あの夏をもう一度─大正時代の想ひ出と恋文─

不来方しい

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エピローグ

029 エピローグ─もう一人の絵師─

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 僕らはふたりで辺境の地へ赴いている。
 理由は幸一の「新婚旅行へ行こう」という突拍子もない言葉だった。思いつきで言ったわけではなく、前から考えていたらしい。
 ふたりだけの祝言のようなものだ。かの有名な坂本龍馬から始まった旅行なんだから、俺たちも行こうとよく判らない理由を告げられた。
 人里から離れた山奥へなぜ来たかというと、湯治だ。どこか悪いわけじゃない。心も身体も休めようと、幸一からの提案だった。環境が変われば、幸一だっていろんな刺激を受けられる。良い提案だと僕も乗った。
 山ではあるが、外へ出ると潮の香りがする。少し歩けばすぐそこは海だ。泳げるかは判らないが、もし入れるようならふたりで海に浸かるのもいいだろう。
「さっき聞いてきたんだけど、この時期は波が読めないらしい」
「じゃあ泳ぐのは無理か」
「でも川遊びならできるってさ」
「……僕らはもう三十路手前だぞ?」
「海でも川でも遊ぶのは変わりないだろ。流れがゆっくりだし、足だけ浸かっても気持ち良いかもな。水道は湧き水を引いているから、水筒にでも入れておこう」
「二食出るって珍しいよな」
 湯治はだいたい自炊が多い。管理人は関東で料理人をしていたらしく、都会は戦争で狙われる可能性があるからと田舎へ戻ってきたと言っていた。
「山の幸や魚、粥が中心らしい。腹が減りそうだ」
「厨房は自由に借りられるから、昼はしっかりした食事にしようか」
 湯治は病気療養で来る人が多く、食事は身体に優しいものが出される。よく食べる僕や幸一では足りないだろう。
「さっそく風呂に入る?」
「一緒に?」
「もちろんさ」
 悪戯っ子の笑みを浮かべた幸一は、僕の手を取った。
「さすがにいろいろできないとは思うけど、それは部屋ですればいいか」
 幸一にタックルを決めて、浴場へ向かう。
 浴場には泊まりの客が数人いるだけで、もったいないほど広かった。数人で入れる風呂がいくつかあり、香りの良い木風呂へ足を入れた。
「熱くない?」
「こんなものだろう? 前から思っていたけれど、虎臣って温めが好きだよな。俺は物足りない」
「お前の入る湯が熱すぎるだけだ」
 少しだけ水を足すと、幸一は不服そうだ。けれど何も言わないでいる。
「いつも僕に遠慮するよな」
「そりゃあ、惚れた弱みってやつだ。熱い方が好みだが、温くても入れる。でも熱いのが苦手なお前は熱い風呂に入れないだろう?」
「皮膚が焼けそうになるんだ」
 ふたりで背中を流して、僕は水風呂へ入る。幸一も入ったが、十秒ほどですぐに出た。
 初日はふたりで温泉と料理を楽しみ、早々と布団へ入った。
 翌日は朝食を食べた後、僕は緩やかな山を下って買い出しに出かけた。幸一は絵を描きたそうにしていたので、邪魔しないようにしようとあえて別行動を取った。
 釣り道具は無料で借りられるので、昼までに幸一が魚を釣ってくると言った。楽しみに待ちつつ、僕は厨房で大豆と麦飯の混ぜご飯を作る。朝と夕があまり多いとは言えないので、昼は量のあるものを食べたかった。
 幸一が持ってきたバケツには、魚が四匹泳いでいる。
「釣るのにどのくらいかかったんだ?」
「それが十分もしなかったんだ。透明な水に魚がうようよいてさ。糸を垂らしただけですぐに食いついてきた」
 幸一の帳面には、自然がそのまま写っている。川の流れる音が聞こえてきそうだった。ただ、まだ出来上がりにはほど遠い。
「明日は午後から雨だってさ。今日で描き上げられるかなあ」
「別に焦る必要はないんじゃないか? まだたっぷり時間はあるんだし」
「それもそうか」
 大きめの魚をそれぞれ二尾ずつ食べると、動けなくなるほど腹がいっぱいだ。
 午後はまた幸一は川へ出かけて、僕は浴場へ行くことにした。
 夏場でも山は涼しいが、調理場で何か作っていると汗が滲んでくる。
 湯船に浸かると、湯気の向こうに人影が見えた。
 なるべく離れて腰掛けるが、湯気が大きく揺らいだ。
 湯気のカーテンから顔を覗かせたのは、目鼻顔立ちがはっきりとした男性だった。
「妖精……?」
 男性が呟き、腕を伸ばしてくる。僕は反射的に手を叩き、すぐに浴場を上がった。
「あっ待って!」
 僕は男だ、と叫びたくなる。成人男性が扱いなんて、もってのほかだ。
 壊れんばかりに部屋の扉を開けると、中には固まっている幸一の姿があった。
「どうしたんだよ、そんな格好で」
 今の僕は、タオルを腰に巻いただけだ。
「変な人に、会って……それで、」
「判った、落ち着け。水飲むか?」
 水筒の水をもらって飲み干すと、甘くて冷たかった。
「とりあえず服を着てくれ。襲いたくなる」
 掴んできた浴衣を着て、もう一度水を飲んだ。幸一が湧き水を入れてきたのだろう。
「落ち着いた?」
「うん……だいぶ。浴場で、僕のことを妖精扱いした挙げ句、身体に触れてこようとする男がいたんだ。それで逃げてきた。幸一は?」
「明日の午後から雨の予定だったのに、山だからかすでに曇ってきたんだ。着いた途端に降り始めたから、運が良かった」
「濡れなくて良かったな」
「それより、何ともないか? 触られてはいないんだよな」
「大丈夫。ちょっと気分悪かったけど」
 幸一に抱きしめられた。この腕が本物で、ぴったりと心も一致する。
 そのまま布団へ横になると、唇に吸いついた。
「風呂に入るとき、これからは一緒に入ろう。その男が日帰りなのか泊まるのか判らないしさ」
「うん……そうする」
 小雨だった雨は次第に強くなっていき、窓を叩きつけるような音を奏でる。
 幸一は起き上がると、僕の浴衣を脱がし始めた。服を着ろと言ったり脱がせたり、彼の頭の中は忙しない。てっきりまぐわうものかと思いきや、脱がせるだけ脱がせて自分は画材の準備を始めた。
 幸一の絵が好きだ。暖かくて、側に存在があるかのように情景が浮かぶ。
「僕の絵を描くの、好きだよな」
「好きなものや人を描くのが好きなんだ。お前も水の揺らめきも。海や小川も美しい。一番美しいのはもちろん虎臣だ」
「美しいかどうか判らないけど、僕も真剣に絵を描くお前を見るのが好きだよ」
 今日は外は雨で、外で遊ぶこともできない。
 一日中、幸一に付き合うのも良いかもしれない。
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