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第二章 非日常

010 アビゲイルの葛藤

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 リビングにはロイドがいなかった。大学生組がそもそもいない。
「父さん、ロイドはどこに?」
「ロイドならビリヤードをやると言っていた。彼女たちも一緒のはずだ」
 うたた寝をしていたハリーの横で、セシルは寝息を立てている。顔色は良くなったが、目の下の隅が隠しきれていない。無理もない。ナオも似た顔だった。
 娯楽室に入ると、ロイド、アビゲイル、リンダの三人がソファーで何か話していた。キューすら出ていない。
 リチャードが中に入ると、三人は気まずそうに顔を背けた。
「ビリヤードはやらないのか?」
「これからやろうとしてたところだよ」
 ロイドはソファーから立ち上がると、わざとらしくストレッチを始める。
「ロイド、イーサンの荷物はそのままか?」
「ああ。いっとくが、俺は触れちゃいないぜ。あっ……」
「どうした?」
「あいつのスーツケース触っちまった。あいつの荷物運んだの俺なんだよ。指紋とか調べるんだろ? 俺疑われるかも……」
「それなら私ら全員出るんじゃないの? 車から皆の荷物下ろしたりしたんだし」
「指紋だけじゃないわ。髪の毛とか、DNA鑑定だって……」
「それは調べれば事件性があるか分かる。君たちは何も心配しなくていい」
「アンタは俺たちを見張りにきたのか?」
「イーサンの荷物を調べたいんだ。部屋に入ってもいいか、許可を取りに来たんだ」
「別に入ってもいいんじゃねえ? もう俺の部屋じゃねえけどな。けど何かあっても俺の責任にはするなよ」
「もちろん。俺は君に頼みに来ただけだから。……行こう」
「はい」
 娯楽室から出るときも、背中に痛々しいほど視線が突き刺さった。
 イーサンの部屋の前まで行くと、リチャードは後ろを振り返る。
「FBIだと素性を明かしてしまったからな。彼らは警戒心丸出しだ」
「仕方ないですよね……。何も悪いことをしていなくても、警察官とすれ違うと背中がシュッてなります」
「ああ、分かるよ。俺もだ」
「え、あなたも?」
「捕まるんじゃないかとヒヤヒヤする。悪いことはしてないんだけどね」
 お茶目なリチャードはウィンクをし、ナオの背中に突き刺さっていた彼らの刃物のような言葉をゆっくりと取り除いてくれる。
 今度は心臓が締めつけられ、溢れる感情を抑えようと胸に手を押く。初恋の感情が蘇りそうになり、そうじゃない勘違いだと胸の辺りを擦る。
 イーサンの部屋は、ナオのリチャードの部屋とは異なるタイプだった。シングルベッドが机を挟んで二台並び、シャワールームとトイレがある。
「多分これだな」
 ソファーに置きっぱなしのスーツケースは閉まっている。
 リチャードが手を伸ばすと、簡単に開いた。
「鍵がかかっていない」
「誰かが開けた……とは考えられませんよね」
「四つの数字を入れなければいけない。そんな余裕があるとは思えないし、開けたところで何か盗まなければならないものと考えると、今のところは思いつかないな。番号は……〇二二一になっている」
「彼の誕生日でしょうか?」
「一応、メモして置こう」
 リチャードは携帯端末で写真を撮り、メモ帳にも記す。
 スーツケースに入っていたものは、着替えやスナック菓子、音楽プレーヤーなどだ。特に物珍しいものはない。
「……………………」
「どうしました?」
「いや…………」
 リチャードは奥に隠されていた小袋を開け、固まっている。横から覗くと、細い注射器が見えた。
 リチャードは写真を撮り、何事もなかったかのように戻す。
「ハリーさんが誘ってくれたのに、水に差された気分です。そんなものを持ってくるなんて……」
「必要であれば言うこともあるが、今のところは伝えない方がいいな。状況を見て俺から話す。君は見なかったことにしてほしい」
「分かりました」
 調べてみないと何とも言えないが、隠されていた小袋であり注射器が入っている。違法なものである可能性が高い。
 スーツケースに続いて、リチャードは机やベッド、シャワールームなどもくまなく探した。
「…………ない」
「何がです?」
「スマホだ。財布はあるのに、スマホがなくなってる。彼はいつもどこに入れていた?」
 独り言の疑問を口にし、リチャードは鼻を人差し指で叩く。
「確か……ズボンの左ポケットに入れてた気がします」
「よく見ていたな。けど彼の遺体からはスマホは出てこなかった」
「盗んだんでしょうか……」
「あり得る。彼はジーンズにシャツのままだった。ロイドは酒癖の悪い彼を引きずってベッドに乗せ、隣のベッドに寝たと言っていたな」
「シャワーは朝浴びるつもりだったんでしょうね」
「ああ。起きたらイーサンがいないと言うロイドとリビングで会い、事件が発生した。誰かが嘘をついているんだ」
 ぞっとした。殺人事件に巻き込まれたのもあるが、リチャードが見たことのない目をしていた。犯罪は許さないと刑事の顔になり、こんなときなのに性の欲望が揺らぎ、ナオは内股に力を入れた。
「どうした?」
「い、いえ…………」
「体調が悪い? 怖くなった?」
 リチャードはナオに優しく声をかけ、頭に触れる。
 こんなに心配そうに見つめてくれるのに、欲望にまみれた自分が心底嫌になる。あなたに欲情しそうになりましたと言ったら、どれだけ気持ち悪がられるか。
「……大丈夫です。本当に事件に巻き込まれたんだなあって思って」
「普通に生活していればこんな経験は体験しない。絶対に生きて帰す」
 生きて帰す。そうだ。夏休みが終えれば、彼とお別れをしなくてはならない。そうでなくても、嵐が止めば警察が助けにきてくれる。
「そろそろ戻ろう。食事の時間が近い」
「…………はい」
 手を差し伸べられ、ナオはよく考えずに手を取った。
 人と手を繋ぐ経験すらないので、この建物が殺人現場でなければもっと甘い雰囲気になれただろうに。
 リチャードの手は温かく、大きくて固い。少し強めに握ってみると「怖い?」と彼は振り向いた。首を振ったら、親指を上下に擦られる。
 「もし」なんて思ってはいけないが、それでも「もし」があるのなら。彼は愛する人とこうして手を繋ぐのだろうか。「もし」付き合えたとしたら……。

 夕食はアリスとハンナが中心となって作ったもので、フルーツサラダとチキンステーキだ。それとスープ。
「どうだ? 何か分かったか?」
 ハリーは息子のリチャードに声をかける。
「ええ、それなりに。皆さんも状況を把握していないと不安でしょうから、簡潔に説明します」
 皆一斉にフォークが止まる。ロイドでさえ緊張した面持ちだ。
「イーサンの荷物を整理していましたが、スマホが無くなっていました。誰か知りませんか?」
 リチャードはとある女性を見やる。その人は意外な人だったので、ナオは声が出そうになった。
「スマホを盗んだ人が犯人だと?」
「無くなった経緯が分かりません。ただ、刺されたときに落としたのなら部屋にあってもいいはずです。イーサンとロイドの部屋にもありませんでした。犯人だと決めつけはしません。しかし、行方の分かる方も名乗り出てほしいと思います」
「見られちゃまずいものでも入っているのかしら」
 ハンナはワイングラスを回しながら香りを楽しんでいる。
「なぜ盗んだかは盗んだ本人にしか分からない。アビもずっと彼らと一緒だったが、知らないんだろう?」
「知らないわよ」
 カールは娘のアビゲイルに聞くが、まるで犯人ではないと決めつけているようだった。質問というより確認をしているだけだ。
 アビゲイルはすぐに答えるが、投げやりな態度だった。
「もう一度、私は夕食後に談話室にいます。もし何か思い出したことのある方、事情を知っている方は、いつでも来て下さい。心配なことがあれば、相談に乗ります」
 しんと静まり返り、皿にぶつかる金属音があちこちで起こる。料理に関しての当たり障りのない会話やワインの話で終わり、味気ない夕食を終えた。
 ナオはリチャードと共に談話室へ行き、名乗り出てくる誰かを待った。
 だが、待てども待てども誰もやって来ない。リチャードも何度か腕時計を見ながら手帳を眺めているが、時刻は二十一時を過ぎようとしている。
 不安そうに見上げるナオに、リチャードは頭を撫でる。
「聞きに行こう」
「アビゲイルにですか?」
 この前、ナオは深夜にアビゲイルが出歩いているのを見ている。あの件がどう転ぶのか、こればかりは本人を問いつめるしかない。
 扉を開けると、目の前にはアビゲイルがいた。
「どうした? 一人で出歩くなと言ったはずだが」
「わ、私…………」
 頬を涙で濡らし、アビゲイルが泣いていた。あのアビゲイルが、とナオも呆気に取られていたが、先に動いたのはリチャードで彼女の肩に手を置いた。
「とりあえず中にどうぞ」
 アビゲイルを向かい側のソファーに座らせると、リチャードは声をかけずに彼女が話し始めるのを待つ。
 暴行をほのめかしたのは亡くなったイーサンだが、彼女は加担した人間だ。泣いていても嘘にすら思えてしまい、ナオは自虐する。
「私……イーサンを殺めた人を知っているのかもしれない」
 息を呑むナオとは反対に、リチャードは何も言わずに静かに頷いた。
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