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第一章 学生時代

02 偶然か必然か

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 吉祥寺のアルバイトとなると、多いのはカフェやスーパー、デパートの接客業だ。募集は多々あれど、選択肢の幅は少ない。 
 なるべく日陰を選んで歩いていき、昨日と同じく井の頭公園へやってきた。アルバイト探し兼散歩だ。
 池は相変わらず白鳥ボートがゆらりと動いている。子供の笑い声が心に刺さる。
 ぼーっと池を眺めていたせいで、背後を走る男性に気がつかなかった。
「いたっ……!」
 頭に強い衝撃を受けた。そのせいでバランスを崩してしまい、上半身を柵におもいっきりぶつける。
 一瞬の間の後に痛みがじわじわ襲ってきて、目を開けるが霞んで見えない。かろうじて黒服と帽子を被った男性が走って逃げていく姿が見えた。煙草の臭いに、嫌な記憶も一瞬だけ蘇る。
 立とうとしたが、背中の痛みで動けない。硬い何かが頭に当たり、じんじんと痛みが滲んでくる。
 誰かが走ってくる足音が聞こえ、大きな影が覆い被さった。
「大丈夫ですか?」
「平気です……」
「立てますか?」
 差し出された手に、僕は遠慮がちに重ねた。
「遠目でしたが、男性が蹴った缶があなたに当たる瞬間を見ておりました。ケガの手当をしたら、警察へ行きましょう。男性は逃げました。被害届けを出すべきです」
「……あなたは、もしかして昨日の?」
「はい。昨日ぶりですね。そこのベンチへ座って下さい」
 男性は一度どこかへ行き、すぐに戻ってくる。
 濡れたハンカチを赤くなった額に当て、ペットボトルを渡してくれた。
「ミネラルウォーターです」
「ありがとうございます。どうしてここに?」
「野暮用です。……お礼もできず、また会えないかと思っておりました」
 冷たいハンカチで目元も冷やすと、視力が戻って彼の顔が見えるようになった。
 昨日はビジネスマンといった格好だったが、今日はラフな私服だ。私服でも気品は隠しきれていない。
 支えなしでも立てるようになったので、どうしても譲らない彼と交番へ行った。交番、交番とインプットするように日本語を繰り返している。そういえば、名前はなんと言うんだろう。
 僕が何かを言う前に、彼は見ていた一連の流れを説明する。流暢で聞きやすい日本語だ。
「って言ってるけど、合ってる?」
「合ってます。逃げた男性はかなり煙草の臭いが強かったので、喫煙者だと思います」
 煙草にはあまり良い思い出がないので、顔がしかめてしまう。
「あなたは吉祥寺住み?」
 関心の矛先は僕より男性だ。こんなハンサムがうろうろしていたら、目立って仕方ない。
「住まいはここではありません。仕事で吉祥寺に参りました」
「ああ……それでたまたま目撃したわけね」
 住所と名前を書くと、隣にいた彼は「かなた」と呟いた。
 昨日も名前に反応していたが、僕の名前が珍しいのだろうか。
「そっちのお兄ちゃんも名前と連絡先を教えてくれる?」
「かしこまりました」
 そこで初めて男性は名を名乗る。
 アーサー・ラナウェーラ。イギリス人。ジェントルマンの国に生まれた人。
 警察の質問に、淡々と答えていく。
「ビジネスって言ったけど、何の仕事をしてるの?」
「飲食業と、占い」
「占い?」
「ええ」
 微笑むと、余計に王子様っぽく見える。王子に会ったことはないけれど、とにかくイメージとしては王子様。
 一時間ほどかかった聴取を終え、僕はあらためてお礼を伝えた。
「独りで傷ついた世界で立ち往生していると、自分だけが取り残された気持ちになります」
 お礼の返事だった。
 イギリスから日本へやってきた彼の方が、方向感覚が分からなくなっている気がした。出会ったときも、声をかけたら逃げられたと話していた。きっと女性たちと彼の相違はあったのだ。けれど彼からしたら、逃げられたことに変わりはない。
「道は覚えましたか? 今日は時間があるので、よければ目的地へご案内しますか?」
「あなたは、何のご用で井の頭公園へ?」
「アルバイト探しです。来月から大学生なので、おばあちゃんにお金を渡せたらって思って」
「おばあさま」
 男性は驚いて、笑顔になる。懐かしいものを見るような目だった。
「アルバイトですか。どのようなものをご所望ですか?」
「……僕の見た目でも、雇ってくれるところであれば」
 結局、これが一番だ。
 彼は僕を上から下まで眺め、首を傾げる。
「人の美意識や見目に関しては簡単に触れるべきではないと断言します。それでもお答えするとなると、特別断られる理由があるとは思えませんが」
「……………………」
 イギリス人と日本人の感覚も文化も異なるし、説明が難しい。
「ひとまず、昨日のお礼がしたいのでよろしければお店に来ませんか? お茶をごちそうさせて下さい」
 影のあるふわりとした微笑。断言できる。興味が沸いてきても、掴んではいけないような危うい香りもする。
 昨日は道を知らないと言っていたのに、彼の足取りに迷いはない。
 井の頭公園を出て小道に入り、しばらく進むと立ち止まった。
「まだ看板も出ていませんが」
 鍵を差し込みドアを開けると、ベルがなる。風鈴のようで、とても綺麗な音だった。
「うわあ……」
 ソファー席が二つ、それとカウンター。食器棚にはカップとソーサーが並び、シンプルなものから派手なものまでいろいろ取り揃えでいる。
「飲食業って言ってましたけど、もしかしてカフェですか?」
「ええ、その通り。生計を立てるのは、主に占いですが」
「占い」
「カウンター席へどうぞ」
 恐る恐る腰掛けると、彼は水を沸かし始めた。
 スプーンですくった茶葉をティーポットに三杯ほど入れ、沸騰したお湯を入れる。
「軟水は紅茶によく合います。日本のミネラルウォーターは、好んで購入していました」
 取っ手が面白い形をしたカップ同じ模様のソーサーを僕の前に置く。ティーポットと可愛らしい砂時計も添えて。
「素敵なカップですね」
「ウェッジウッドのワイルドストロベリーという、イギリスのカップです。こちらはミルクピッチャーです。蜂蜜もどうぞ」
 紅茶に蜂蜜がつくなんて、初めての体験だ。
「砂が落ちきったら飲み頃です」
 アンティーク調の砂時計だ。とにかくお洒落。このフロアにあるものはすべてセンスの固まりだった。もちろん、店主も含めて。
 最後のひと粒まで砂が落ちるのを見届けて、ティーポットを傾けた。琥珀色の美しい液体が注がれる。
 ミルクも入れようとして、手が止まった。
「最初はストレートで飲んだ方がいいですか?」
「私は彼方さんが美味しいと思う方法で飲んで頂きたいです」
 彼の口から出る『彼方』は、なんてことのない名前でも特別に扱われる感じがした。
 僕はラーメン屋などでのこだわりの食べ方は苦手だ。けれど、ここではこだわりの飲み方はしたいと思った。あとでネットで調べよう。
「僕、紅茶ってペットボトルのものしか飲んだことがないです。しかもミルクティーだけ」
 熱々の紅茶にミルクをたっぷりと入れて、一口飲む。
「いかがですか?」
「香りがすごいです。ペットボトルの紅茶は砂糖の甘みが全面的にがっときますけど、これは茶葉の香りというか、とにかく良い香りです」
「ストレートで飲むと、もっと香りを楽しめますよ」
 もしかして、最初はストレートで飲むやり方が作法なのかもしれない。
 小皿に置いたクッキーを出され、有り難く食べた。
 舌にびりびりくる辛さがある。
「驚かれましたか。ジンジャークッキーです。お口に合いませんでしたか?」
「いえ、ちょっとびっくりしただけです。紅茶と合います」
「それは良かったです」
 何かのスパイスと何かのスパイスが混じり合って、喧嘩はせずに口の中で暴れ回っている。紅茶と合うのは嘘じゃない。仲良くやり合っている。
 カウンターから優しい目で見つめるものだから、恥ずかしくなって黙ってカップに口をつけた。
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