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第一章 アキと大地の物語
04 「心の距離感は、ずっと遠いまま」
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先に目が覚めたのは、大地だった。
隣は布団を丸々被ったまま、まだ寝ている。大地はそっとベッドから降りた。
テーブルに起きっぱなしだった端末が光っている。アキのものだ。
「え…………?」
画面に映し出されているのは、白い布にくるまれた赤ん坊だった。目を閉じて安らかに眠りについている顔立ちは、どこかアキに似ている。
目の前が真っ暗になり、立っていられなくてテーブルに手をついた。
プライベートを明かさない理由に、すべて合点がいった。どこでどうばれるかも分からない状況で、本名すら言いたくないだろう。
美里という名前に、さらに追い打ちだった。
「どうした……?」
アキはけだるい声で起床した。
心臓が狂った音を奏でている。無意味な行いであっても、大地は胸に手を当てた。
「誰かから電話来てるみたいですよ」
「そうか」
興味がないと、アキはぶっきらぼうに答える。
手招きをされたので、ふらふらとベッドに戻った。
「ひいっ」
途中で流れる川に足が入ってしまい、変な声が出てしまった。
「なにしてるんだよ」
「だって、冷たい」
「ほら」
めくられた布団の中に入ると、暖かさに身体が小刻みに震える。
起きれば地獄、寝れば天国だ。
「電話かけ直さなくていいんですか?」
「別にいい」
「…………そう」
話は盛り上がらずに終わってしまった。
胸元に頭を擦りつけると、布団ごと抱きしめられる。
「アキさんって、卑怯な優しさを持ってますね」
「卑怯?」
「絶対に一線を越えさせない、苦しくなる優しさ」
「一線越えただろ……いてっ」
すねを蹴った。節操の悪い足は、絡め取られる。
「心の距離感は、ずっと遠いまま」
「文芸家みたいなこと言ってるな。恋愛は本気にならない方がいい。絶対に」
まるで自分に言い聞かす言い方だ。逸らす目と口が一致しておらず、ちぐはぐで響かない言葉だった。
ため息の返事に、代わりに唇が落ちてきた。
角度を何度も変えて舌が絡まり、水音は小川の水流にかき消される。
涙で返事をすると、唇に吸い取られた。
机に向かってもやる気が起こらず、教科書を閉じた。
アキの顔が頭から離れず、悶々としていてどうにもならない。
秘密主義と優しさを織り交ぜたキスは、追い打ちをかけてくる。
ベッドに横たわり、SNSを開いた。
──ダイ君、いる?
──いますよ。
Tだ。彼は妻子持ちだと隠そうともしない。
──ケーキ美味しそうですね。
タイムラインを覗くと、どこかのカフェでお茶をしていたようだ。
チーズケーキとコーヒーの画像が載せられている。
──お気に入りでよく仕事帰りに寄ったりするんだ。今度一緒に行こうよ。
──そうですね……考えておきます。
アキに対する感情を知るには、他人に対する気持ちを知るべきではないか。
Tはよく会おうと誘ってくれる。だが、妻子持ちという重荷は乗り越えられるものではなく、返事はいつも曖昧にしている。
それをいうならば、アキもだ。美里という二文字が頭から離れない。
アキについて知っていることといえば、見た目、おそらく仕事で飛行機に乗る、行為がねちっこい、キスが好きすぎる、だ。それも唇が腫れてしまうくらいに。愛されているような証だが、実際は息を吸うのも食べるのも顔を洗うのにも触れる。生活に支障をきたすとんでもない話である。
──起きてる?
今度はアキからだった。端末を見ているときに、都合よく連絡をよこす人だ。
──起きてます。
──ケーキ好き?
──好きです。
何の意図があってのメールなのか。
──何のケーキがいい?
──アップルパイ、チーズケーキ、ショコラケーキ、マロンケーキ、ミルクレープ。
──多すぎる。
──一つに選べるわけないでしょう。アキさんだって、妻と子供どっちが大事かって言われたら選べないだろうし。
──何の話をしているんだ。とりあえず分かった。今度また会おう。
このままフェードアウトするべきか。そうすれば、名前もつけられない感情と、別れができる気がする。とにかく苦しいのだ。痛みだけではなく、深入りしてはいけないという、警告も鳴っている。
──もし、このまま二度と会わないって言ったら、アキさんはどうしますか?
他人に身を委ねるなんて、馬鹿げている。同時に、恥ずかしくもなった。
すぐに返事が来たが、見るのが怖くて一度呼吸を整えてから画面に明かりをつけた。
──困る。
こちらが返答に困る、だ。
呆気にとられた大地は、返事もしないまま端末を枕元に置き、そのまま目を閉じた。
人の波が押し寄せる東京駅は、日中問わず賑わっている。
スーツケースを引く者、家族連れ、サラリーマンと、仕事や旅行にも利用される大きな駅だ。
「ダイ君?」
大柄でクマのような、小太りの男が現れた。
「初めまして。Tです」
「初めまして、ダイといいます」
頭を上げると、Tと目が合った。
「こんな可愛い子だったなんて、びっくりだよ。学生さんなのは聞いていたけど、ホント可愛い」
「そんなことは……」
大地はTと会う約束を交わした。どうしても、アキへの感情がなんなのか知りたかったからだ。
罪悪感で返答に困っていると、Tは遠慮のない視線で大地を見つめては、距離をつめる。
「今日はなんでも奢ってあげちゃうよ」
「いいですいいです。お金は持ってきましたから」
「遠慮しなくていいんだよ。さあ、行こうか」
大地は戸惑いながら少し距離を空けて後ろを追いかけた。
一つ分かったことは、アキと初めて会ったときに感じた緊張やときめきがないということ。アキとは初めからそういう行為をすると前提で会ったのだから、条件も同じではない。それを踏まえても、胸の高鳴りは何もなかった。
薄暗い明かりが灯り、喧騒から遠ざかった世界だった。
蓄音機は音を出さず眠りについているが、今にも動き出しそうに手入れをされていた。
入れ立てのコーヒーからは湯気が立ち、大きめに切り分けられたケーキが空腹を刺激する。
「追加で頼む?」
「いえいえ、充分です。Tさんは、」
「達彦って呼んでよ」
「大丈夫なんですか? 本名なんて……」
「君のことを信頼してるからね」
信頼されるようなことは何もしていないが、信用は得られているらしい。
大きな口を開けて、ケーキが吸い込まれていく。達彦のSNSは、スイーツ関係が多い。洋菓子を中心にカフェ巡りをした写真を載せ、家族ともよく食べているようだ。
アキはというと、わけのわからないことをいつも書いている。数字だったり、ときにはネギ、電池などとプライベートメモ帳代わりだ。
どちらが魅力的かといえば、圧倒的に達彦だろう。フォロワーの数も段違いで、達彦はいつも誰かとメッセージのやりとりをしている。
それなのに、達彦といるときもアキが頭から離れない。
「これ、あげる」
シフォンケーキの上に大ぶりなイチゴが乗った。薄茶色のケーキと真っ白な生クリームによく映える。
生クリームと絡めて食べると、微かな酸味が調和され、甘みの方が舌に残る。
「……おいしい」
「それはよかった。ここのレモンケーキも絶品なんだ」
達彦は何枚か写真を撮ると、食べ始めた。達彦の頼んだものは、ホットコーヒーとゼリーケーキだ。透明な空間にたっぷりのゼリーが浮かんでいる。
「今さらだけどダイエットしててさ、でも甘いものは食べたいじゃない?」
「確かにゼリーは他のケーキよりカロリー控えめですからね」
「食べなきゃいいってのはナシね」
達彦は豪快に笑い、同じくらい豪快に大きな一口を口に入れる。
達彦の足が当たった。彼を見ると、意味ありげな目でこちらを見てくる。
視線の意味に気づけないほど鈍感ではないが、大地は「ケーキ、美味しいですね」と呟き、食べ終わるまで下を俯いていた。
隣は布団を丸々被ったまま、まだ寝ている。大地はそっとベッドから降りた。
テーブルに起きっぱなしだった端末が光っている。アキのものだ。
「え…………?」
画面に映し出されているのは、白い布にくるまれた赤ん坊だった。目を閉じて安らかに眠りについている顔立ちは、どこかアキに似ている。
目の前が真っ暗になり、立っていられなくてテーブルに手をついた。
プライベートを明かさない理由に、すべて合点がいった。どこでどうばれるかも分からない状況で、本名すら言いたくないだろう。
美里という名前に、さらに追い打ちだった。
「どうした……?」
アキはけだるい声で起床した。
心臓が狂った音を奏でている。無意味な行いであっても、大地は胸に手を当てた。
「誰かから電話来てるみたいですよ」
「そうか」
興味がないと、アキはぶっきらぼうに答える。
手招きをされたので、ふらふらとベッドに戻った。
「ひいっ」
途中で流れる川に足が入ってしまい、変な声が出てしまった。
「なにしてるんだよ」
「だって、冷たい」
「ほら」
めくられた布団の中に入ると、暖かさに身体が小刻みに震える。
起きれば地獄、寝れば天国だ。
「電話かけ直さなくていいんですか?」
「別にいい」
「…………そう」
話は盛り上がらずに終わってしまった。
胸元に頭を擦りつけると、布団ごと抱きしめられる。
「アキさんって、卑怯な優しさを持ってますね」
「卑怯?」
「絶対に一線を越えさせない、苦しくなる優しさ」
「一線越えただろ……いてっ」
すねを蹴った。節操の悪い足は、絡め取られる。
「心の距離感は、ずっと遠いまま」
「文芸家みたいなこと言ってるな。恋愛は本気にならない方がいい。絶対に」
まるで自分に言い聞かす言い方だ。逸らす目と口が一致しておらず、ちぐはぐで響かない言葉だった。
ため息の返事に、代わりに唇が落ちてきた。
角度を何度も変えて舌が絡まり、水音は小川の水流にかき消される。
涙で返事をすると、唇に吸い取られた。
机に向かってもやる気が起こらず、教科書を閉じた。
アキの顔が頭から離れず、悶々としていてどうにもならない。
秘密主義と優しさを織り交ぜたキスは、追い打ちをかけてくる。
ベッドに横たわり、SNSを開いた。
──ダイ君、いる?
──いますよ。
Tだ。彼は妻子持ちだと隠そうともしない。
──ケーキ美味しそうですね。
タイムラインを覗くと、どこかのカフェでお茶をしていたようだ。
チーズケーキとコーヒーの画像が載せられている。
──お気に入りでよく仕事帰りに寄ったりするんだ。今度一緒に行こうよ。
──そうですね……考えておきます。
アキに対する感情を知るには、他人に対する気持ちを知るべきではないか。
Tはよく会おうと誘ってくれる。だが、妻子持ちという重荷は乗り越えられるものではなく、返事はいつも曖昧にしている。
それをいうならば、アキもだ。美里という二文字が頭から離れない。
アキについて知っていることといえば、見た目、おそらく仕事で飛行機に乗る、行為がねちっこい、キスが好きすぎる、だ。それも唇が腫れてしまうくらいに。愛されているような証だが、実際は息を吸うのも食べるのも顔を洗うのにも触れる。生活に支障をきたすとんでもない話である。
──起きてる?
今度はアキからだった。端末を見ているときに、都合よく連絡をよこす人だ。
──起きてます。
──ケーキ好き?
──好きです。
何の意図があってのメールなのか。
──何のケーキがいい?
──アップルパイ、チーズケーキ、ショコラケーキ、マロンケーキ、ミルクレープ。
──多すぎる。
──一つに選べるわけないでしょう。アキさんだって、妻と子供どっちが大事かって言われたら選べないだろうし。
──何の話をしているんだ。とりあえず分かった。今度また会おう。
このままフェードアウトするべきか。そうすれば、名前もつけられない感情と、別れができる気がする。とにかく苦しいのだ。痛みだけではなく、深入りしてはいけないという、警告も鳴っている。
──もし、このまま二度と会わないって言ったら、アキさんはどうしますか?
他人に身を委ねるなんて、馬鹿げている。同時に、恥ずかしくもなった。
すぐに返事が来たが、見るのが怖くて一度呼吸を整えてから画面に明かりをつけた。
──困る。
こちらが返答に困る、だ。
呆気にとられた大地は、返事もしないまま端末を枕元に置き、そのまま目を閉じた。
人の波が押し寄せる東京駅は、日中問わず賑わっている。
スーツケースを引く者、家族連れ、サラリーマンと、仕事や旅行にも利用される大きな駅だ。
「ダイ君?」
大柄でクマのような、小太りの男が現れた。
「初めまして。Tです」
「初めまして、ダイといいます」
頭を上げると、Tと目が合った。
「こんな可愛い子だったなんて、びっくりだよ。学生さんなのは聞いていたけど、ホント可愛い」
「そんなことは……」
大地はTと会う約束を交わした。どうしても、アキへの感情がなんなのか知りたかったからだ。
罪悪感で返答に困っていると、Tは遠慮のない視線で大地を見つめては、距離をつめる。
「今日はなんでも奢ってあげちゃうよ」
「いいですいいです。お金は持ってきましたから」
「遠慮しなくていいんだよ。さあ、行こうか」
大地は戸惑いながら少し距離を空けて後ろを追いかけた。
一つ分かったことは、アキと初めて会ったときに感じた緊張やときめきがないということ。アキとは初めからそういう行為をすると前提で会ったのだから、条件も同じではない。それを踏まえても、胸の高鳴りは何もなかった。
薄暗い明かりが灯り、喧騒から遠ざかった世界だった。
蓄音機は音を出さず眠りについているが、今にも動き出しそうに手入れをされていた。
入れ立てのコーヒーからは湯気が立ち、大きめに切り分けられたケーキが空腹を刺激する。
「追加で頼む?」
「いえいえ、充分です。Tさんは、」
「達彦って呼んでよ」
「大丈夫なんですか? 本名なんて……」
「君のことを信頼してるからね」
信頼されるようなことは何もしていないが、信用は得られているらしい。
大きな口を開けて、ケーキが吸い込まれていく。達彦のSNSは、スイーツ関係が多い。洋菓子を中心にカフェ巡りをした写真を載せ、家族ともよく食べているようだ。
アキはというと、わけのわからないことをいつも書いている。数字だったり、ときにはネギ、電池などとプライベートメモ帳代わりだ。
どちらが魅力的かといえば、圧倒的に達彦だろう。フォロワーの数も段違いで、達彦はいつも誰かとメッセージのやりとりをしている。
それなのに、達彦といるときもアキが頭から離れない。
「これ、あげる」
シフォンケーキの上に大ぶりなイチゴが乗った。薄茶色のケーキと真っ白な生クリームによく映える。
生クリームと絡めて食べると、微かな酸味が調和され、甘みの方が舌に残る。
「……おいしい」
「それはよかった。ここのレモンケーキも絶品なんだ」
達彦は何枚か写真を撮ると、食べ始めた。達彦の頼んだものは、ホットコーヒーとゼリーケーキだ。透明な空間にたっぷりのゼリーが浮かんでいる。
「今さらだけどダイエットしててさ、でも甘いものは食べたいじゃない?」
「確かにゼリーは他のケーキよりカロリー控えめですからね」
「食べなきゃいいってのはナシね」
達彦は豪快に笑い、同じくらい豪快に大きな一口を口に入れる。
達彦の足が当たった。彼を見ると、意味ありげな目でこちらを見てくる。
視線の意味に気づけないほど鈍感ではないが、大地は「ケーキ、美味しいですね」と呟き、食べ終わるまで下を俯いていた。
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