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第一章 アキと大地の物語

019 「俺も大人になりましたから」

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 ここ最近は千秋だけでなく、お互いの両親にもお世話になった。
 感謝を伝える人はまだいて、ふたりで選んだ菓子箱を持って法律事務所へやってきた。
「わざわざ来てくれてありがとな」
「こちらこそ、お忙しいのにすみません」
「入ってけ。お茶入れる」
 フロアでは何人かパソコンとにらめっこをしていて、男性がラフな格好をした人と何か話をしている。千秋の姿は見えなかった。
「アキならちょっと出かけてる」
「大丈夫なんですか? 僕に構って」
「面倒な仕事は千秋がしてる」
 そう言い、保坂は口を開けて笑う。
 ラフな格好の男性が振り返り、目が合った。
 知り合いでもないが、不思議そうな顔をしてじろじろと全身を眺めてきた。
「千秋の知り合い?」
「なんでも。入ってくるなよ」
 男は馴れ馴れしく保坂に声をかけた。
 保坂はやや強めに背中を押してくる。関わるな、と手のひらが物語っていた。
 気にはなるが、聞いても答えてくれそうにないので、黙ってソファーに腰掛けた。
 保坂はコーヒーとマドレーヌを持ってきてくれた。保坂も休憩するのか、自分の分のコーヒーもある。
「同棲はどうだ? あいつに聞いても楽しいしか言わないんだ。不満があったら聞くぜ」
 保坂は面白おかしく言う。
「不満あるとすれば、……分かっていたことですけど、好き嫌いが思ってた以上に多いですね。グリーンピースを筆頭に、ピーマン、高野豆腐、しいたけ、ナスの漬け物」
「ははっ、怒った方がいい。弟たちの手前があるから普段は無理やり口に入れてるが、大地君の前じゃ甘えたい放題だからな」
「子供に食べさせるみたいに、ハンバーグにいろいろ混ぜて作ってます」
「そりゃあいい。カレーにもいろいろ混ぜれば食べるだろうな。ふたりで食事に行っても、食べるものはカレー、ハンバーグ、オムライスだから」
「お子さまランチプレートにある料理ばかりですね」
 甘めのマドレーヌと苦いコーヒーの相性はばっちりだ。土産にもう一つお菓子をもらった。菓子箱を届けるつもりが、逆にお世話になってしまった。
 深々と頭を下げてもう一度お礼を伝え、法律事務所を後にした。
 最愛の人に会いたかったが、仕事をしている風景は見られたくないものだろう。
「こんにちは」
 後ろから追いかけてきた男性は前に回り込み、笑顔を作る。
 少し前屈みになった姿勢で白髪の混じった黒髪を後ろでまとめ、大地を上から下までじろじろと見る。
「もしかしてなんだけど、紅野千秋と知り合いだったりする?」
「あなたは?」
「坂上裕樹です。聞いたりしてない?」
 ご丁寧に『裕樹』という漢字の説明まで入れてくる。
 大地は唾を呑み込み、喉を鳴らした。
 裕樹といえば、つい最近彼から聞いたばかりだ。
 千秋の元彼であり、遊ばれたと言っていた人。千秋よりもうんと年上に見える。
「その顔だと、聞いてるみたいだね」
「何のご用ですか?」
「千秋に会いにきたんだけど、会わせてもらえなかったんだ。ここで働いているのは彼の家族から聞いてさ」
 千秋の家族は、この人が元彼だということを知らない。友人だと鬱割れば、話してしまう可能性がある。
 本当に仕事で滞在していないのかもしれないが、千秋に気を利かせて外へ出したとしか思えなかった。
「さっき、千秋がどうのって話してたでしょ? 聞こえちゃったんだよ。弁護士になったってすごいね。勉強熱心で真面目なのは知ってたけど、まさか本当に受かるとは。彼の夢の後押しをしたのは俺なんだ」
 裕樹は自慢げに語る。
 もやもやがたまり、大地は俯いた。
 過去の話を持ち出されては、話のしようがない。なんせ、何年も前の千秋を知らない。
「弁護士になって、裕樹さんを楽させるとか言ってたんだ。可愛かったなあ」
「遊びだったんですか?」
 たまらずに口を挟んでしまう。千秋の諦めかけた顔が脳裏に浮かび、我慢できなかった。
「遊び、か……。どうだろう」
 どうだろう。その一言にカチンときてしまい、顔が熱くなるのを感じた。
「あとはパスしろ」
 肩を掴む大きな手に、大地は顔を上げた。
「千秋さん」
 千秋は大地を見ていなかった。
 眼鏡の奥に見える瞳はまっすぐに裕樹を向いていて、感動の再会とは言い難かった。ぴりぴりとしていて、緊張で張った空気が肌を刺す。
「よ。久しぶり。元気だったか?」
「おかげさまで。なぜ来たんですか?」
 千秋が敬語を使っている。年上で深い仲ではないのだから当然だが、距離感が千秋から離しているように見える。
「会いに来ちゃいけねえの?」
 裕樹は意外そうな顔をする。
「そういうわけではないですが……」
「彼、新しい恋人?」
「ええ」
 さらりと千秋は答えた。
「何をしに東京へ? あの島で仕事じゃなかったんですか」
「なんかトゲトゲしくない? あの頃は俺の顔見ただけでまとわりついてきたのに」
「俺も大人になりましたから」
「もちろん千秋に会いにきた。君の妹さん、随分大人っぽくなってたね。そっちの彼氏は高校生? 年上好みじゃなかったの?」
「俺も大人になりましたから」
 ロボットのように、千秋は感情なく復唱する。
「ちょっと話せない?」
「……………………」
 断ってほしいとありったけの願いを込めるが、残念ながら虚しく終わった。
「仕事が終わってからでよければ。いいか?」
 最後のいいか、は大地に向けられた言葉だ。
 頷くしかない。ここは入ってはいけない領域だ。
 余計なことを言わないように唇を噛みしめ、ただ首を縦に振った。
「出前でも取って食べててくれ」
「もう同棲してるんだ?」
「ええ」
「あ、じゃあ帰ります。お仕事頑張ってね」
 重い空気に耐えられず、すり抜けていこうとすると、千秋が指を一瞬だけ掴んだ。
 すぐに離れていくが、触れ合った指先がちりついた。
 大地は左手で指先を包みながら、タクシーに乗る。
 外の風景を見ながら、千秋の向けた視線の意味について考える。
 懐かしさで昔話をする雰囲気でもなかった。敵意ある目は、怯えも含んだ警戒心だ。
 出前も取る気にはなれず、野菜とバナナをミキサーですりつぶしたお手軽なジュースを飲んだ。
 着替えもせず、考えもまとまらないままソファーでまぶたが重くなってしまった。
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