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第一章 日常
04 嵐の前の静けさ
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リチャードが戻ってくると、異様な雰囲気に鋭い目をセシルに向ける。
咎めるような目線に、ナオはセシルの足を叩いて何も言うな、と合図を出した。こんな風に傷ついたところは知られたくなかった。
イーサンたちはアビゲイルの父に怒られ、気分を害したと森へ遊びに行ってしまった。
唯一残ったのは、リンダだった。まだ食べたいからと理由をつけて森に行かなかったが、皿を空にしてからは野菜一つ食べていない。単に言い訳だったのだろうと、ナオは察した。
話しやすいのか、セシルはリンダと仲良く話している。二人並んでマシュマロを串に刺していた。
「君も食べたいの?」
「あ……えっと…………」
「作ろうか?」
「え、でも…………」
「待ってて」
前に座るリチャードは立ち上がり、セシルの元へ行ってしまう。
過去にナオは、リチャードからスモアを作ってもらったことがあった。彼はとっくに忘れているだろう。「作ろうか」の言い方も、あのときと変わらず優しくて甘酸っぱい気持ちにさせ、落ち着かなくなる。
先に作り終わったセシルは、リチャードの腕前を面白そうに見つめている。
リチャードは皿に二つスモアを乗せて盛ってきた。
「どうかな」
湯気の立つスモアは、厚めのクッキーの間にふかふかのマシュマロと板チョコレートが挟んである。
リチャードが心配そうに見つめる中で、ナオは一口頬張った。濃厚なチョコレートとマシュマロが混じり、口の中でとろけていく。クッキーのざくざく感もあり、食感も楽しめる。
「……美味しいです」
「良かった。今回はうまく作れたと思ってるよ」
「前のも美味しかったですよ」
「もしかして、覚えていたの?」
「えと……その…………はい」
忘れたことなんてない。大切な想い出で、開けないように蓋をしていただけだ。思い出してしまうと、思ってはいけない感情まで溢れて制御できなくなってしまう。
「これも美味しいですけど、マシュマロはちょっと焦げたくらいでも香ばしくて好きなんです」
「あのときはちょっと焦げたレベルじゃなかったけどね。消し炭になるところだったよ」
もう一つのスモアをリチャードが食べ、美味しいと呟く。
「リチャードは甘いものは好きですか?」
リチャードは目を細め、おかしそうに笑う。
「ほとんど食べないな。気晴らしに口に入れるくらい。……ナオに名前を呼んでもらえたのは久しぶりだ」
「そうでしたっけ?」
「避けられてる気がしたから。映画を観ようと誘ってくれたのに断ってしまい、申し訳なかった」
それはまったく関係がないのだが、映画のせいにしておけば、出してはならない感情を抑えられそうな気がした。
「バーベキューの後にでも観ないか?」
「いいんですか?」
「もちろん。約束しただろう? シアターがあるから、そこで観よう。君の好みそうなものがあるといいんだが……父のコレクションには、ホラーは入ってないかもしれないな」
青い目が向き、ナオは慌てて視線を逸らした。
苦手なわけではない。昔から、この目に見つめられるとどうしていいのか分からなくなるのだ。年齢を重ねた今、下半身に直結してしまいそうになり、視線をうろうろさせたり喉も渇いていないのにカップに口をつけて誤魔化したりと挙動不審な動きとなってしまうのだ。
地下にあるシアタールームは、田舎にある映画館くらいの大きさだった。
リチャードは棚を漁り、ナオの気に入りそうなものを探している。
シャツから出た腕は贅肉などまったくついていなくて、あまりのたくましさに不埒なことを考えてしまう。
「卑しい自分が嫌になります……」
「人間は誰でも卑しいよ。ホラー好きだっていいじゃないか」
「そ、そうですね……」
「これは観たことある? ピエロが子供を襲う映画なんだけど」
「それすごく好きです」
「実は途中までしか観たことがないんだよな。子供の頃、あまりに怖くてトイレに行くふりして部屋から出たんだ。でも五、六歳だったセシルの手前、怖いなんて言えなくて」
「いいお兄ちゃんですね。僕には兄弟がいないから、羨ましいです」
「兄弟かあ……はは……まあセシルは可愛い弟だよ。じゃあつけるね」
ソファーに空く距離感がもどかしくて、どうにか近くに寄れないかと試行錯誤するが、あの手この手も使えない。ホラー好きだと公言してしまった以上、怖くて側にいて作戦も無謀で怪しまれる。ここは素直に映画を楽しむしかない。
心地良い香りと揺れにまだ寝ていたかったが、優しくナオと名前を呼ばれ、重たい瞼をそっと開けた。
「え、え……ひっ…………」
飛び込んできた王子様に、ナオは大声を上げそうになる。
リチャードは肩を震わせ、ナオの頭を撫でた。
「面白い映画だったね」
「え? ええ……それはもう。ゾンビ出てくるところなんて、どきっとしました」
「出てきてたかな? ピエロだった気がするけど。映画観終わったら食堂に来てだって」
もう一つのソファーには、誰かが座っていた形跡がある。
「途中までセシルとリンダがいたんだ。怖くなって三十分くらいですぐ出たけどね」
「リチャードは?」
「俺は最後まで観たよ。けっこう面白いね、これ。でも君が側にいなかったら目を瞑っていたかも。今度続編やるらしい。さてと……そろそろ行こうか。立てる?」
「はい」
続編もぜひ……と誘う勇気もなく、けれど差し伸べられた手には重ね、アンバランスな心は迷子になっていた。
ふたりで食堂に行くと、アビゲイルたちは食べ終えたのか空の皿だけが残っている。
「映画どうだったー?」
ビールを飲んだからか、セシルは上機嫌だ。相変わらず皿に野菜が残っている。
「た、楽しかったよ」
「嘘つけ。寝てたくせに」
「あはは……でもあの映画好きなんだ。ホラーとミステリーが合わさったようで、謎解きもあるし」
「ほう。ミステリーが好きなのか」
セシルの父親であるハリーも、ワイングラスを片手に添える。
「はい。映画のミステリーも好きですが、本も読むんです」
「図書室に古い本だがたくさんある。よければ行ってみるといい」
「図書室もあるんですか? 宝の山ですね」
「作家としては、やっぱり気になっちゃう感じ?」
「作家?」
「ナオってば、大学通いなから小説書いてるんだよ」
「まあ、素敵」
アリス・ブラウンは微笑むと、ナオは恥ずかしくなって俯いた。
「趣味で書いてるの?」
「最初は趣味だったんですけど、応募してみたら雑誌に載せてもらえることになって、今連載中なんです」
「すごいわね。どんなジャンルが得意なの?」
「ええと……ラブストーリーを書き上げて本になりました。今はミステリーを書いてるんですが、なかなか難しくて」
「そうなのね。ミステリーといえば、私はシャーロック・ホームズが好きなのよ」
「あ、僕も好きです。『緋色の研究』は名作ですよね」
ナオが楽しそうにしている様子を、リチャードは耳を傾けている。
「わ、なに?」
セシルが驚いたのは、大きな物音だ。 外で雷が落ちる音が鳴り、皆フォークとナイフが止まる。
「外だな。いよいよ荒れるぞ。明日も一日悪くなるんだそうだ」
「えー、天気予報変わってるじゃん」
「明日のバーベキューは無理だな」
「ならさ、ステラのケーキが食べたい」
「ええ、せっかくですから作りますね」
紅茶のお代わりを持ってきたステラは微笑んだ。
添えられているクッキーは、バーベキューで残ったものだ。
凝視していると、前の席に座るリチャードが微かに笑う。
どうしていいのか分からず、ナオは熱めの紅茶を口にした。
咎めるような目線に、ナオはセシルの足を叩いて何も言うな、と合図を出した。こんな風に傷ついたところは知られたくなかった。
イーサンたちはアビゲイルの父に怒られ、気分を害したと森へ遊びに行ってしまった。
唯一残ったのは、リンダだった。まだ食べたいからと理由をつけて森に行かなかったが、皿を空にしてからは野菜一つ食べていない。単に言い訳だったのだろうと、ナオは察した。
話しやすいのか、セシルはリンダと仲良く話している。二人並んでマシュマロを串に刺していた。
「君も食べたいの?」
「あ……えっと…………」
「作ろうか?」
「え、でも…………」
「待ってて」
前に座るリチャードは立ち上がり、セシルの元へ行ってしまう。
過去にナオは、リチャードからスモアを作ってもらったことがあった。彼はとっくに忘れているだろう。「作ろうか」の言い方も、あのときと変わらず優しくて甘酸っぱい気持ちにさせ、落ち着かなくなる。
先に作り終わったセシルは、リチャードの腕前を面白そうに見つめている。
リチャードは皿に二つスモアを乗せて盛ってきた。
「どうかな」
湯気の立つスモアは、厚めのクッキーの間にふかふかのマシュマロと板チョコレートが挟んである。
リチャードが心配そうに見つめる中で、ナオは一口頬張った。濃厚なチョコレートとマシュマロが混じり、口の中でとろけていく。クッキーのざくざく感もあり、食感も楽しめる。
「……美味しいです」
「良かった。今回はうまく作れたと思ってるよ」
「前のも美味しかったですよ」
「もしかして、覚えていたの?」
「えと……その…………はい」
忘れたことなんてない。大切な想い出で、開けないように蓋をしていただけだ。思い出してしまうと、思ってはいけない感情まで溢れて制御できなくなってしまう。
「これも美味しいですけど、マシュマロはちょっと焦げたくらいでも香ばしくて好きなんです」
「あのときはちょっと焦げたレベルじゃなかったけどね。消し炭になるところだったよ」
もう一つのスモアをリチャードが食べ、美味しいと呟く。
「リチャードは甘いものは好きですか?」
リチャードは目を細め、おかしそうに笑う。
「ほとんど食べないな。気晴らしに口に入れるくらい。……ナオに名前を呼んでもらえたのは久しぶりだ」
「そうでしたっけ?」
「避けられてる気がしたから。映画を観ようと誘ってくれたのに断ってしまい、申し訳なかった」
それはまったく関係がないのだが、映画のせいにしておけば、出してはならない感情を抑えられそうな気がした。
「バーベキューの後にでも観ないか?」
「いいんですか?」
「もちろん。約束しただろう? シアターがあるから、そこで観よう。君の好みそうなものがあるといいんだが……父のコレクションには、ホラーは入ってないかもしれないな」
青い目が向き、ナオは慌てて視線を逸らした。
苦手なわけではない。昔から、この目に見つめられるとどうしていいのか分からなくなるのだ。年齢を重ねた今、下半身に直結してしまいそうになり、視線をうろうろさせたり喉も渇いていないのにカップに口をつけて誤魔化したりと挙動不審な動きとなってしまうのだ。
地下にあるシアタールームは、田舎にある映画館くらいの大きさだった。
リチャードは棚を漁り、ナオの気に入りそうなものを探している。
シャツから出た腕は贅肉などまったくついていなくて、あまりのたくましさに不埒なことを考えてしまう。
「卑しい自分が嫌になります……」
「人間は誰でも卑しいよ。ホラー好きだっていいじゃないか」
「そ、そうですね……」
「これは観たことある? ピエロが子供を襲う映画なんだけど」
「それすごく好きです」
「実は途中までしか観たことがないんだよな。子供の頃、あまりに怖くてトイレに行くふりして部屋から出たんだ。でも五、六歳だったセシルの手前、怖いなんて言えなくて」
「いいお兄ちゃんですね。僕には兄弟がいないから、羨ましいです」
「兄弟かあ……はは……まあセシルは可愛い弟だよ。じゃあつけるね」
ソファーに空く距離感がもどかしくて、どうにか近くに寄れないかと試行錯誤するが、あの手この手も使えない。ホラー好きだと公言してしまった以上、怖くて側にいて作戦も無謀で怪しまれる。ここは素直に映画を楽しむしかない。
心地良い香りと揺れにまだ寝ていたかったが、優しくナオと名前を呼ばれ、重たい瞼をそっと開けた。
「え、え……ひっ…………」
飛び込んできた王子様に、ナオは大声を上げそうになる。
リチャードは肩を震わせ、ナオの頭を撫でた。
「面白い映画だったね」
「え? ええ……それはもう。ゾンビ出てくるところなんて、どきっとしました」
「出てきてたかな? ピエロだった気がするけど。映画観終わったら食堂に来てだって」
もう一つのソファーには、誰かが座っていた形跡がある。
「途中までセシルとリンダがいたんだ。怖くなって三十分くらいですぐ出たけどね」
「リチャードは?」
「俺は最後まで観たよ。けっこう面白いね、これ。でも君が側にいなかったら目を瞑っていたかも。今度続編やるらしい。さてと……そろそろ行こうか。立てる?」
「はい」
続編もぜひ……と誘う勇気もなく、けれど差し伸べられた手には重ね、アンバランスな心は迷子になっていた。
ふたりで食堂に行くと、アビゲイルたちは食べ終えたのか空の皿だけが残っている。
「映画どうだったー?」
ビールを飲んだからか、セシルは上機嫌だ。相変わらず皿に野菜が残っている。
「た、楽しかったよ」
「嘘つけ。寝てたくせに」
「あはは……でもあの映画好きなんだ。ホラーとミステリーが合わさったようで、謎解きもあるし」
「ほう。ミステリーが好きなのか」
セシルの父親であるハリーも、ワイングラスを片手に添える。
「はい。映画のミステリーも好きですが、本も読むんです」
「図書室に古い本だがたくさんある。よければ行ってみるといい」
「図書室もあるんですか? 宝の山ですね」
「作家としては、やっぱり気になっちゃう感じ?」
「作家?」
「ナオってば、大学通いなから小説書いてるんだよ」
「まあ、素敵」
アリス・ブラウンは微笑むと、ナオは恥ずかしくなって俯いた。
「趣味で書いてるの?」
「最初は趣味だったんですけど、応募してみたら雑誌に載せてもらえることになって、今連載中なんです」
「すごいわね。どんなジャンルが得意なの?」
「ええと……ラブストーリーを書き上げて本になりました。今はミステリーを書いてるんですが、なかなか難しくて」
「そうなのね。ミステリーといえば、私はシャーロック・ホームズが好きなのよ」
「あ、僕も好きです。『緋色の研究』は名作ですよね」
ナオが楽しそうにしている様子を、リチャードは耳を傾けている。
「わ、なに?」
セシルが驚いたのは、大きな物音だ。 外で雷が落ちる音が鳴り、皆フォークとナイフが止まる。
「外だな。いよいよ荒れるぞ。明日も一日悪くなるんだそうだ」
「えー、天気予報変わってるじゃん」
「明日のバーベキューは無理だな」
「ならさ、ステラのケーキが食べたい」
「ええ、せっかくですから作りますね」
紅茶のお代わりを持ってきたステラは微笑んだ。
添えられているクッキーは、バーベキューで残ったものだ。
凝視していると、前の席に座るリチャードが微かに笑う。
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