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第一章 出逢い
010 目覚めの午後
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腕は注射針の跡で賑わっている。きっと顔も青白い。
薄暗い部屋で眩しさを感じることもなく、私……ではなく、僕はゆっくりと目を開けた。身体に石でも入ったように重く、指先を動かすのがやっとだった。徐々に手首、腕、頭と動かしていき、神経が繋がっているのを感じる。それどころか、腕も手も足もあり、五体満足で生還したとがっかりした。
いっそ四度目の絶望を感じるほどぐちゃぐちゃにしてほしかった。そうすれば、自ら命を絶つなと静かに激高した彼も、考えを改めたと思う。
段々と意識がはっきりしてきた。キッチンから物音が聞こえ、甘ったるい良い香りがしてくる。いきなり男が振り返った。
「ハク……?」
男は泣きそうなほど安心しきった顔で近づき、慣れ慣れしく手を握ってくる。
「生きてた……良かった……」
何が良かったものかと冷めた目で見る。けれどすぐに考えが揺らいだ。男の目には涙が溜まり、心底心配していたと顔が物語っている。
「………、…………」
「え?なに?」
「……サ、…………」
「アルネス?薬を作ってるよ。呼んでこようか?」
僕は首を振った。
「……ね、がい……」
「お願い?オッケー、いいよ」
「……しに、たい……」
捨てられた子犬は目を潤ませ、僕の手を強く掴んだ。
「あのさ、エッグノッグって知ってる?アルネスがさ、アルコールをもらってきてくれて、今から作ろうと思うんだ。俺の国だと卵酒って言うんだけど」
やや早口気味に身振り手振りで言う男は、きっと外の世界ではやっていけない。こんなに分かりやすく、素直で危うい人は、地下に留まるべきなのだ。
僕は何度目か分からない意識を手放し、凪の手から逃れた。
次に目覚めたときは、あの男はいなかった。寝過ぎたのか、目のかすみもなく鮮明に天井が映る。カタカタと打ち込む音がし、音のする方を見た。聴覚は問題ない。
「起きたか?」
「アーサー……。私……じゃなくて、あの……僕、」
アルネスは席を立つと、キッチンに行き鍋を温め始めた。意識が遠退く前に嗅いだ甘い香りが部屋に広がる。テーブルには、電源の付いたパソコンが置かれていて、息を呑んだ。
「あいつがお前に飲ませろとしつこい。飲んでやってくれ」
渡されたマグカップを両手で掴むと、冷えた手に感覚が戻っていく。甘い香りの元はカップの中身だ。
「アーサー、それ……」
なぜパソコンがあるのか。使えないはずなのに、確かに本物で、しかも画面に明かりが灯っている。
「ダメだよ……もし見つかったら……」
「見つかったら?」
「こ、殺されちゃう……」
温まったはずの手が小刻みに震えた。
「あの人たち……怖い……見回りしてるし……」
「……飲め」
エッグノッグと言っていた飲み物は甘みが強く、ほのかにミルクの味と苦みが卵の甘さを引き立てていた。
「美味しい……」
「空腹であってもまずは液状のものから胃に入れてもらう。徐々に固形物に変えていく」
「うん……ありがとう」
「お礼であればあいつに言え。お前の食事はあいつが作る」
あいつ、を表す男はいない。
「部屋で寝ている。今は夜明けだ。あと数時間で起きてくる」
「………………」
「あいつに死にたい、と漏らしたそうだな」
「ごめん……なさい」
「謝罪を聞きたいわけではない。なぜだ」
苛立ちでもなく、悲しみでもなく、アーサーの考えが読めなかった。
口にする液体は精神安定剤のようで、そのおかげか思考は目まぐるしく動き回る。
「もう……怖い」
「その件に関しては、今は調査中だ」
「シェリフたちに連絡したの?」
「したのはタイラー。お前を見つけたのもタイラーだ。運が良かった」
「あ……鳥たち……」
「シルヴィエが面倒を見ている。お前の容態が完全に回復するまで、此処から出すつもりはない。彼女にも伝えた」
完全というのは身体の問題だけでありたいと願う。心の回復まで待っていたら、一生此処から出られない。
「早く鳥たちの元へ行きたいのなら、まず治せ」
「お尻の感覚がないんだけど……」
「お前が寝てる間、麻酔を打った」
トイレの心配までしてもらい、素直にお礼を述べた。
「私からお前の身体について、説明をした」
「……何か、言ってた?」
「友達であることには変わりない、だそうだ。現金な奴だ」
「友達……」
生まれて初めて言われた言葉だ。この世界からもかけ離れた言葉。
「お前が治るまで、世話をしたくてうずうずしている。何かあれば遠慮なく言え」
「いいのかな……」
「でないとあいつは余計に心配する」
空になったマグカップを渡し、もう一杯欲しいと伝えた。
もう一眠りし起床すると、目の前に心配そうに見つめる子犬の顔があり、僕は飛び起きた。麻酔のおかげか痛みはない。
「良かった……! 明け方に一回起きたって聞いてさ、安心したけどやっぱり起きて声を聞くまでは安心できないっていうか。エッグノッグどうだった? 二杯も飲んでくれたって聞いて俺、嬉しくてさ!」
「ええと……美味しかったよ……」
「ほんとに?アルネスが山羊のミルクを使っていいって言うから分けてもらったんだ。あと卵と砂糖と少しのアルコールで出来るんだよ。今日から俺がハクのご飯を作るから少しずつ固形物を増やしていこうな」
「ありがとう……凪が作ってくれるの……安心する……」
凪は眉を上げ、不思議そうに首を傾げた。
「アーサーのご飯を食べて、お腹壊したことあって……」
「たまに野菜が煮えてないときあるよな。けど愛情たっぷりだよ、多分」
嫌みのない笑顔を守りたいと、心底思った。
「凪に、話したいこと、たくさんある……」
「うん、俺も。ハクがどんなに絶望に感じても、心の底で涙を流していても、やっぱり俺はハクが生きていてくれて良かったよ」
「……そっか」
「身体が良くなっても、ハクが居たいだけ居ていいから。アルネスも言ってた」
「ふたりとも……優しすぎるよ……」
「そうか?」
すでにエッグノッグは消化され、空腹の知らせが盛大に鳴る。ハクは恥ずかしくなり、腹部を押さえた。気づかなかったが、腹部にも包帯が巻かれている。
「まずは朝食にしよっか。ミルクスープを作ろうと思うんだけど。食べられそうなら昼は細かくした野菜を入れてみるから」
「あの……エッグノッグは、まだある……?」
凪は驚くが、すぐに笑顔で何度も頷く。
「あるよ!」
凪の笑顔が恥ずかしかったが、熱すぎないエッグノッグは気持ちもほっとするような暖かさがある。作ってくれた人の心を表しているかのようだった。泣きたいのはこっちなのに、なぜか凪の目が潤んでいた。
二杯のエッグノッグで朝食を終わらせ、一度アルネスは戻ってきた。傷の経過を見てはテープを貼り替え、液状の苦い薬を置き土産にすぐに出ていった。
「液体の方が身体に浸透しやすいし、効き目も早めに出るって本で読んだ」
凪の懸命な応援もあり、一気に飲み干す。しかめっ面になるのは避けられない。
「アルネスって、きれいだよな」
唐突に話し出した彼の言葉に、僕は飲んでいた液体の飲み薬を口から吹いた。今のは完全に凪が悪い。
「………………」
「うわあ、生煮えの人参を噛んだときのアルネスの目みたい」
「そんな無邪気に言わないでよ……。生煮えなのはアーサーが悪いんだし」
「愛情はこもってるよ」
彼の目は、クォーツのような優しい光を放つときもあるし、ブラックダイヤモンドのようなどす黒い何かを抱えているときもある。
「……きれいって、どんなもの?」
「俺にとって?うーん……」
凪は子供に戻ったように、目をきらきらさせて一生懸命考えている。
「駄目だ」
「…………………」
「アルネスしか思い浮かばない」
考えて考えて出した答えがアルネスアーサー。気持ちは、分かる。すっごく。
「でも……アーサーはいっつも不機嫌になるから……」
「そうかな?不機嫌とはちょっと違うと思うよ」
「どうして、そんなことがわかるの……?」
「本当の不機嫌って、食卓にシュガービーツが並ばない日を不機嫌って言うんだよ。ハクは見たことあるか? たまに冷蔵庫に入ってる呪いがかった魚みたいな目をしてるんだよ」
僕は抑えきれず、吹き出してしまった。フードもないのに大きく口を開けて笑いそうになり、手のひらで口を押さえた。
込み上げてくるものは震えとなって肩を揺らし、隣にいる凪の肩も揺れた。大きくて、しっかりとした肩。僕とは違う、ちゃんとした大人の肩。
「だから、がんばれ!」
「え? う、うん……?」
「応援してるよ、俺」
大きな手に両肩を掴まれた。凪は何を言っているんだろうか。がんばる。がんばる……。
頭に電波がびびっときた。彼は、応援してくれている。走馬灯が回り、生きていることが一生涯の運を使い果たしたと言っても過言ではないほどの恐ろしい出来事を話せと。そう言っている。
人の目を見るのは苦手だ。肩に置かれた暖かな手を感じながら彼を見上げると、彼は見つめ返した。彼は目を離そうとしない。なぜ、こんなにもまっすぐに気持ちを形にできるのだろう。
「あのね……アーサーから聞いたと思うけど……僕は女と男の二つの身体を持っている。一番、外の人間にばれてはいけない秘密」
「だからいつも身体のラインが判らないような服を来てたんだな」
「うん……。襲われるのは、これで二度目……」
「え」
凪は驚愕し、固まった。
「一度目も、襲われて……アーサーに助けてもらった。犯人はシェリフのメンバー」
「シェリフって保安官だよな?酷すぎる……」
「あいつらは……身内を庇おうとしてた。でもアーサーが、証拠品を集めて、数人の犯人を捜してくれた。あのときも、アーサーに助けてもらった……」
「そっか……そいつらはどうなったの?」
「見せしめで、殺された。シェリフより、もっともっと恐ろしくて逆らえない人たちがいる……アーサーも、逆らえない……」
「アルネスって、シェリフと仲悪いんだろ?本人言ってたけど」
「アーサー派と、シェリフ派に別れてる……」
「アーサー派って……あいつそんなに権力のある男だったのか。寝起きで足ぶつけて平気そうにしてる可愛い男なのに」
「権力っていうか……ただシェリフに楯突くアン……生き物は、アーサーとタイラー、あと他にも数人いる。タイラーは、考えなしに口も手も動く……」
「今回の件だけどさ、三人揃った夕食後に話そうってことになった。シェリフに任せるしかないから、辛いだろうけど思い出して話してくれってさ」
「うん……」
よく知りもしない人にこれほど話すことなんて、今まではなかった。アルネスですらなかなか口を聞けなかったのに、不思議な人。
「あの、僕の身体見て……気持ち悪いとかなかった……?」
「全然。びっくりはしたけど、人それぞれいろいろあるって。わざと『僕』って言ってんの?」
「うん……アーサーが、男のふりをしろって……」
「でもアルネスはさ、ハクのことを差すときに“彼女”って言ってたけど。でも男のふりをしてる方がいいかもな」
嬉しいという感情が溢れるのは、きっと心は男ではないからだ。知られてはいけないと、頬が上がるのを無理矢理押さえた。
今まで話せなかった分、取り戻すように彼は普段の生活の話をした。アルネスの作るご飯や仕事っぷりなど、主にアルネスの話で数時間は経過した。少し仮眠を挟みながら過ごしても、久しぶりに悪夢にうなされることはなかった。
夕食後、アーサーは僕に薬を飲ませると、いよいよ作戦会議だとソファーに深く腰を下ろした。
「今日なんで帰りが遅かったんだ?」
「事件が発生した。タイラーがシェリフの奴らに捕まった」
「え……なんで?」
「奴の面子のために言うが、手は出していない。詰め寄って逮捕された」
「公務執行妨害ってやつか。にしてもそれだけで逮捕するのかよ」
「僕のせいだよね……」
「タイラーはまたシェリフが犯人だと決めつけた。今回は違う」
「確か下の奴らがどうのって言ってたよな?」
「ハクの傷を見たのは私だ。私にしか判らないこともある。恐らく、下の奴らが暴行目的でやってきた。辛いだろうが思い出してくれ」
食べた夕食が逆流するほど苦々しく、口を開くにも声が乗らない。それでも必死に思い出そうとしたのは、辛抱強く待っていてくれる人がいたからだ。
凪もアーサーも、憐れみの目じゃなかった。それが僕にとってはとても嬉しくて、少しだけ、仲間だと思ってもいいのかと、自分に問う。返事はなかった。
「森の近くに……魚を釣りに行って……男の人が近づいてきて……、落とし物をしたから探してほしいって」
「それで?」
「森に行ったら……他にも男の人がいて……」
「顔は覚えているか?」
「……わかんない」
「秋は野生動物たちも活発になっている。食われていた可能性だってあった」
「僕が悪いよ……」
「……今のは私の言葉選びが悪かった。被害者が責められるべき件ではない。落ち度は何もない。タイラーがお前を見つけたとき、血は乾いていなかったと話していた。前後の時間帯のアリバイを調べれば、おおよその犯人が見えてくる」
「タイラーはどうなっちゃうの……?」
「タイラーは、明日には解放されるはずだ。釈放されなければ、また暴動が起こる。それはシェリフも避けたいはず」
「また?」
凪は口を挟み、めざとく質問した。
「何度もシェリフとは衝突している」
「“上”の人間が好き放題やってるから……」
「上も下もあるってことは、中もある?もしかしてここら辺?」
「……ああ」
「階級みたいなものだよ。アーサーは上にも行けるけど……あえてここにいる……」
「なんで?」
「……空気が合わないだけだ。シェリフの目にも留まりやすい。かといって、下は低底すぎる。治安も悪い」
「それって……」
「人は平等だ、などという本末転倒な理想論は語るなよ。此処はそういう世界だ」
例え心を痛めていても、そういう世界で片付けられる。凪は口を噤む。言いたいことがあっても、きっと今の彼には答えられる術はない。この世界のほんの一部であっても、衝撃的な事実は目を伏せるしかない。
「上とか下とか、自由に選べるのか?」
「うーん……だいたいは。下に合う人もいる……僕は……上も下も合わない……」
「此処は平和ってことか」
「平和の意味も異なる……僕は、シェリフが多くいる上は嫌……でも、暴動はほとんど起こらない……」
「なんとなく分かったよ」
「凪は、不満とかないの……?外に出たいって思わないの……?」
「そうだなあ……日本にいた記憶はなんとなくあるけど、なんで此処にいるのかとか、判らないんだよ。親に捨てられたとかいろいろ考えるけど、親の記憶もないし。楽しい想い出が詰まっていていきなり目が覚めたら元いた場所に帰りたいって思うけど、俺からしたらアルネスに置かせてもらってるって感覚だから」
「……日本?」
「知らない?」
考えても記憶にない国の名だ。遠いのか近いのかも想像できない。そんな国が存在しているのかさえも。
「ごめん、僕が無知なだけだよ」
曖昧に濁せば凪は唸る。先進国だっただの魚が美味しいだのいろいろ出るが、彼の言うことは意味不明だ。
こんな世界で先進国など、あってはならない。
薄暗い部屋で眩しさを感じることもなく、私……ではなく、僕はゆっくりと目を開けた。身体に石でも入ったように重く、指先を動かすのがやっとだった。徐々に手首、腕、頭と動かしていき、神経が繋がっているのを感じる。それどころか、腕も手も足もあり、五体満足で生還したとがっかりした。
いっそ四度目の絶望を感じるほどぐちゃぐちゃにしてほしかった。そうすれば、自ら命を絶つなと静かに激高した彼も、考えを改めたと思う。
段々と意識がはっきりしてきた。キッチンから物音が聞こえ、甘ったるい良い香りがしてくる。いきなり男が振り返った。
「ハク……?」
男は泣きそうなほど安心しきった顔で近づき、慣れ慣れしく手を握ってくる。
「生きてた……良かった……」
何が良かったものかと冷めた目で見る。けれどすぐに考えが揺らいだ。男の目には涙が溜まり、心底心配していたと顔が物語っている。
「………、…………」
「え?なに?」
「……サ、…………」
「アルネス?薬を作ってるよ。呼んでこようか?」
僕は首を振った。
「……ね、がい……」
「お願い?オッケー、いいよ」
「……しに、たい……」
捨てられた子犬は目を潤ませ、僕の手を強く掴んだ。
「あのさ、エッグノッグって知ってる?アルネスがさ、アルコールをもらってきてくれて、今から作ろうと思うんだ。俺の国だと卵酒って言うんだけど」
やや早口気味に身振り手振りで言う男は、きっと外の世界ではやっていけない。こんなに分かりやすく、素直で危うい人は、地下に留まるべきなのだ。
僕は何度目か分からない意識を手放し、凪の手から逃れた。
次に目覚めたときは、あの男はいなかった。寝過ぎたのか、目のかすみもなく鮮明に天井が映る。カタカタと打ち込む音がし、音のする方を見た。聴覚は問題ない。
「起きたか?」
「アーサー……。私……じゃなくて、あの……僕、」
アルネスは席を立つと、キッチンに行き鍋を温め始めた。意識が遠退く前に嗅いだ甘い香りが部屋に広がる。テーブルには、電源の付いたパソコンが置かれていて、息を呑んだ。
「あいつがお前に飲ませろとしつこい。飲んでやってくれ」
渡されたマグカップを両手で掴むと、冷えた手に感覚が戻っていく。甘い香りの元はカップの中身だ。
「アーサー、それ……」
なぜパソコンがあるのか。使えないはずなのに、確かに本物で、しかも画面に明かりが灯っている。
「ダメだよ……もし見つかったら……」
「見つかったら?」
「こ、殺されちゃう……」
温まったはずの手が小刻みに震えた。
「あの人たち……怖い……見回りしてるし……」
「……飲め」
エッグノッグと言っていた飲み物は甘みが強く、ほのかにミルクの味と苦みが卵の甘さを引き立てていた。
「美味しい……」
「空腹であってもまずは液状のものから胃に入れてもらう。徐々に固形物に変えていく」
「うん……ありがとう」
「お礼であればあいつに言え。お前の食事はあいつが作る」
あいつ、を表す男はいない。
「部屋で寝ている。今は夜明けだ。あと数時間で起きてくる」
「………………」
「あいつに死にたい、と漏らしたそうだな」
「ごめん……なさい」
「謝罪を聞きたいわけではない。なぜだ」
苛立ちでもなく、悲しみでもなく、アーサーの考えが読めなかった。
口にする液体は精神安定剤のようで、そのおかげか思考は目まぐるしく動き回る。
「もう……怖い」
「その件に関しては、今は調査中だ」
「シェリフたちに連絡したの?」
「したのはタイラー。お前を見つけたのもタイラーだ。運が良かった」
「あ……鳥たち……」
「シルヴィエが面倒を見ている。お前の容態が完全に回復するまで、此処から出すつもりはない。彼女にも伝えた」
完全というのは身体の問題だけでありたいと願う。心の回復まで待っていたら、一生此処から出られない。
「早く鳥たちの元へ行きたいのなら、まず治せ」
「お尻の感覚がないんだけど……」
「お前が寝てる間、麻酔を打った」
トイレの心配までしてもらい、素直にお礼を述べた。
「私からお前の身体について、説明をした」
「……何か、言ってた?」
「友達であることには変わりない、だそうだ。現金な奴だ」
「友達……」
生まれて初めて言われた言葉だ。この世界からもかけ離れた言葉。
「お前が治るまで、世話をしたくてうずうずしている。何かあれば遠慮なく言え」
「いいのかな……」
「でないとあいつは余計に心配する」
空になったマグカップを渡し、もう一杯欲しいと伝えた。
もう一眠りし起床すると、目の前に心配そうに見つめる子犬の顔があり、僕は飛び起きた。麻酔のおかげか痛みはない。
「良かった……! 明け方に一回起きたって聞いてさ、安心したけどやっぱり起きて声を聞くまでは安心できないっていうか。エッグノッグどうだった? 二杯も飲んでくれたって聞いて俺、嬉しくてさ!」
「ええと……美味しかったよ……」
「ほんとに?アルネスが山羊のミルクを使っていいって言うから分けてもらったんだ。あと卵と砂糖と少しのアルコールで出来るんだよ。今日から俺がハクのご飯を作るから少しずつ固形物を増やしていこうな」
「ありがとう……凪が作ってくれるの……安心する……」
凪は眉を上げ、不思議そうに首を傾げた。
「アーサーのご飯を食べて、お腹壊したことあって……」
「たまに野菜が煮えてないときあるよな。けど愛情たっぷりだよ、多分」
嫌みのない笑顔を守りたいと、心底思った。
「凪に、話したいこと、たくさんある……」
「うん、俺も。ハクがどんなに絶望に感じても、心の底で涙を流していても、やっぱり俺はハクが生きていてくれて良かったよ」
「……そっか」
「身体が良くなっても、ハクが居たいだけ居ていいから。アルネスも言ってた」
「ふたりとも……優しすぎるよ……」
「そうか?」
すでにエッグノッグは消化され、空腹の知らせが盛大に鳴る。ハクは恥ずかしくなり、腹部を押さえた。気づかなかったが、腹部にも包帯が巻かれている。
「まずは朝食にしよっか。ミルクスープを作ろうと思うんだけど。食べられそうなら昼は細かくした野菜を入れてみるから」
「あの……エッグノッグは、まだある……?」
凪は驚くが、すぐに笑顔で何度も頷く。
「あるよ!」
凪の笑顔が恥ずかしかったが、熱すぎないエッグノッグは気持ちもほっとするような暖かさがある。作ってくれた人の心を表しているかのようだった。泣きたいのはこっちなのに、なぜか凪の目が潤んでいた。
二杯のエッグノッグで朝食を終わらせ、一度アルネスは戻ってきた。傷の経過を見てはテープを貼り替え、液状の苦い薬を置き土産にすぐに出ていった。
「液体の方が身体に浸透しやすいし、効き目も早めに出るって本で読んだ」
凪の懸命な応援もあり、一気に飲み干す。しかめっ面になるのは避けられない。
「アルネスって、きれいだよな」
唐突に話し出した彼の言葉に、僕は飲んでいた液体の飲み薬を口から吹いた。今のは完全に凪が悪い。
「………………」
「うわあ、生煮えの人参を噛んだときのアルネスの目みたい」
「そんな無邪気に言わないでよ……。生煮えなのはアーサーが悪いんだし」
「愛情はこもってるよ」
彼の目は、クォーツのような優しい光を放つときもあるし、ブラックダイヤモンドのようなどす黒い何かを抱えているときもある。
「……きれいって、どんなもの?」
「俺にとって?うーん……」
凪は子供に戻ったように、目をきらきらさせて一生懸命考えている。
「駄目だ」
「…………………」
「アルネスしか思い浮かばない」
考えて考えて出した答えがアルネスアーサー。気持ちは、分かる。すっごく。
「でも……アーサーはいっつも不機嫌になるから……」
「そうかな?不機嫌とはちょっと違うと思うよ」
「どうして、そんなことがわかるの……?」
「本当の不機嫌って、食卓にシュガービーツが並ばない日を不機嫌って言うんだよ。ハクは見たことあるか? たまに冷蔵庫に入ってる呪いがかった魚みたいな目をしてるんだよ」
僕は抑えきれず、吹き出してしまった。フードもないのに大きく口を開けて笑いそうになり、手のひらで口を押さえた。
込み上げてくるものは震えとなって肩を揺らし、隣にいる凪の肩も揺れた。大きくて、しっかりとした肩。僕とは違う、ちゃんとした大人の肩。
「だから、がんばれ!」
「え? う、うん……?」
「応援してるよ、俺」
大きな手に両肩を掴まれた。凪は何を言っているんだろうか。がんばる。がんばる……。
頭に電波がびびっときた。彼は、応援してくれている。走馬灯が回り、生きていることが一生涯の運を使い果たしたと言っても過言ではないほどの恐ろしい出来事を話せと。そう言っている。
人の目を見るのは苦手だ。肩に置かれた暖かな手を感じながら彼を見上げると、彼は見つめ返した。彼は目を離そうとしない。なぜ、こんなにもまっすぐに気持ちを形にできるのだろう。
「あのね……アーサーから聞いたと思うけど……僕は女と男の二つの身体を持っている。一番、外の人間にばれてはいけない秘密」
「だからいつも身体のラインが判らないような服を来てたんだな」
「うん……。襲われるのは、これで二度目……」
「え」
凪は驚愕し、固まった。
「一度目も、襲われて……アーサーに助けてもらった。犯人はシェリフのメンバー」
「シェリフって保安官だよな?酷すぎる……」
「あいつらは……身内を庇おうとしてた。でもアーサーが、証拠品を集めて、数人の犯人を捜してくれた。あのときも、アーサーに助けてもらった……」
「そっか……そいつらはどうなったの?」
「見せしめで、殺された。シェリフより、もっともっと恐ろしくて逆らえない人たちがいる……アーサーも、逆らえない……」
「アルネスって、シェリフと仲悪いんだろ?本人言ってたけど」
「アーサー派と、シェリフ派に別れてる……」
「アーサー派って……あいつそんなに権力のある男だったのか。寝起きで足ぶつけて平気そうにしてる可愛い男なのに」
「権力っていうか……ただシェリフに楯突くアン……生き物は、アーサーとタイラー、あと他にも数人いる。タイラーは、考えなしに口も手も動く……」
「今回の件だけどさ、三人揃った夕食後に話そうってことになった。シェリフに任せるしかないから、辛いだろうけど思い出して話してくれってさ」
「うん……」
よく知りもしない人にこれほど話すことなんて、今まではなかった。アルネスですらなかなか口を聞けなかったのに、不思議な人。
「あの、僕の身体見て……気持ち悪いとかなかった……?」
「全然。びっくりはしたけど、人それぞれいろいろあるって。わざと『僕』って言ってんの?」
「うん……アーサーが、男のふりをしろって……」
「でもアルネスはさ、ハクのことを差すときに“彼女”って言ってたけど。でも男のふりをしてる方がいいかもな」
嬉しいという感情が溢れるのは、きっと心は男ではないからだ。知られてはいけないと、頬が上がるのを無理矢理押さえた。
今まで話せなかった分、取り戻すように彼は普段の生活の話をした。アルネスの作るご飯や仕事っぷりなど、主にアルネスの話で数時間は経過した。少し仮眠を挟みながら過ごしても、久しぶりに悪夢にうなされることはなかった。
夕食後、アーサーは僕に薬を飲ませると、いよいよ作戦会議だとソファーに深く腰を下ろした。
「今日なんで帰りが遅かったんだ?」
「事件が発生した。タイラーがシェリフの奴らに捕まった」
「え……なんで?」
「奴の面子のために言うが、手は出していない。詰め寄って逮捕された」
「公務執行妨害ってやつか。にしてもそれだけで逮捕するのかよ」
「僕のせいだよね……」
「タイラーはまたシェリフが犯人だと決めつけた。今回は違う」
「確か下の奴らがどうのって言ってたよな?」
「ハクの傷を見たのは私だ。私にしか判らないこともある。恐らく、下の奴らが暴行目的でやってきた。辛いだろうが思い出してくれ」
食べた夕食が逆流するほど苦々しく、口を開くにも声が乗らない。それでも必死に思い出そうとしたのは、辛抱強く待っていてくれる人がいたからだ。
凪もアーサーも、憐れみの目じゃなかった。それが僕にとってはとても嬉しくて、少しだけ、仲間だと思ってもいいのかと、自分に問う。返事はなかった。
「森の近くに……魚を釣りに行って……男の人が近づいてきて……、落とし物をしたから探してほしいって」
「それで?」
「森に行ったら……他にも男の人がいて……」
「顔は覚えているか?」
「……わかんない」
「秋は野生動物たちも活発になっている。食われていた可能性だってあった」
「僕が悪いよ……」
「……今のは私の言葉選びが悪かった。被害者が責められるべき件ではない。落ち度は何もない。タイラーがお前を見つけたとき、血は乾いていなかったと話していた。前後の時間帯のアリバイを調べれば、おおよその犯人が見えてくる」
「タイラーはどうなっちゃうの……?」
「タイラーは、明日には解放されるはずだ。釈放されなければ、また暴動が起こる。それはシェリフも避けたいはず」
「また?」
凪は口を挟み、めざとく質問した。
「何度もシェリフとは衝突している」
「“上”の人間が好き放題やってるから……」
「上も下もあるってことは、中もある?もしかしてここら辺?」
「……ああ」
「階級みたいなものだよ。アーサーは上にも行けるけど……あえてここにいる……」
「なんで?」
「……空気が合わないだけだ。シェリフの目にも留まりやすい。かといって、下は低底すぎる。治安も悪い」
「それって……」
「人は平等だ、などという本末転倒な理想論は語るなよ。此処はそういう世界だ」
例え心を痛めていても、そういう世界で片付けられる。凪は口を噤む。言いたいことがあっても、きっと今の彼には答えられる術はない。この世界のほんの一部であっても、衝撃的な事実は目を伏せるしかない。
「上とか下とか、自由に選べるのか?」
「うーん……だいたいは。下に合う人もいる……僕は……上も下も合わない……」
「此処は平和ってことか」
「平和の意味も異なる……僕は、シェリフが多くいる上は嫌……でも、暴動はほとんど起こらない……」
「なんとなく分かったよ」
「凪は、不満とかないの……?外に出たいって思わないの……?」
「そうだなあ……日本にいた記憶はなんとなくあるけど、なんで此処にいるのかとか、判らないんだよ。親に捨てられたとかいろいろ考えるけど、親の記憶もないし。楽しい想い出が詰まっていていきなり目が覚めたら元いた場所に帰りたいって思うけど、俺からしたらアルネスに置かせてもらってるって感覚だから」
「……日本?」
「知らない?」
考えても記憶にない国の名だ。遠いのか近いのかも想像できない。そんな国が存在しているのかさえも。
「ごめん、僕が無知なだけだよ」
曖昧に濁せば凪は唸る。先進国だっただの魚が美味しいだのいろいろ出るが、彼の言うことは意味不明だ。
こんな世界で先進国など、あってはならない。
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