アレの眠る孤塔

不来方しい

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第三章 親子

022 幻覚

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 夢を見ていた。ほんの小さな、ささいな夢。
 武道の稽古をしていて、組み手の最中、俺は軽い怪我を負った。大したことはなくても、師に医務室へ行けと言われ、俺は渋々向かうしかなかった。
『失礼します』
 反吐が出るほど薬の臭いが嫌いだった。医薬品は人生の先を延ばすもので、正反対に寿命を根こそぎ奪い取るもの。俺は、この世界が異常なものだと気づいていた、多分。俺も家族も友人も他人も、幸せでありたい、他の国よりは幸福だと言い聞かせ、果報者のふりをしていた。
『……どうした』
『あの……いや、大したことじゃないんだけど』
『……………………』
 碧い瞳がやけにやさしくて、この人はこんな人だっけ、と疑問が生じる。冷酷な目で窓から眺めていると、話していた友人の勘違いだったのかもしれない。
『ちょっと捻っただけです。行ってこいって、うるさくて』
 大丈夫ですと帰ろうとして、痛めた腕の逆を掴まれた。
 そこで、俺は目が覚めた。しっかり寝たはずなのに、なんだかすっきりしない目覚めだ。
「おはよう、アルネス」
「おはよう」
 今日の朝食はアルネス担当だ。キャベツと豆のスープと、柑橘系のジャム。何の柑橘なのかは分からない。いろいろ混ぜて作ってみた。
「目覚めはどうだ?」
「なんか、夢を見ていた気がする」
「悪夢か?」
「悪夢……って感じじゃないけど、すっきりしない。なんだったかなあ」
「夢見が悪くても仕方がない。まずは食事にしよう」
 今日は外に出る日だ。それも昨日の女性の部屋にお邪魔をさせて頂くことになっている。父親なんだからお腹の子に会いにきてよと押し切られてしまい、なぜかアルネスは明日行くと返事をしてしまった。きっと何か考えがあるのだろうと思う。
 食事の後は着替えて必要なものを身につけた。重みのある物体Gも腰につけて、いよいよ外に通じる扉を開ける。
 子がいるのならば当時の状況を知りたいと、アルネスは言葉巧みに彼女の家に行くことをこぎ着けた。ぜひパパも一緒にと言われてしまい、思わず「はい」と返事をしてしまったら、嬉しそうな顔の女性と、食卓にシュガービーツを出さなかったときのようなアルネスの顔が対照的だった。
「なあ、アルネス」
「なんだ。結婚は許さんぞ」
「聞いたことある台詞だなあ。俺さ、まったくもって身に覚えはないんだけど、不安しかなくて」
「……今朝から静かだった理由はそれか」
「うん、まあ。っていうか朝は俺いつも静かだろ? 眠いし」
 なぜか俺はアルネスに腰を抱かれていて、頭を撫でられている。恥ずかしかったけど、人目がないのが有り難かったけど、めちゃくちゃ気持ちがいい。不安の取り除き方は子供に対するそれだったけれど、してもらえた俺は満足だ。
「……何をしているんですの」
 見知らぬ男性と、乱れた上着のまま外に出てきたのは、例の女性だ。男性は「アビ、今日も素敵だったよ」と言い、なぜかアルネスを睨んで帰ってしまった。女性はアビと言うらしい。
「どうぞ、お入り下さいな」
 先にアルネスが入り、続けて俺もお邪魔させて頂く。ひと部屋が大きい作りで、キッチン、リビング、そして使った形跡のあるベッドがあり、毛布が床に半分落ち掛かっている。直してやりたいが、今この場で不用意に触れるのは危険な気がする。何をしても疑われる。
──飲むな。
 座る直前、アルネスの唇が耳に触れた。こそばゆくて聞き取りづらかったが、キッチンで飲み物の準備をしている彼女を見て、気を引き締めた。
「野菜の根から作ったお茶です。どうぞ」
「お、お気遣いなく」
 アルネスは一瞥しただけで、カップを持とうともしない。
「この人、私に下さいません?」
「断る」
 この人を指す俺は、口を挟める雰囲気ではない。しばらく黙っていよう。
「まずは検査結果を言おう。あなたの腹に、子は宿していない」
「そんなはずは、」
「私は医者だ。結果を伝え、回りくどい言い方も嘘も言わない」
「なら、このお腹の痛みは何なのです?」
「あなたは凪が父親だと言った。そして、子供ができた日、凪は私の家にいた証拠がないとも言った。逆に質問するが、凪が私の家から出た証拠はあるのか?」
「それは……確かに彼の子です」
「話にならん」
 堂々巡りの中、俺はアルネスの頬を叩いた。平手打ちというより、平手のまま直でまっすぐ飛んでいった叩き方である。
「わ、ごめん。びっくりした」
「……驚いたのはこちらだ」
「変な虫飛んでたからさ、アルネスに噛みつくと思って」
 手のひらには、虫の残骸も残っていない。逃げたようだ。
 アルネスは顎に手を指をかけ、固まっている。アビは俺を見て、猫が無理やりお風呂に入れられたときのような顔をしていた。
「……理解した。診察室に来てもらおう」
「え、俺も?」
「お前も私の患者だ。有無は言わせん」
 椅子が鳴ると、テーブルにあるカップの水面が揺れた。少しも量が減っていない。結局、俺もアルネスもカップに口すらつけなかった。
 アルネスは試験管にアビの家の回りの土を採取し、説明もないまま行こうと促す。
「その格好で寒くないんですか?」
 一応、聞いてみた。白いワンピースが普段着のようで、胸元を大きく開けて、どこを見たらいいのか困る。目を見ればいいのだが、何を考えているのか分からない気だるい目は、あまり見たいものではなかった。美しさにはいろんなスタイルや感じ方があるけれど、俺はアルネスの持つ美しさが圧倒的に好みだった。彼女は、生気や金銭、その他諸々を根こそぎ奪っていくような美しさを放っている。
「ええ……あなたが暖めてくれたからちっとも寒くないわ」
「俺はあなたに指一本触れた記憶はないんですけどね」
「またそのようなことを仰って。あんなに激しかったのに」
 パパ、そんな目で見るな。今のアルネスの気持ちを通訳するのなら、「なぜ息子の閨事を聞かされなければならないんだ」という苛立ちのこもった目だった。俺だって聞かせたくない。というか、俺じゃない。
 目線だらけの攻防戦を繰り返しながら、俺たちの住む家に帰ってきた。そのまま行き着く先は、診察室だ。
「二人の血を採取する」
 ロボットのように感情の乗らない声で言い放つと、まずはアビから採血を始めた。
「先生、今宵はいかがですか?」
「採血終了。帰っていい」
「んもう。つれないのね」
 アルネスの興味の矛先は、アビより血だ。どす黒いのはお馴染みの色であっても、アルネスにとっては魅力的に見えるのかもしれない。
「あの、良ければ送って行こうか?」
「凪」
「大丈夫だって。すぐそこだし。女性一人で危ないし」
「まあ、嬉しいですわ。ぜひ」
「俺の血は帰ってからでいい?」
 頭を抱えつつも、アルネスは立ち上がり先に歩いて外に出てしまった。
「付き合いが長いんですか?」
「アーサー先生と? そうねえ……」
 長い髪の毛をくるくると巻いては放し、そのたびに甘い香りが広がる。彼女はずっと弄っている。癖なのかもしれない。
「昔、好きだったのよ。今はあなた一筋よ?」
「モテるなあ……やっぱり」
 後半は聞かなかったことにして、俺はハクの顔が頭に浮かんだ。
「こんな仕事をしている私に、身体を大切にしろですって。おかしくて笑ってしまいましたわ。流れの速いどぶ川に両足を浸けているような状態ですのに」
「仕事に誇りを持っていないんですか?」
「あら、なぜ?」
「どぶ川とか言うから」
 女性は考えあぐねている。
「医者の仕事と私のような仕事をする人、あなたならどちらを選ぶ? 平等なんて有りはしないわ」
「それは比べ方がおかしいですよ。そのふたつだと顔が浮かぶのはアルネスなんだから。俺はアルネスがどんな仕事をしていても、絶対に側にいようって思います」
「医者は何かを生み出せても、私は何も生み出せないんですの。心も身体も空っぽで、仕事をこなすたびに満たしてくれるのは、濁った泥水だけ」
「今の仕事をして、あなたが幸せであるかなんて分からないですよ。けど、少なくともあなたといて幸せをもらった人たちを否定しないで下さい。とても失礼に当たります」
 少しだけ、怒ったような口調になってしまった。彼女の言う通り、平等なんて言葉は夢物語で、そんな言葉を口にしてのほほんとしている間に撃たれるだろう。そんな殺伐とした世界だ。けれど、残虐な枠組みの中でも、俺は所々にふよふよ浮いたシャボン玉のような優しさがあることも知っている。
 いつもはもう少し速いのに、先を歩くアルネスは普段よりも歩くスピードを落としている。女性の歩幅に合わせているためか、なんだか足が先を行きたく悶えているように見えた。
「ここで平気ですわ」
 遠くに家が見えたところで、アビは足を止めた。家まで送ると言いかけ、口を閉じた。家の前に、一人の男性が立っている。多分、彼女のお客さんなのだろう。ならば大の大人ふたりがついていくべきではない。
「愉快でないものが剥がれ落ちた気分です」
「剥がれて結構だが、頭はどうだ?」
「頭……? そうですわね……すうっとしております」
「そうか」
 何の会話か話に入らない方がいいのだろうと、口を挟まないでおいた。意味のある会話だろうし、必要ならば俺にも話してくれる。
「……ありがとうございます」
 こちらが何か言う前に、彼女はさっさと歩き出してしまった。アルネスも真逆に進む。俺は、アルネスについていった。俺のスピードに合わせてか、帰りは速い。
「あ、待って」
 平手のままアルネスの頬に触れようとし、すんでのところで止めた。矢先に、アルネスは俺の手を掴んだ。二度も同じ手を食らわないらしい。
「どうした?」
「叩きそうになった。あのさ、また変な虫がいたから」
 掴まれた手がジンジンする。優しさの貴公子みたいな男でも、手を掴む力は今は強かった。
「凪、虫などいない」
「え? いるだろ?」
「……家に帰り、お前も検査だ」
 わけが分からずとりあえずついていくと、「お茶は飲んでいないな?」と確認され、頷いた。
「彼女は聡明で頭の回転も早く、幾度となく死線を乗り越えてきた」
「うんうん」
「お前の子を宿したなどと、阿呆なことを言うはずがない」
「そうなんだ。俺からしたら、彼女との初対面がそれだったから、かなりびっくりしたけど」
「一つの仮説が頭にある」
 血を抜かれるのも慣れたもので、アルネスが採血しやすいように拳を作る。血管が浮き出たら針が通り、力を抜く。
「今は落ち着いているが、漁業禁止令が出たとき、政府の人間が慌ただしく動き回っていた。もしかしたら、政府も知らぬ何かがあるのではないかと」
「仮説の内容って?」
「数十年前にも流行っていた薬の存在だ。気分が向上したり、幻惑が見えたりする。医師としては、ふざけるなと言いたいところだがな」
 仕事が格段に増えるのだろう、お気の毒に。
「薬物かあ……」
「薬物など今さらで、ありふれたものだ。戦争に駆り出す人間たちに飲ませ、負の感情を消し去り戦場に立たせたりもした」
「でも、そんな危険なものなら禁止してるんじゃないのか?」
「ああ。そしてお前にも幻覚症状が起こった」
「…………もしかしなくとも、虫の件?」
「ああ」
「外にあるものは持って帰ってないし、その辺の紫色っぽい実とか食べたりしてないぞ」
「知っている。ちなみにその実を食べると幻覚どころか死に至る」
 心底、安堵した。別に食べるつもりもなかったが、無知はこの世界では死に直結する。
「政府が海に猛毒でも流したのだと思っていた。タイラーに調べてもらったが、深夜に湖の付近で政府と三区のアンドロイドたちが頻繁に会っていたそうだ」
「アルネス大先生の勘としては、そこで薬の取引が行われて、湖の中に薬が流れ込んだ……みたいな感じ?」
「両方考えられる。政府の奴らが薬を作り、海になだれたケースとお前の考えの両方だ」
「どっちもありそうだよな」
「……食べるものが、どんどん失われていく」
「そうだなあ……でも俺、アルネスを見てると元気が出るよ。お腹いっぱいになる」
「見ているだけでは、腹は膨れん」
 机に二度、三度足をぶつけ、さらに追加で臑をぶつけている。大丈夫かと聞くと、問題ないとアルネスらしい強気な答えが返ってくる。俺はそんな自信に満ちたアルネスパパが大好きだ。
「どんな経路でアビが薬を体内に入れたか分からんが、二、三日後には薬も抜けているはずだ」
 俺とアビの採血結果が出て、紙を渡された。何を書いているかさっぱり分からないが、彼の顔を見る限り、勘は当たったのだろう。やはり、自信に満ちた彼の顔も好きだ。
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