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第一章 ふたりの出会い

030 月と月

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 時差およそ九時間。同じ島国として存在し、有名な食べ物といえばフィッシュアンドチップスだが、優月はハーブティーと答える。近しい人物がよく飲んでいるからだ。
 隣を見ると、オリバーはアイマスクをしたまま眠りについている。飛行機の移動が慣れているからか、彼はすぐに夢の世界へ入った。
 一方の優月は、今回が初体験だ。なかなか寝つけず、眠りに入ったと思えばすぐに目が覚めてしまう。
──オリバーさんと先にイギリスへ行ってます!
 そうメッセージを入れたが、リュカからは何も返事がない。
 ぷっつりと途切れた唯一の繋がりに足元が落ち着かなくなる。
 冬休みにイギリスへ行き、母親を紹介してもらうことになっていた。リュカの仕事が落ち着かなければ春休みに変えようと話もしていて、そんな中でオリバーからチケットを渡された。
 半日以上、飛行機の中で時間を費やし、遠い島国へ降り立った。
 雪は降っていないが、マフラーをしていないと唇が動かなかった。
「俺、イギリスに初めて来ました。ここからどうやって……」
 ふと横を見ると、オリバーはいなかった。
 辺りを見回すが、旅行客や現地の住民が通り過ぎるだけで誰とも目が合わない。誰も優月自身を認識していないかのようで、急に胸がざわついた。
 目の前で黒いリムジンが停車した。中から紳士のような立ち振る舞いの男性が現れて、後ろのドアを開ける。
 エスコートされるまま出てきたのは、小柄な女性だった。ブロンドヘアーに強めの癖毛が特徴的で、目尻が少し上を向いている。
 女性は優月の前に立つと腕を組み、英語で怒鳴るように話し始めた。話す、というより罵声といっていい。
 乾いた音のあとに遅れて頬に痛みが走った。優月自身もまさか平手打ちをされるとは思ってはおらず、舌を噛んでしまった。
 血の味が広がり、パーカーの袖で舌を押さえる。
 数人の男性に取り押さえられ、リムジンの中へ放り込まれた。
 抵抗を試みるが、まったく力が入らなかった。
 無駄な体力を使うべきではないと抗うのを止め、黙って車に乗った。
 斜め前に座る女性は、優月と目を合わせない。同じ空間にいるのに、空気よりも薄く、優月の存在を消している。
『どこに向かっていますか?』
 英語で声をかけてみても、誰も答えようとはしなかった。
 車はどんどん空港から離れていき、やがて人の波も消えていく。
 車は森の中へ入った。砂利道の上を通っているのか、リムジンが小刻みに揺れる。
 急に車が停車し、優月はスーツケースを掴んだ。
 強靭な男性の一人が降りると「早く降りろ」と親指を外に向ける。
 外は木、木、木だ。小鳥のさえずりが聞こえるが、美しいものではない。なんせここはイギリスだ。初めて訪れた場所でもあり、彼らの目的も判らない。
 扉の閉まる音がして、優月は反射的に振り向いた。
「ちょっと! ここはどこなんですか!」
 窓が開くと、ブロンドヘアーの女性は優月を指差し、早口で何かを話している。
 リムジンは一度バックし、元来た道を戻っていった。
 スーツケースとリュックを背負い、しばらく唖然と立ちすくんでいた。
 先ほどの女性は優月に対してというより、左手の薬指を睨んでいた。彼女は指輪を憎々しげに見つめ、スラング用語を放っていた。
「落ち着け、冷静になれ」
 焦っても状況は変わらない。ひとまずリュックから携帯端末を取り出してみるが、通じる状況ではなかった。
 スーツケースの取っ手をしっかり握り、タイヤ跡を追うことにした。
 女性の正体やは大方想像がついていたが、不安になる要素は他にもある。同じ指輪を持つ人が同じ目に遭っていないかどうかだ。彼の出身国であるし不要な心配だろうが、リュカを思うと胸が苦しくなる。
 森の中を突き進んでいくと、次第に家がぽつぽつと見え始め、やがて道路へ出た。
 看板を読みながら、道路沿いに足を進めていく。
 信頼できる人間かどうかは判断できずとも、同じ観光客らしき人に出会うと精神的に安堵できた。

 数時間歩いて、ようやく町の中へ入ることができた。
 冬だというのに身体が熱く、背中には汗が滲んでいる。
 足元がふらつき、近くのベンチへ腰掛けた。
 ペットボトルの水をあおるように飲み、大きく息を吐く。
 町へ出たのはいいが、一向にリュカと連絡は取れなかった。そもそもリュカがイギリスへ来ているのかも謎だ。オリバーから言われるままに異国の地へ踏み入れたのだから。
「ちょっとまずいかも……」
 額や首元に触れてみると、指先が瞬時に熱を帯びる。さらに視界がぼやけてきている。状態は良いとはいえなかった。
「もし」
 日本語だ、とゆっくりと顔を上げた。
 思いのほか顔が近くて、身体が飛び跳ねそうになった。
 ジェントルマンの出で立ちでいる男性は、優月の額に手を乗せる。
「これは大変ですね。立てますか?」
「あの……あなたは……? それに日本語……」
「日本語を話せるのは、私が日本人ですから。詳しいことは後で話します。今は身体を休めるのが先決です」
「でも……」
「リュカ・リリーホワイト。この名を言えば私が怪しい者ではないと信じて頂けますか」
 もしかして──まさか──。
「あなたと同じ『月』の名を持つ者です。さあ、お早く。肌が青白い」
 男性は優月のスーツケースを左手に握り、肩に手を回すよう促した。
 男性は意外とがっしりしていた。優月が体重をかけてもびくともしない。
 連れられるままに向かった先は、ホテルだった。
 紳士はホテルのロビーで軽やかな英語を披露した後、エレベーターに乗り数階上のフロアで降りた。
「何も考えずにまずはベッドへ横になりなさい」
「すみません……何から何まで……。リュカさんと……口調がそっくり……」
 ずっと気になっていたことを漏らすと、彼は目を見開き小さな笑みを零した。
「私の可愛い息子ですから」



 目が覚めると、部屋はほぼ暗闇だった。ベッド脇の明かりだけがほんのりと部屋を照らしている。
 時計を見ると、二十時を過ぎていた。もう一つの部屋から明かりが漏れていて、優月は起きて部屋をノックした。
「おはようございます。いろいろとすみませんでした」
「謝る必要などありませんよ。顔色はよくなりましたね。まずは食事にしましょう」
 彼はふたり分の食事を持ってくるように電話をかけた。
「イギリスの食事ですから、味に関しては保証できません。こここのホテルはまあまあのようですが」
 紳士は髭を撫でながら、茶目っ気たっぷりに言った。
「俺、有沢優月と言います。ご挨拶が遅れました。リュカさんのお店でアルバイトをしています」
「ええ、存じておりますよ。あなたも私をご存じかと思いますが、月森茉白と申します」
「茉白……さん」
「珍しい名でしょう? あなたと私の息子の名の両方入っているのですよ」
 月森には優月の月、茉白の白はリュカのファミリーネームであるリリーホワイトだ。
「食事が来たようですね。食べながらいろいろ話しましょうか。とは言っても、私もすべてを把握しているわけではありませんので、ご了承下さい」
 話せば話すほど、月森はリュカの口調によく似ていた。正確には、リュカが月森に似ているのだが。
「ビーフウェリントンですか。これは期待したいですね」
「イギリスでは有名なものなんですか?」
「主にクリスマスの時期に食べられるものです」
 パイの中に赤みがかった牛肉が入っていて、赤ワインのソースに浸っている。人参やジャガイモ、ハーブが添えられていた。
 ある程度食事が進んでから、月森はフォークとナイフを置いた。
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