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第一章 ふたりの出会い

029 旅立ち

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 東原と名乗る男と知り合いなのは間違いないが、彼がどこにいるのか見当はつくのだろうか。
 後を追っていくと、平賀はグラウンドへ向かっているようだった。
 いつぞやのラグビー部員との一触即発を思い出すが、平賀が向かった先は陸上部だった。
「…………いた」
 平賀の目線をたどると、東原がいる。リュカとは似ても似つかない金髪は、他の生徒の中に混じっても人目を引く。
 東原は平賀に気づき、ほくそ笑みながら距離を縮めていく。
 間に入るべきか。異様なほどどす黒い空気を醸し出しながら、小声で何かを話している。
 やがて東原は部へ戻っていく。息をしているのかも怪しいほど、平賀は動かなくなっていた。
「平賀!」
 力を込めて平賀の肩を掴んだ。平賀ははっとし顔を上げ、虚ろな目でこちらを見た。
「どうしたんだよ、平賀。何があった?」
 平賀は何も答えなかった。顔は青白く、朦朧としている。
 彼を誘って大学を出て、近くのカフェへ入った。
「地元から離れた大学に来たかったのは、いじめが原因だ」
 いじめられるような人間には見えない。だが平賀という人間は、いじめる人間でもない。人を助けるために暴走するタイプだ。
「今は身体を鍛えているからわりと筋肉質だが、昔は線が細かったんだ。中学までは背も伸びなくて、身体も弱かった。そのせいかいじめの的になるのに時間はかからなかった」
「そうだったのか」
「中学までは陸上部だったんだが、兎ちゃんなんて不名誉なあだ名が広がった。名前のせいもあった」
「名前?」
「俺の最初の名前は平賀隼じゃねえんだ。ある程度年齢がいけば、事情があれば名前を変えられるんだよ。元の名前は平賀隼兎しゅんとだ」
 平賀隼兎。たった一文字があるかないかだが、印象が全然違う。
「妹の音兎ちゃんにもウサギが入ってるけど、お母さんがつけたのか?」
「そうだ。母親は陸上部だったから、子供にもやらせるつもりだったらしい。俺にとっては呪いの文字だ」
 人の人生は判らないものだ。彼もまた呪いを背負っていた。
 彼が抜け出せたのは、強い精神力を保って自らの人生を変えようとしたからだ。
「だから東原は陸上部にいるって判ったんだな」
「大会でも優勝できる足を持ってる。兎の俺は、向いてなかった。まさか同じ大学とは思わなかったよ。学課も違うし、もう会うことはないだろうが」
「……名前には苦労するな、お互いに」
「『優しい』から?」
「どちらかというと『月』かな?」
 親は期待を込めて名前をつける。月はともかく、優月の優は別の漢字でもよかったはずだ。優とつけた母に感謝しているし、母の期待は背負いたい、少なくとも大事な人に対して『優』の気持ちは持ち続けたいと思う。
 猛烈にリュカに会いたくなった。
 カフェで平賀と別れ、まっすぐに家へ帰る。
 リュカは庭で野菜に水を撒いていた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
「ちょうど良かったです。相談したいことがあるのですが、家の中で苺を育ててもいいでしょうか」
「全然構いませんよ。外じゃだめなんですか?」
「鳥の餌になってしまいました」
「過去形……悲しい」
「切ない過去です。うまく育ったら、ジャムにして保存したいですね。煮込むくらいなら私にもできます。多分」
「一緒に作りましょう」
 リュカはいくつかの葉物を抜き、汗を拭った。
「甘い匂いがしますね」
「平賀とカフェでお茶してたんです。抹茶ラテを飲んだからだと思います。リュカさん、ちょっと相談というか愚痴というか、聞いてもらいたいことがあるんですが」
「もちろん。いくらでもどうぞ」
 来年は大学四年へ上がる。待ち受けるのが明るい未来ばかりとは限らず、足元が真っ暗な状態だ。
 夢物語ではなく、時間は必ず過ぎていく。
「一つの道として、提案があります。もし大学卒業間近になっても道が定まらないときは、私の店で継続して働くというのはいかがでしょう。そのときはアルバイトではなく社員として働いて頂きます」
「でも、そうなると仕事も変わりますよね。俺、目利きができるわけじゃないし」
「イタリアに興味はおありですか?」
「行ってみたい国ではあります」
「そこには私の師である月森がいます。本格的に骨董商を目指したいのであれば、師の元で学んで頂きます」
「リュカさんの側ではいけないんですか?」
 リュカは曖昧に微笑んだ。
「全面的に信頼を置いている者へ預けたい思いがあります。もちろん、バックアップはします。いずれ師匠と会えるときがきますので、彼の人柄も含めてじっくりと吟味してみて下さい」
 リュカの師である月森は、同じ月を持つ人間だ。リュカに信頼を置いていると言われるほどの人物に、俄然興味が沸いた。
「優月が思っている以上に目利きは養われていますよ。幼少時代から人形などに触れて密接な関係があったおかげか、特にドール系に対して目利きができるようになっています」
「そうでしょうか……」
「アルバイトの募集は誰でもいいというわけではありません。力のある人はもちろんほしいですが、それ以上に心から信頼に足る人物が側にいてほしいのです」
「もし……俺がリュカさんと別々の道を歩んでも、仲良くしてくれますか」
 気恥ずかしい想いだった。リュカはぽかんとした表情をしたまま、動かなくなった。
「もちろんです。そのときは休みを合わせて、一緒にご飯でも食べにいきましょう」
 地球上にこれほど優しい人間がいていいのだろうか。
 狂おしいほど、この人が好きだと思った。
 将来への苦しさも会えなくなる苦しさも少し似ていて、想像するだけで心の半分が死んでしまう。
 居心地の良い空間は幸せであり、同時に失ったときの虚脱感を満たしてくれるものは見つからない。



 真冬の寒さから目を覚ました。
 あまりにすっきり目が覚めてすぎて、何か悪い知らせがあるのではないかと身体を起こす。
 古民家は静まり返っている。誰の声も音も聞こえない。今、ここには一人なのだ。
 同居人は仕事で関東へ行っている。廊下を歩く音がいやに軋んだ。
 大学三年の冬休みに突入した。アルバイトを増やし、残りの時間はほぼ勉強に当てている。リュカと同じ家に住んでいるのに、ほとんど会えていない。
 この家には優月本人しかいないのに、外で物音が聞こえた。リュカの帰りにしてはまだ早い。今は早朝で外は真っ暗だ。
 すり足で玄関へ向かうと、扉の叩く音がする。何度もチャイムを鳴らしていた。
 インターホンで確認すると、よく知る人物が画面越しに手を振っていた。
『ハァイ!』
「オリバーさん?」
 家主の許可を取ろうか迷ったが、確実にリュカは寝ている。
 部屋の中ですら冷風が肌を突き刺すのに、彼を外に放置はできなかった。
 扉を開けたとたん、オリバーは中へ突進してきた。
「寒いよ! 日本の冬は厳しいね」
「本当に厳しいのは来年の二月くらいですよ。いきなりどうしたんです?」
「今日、イギリスへ行くよ」
「……………………ん?」
「イ、ギ、リ、ス。私とルークの出身地さ。お金もろもろは心配しなくてもよろしい」
「急ですね……。リュカさんには……」
「彼のことは心配しなくてよろしい。パスポートはあるかい?」
「取りました」
「よろしい! では行こうか!」
 暗闇に包まれながら、オリバーは舞台上の俳優のように高らかと宣言した。
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