたこ焼きが六個並び、ソース、かつお節、青のりとかけられていく。
「これが……たこ焼き……彼方さん見て下さい。かつお節が生きています」
「泳いでますね」
「半分こしましょう」
 ベンチに座り、熱い熱いと言いながらふたりで食べた。
 マヨネーズの有無について熱く語るアーサーは、たこ焼きの熱さにも負けてはいない。
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