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第一章 貴族と山の村娘

09 満月の決意

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 煌苑殿へ来てひと月ほど経った日だった。
 外で洗濯物を干していると、ぞろぞろと衛兵たちがこちらに向かってくる。
 織は彼らに向かって恭しく一礼した。
「今宵、奥の院へ来られよ」
「奥の院?」
「今宵は満月。禧桜陛下が閨の相手をお求めである。夕餉の後に女中を送る。湯浴みで準備を整えた後、速やかに奥の院へ向かうように」
「……かしこまりました」
 陛下の命令とあれば、断るなど不可能だ。
 言いたいことだけ言うと、衛兵たちは踵を返した。
 いずれはやってくる可能性があると覚悟していたが、まさかひと月後の満月の日となろうとは。
 この日の夕餉は、いつもより豪勢だった。体力をつけろということなのだろう。だが織は軽めに果物だけを摘まんだ。
 迎えの女中たちに連れられて、煌苑殿の奥へ進んでいく。中ではお香が焚かれていて、とっさに息を止めた。織は渋い顔をする。
 香りの元は、苦痛を楽にし、快楽を増幅させるための植物が使われている。話し相手程度で終わるはずがなく、もっと強い覚悟が必要だ。
「こちらで結構です」
「しかし、私共がお世話をするようにと言われております」
「お貴族様でもありませんし、今までも村では身の回りの世話を自分でしてきました」
 押し通そうとする女中たちだが、こればかりは断固として譲らなかった。男であっても簡単に裸体を見せたくはない。
 最後には女中たちが折れた。
 湯には珍しい花や薬草が浮かんでいる。織は足の指先からそっと入り、肩まで浸かった。
 薬草の知識がある分、これから起こることを容易に想定できる。
 思考の判断を鈍らせるものや、愉悦を覚えやすくなるもの、緊張を解すものと様々だ。
 竹格子の隙間から見える満月は、人工的なもので溢れかえっている地上のものに対し圧倒的な存在感を示している。
 村では鈴たちとともによく月や星を眺めていた。帰りたくない、といえば嘘になる。だが山の村人でしかない自身を守り抜こうとしてくれた人がいて、力になりたいとも思う。
 火照って身体が柔くなったところで、織は湯から身体を出した。
 穢れのない純白の装束に身をつつみ、外で待っている女中の元へ向かう。
「失礼致します」
 首には小さな宝石を散りばめた首飾りをかけられ、頭にも真珠が埋められたヴェール、緋色の羽織も用意されていた。
「禧桜陛下は、あまり男士に興味がなさそうではございました故、私が呼ばれるとは思いもしませんでした」
 女中たちに緊張が走った。ぴんと張りつめた空気身体に刺さり、肌の表面に汗が浮かぶ。
 何かある、とは思った。先月の満月の日にも禧桜は具合が悪く、医師や衛兵たちが慌てふためいていた。
「ここからは貴方様がおひとりで進まなければなりません」
「ご案内ありがとうございます」
 女中たちがいなくなるのを見届けてから、織は一歩一歩足を進めた。
 長い廊下だ。薄暗い明かりが灯っているだけで、足下がかろうじて見える程度である。
 重圧な扉の前には二人の衛兵が立っている。彼らは織の姿を見ては解錠した。
 織が中に入ると、再び鍵を閉められる。もうこれで後戻りはできない。
「禧桜陛下、織が参りました」
 織が膝をついて頭を垂れたとき、地響きのような震動が伝わってくる。
 禧桜の声ではない。くぐもる低い声は重圧感を感じさせ織は金縛りにあったように身体が硬直してしまう。
 織は顔を上げ、寝台にかかる紗の奥を覗いた。
「ひっ…………!」
 中にいるのは、禧桜ではなかった。
 全身毛むくじゃらの大柄な獣だ。口からは牙が生え、涎が顎まで垂れ流れている。赤い眼は眼光を放ち、織の全身を射抜いていた。
 織は腰を抜かし、地べたにへたり込んでしまう。
 獣は織へ近づいていく。一歩一歩近づくたび、鼻がひん曲がるほどの悪臭が漂う。
 織は獣に簡単に抱きかかえられ、寝台へ転がされた。逃げようにも頭上で腕を拘束される。獣の爪が肉に食い込み、痛みが走った。
「禧桜……陛下……」
 呼びかけても獣は織の声に耳を傾けはしなかった。
 太く長い爪は織の装束を破る。白い肌は目の前の獣を拒否し、産毛が逆立つ。
 再び、獣の鳴き声が響き渡る。耳を塞ぎたくなる轟音に一瞬気を失いかけた。
 唾液か織の腹部へ垂れ落ちる。赤い舌が織の身体を舐め回し、そこで織は意識を手放した。



 意識が徐々に戻りつつ、織は瞼を上げた。
 寝起きだからというより、身体が重くて動かない。一度目を閉じて深呼吸をすると、鈍痛が身体を駆け回った。
「織郭、お目覚めですか」
 もう一度目を開いた。見知った医師の顔がぼんやりと浮かぶ。
「ご無事で何よりです。今、瑛殿下を呼んで参りますね」
 無事とは言い難いが、命あって何よりだ。曖昧になっていた記憶を徐々に掘り起こしていくと、思い出してはいけない、口にしてはいけない国の禁秘なのではないか、と足が震えた。
 カーテンが開き、入ってきたのは殿下としての威厳が欠けた瑛だった。
「織、入るぞ」
「瑛……殿下」
「そうだ、俺だ。よくぞ生きていてくれた。もう少し眠るか?」
「いいえ……それより話を……。何が……起こったのです……」
 瑛は医師に出ていくよう促す。渋る医師であったが、何かあったらすぐに呼ぶと瑛は医師を追い出した。
「今回の件は本当にすまなかった」
 瑛は頭を垂れる。織以外見ていないとはいえ、簡単に下げるべきではない。
「殿下……それはおやめください……」
「殿下として謝罪しているのではない。言い訳でしかないが、聞いてほしい。今回の件、我々は知らなかったのだ」
「知らなかった……?」
「俺も柏も、そして陛下自身もだ。すべては第一夫人が一人で行ったことだ」
「皇后が……ですか」
「織の家に衛兵たちが行っただろう? 皇后の命令により、陛下の閨のお相手をするのに織を選んだのだ。陛下が望んだことではない」
「宮殿では恐ろしい獣を見ました……あれが陛下のお姿なのですか……?」
 苦虫を潰したかのような顔をして、瑛は神妙に頷いた。
「この国……煌苑殿の極秘だ。宮殿でも一部の者しか知らない」
 恐ろしい獣はやはり禧桜だったのだ。恐怖で全身が震えると、腹に激しい痛みが襲う。
 瑛は椅子から立ち上がると、ベッドに腰掛ける。細身の身体を柔い力で抱きしめた。
「満月の夜になると、陛下はあのようなお姿になられる。すると性欲が人間とは思えないほど沸き起こり、常に閨の相手を求めるのだ。皇后が織を送り込んだのも、自身か相手をしたくないからだろう」
「私は途中で記憶がないのです。どうなったのですか?」
「医師に聞くと、怪我は背中と腹部にある。薬を塗って安静にしていれば治るらしい。それと、足は骨が折れている。これが一番酷い怪我だ」
 織も腕を回しながら、臀部に力を込めた。怪我となると一番重傷になりうる箇所だが、痛みはない。
 未遂で終わったようで、ほっと息を吐くと自然と涙がこぼれ落ちた。
 瑛は見逃さず、伝う涙に唇を寄せる。
「私はどのように救われたのです?」
「皇后がいつも以上に機嫌がよく、衛兵たちがよそよそしかった。様子がおかしいと俺と柏が気づき問いただしたところ、織を向かわせたと白状した」
「陛下の閨へ乗り込んだのですか……」
「ああ、そうだ。いても立ってもいられなかった。首を斬られる覚悟もあった。だが寝台にはぐったりと動かないお前と眠っている陛下のお姿だった。……それだけだ」
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