薫る薔薇に盲目の愛を

不来方しい

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第二章 新生活

020 大切な名前

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「蓮君、ちょっと大変な話」
「どうしたんですか?」
「今週の日曜日に遊園地へ行くって言ってたでしょ? 雨が降りそうなんだ」
 天候が変わるなど信じられないくらいに、外は雲もなく焼けつくような暑さだ。ここまで暑いと蝉も元気がない。
「確率ってどのくらいですか?」
「五十パーセントってテレビで流れてた」
「そこそこ危ないですね。でも、お弁当は作りましょうか。遊園地に行けなくても、どこか室内で食べてもいいですし」
「ミカもそれが楽しみで仕方ないみたいなんだよね」
 弁当の中身は大方決まっている。それぞれ一つずつ好きなものを入れようと話になり、蓮は定番の卵焼き、薫はいなり寿司、ミカはキュウリの漬け物だ。ミカが食べやすいようにと、浅漬けに挑戦している。
「こんなに暑いと、環境の変化で目が見えなくなったりしたらってちょっと心配。さらに湿度も上がるし」
「絶対に平気だとは言えませんが、でもここに引っ越ししてきてからはすこぶる良好です」
 京都へ来てから、主治医は薫が引き継いだ。前の主治医も中学のときに世話になっていた人なら安心だろうと言っていた。蓮自身も前にカルテを書いていた薫ならばと安心感がある。
「もし雨が降ったら、ミカちゃんを呼びませんか?」
 薫は微笑みながらも、首を縦に振らなかった。
「ここは蓮君とふたりの家だから。俺なりのけじめなんだ。こうしてミカを受け入れて遊んでくれるだけで本当に嬉しいよ。さあ、カフェオレ飲んだら、蓮君は勉強。俺は夕食の準備ね」
「はーい」

 ふたりの協同作業で作った照る照る坊主も意味も成さず、屋根は滝と化していた。しとしと降る程度だと言っていた気象予報士の話は残念な結果に終わり、心なしか笑顔にしたはずの照る照る坊主は口元が歪んでいる。
「しょぼーんとしてる」
「仕方ないよ。天気はどうこうできるものじゃない」
 薫は蓮の肩をさすり、慰めの言葉を口にする。
 雨が降った場合、ミカの家でご飯を食べることになっている。待ちわびているだろう彼女のために、早めに家を出ることにした。
 彼女の家では優子が出迎えるが、ミカは出てこない。
「しょぼくれてるのよ。悪いわね、これから仕事だから相手をお願いね」
「任せて下さい」
 蓮は言葉を交わさず頭を下げた。彼女に男同士の恋愛について否定的なことを言われてから、うまく話せないでいた。一方の薫はまったく気にする素振りは見せず、いつも通りを貫いている。
「蓮君はいつも通りでいて。何も悪いことはしてないんだから」
 薫は蓮の耳元で囁いた。
 彼の言うとおりだ。愛する人と素晴らしい人生を歩んで何が悪い。
 下を俯きそうになるが、背を正して前を向いた。
「ミカ、いる?」
 薫が優しく声をかけると、リビングからミカは顔を出した。一言で言うと悲しみだ。口がへの字に曲がっている。
「るーちゃん……れんくん……」
「今日は残念だったね。でもほら、ふたりでお弁当を作ってきたんだよ」
「お弁当……ほんとに?」
「ほんとほんと。三人で食べよう」
「うん」
 少しは機嫌が直ったようだ。テーブルに二段の重箱を広げると、先ほどまでの表情とは打って変わった。
「キュウリ!」
「それは蓮君が漬けたんだよ。すごいね」
「れんくん、すごいすごい」
「ありがとう。素使っただけだけど」
「ねー、れんくんはるーちゃんのどこが好き?」
「ええ?」
 突然の質問だ。薫は菩薩のような微笑みでこちらを見ている。無言の圧力を感じた。
「や、やさしいところ……」
 ありきたりすぎて、薫の顔が「え」となっている。
「わかるー。るーちゃんやさしいもんねー」
「そうだよね! うん、そうだよ」
 薫の顔はいろんな感情が混じり、おもしろいことになっている。
「れんくんもやさしいよー」
「そうかな?」
「これおいしいし」
 キュウリの浅漬けはほとんど彼女の腹の中だ。
「よければまた作ってくるね」
「うん! れんくんも好き!」
「ありがとう」
 彼女にとってはライバルだと思われていないらしい。
 子供に好かれるのは慣れてはいないが、純粋に懐いてくれて好き好きアピールをされると悪い気はしない。
 食事を終えた後は三人でアニメを観た。途中でミカは寝てしまい、そっとタオルをかける。
「良きお兄ちゃんって感じ。今日は一緒に遊んでくれてありがとう。ミカから蓮君も連れてきてってせがまれてたんだ。同い年の友達はいるみたいなんだけど、大人の人に構ってもらうのは別みたいで」
「晴れればもっと良かったんですけどね。今度こそ遊園地に行きましょう」
 蓮には薫に言えない闇の部分がある。それは嫉妬深いことだ。身体中を駆け巡るどす黒いものは、常に薫の身近な人物へ向かっている。見えなくも攻撃を繰り返し、さらには自分自身をも痛めつける。いけないと判っていても、止められず自己嫌悪だ。
 こういう思いが表れたとき、真夏であっても凍えそうなほど指の先が氷に触れたときのようになる。思いを最奥に封印しなければ、目の前の人を傷つけると本能が悲鳴を上げている。



「れんれーん、どしたの? そのため息」
 はっとして顔を上げると、すでに講義は終えていた。
「学食行こうぜ! 腹減った」
 佐藤星夜は蓮の肩に腕をかける。
「本当に元気ないな? 話聞くよ」
「僕って嫉妬深いなあって悶々としてる」
「誰でもするもんだろ」
 佐藤はきょとんとして首を傾げた。
 ふたりで食堂へ移動し、弁当を広げた。今日は肉味噌ご飯と、ブロッコリーとミニトマトをつめた。彼氏も同じメニューだ。
「例えばだよ? 盛りつけも完璧で美味しいピラフを作ったとして、上からカレーをどばーっとかけたとする。台無しになると思わない?」
「ちょーうめえじゃんそれ」
「……もういい」
「むくれんなよ。可愛いだけだぞ」
 頬をつつかれた。
「つまり、どういう話?」
「澄んだ小川みたいな色でいたいのに、心に泥が流れてくるんだ」
「カレーは泥かよ」
「綺麗でいたいのに台無しになるってこと。美味しいもの同士でも合わさると最悪の結果になる場合もあるでしょ?」
「ピラフもカレーもどっちも好きになればいじゃん。俺、シーフードカレー食う」
 今日のランチは少し豪勢だった。いつもはあまり具が入っていないのに、今日は海の幸がぽつぽつと浸っている。
「好きになりすぎて、頭がおかしくなりそう……」
「つまり、どっちも好きだけど嫉妬で溢れるって話?」
「そうそれ。そういうこと」
「詩人みたいな難しいこと言ってんなあ。嫉妬なんてどうしようもねえし、そういう自分だと思えばいい。それか、相方に嫉妬深いって言ってみるとか」
「相方? 今の若い子はそんな言い方するんだ」
「若い子って、同い年だろうが」
 佐藤は蓮の背中を音を立てて叩いた。
 大学を入り直したために、同い年ではなく年上だ。蓮は否定も肯定もしなかった。
「薫さんにちょっと言ってみる」
「へえ、名前は薫さんっていうのか」
 ぐさり、とミニトマトに箸が刺さる。
「…………僕、名前言ってた?」
「言った言った。薫さんっしょ?」
「……………………」
「名前くらいいいじゃん……って俺が言える立場じゃないけどさ」
「そういえば、どうして名前で呼ばれたくないの?」
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