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09 一馬
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立夏ともなると緑独特の香りが紛れ、春とも夏とも言えない風が凜太を包んだ。
「すみません、お待たせしました」
「おう」
手を上げて答えた淳之はすでに夏の格好で、シャツから見える腕は手の甲と腕と色が変わっている。
「せっかくの休みにすみません」
「退院祝いはまだしてなかったからな。彼氏の腕の見せ所だ」
わだかまりが邪魔をして、凜太は何も答えられなかった。バスに乗り、ふたりは駅近くのスポーツジムへやってきた。グラウンドはどこかの学校が予約をしていたのか、中学生くらいの子供たちが短距離の記録を測っている。
サッカーは外でも中でも出来るが、建物の中を選んだ。体育館でも学生が大勢いたが、素通りし端の方で軽くストレッチをする。
「薬はあるか?」
「持ってきていますが、最近は頼ってないのです。至って健康です」
「そう言ってるとまた倒れるぞ。息はあまり上がらないように軽く蹴ろう」
マネージャーらしき人物の女性は淳之に視線を送っている。知り合いというわけでもなく、淳之は気づいているのかどうかさえ判らない。
ボールを上げ、リフティングを何度かした後に淳之へパスを出す。胸元で受け取った淳之は、太股や足の甲も使い、慣れた様子で凜太にパスを出した。
「あっ」
「悪い」
受け止めきれず、ボールは生き物のように跳ね、先ほどの女性マネージャーの元へ転がっていった。
「すみません」
凜太は声をかけ足下のボールを手に持つと、女性と目が合う。
「一緒にいる人って、八重澤淳之さん?」
「え」
「ですよね?」
凜太は待っている淳之を一瞥し、頷いた。
「どうしよ、まさか会えるなんて。サイン欲しいなあ」
凜太は淳之の過去の試合を思い出した。いつも彼は女性に囲まれ、手紙やプレゼントをもらっていた。ずしりと重いものがのしかかり、会釈をしただけで何も答えられなかった。
「どうした?」
「いえ……何も」
「何もって顔してねえぞ。あっこら」
不意打ちのボールにも関わらず、淳之は軽々と胸で受け止めた。強めに蹴ったはずなのに、返ってきたのは凜太も受け止められるほどの軌道だ。
シュート練習に切り替え何度か蹴るが、すべて止められてしまった。淳之は楽しそうに凜太にボールを返す。
「ちょっと休憩しよう」
額から流れる汗を見て、淳之は制止をかけた。
「久しぶりに汗を流しました。気持ちいいですね」
「大事ないか?」
「ええ、むしろ調子がいい。あなたにとっては物足りないんでしょうけど」
ペットボトルの水を飲んでいると、女性マネージャーが側にきた。手にはノートとペンが握られている。
「八重澤選手ですよね?」
「ああ……」
「良ければ、サインもらえませんか?」
複雑な顔のまま、淳之は差し出されたペンを取り、ノートに名前を書いた。
「ありがとうございます。また応援に行ってもいいですか?」
「……ぜひ」
握手を交わした女性は嬉しそうに笑い、チームへ戻っていった。
「サッカー止めて、違うスポーツでもするか?」
「私に気を使わなくて結構です」
「何怒ってんだよ」
「怒っていません」
「ごめんって。俺が好きなのは凜太だから」
ホイッスルの音にかき消され、肝心なところは凜太の耳に届かなかった。
「……もう一度、」
「好きだよ、凜太」
タオルの下でこっそりと手に触れると、淳之はしっかりと握りしめた。
御家に戻ると、家中が慌ただしく動き回りいつもの出迎えもない。居間に顔を出すと、春子が沈痛な表情で誰かと電話している。
「若、おかえりなさい」
「ただいま戻りました。何かあったのですか?」
「それが……」
言い淀む春子は意を決し、絞り出すような声で話した。
「一馬が……倒れたらしいのです」
「え……」
思ってもみなかった話に目の前が闇に包まれた。
「病院で倒れたので、そういう意味では心配はいらないのだけど、心身消失状態で人と話そうとしないと」
「私、兄さんのところへ参ります」
「……気絶する前、あなたの名前を呟いたらしいのです」
一瞬、凜太の動きがぎこちなくなる。母の小声は聞き取れたが、凜太は敢えて聞こえないふりをし、返事はしなかった。
タクシーで病院へ向かう間、外の景色を眺める余裕もない。夕映えが残り、公園の池ははっきりと水面が見えなかった。ただ目に焼きつけるだけで、凜太は美しいとも切ないとも何の感情も持たなかった。
気持ち早足で病院の廊下を歩くと、医師とすれ違った。不安になる薬品の匂いを漂わせているのは一馬も同じだった。
病室のドアを数回叩くが、応答はない。失礼します、と遠慮がちに入ると、青白い顔のまま横たわる一馬がいた。一瞬、嫌な予感が頭をよぎるが、一定間隔で起こる寝息に安堵し、脇の椅子に腰を下ろした。
「……兄さん」
呼んでも返事はなく、布団の中の手を握った。生きているとは思えないほど冷たく、血の気がまるでない。強く握ると、ぴくりと手が反応した。
母方の祖母が亡くなったとき、仏壇には白い布を被せられて横たわる姿があり、凜太はふと庭の白い花を眺めた。目の前の祖母より、名前も知らない花が気になって仕方がなかった。今も窓から見える、桃色の花に目が奪われている。
「……りん、た」
「兄さん、私です。凜太です」
「来てくれたのか……嬉しいよ」
祖母とは違い、一馬は凜太の手を握り返した。
「良かった……本当に心配しました」
「過労だってさ、大袈裟だよ」
「大袈裟ではありません。自己管理をまともに出来ないようでは、今のように今後も倒れます」
「休みに行ったじゃん……」
「私の家に来た話をしているのですか?ですから、わざわざ遠くから来る暇があるなら家で休んで下さい」
窓に映る花はもう気にならず、青白い顔ではにかむ叔父をまっすぐに見つめた。
「法医学者……って、知ってる?」
質問というより、一馬の答えだった。
「一馬兄さんが……まさか」
「この町で通り魔騒ぎがあって、いろいろ慌ただしかったんだ。病院で働いてるって、凜太に嘘吐いた。正式には病院じゃない」
生きている人間を相手にする医師とは違い、事件性のある変死体を相手にするのが法医学者だ。鑑定や解剖を主に仕事とする。
「そんな嘘はどうでもいいのです。あなたが生きていてくれて、本当に良かった」
「……しばらくさ、仕事休もうかなって。俺の奥さん、許してくれるかなあ」
「お休みして、何かしたいことでもあるのですか?」
「旅したい。遠くに行きたい。二人でさ、凜太も行こうよ」
「……そこは、奥様と一緒に行くべきでしょう」
「はは……だよね。でも妻と行っても楽しくないよ。愛なんてこれっぽっちもないし」
指先から伝わる震えに、凜太は繋がれた手を振り解けなかった。凜太の心には微かな光が宿り、喜びに似た感情に今度は凜太が震える番だ。気づかないふりをしたまま、口を開いた。
「なぜ結婚したんです」
「いずれしなくちゃいけないだろうし、気立ては悪くないし」
「肝心なことを隠してる目です」
「……どうだったかな。忘れた」
一馬は右手を目元に置いて色を隠した。こうなれば、一馬は何が何でも本音を言わない。凜太はため息で返し、しばらく生温い手を握ったまま動かなかった。
夕食は母の春子が向かえに座り、家元がいないためか春子は包む雰囲気がゆったりとしている。
塩焼きにした鯵にレモン汁をかければ、風味がさっぱりとしたものに変わる。魚の横に添えれば彩りも良い。
「一馬はどうでした?」
緊張が伝わらないように、凜太は箸を止めずに大根のみそ汁に手を伸ばした。
「意識はありました。あまり食事をしていなかったようです」
「そう」
「春子さん、聞きたいことがあります。なぜ一馬兄さんは結婚をしたのですか?」
母は一馬の義父と凜太の間に何があるのかは理解していない。あえて知らないふりをし、わざと質問をぶつけた。
「なぜって、結婚は好きになったからこそするものですよ」
「大半の理由はそうでしょう。ですが一馬兄さんには当てはまりません。一馬兄さんは、」
喉まで押し寄せた言葉を飲み込むと、春子との間に透明な壁ができた気がした。重苦しい雰囲気が漂う。
「……放浪癖のある一馬に結婚を勧めたのは家元です」
「それは知っています。この家に近寄らなくなった理由は?思えば、結婚前から家元のいる日は絶対にやって来なくなりました」
家元がいない今日こそがチャンスだとばかりに、溜めに溜めた鬱憤を言葉にした。
「若に、誤解を与えてしまうかもしれません」
「構いません。はっきり仰って下さい」
「家元は、」
言い淀み、渋る春子を凜太は辛抱強く待った。焦りはせず、日常会話のように食事をする手は止めなかった。
「あなたと一馬を引き離そうとしたのです。意味は判りますね?」
「………………」
「家元は、一馬を屋敷への出入り禁止を命じました。そして結婚を勧めました。一馬は結婚を受ける条件として、若の将来の相手は若自身に決めさせてくれと提示したのです」
「なん、ですか……それ」
「ですが、家元は西条明美さんなど、あなたに相応しい結婚相手を探し、茶道教室の生徒としました。気が合いそうならばそのまま教室へ留め、合わなければ家元が引き継いでいました。おかしいと気づいていたでしょう?」
「ええ」
「一馬が家元のいない日を狙ってやってくるのは、家元に対する反抗心もあるのかもしれません」
条件というより、家元と一馬の間で交わされた契約が一方的に破られ、一馬は結婚後も凜太の部屋へ出入りするようになった。結婚前に一馬は「凜太の家には行けない」と言った。ちょうど温泉旅行の前だ。あれは、そういう意味だったのだ。勘違いをした凜太は自分を責めた。
不安と恐怖、心配も混じり合った目が伏せられ、凜太はすべてを察した。春子も家元も、凜太の性癖には気づいていると。気づいていて、知らないふりを通していたのだ。
自室に戻った凜太はベッドを思い切り殴りつけた。柔らかな羽毛布団に拳が包まれ、痛みはなかった。自分や他人を傷つけるよりはよほどいい。
何度か同じ動作を繰り返していると、どくんと心臓が動いた。病気はもうほとんど問題ないが、凜太は心臓付近を押さえベッドに横になった。
身動きの取れないレールに敷かれた人生をまっとうする自分と、見知らぬ間に守られて育っていた自分が存在し、複雑な心境は涙として溢れ出る。目尻から耳を通り髪に触れ、やがて枕を濡らしていく。誰かに抱きしめてほしいと願えば、浮かぶ顔はひとりだけで、わがままでどうしようもない自分に嗚咽混じりの息を吐いた。
八月の第一週目に入り、蝉の声が忙しなく重なっている。凜太は庭に出ると飛び跳ねて出迎えてくれた錦鯉たちに餌を与えた。
朝食後のキッチンは熱がこもり、凜太は換気扇を回した。冷蔵庫には材料が山のように入っている。
「冷蔵庫のものを使ってもよろしいですか?」
居間にいる春子に声をかけると、やはり何に使うのかと返答がくる。
「お弁当を作りたいのです。千葉まで参ります」
「二人分ですか?」
誰と、とは聞かれないが、内心心穏やかではなかった。
「鰆の西京焼きがありますよ。あとは煮物と、」
「西京焼きだけ頂きます。後は自分で作りますから」
丁重に春子を追い出し、凜太はまず卵を茹でようと鍋に水を入れた。
「どうせならサンドウィッチはいかがです?春日さんが家元のいない日に食べましょうと買ってきて下さった食パンがありますよ」
「パン……」
滅多に食べない代物だ。卵を追加で茹で、その間にアボカドを細かく刻む。レモン汁をかけ、ツナやマヨネーズと合わせた。パンにマーガリンを塗り、野菜と合わせて挟んだ。その様子を影からじっと春子が見つめていた。
何種類かのサンドウィッチを作り、ラップフィルムで巻き小風呂敷で包んだ。
「行って参ります」
すれ違うとき、凜太は小声で呟いた。春子は何も言わずに会釈をするが、凜太には見えていなかった。
向かった先は千葉にある大学であり、グラウンドには女性の人だかりができていた。びっしょりと濡れた汗を手拭いが吸収するが、頭から流れ落ちた汗は再び額を濡らした。外の温度計は三十度を超えている。風があるためか、この時期にしては過ごしやすいといえる。
すれ違う女性を見て、凜太もスマホを取り出そうか考え、止めた。グラウンドには選手はおらず、たった今やってくるところだった。黄色い声が上がる中、凜太は目当ての人を見つけたが声をかけられなかった。隣を歩くのは岡田奈々子だ。奈々子はすぐさま凜太を見つけるが、視線を逸らし淳之と何か話している。
奈々子は鞄から包みを取り出し、淳之に渡した。他の選手は何も言わない。まるでいつもの光景だというように、風景に同化している。小さめのおにぎりは淳之の手にすっぽりと収まり、隣で奈々子も食事を始めた。真剣に耳を傾けている様子から、サッカーについて話しているのだろう。
凜太はグラウンドから離れ、校舎裏までやってきた。誰もいないベンチに座り、紙袋を膝の上に置いた。
何の感情も持ちたくなく、そびえ立つ木を呆然と眺めた。しっかりと根が付いた太い木は雄々しく、頂点は見上げても辿り着かない。揺らめく葉の隙間から、白い空が見えた。
「アツのところに行かないのか?」
ベンチの横に男性が一人立っている。二重で眼力のある目に、鼻筋がしっかりとした顔立ちだ。凜太は太股の筋肉に釘付けとなった。
「いつもアツに付きまとっているだろ?」
「付きまとう、ですか。確かに、その表現は合っていると思います」
「匂いで判るんだよ」
「匂い?」
体質もあってか、男の肌は焼けていない。日の当たりやすい顔は少し赤みを増している。男は許可も取らずに凜太の隣に腰掛けた。
「俺も君と同じ匂いを放ってる」
「……言いたいことは判りました。何かご用ですか?」
「俺さ、アツのライバルなんだよ。同じゴールキーパー」
手足も長く、ベンチから邪魔そうに健脚は投げ出されている。太い指が凜太の横髪を捉えた。
「だからって何かするわけじゃないけどな。ライバルだけど仲良いし。同じポジションだからこそ分かり合えることもあるし」
「一年生ですか?」
「いや、二年。相模晴之。アツと名前も似てるだろ?」
「高校一年の葉純凜太と申します」
「ハーフなんだよ、俺。アメリカと日本のハーフ」
「私は、純日本人です」
「中性的な顔立ちだな」
「男っぽくないと言いたいのですか」
「どちらかというと、タイプだって言いたかった」
伸びた横髪は耳にかけられ、指先がわざと喉を這う。小さな声が漏れた。
「あー腹減った」
「ご飯は召し上がってないのですか?」
「うーん、まあ」
凜太はグラウンドを振り返る。期待しても、追いかけてくる様子もない。紙袋ごと隣に座る晴之へ渡した。
「え、何?」
「差し上げます。私はお腹が空いておりませんので」
「いいの?綺麗な布で包んでるけど」
「家にあった小風呂敷です。大したものではありません」
形の崩れたサンドウィッチを見て、晴之は含み笑いを浮かべた。凜太の好きな笑みではなかった。
「美味そう。気合い入ってるね。これ食べて試合も頑張るよ」
二人分あったはずのサンドウィッチはみるみるうちに少なくなり、晴之はあっという間に平らげた。豪快な食べ方に見入っていると、晴之は影のある微笑を見せた。
「これ……二人分だったのですが」
「やっぱりアツの分もあるじゃん。さすがに量が多いとは思ったよ」
「……私が勝手に作っただけです。淳之さんは、今日のことは何も知らない」
「喋っちゃおうかな」
「止めて下さい」
「なら、連絡先教えてよ」
「脅しですか」
「脅し?アピールだよ。別に夫婦の仲をぶち壊そうとしてるわけじゃないんだ。交際を申し込んでるだけ。恋愛なんて自由だろ?」
言い分は子供じみているが、まっとうな理由だと自信にも繋がるようで、晴之からは一瞬の揺らぎも見られない。小刻みに震える手でスマホに触れようとしたとき、遠くから地面を蹴る音が聞こえた。
「相模先輩」
足を強く踏みしめても、淳之は息ひとつ乱れていない。厳しい表情を崩さず、晴之を見下ろした。
「やあ。今さ、正式に交際を申し込んでるとこ」
「相模さん!」
凜太は驚き、声を荒げた。
「考えておいてね。それと弁当美味かったよ」
晴之は軽くなった紙袋に小風呂敷を戻し、凜太の膝の上に戻した。早くこいよ、と短く声をかけ、元来た道を歩いていく。
やがて足音が遠ざかると、淳之は凜太の隣に座った。凜太は何も話せなかった。誤解では済まない言い訳は今の淳之には通じないと判断し、彼にすべてを委ねた。怒りに満ちてもすべてを受け入れようと、腹をくくる。
「……呆れた」
「それは、何に対して」
「お前」
怒りでも何でもない。軽蔑を含んだ悲壮感が、かすれた声から伝わってくる。
「もう……疲れた」
ため息混じりの声に、凜太の心臓がどくんと動く。
「男同士って、やっぱ無理なのかもな」
「……やっぱり?」
「奈々子との方が、上手くいくかもとしれないとか、最近考える」
「……ええ、そうですね。家が近所だと、お弁当も頼みやすいようですし」
冷ややかな声に、凜太自身も驚愕した。夏の暑さなど感じないほど、心は凍てつくほどに冷え切っている。
「お前とは付き合ってるわけじゃないからな。付き合う一歩前だし、相模先輩とどうなろうが特に問題ないと思ってる。連絡先も交換したみたいだし」
「……交換は、」
「じゃあな」
淳之は一度も凜太の顔を見なかった。立ち上がって、背後を振り返る直前も、彼が下した『決断』に後悔の念は見られない。
遠退く靴音に耳を傾けながら、凜太はベンチに座ったまま涙を流した。泣きたいのは凜太ではないと押し留めても、溢れるものは止められなかった。
「すみません、お待たせしました」
「おう」
手を上げて答えた淳之はすでに夏の格好で、シャツから見える腕は手の甲と腕と色が変わっている。
「せっかくの休みにすみません」
「退院祝いはまだしてなかったからな。彼氏の腕の見せ所だ」
わだかまりが邪魔をして、凜太は何も答えられなかった。バスに乗り、ふたりは駅近くのスポーツジムへやってきた。グラウンドはどこかの学校が予約をしていたのか、中学生くらいの子供たちが短距離の記録を測っている。
サッカーは外でも中でも出来るが、建物の中を選んだ。体育館でも学生が大勢いたが、素通りし端の方で軽くストレッチをする。
「薬はあるか?」
「持ってきていますが、最近は頼ってないのです。至って健康です」
「そう言ってるとまた倒れるぞ。息はあまり上がらないように軽く蹴ろう」
マネージャーらしき人物の女性は淳之に視線を送っている。知り合いというわけでもなく、淳之は気づいているのかどうかさえ判らない。
ボールを上げ、リフティングを何度かした後に淳之へパスを出す。胸元で受け取った淳之は、太股や足の甲も使い、慣れた様子で凜太にパスを出した。
「あっ」
「悪い」
受け止めきれず、ボールは生き物のように跳ね、先ほどの女性マネージャーの元へ転がっていった。
「すみません」
凜太は声をかけ足下のボールを手に持つと、女性と目が合う。
「一緒にいる人って、八重澤淳之さん?」
「え」
「ですよね?」
凜太は待っている淳之を一瞥し、頷いた。
「どうしよ、まさか会えるなんて。サイン欲しいなあ」
凜太は淳之の過去の試合を思い出した。いつも彼は女性に囲まれ、手紙やプレゼントをもらっていた。ずしりと重いものがのしかかり、会釈をしただけで何も答えられなかった。
「どうした?」
「いえ……何も」
「何もって顔してねえぞ。あっこら」
不意打ちのボールにも関わらず、淳之は軽々と胸で受け止めた。強めに蹴ったはずなのに、返ってきたのは凜太も受け止められるほどの軌道だ。
シュート練習に切り替え何度か蹴るが、すべて止められてしまった。淳之は楽しそうに凜太にボールを返す。
「ちょっと休憩しよう」
額から流れる汗を見て、淳之は制止をかけた。
「久しぶりに汗を流しました。気持ちいいですね」
「大事ないか?」
「ええ、むしろ調子がいい。あなたにとっては物足りないんでしょうけど」
ペットボトルの水を飲んでいると、女性マネージャーが側にきた。手にはノートとペンが握られている。
「八重澤選手ですよね?」
「ああ……」
「良ければ、サインもらえませんか?」
複雑な顔のまま、淳之は差し出されたペンを取り、ノートに名前を書いた。
「ありがとうございます。また応援に行ってもいいですか?」
「……ぜひ」
握手を交わした女性は嬉しそうに笑い、チームへ戻っていった。
「サッカー止めて、違うスポーツでもするか?」
「私に気を使わなくて結構です」
「何怒ってんだよ」
「怒っていません」
「ごめんって。俺が好きなのは凜太だから」
ホイッスルの音にかき消され、肝心なところは凜太の耳に届かなかった。
「……もう一度、」
「好きだよ、凜太」
タオルの下でこっそりと手に触れると、淳之はしっかりと握りしめた。
御家に戻ると、家中が慌ただしく動き回りいつもの出迎えもない。居間に顔を出すと、春子が沈痛な表情で誰かと電話している。
「若、おかえりなさい」
「ただいま戻りました。何かあったのですか?」
「それが……」
言い淀む春子は意を決し、絞り出すような声で話した。
「一馬が……倒れたらしいのです」
「え……」
思ってもみなかった話に目の前が闇に包まれた。
「病院で倒れたので、そういう意味では心配はいらないのだけど、心身消失状態で人と話そうとしないと」
「私、兄さんのところへ参ります」
「……気絶する前、あなたの名前を呟いたらしいのです」
一瞬、凜太の動きがぎこちなくなる。母の小声は聞き取れたが、凜太は敢えて聞こえないふりをし、返事はしなかった。
タクシーで病院へ向かう間、外の景色を眺める余裕もない。夕映えが残り、公園の池ははっきりと水面が見えなかった。ただ目に焼きつけるだけで、凜太は美しいとも切ないとも何の感情も持たなかった。
気持ち早足で病院の廊下を歩くと、医師とすれ違った。不安になる薬品の匂いを漂わせているのは一馬も同じだった。
病室のドアを数回叩くが、応答はない。失礼します、と遠慮がちに入ると、青白い顔のまま横たわる一馬がいた。一瞬、嫌な予感が頭をよぎるが、一定間隔で起こる寝息に安堵し、脇の椅子に腰を下ろした。
「……兄さん」
呼んでも返事はなく、布団の中の手を握った。生きているとは思えないほど冷たく、血の気がまるでない。強く握ると、ぴくりと手が反応した。
母方の祖母が亡くなったとき、仏壇には白い布を被せられて横たわる姿があり、凜太はふと庭の白い花を眺めた。目の前の祖母より、名前も知らない花が気になって仕方がなかった。今も窓から見える、桃色の花に目が奪われている。
「……りん、た」
「兄さん、私です。凜太です」
「来てくれたのか……嬉しいよ」
祖母とは違い、一馬は凜太の手を握り返した。
「良かった……本当に心配しました」
「過労だってさ、大袈裟だよ」
「大袈裟ではありません。自己管理をまともに出来ないようでは、今のように今後も倒れます」
「休みに行ったじゃん……」
「私の家に来た話をしているのですか?ですから、わざわざ遠くから来る暇があるなら家で休んで下さい」
窓に映る花はもう気にならず、青白い顔ではにかむ叔父をまっすぐに見つめた。
「法医学者……って、知ってる?」
質問というより、一馬の答えだった。
「一馬兄さんが……まさか」
「この町で通り魔騒ぎがあって、いろいろ慌ただしかったんだ。病院で働いてるって、凜太に嘘吐いた。正式には病院じゃない」
生きている人間を相手にする医師とは違い、事件性のある変死体を相手にするのが法医学者だ。鑑定や解剖を主に仕事とする。
「そんな嘘はどうでもいいのです。あなたが生きていてくれて、本当に良かった」
「……しばらくさ、仕事休もうかなって。俺の奥さん、許してくれるかなあ」
「お休みして、何かしたいことでもあるのですか?」
「旅したい。遠くに行きたい。二人でさ、凜太も行こうよ」
「……そこは、奥様と一緒に行くべきでしょう」
「はは……だよね。でも妻と行っても楽しくないよ。愛なんてこれっぽっちもないし」
指先から伝わる震えに、凜太は繋がれた手を振り解けなかった。凜太の心には微かな光が宿り、喜びに似た感情に今度は凜太が震える番だ。気づかないふりをしたまま、口を開いた。
「なぜ結婚したんです」
「いずれしなくちゃいけないだろうし、気立ては悪くないし」
「肝心なことを隠してる目です」
「……どうだったかな。忘れた」
一馬は右手を目元に置いて色を隠した。こうなれば、一馬は何が何でも本音を言わない。凜太はため息で返し、しばらく生温い手を握ったまま動かなかった。
夕食は母の春子が向かえに座り、家元がいないためか春子は包む雰囲気がゆったりとしている。
塩焼きにした鯵にレモン汁をかければ、風味がさっぱりとしたものに変わる。魚の横に添えれば彩りも良い。
「一馬はどうでした?」
緊張が伝わらないように、凜太は箸を止めずに大根のみそ汁に手を伸ばした。
「意識はありました。あまり食事をしていなかったようです」
「そう」
「春子さん、聞きたいことがあります。なぜ一馬兄さんは結婚をしたのですか?」
母は一馬の義父と凜太の間に何があるのかは理解していない。あえて知らないふりをし、わざと質問をぶつけた。
「なぜって、結婚は好きになったからこそするものですよ」
「大半の理由はそうでしょう。ですが一馬兄さんには当てはまりません。一馬兄さんは、」
喉まで押し寄せた言葉を飲み込むと、春子との間に透明な壁ができた気がした。重苦しい雰囲気が漂う。
「……放浪癖のある一馬に結婚を勧めたのは家元です」
「それは知っています。この家に近寄らなくなった理由は?思えば、結婚前から家元のいる日は絶対にやって来なくなりました」
家元がいない今日こそがチャンスだとばかりに、溜めに溜めた鬱憤を言葉にした。
「若に、誤解を与えてしまうかもしれません」
「構いません。はっきり仰って下さい」
「家元は、」
言い淀み、渋る春子を凜太は辛抱強く待った。焦りはせず、日常会話のように食事をする手は止めなかった。
「あなたと一馬を引き離そうとしたのです。意味は判りますね?」
「………………」
「家元は、一馬を屋敷への出入り禁止を命じました。そして結婚を勧めました。一馬は結婚を受ける条件として、若の将来の相手は若自身に決めさせてくれと提示したのです」
「なん、ですか……それ」
「ですが、家元は西条明美さんなど、あなたに相応しい結婚相手を探し、茶道教室の生徒としました。気が合いそうならばそのまま教室へ留め、合わなければ家元が引き継いでいました。おかしいと気づいていたでしょう?」
「ええ」
「一馬が家元のいない日を狙ってやってくるのは、家元に対する反抗心もあるのかもしれません」
条件というより、家元と一馬の間で交わされた契約が一方的に破られ、一馬は結婚後も凜太の部屋へ出入りするようになった。結婚前に一馬は「凜太の家には行けない」と言った。ちょうど温泉旅行の前だ。あれは、そういう意味だったのだ。勘違いをした凜太は自分を責めた。
不安と恐怖、心配も混じり合った目が伏せられ、凜太はすべてを察した。春子も家元も、凜太の性癖には気づいていると。気づいていて、知らないふりを通していたのだ。
自室に戻った凜太はベッドを思い切り殴りつけた。柔らかな羽毛布団に拳が包まれ、痛みはなかった。自分や他人を傷つけるよりはよほどいい。
何度か同じ動作を繰り返していると、どくんと心臓が動いた。病気はもうほとんど問題ないが、凜太は心臓付近を押さえベッドに横になった。
身動きの取れないレールに敷かれた人生をまっとうする自分と、見知らぬ間に守られて育っていた自分が存在し、複雑な心境は涙として溢れ出る。目尻から耳を通り髪に触れ、やがて枕を濡らしていく。誰かに抱きしめてほしいと願えば、浮かぶ顔はひとりだけで、わがままでどうしようもない自分に嗚咽混じりの息を吐いた。
八月の第一週目に入り、蝉の声が忙しなく重なっている。凜太は庭に出ると飛び跳ねて出迎えてくれた錦鯉たちに餌を与えた。
朝食後のキッチンは熱がこもり、凜太は換気扇を回した。冷蔵庫には材料が山のように入っている。
「冷蔵庫のものを使ってもよろしいですか?」
居間にいる春子に声をかけると、やはり何に使うのかと返答がくる。
「お弁当を作りたいのです。千葉まで参ります」
「二人分ですか?」
誰と、とは聞かれないが、内心心穏やかではなかった。
「鰆の西京焼きがありますよ。あとは煮物と、」
「西京焼きだけ頂きます。後は自分で作りますから」
丁重に春子を追い出し、凜太はまず卵を茹でようと鍋に水を入れた。
「どうせならサンドウィッチはいかがです?春日さんが家元のいない日に食べましょうと買ってきて下さった食パンがありますよ」
「パン……」
滅多に食べない代物だ。卵を追加で茹で、その間にアボカドを細かく刻む。レモン汁をかけ、ツナやマヨネーズと合わせた。パンにマーガリンを塗り、野菜と合わせて挟んだ。その様子を影からじっと春子が見つめていた。
何種類かのサンドウィッチを作り、ラップフィルムで巻き小風呂敷で包んだ。
「行って参ります」
すれ違うとき、凜太は小声で呟いた。春子は何も言わずに会釈をするが、凜太には見えていなかった。
向かった先は千葉にある大学であり、グラウンドには女性の人だかりができていた。びっしょりと濡れた汗を手拭いが吸収するが、頭から流れ落ちた汗は再び額を濡らした。外の温度計は三十度を超えている。風があるためか、この時期にしては過ごしやすいといえる。
すれ違う女性を見て、凜太もスマホを取り出そうか考え、止めた。グラウンドには選手はおらず、たった今やってくるところだった。黄色い声が上がる中、凜太は目当ての人を見つけたが声をかけられなかった。隣を歩くのは岡田奈々子だ。奈々子はすぐさま凜太を見つけるが、視線を逸らし淳之と何か話している。
奈々子は鞄から包みを取り出し、淳之に渡した。他の選手は何も言わない。まるでいつもの光景だというように、風景に同化している。小さめのおにぎりは淳之の手にすっぽりと収まり、隣で奈々子も食事を始めた。真剣に耳を傾けている様子から、サッカーについて話しているのだろう。
凜太はグラウンドから離れ、校舎裏までやってきた。誰もいないベンチに座り、紙袋を膝の上に置いた。
何の感情も持ちたくなく、そびえ立つ木を呆然と眺めた。しっかりと根が付いた太い木は雄々しく、頂点は見上げても辿り着かない。揺らめく葉の隙間から、白い空が見えた。
「アツのところに行かないのか?」
ベンチの横に男性が一人立っている。二重で眼力のある目に、鼻筋がしっかりとした顔立ちだ。凜太は太股の筋肉に釘付けとなった。
「いつもアツに付きまとっているだろ?」
「付きまとう、ですか。確かに、その表現は合っていると思います」
「匂いで判るんだよ」
「匂い?」
体質もあってか、男の肌は焼けていない。日の当たりやすい顔は少し赤みを増している。男は許可も取らずに凜太の隣に腰掛けた。
「俺も君と同じ匂いを放ってる」
「……言いたいことは判りました。何かご用ですか?」
「俺さ、アツのライバルなんだよ。同じゴールキーパー」
手足も長く、ベンチから邪魔そうに健脚は投げ出されている。太い指が凜太の横髪を捉えた。
「だからって何かするわけじゃないけどな。ライバルだけど仲良いし。同じポジションだからこそ分かり合えることもあるし」
「一年生ですか?」
「いや、二年。相模晴之。アツと名前も似てるだろ?」
「高校一年の葉純凜太と申します」
「ハーフなんだよ、俺。アメリカと日本のハーフ」
「私は、純日本人です」
「中性的な顔立ちだな」
「男っぽくないと言いたいのですか」
「どちらかというと、タイプだって言いたかった」
伸びた横髪は耳にかけられ、指先がわざと喉を這う。小さな声が漏れた。
「あー腹減った」
「ご飯は召し上がってないのですか?」
「うーん、まあ」
凜太はグラウンドを振り返る。期待しても、追いかけてくる様子もない。紙袋ごと隣に座る晴之へ渡した。
「え、何?」
「差し上げます。私はお腹が空いておりませんので」
「いいの?綺麗な布で包んでるけど」
「家にあった小風呂敷です。大したものではありません」
形の崩れたサンドウィッチを見て、晴之は含み笑いを浮かべた。凜太の好きな笑みではなかった。
「美味そう。気合い入ってるね。これ食べて試合も頑張るよ」
二人分あったはずのサンドウィッチはみるみるうちに少なくなり、晴之はあっという間に平らげた。豪快な食べ方に見入っていると、晴之は影のある微笑を見せた。
「これ……二人分だったのですが」
「やっぱりアツの分もあるじゃん。さすがに量が多いとは思ったよ」
「……私が勝手に作っただけです。淳之さんは、今日のことは何も知らない」
「喋っちゃおうかな」
「止めて下さい」
「なら、連絡先教えてよ」
「脅しですか」
「脅し?アピールだよ。別に夫婦の仲をぶち壊そうとしてるわけじゃないんだ。交際を申し込んでるだけ。恋愛なんて自由だろ?」
言い分は子供じみているが、まっとうな理由だと自信にも繋がるようで、晴之からは一瞬の揺らぎも見られない。小刻みに震える手でスマホに触れようとしたとき、遠くから地面を蹴る音が聞こえた。
「相模先輩」
足を強く踏みしめても、淳之は息ひとつ乱れていない。厳しい表情を崩さず、晴之を見下ろした。
「やあ。今さ、正式に交際を申し込んでるとこ」
「相模さん!」
凜太は驚き、声を荒げた。
「考えておいてね。それと弁当美味かったよ」
晴之は軽くなった紙袋に小風呂敷を戻し、凜太の膝の上に戻した。早くこいよ、と短く声をかけ、元来た道を歩いていく。
やがて足音が遠ざかると、淳之は凜太の隣に座った。凜太は何も話せなかった。誤解では済まない言い訳は今の淳之には通じないと判断し、彼にすべてを委ねた。怒りに満ちてもすべてを受け入れようと、腹をくくる。
「……呆れた」
「それは、何に対して」
「お前」
怒りでも何でもない。軽蔑を含んだ悲壮感が、かすれた声から伝わってくる。
「もう……疲れた」
ため息混じりの声に、凜太の心臓がどくんと動く。
「男同士って、やっぱ無理なのかもな」
「……やっぱり?」
「奈々子との方が、上手くいくかもとしれないとか、最近考える」
「……ええ、そうですね。家が近所だと、お弁当も頼みやすいようですし」
冷ややかな声に、凜太自身も驚愕した。夏の暑さなど感じないほど、心は凍てつくほどに冷え切っている。
「お前とは付き合ってるわけじゃないからな。付き合う一歩前だし、相模先輩とどうなろうが特に問題ないと思ってる。連絡先も交換したみたいだし」
「……交換は、」
「じゃあな」
淳之は一度も凜太の顔を見なかった。立ち上がって、背後を振り返る直前も、彼が下した『決断』に後悔の念は見られない。
遠退く靴音に耳を傾けながら、凜太はベンチに座ったまま涙を流した。泣きたいのは凜太ではないと押し留めても、溢れるものは止められなかった。
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