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エピローグ
027 エピローグ─青空へ飛び立つ─
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時代は大正から昭和へ移り変わった。
食生活や仕事、震災など、歴史が大きく揺るがす短い年号であったと柄にもなく感傷にふける。進む時間は地球上同じであっても、日本だけが常に先を進んでいるかのようだった。
俺が大正から抜け出せないでいるのは、美しすぎるものに触れたからだ。終わりのない戦争が続く世の中、この世のものとは思えないほどの繊細で崩れそうな美を持つ、男。どんなに触れても優しい言葉をかけても、彼は俺のものにならなかった。
彼の父の仕事を継ぐ代わりに俺のものになれ、と不気味な言葉が何度も脳裏をよぎった。それだけは言ってはならないと何度も押し留めた。
小川が宝石のように輝き、近くで魚が飛び跳ねている。
川のほとりで、男性が画帳に筆を走らせていた。近くで遊んでいた子供はおそるおそるだが、楽しげに覗いている。
「こんにちは」
男性に声をかけると、子供は母親の方へ向かって走っていく。怖がらせるつもりなどなかったが、体格の良い俺が近づけば逃げたくもなるだろう。
「こんにちは」
男性はにこやかな顔を向けるが、すでにこちらを向いていない。画帳と小川を交互に見つめている。
「美しい絵ですね。すみません、いきなり話しかけてしまって」
「休憩しようと思っていましたから」
男性は筆を置き、大きく背伸びをした。
俺は隣に座る。男性からは、油絵の香りがした。
「いつもそのような絵を?」
「まあ……たまにはと思いまして」
煮え切らない答えだ。
「お上手ですね。さすが画家の先生だ。専門家の方を陳腐な言葉で褒めるのもどうかと思いましたが」
「素直な感想は嬉しいものですよ。ありがとうございます」
「実は東京で、いくつか絵画展を観たんですよ」
「東京?」
男性はぴくりと反応を見せる。
「ええ、東京で。絵画が好きな従兄弟がいましてね。付き合いで観にいったんです。あるとき、いつも一緒にいたのに従兄弟はついて来なくていいなんて言うんです。あいつの様子がおかしかったから、こっそりついていったんです。そしたらあいつ、春画展へ入っていったんですよ」
「…………それで?」
「しきりに画家の名前を見ては落ち込み、ずっとそれの繰り返しでして。絵よりも名前を見るなんて、おかしな奴ですよね」
「……………………」
「俺と鉢合わせてようやく観念したのか、事情を話してくれました。『大切な人が画家になるのを、ずっと待っている』と。聞けば、高校時代に別れて以来、一通の手紙も寄越さない薄情すぎる男のようで、俺はさっさと忘れてしまえと何度も言いました」
小川を見ていた男性は、ようやくこちらを見てくれた。恐ろしいほどの憎しみを込めて。
「その人にも事情があったんだと思います。手紙の一つも渡せない事情が」
「俺からしたら、事情なんてほんの些細なことだと思うんですよね。戦争でいつ死ぬかも判らない時代に、のらりくらりと生きて会いにもいこうとしない。一度東京へ来たらしいですが、女の人と一緒だったと聞きました。俺、こう見えても顔が広いんですよ。ちょっとした伝手でその女性を調べたら、なんと許嫁だと聞いたんです。薄情で弱虫な男だ。男同士から逃げて、愛も突き通せないなんて……」
「違う!」
男性が大声を出すと、透明な水の中で魚たちが一斉に逃げていった。
「何度も何度も。何度も何度も俺はそんな男は止めちまえ、俺にしろと言ったんです。ところが従兄弟は、笑いながら『あいつの代わりはどこにもいない』なんて言うんですよ。父親から女性を紹介されても、従兄弟は首を縦に振らなかった」
「その……従兄弟は……、どちらにいますか?」
「北海道にいます。父親の貿易会社を北海道にも置くことになって、そちらで外国人を相手に通訳をしています。あとは本の和訳の仕事も」
「……あなたの名前を教えて頂けませんか」
俺は頭を振った。
「言えません」
「なぜですか」
「言っても意味のないことだからです。あなたにも二度と会えませんので」
「二度と会えない……?」
俺は鞄から、一枚の紙を取り出した。
目の前の男は驚愕し、瞬きすら忘れている。
「柔道も剣道も成績は常に上位で、恵まれた体格もあっちゃあ、お国は放っておきませんからね」
「っ……こんなときに、あなたは俺なんかに会いにきたんですか」
「ええ、来ました。言っておきますが、あなたのためじゃありません。今も愛する人を待ち続けている従兄弟のためです。では俺はこれで。召集令状も期限がありますからね」
立ち上がると、男性も立った。上背もあり、目鼻立ちも整っていて、あいつが惚れるのも頷ける。
「叶うならお願いが一つあります。俺の存在を消して下さい。俺、従兄弟に紙を見せてないんです。従兄弟の家族に海外へ仕事に行くので、しばらく帰らないと嘘を突き通してほしいと言ってきました」
「……わかりました。必ず、約束します」
男性は敬礼した。俺も彼に向かって、敬礼する。
遠くで子供たちも面白そうに真似をしていた。
できることなら無駄な命にはならないように、彼らの未来を守りたい。
あいつの未来を、守りたい──。
食生活や仕事、震災など、歴史が大きく揺るがす短い年号であったと柄にもなく感傷にふける。進む時間は地球上同じであっても、日本だけが常に先を進んでいるかのようだった。
俺が大正から抜け出せないでいるのは、美しすぎるものに触れたからだ。終わりのない戦争が続く世の中、この世のものとは思えないほどの繊細で崩れそうな美を持つ、男。どんなに触れても優しい言葉をかけても、彼は俺のものにならなかった。
彼の父の仕事を継ぐ代わりに俺のものになれ、と不気味な言葉が何度も脳裏をよぎった。それだけは言ってはならないと何度も押し留めた。
小川が宝石のように輝き、近くで魚が飛び跳ねている。
川のほとりで、男性が画帳に筆を走らせていた。近くで遊んでいた子供はおそるおそるだが、楽しげに覗いている。
「こんにちは」
男性に声をかけると、子供は母親の方へ向かって走っていく。怖がらせるつもりなどなかったが、体格の良い俺が近づけば逃げたくもなるだろう。
「こんにちは」
男性はにこやかな顔を向けるが、すでにこちらを向いていない。画帳と小川を交互に見つめている。
「美しい絵ですね。すみません、いきなり話しかけてしまって」
「休憩しようと思っていましたから」
男性は筆を置き、大きく背伸びをした。
俺は隣に座る。男性からは、油絵の香りがした。
「いつもそのような絵を?」
「まあ……たまにはと思いまして」
煮え切らない答えだ。
「お上手ですね。さすが画家の先生だ。専門家の方を陳腐な言葉で褒めるのもどうかと思いましたが」
「素直な感想は嬉しいものですよ。ありがとうございます」
「実は東京で、いくつか絵画展を観たんですよ」
「東京?」
男性はぴくりと反応を見せる。
「ええ、東京で。絵画が好きな従兄弟がいましてね。付き合いで観にいったんです。あるとき、いつも一緒にいたのに従兄弟はついて来なくていいなんて言うんです。あいつの様子がおかしかったから、こっそりついていったんです。そしたらあいつ、春画展へ入っていったんですよ」
「…………それで?」
「しきりに画家の名前を見ては落ち込み、ずっとそれの繰り返しでして。絵よりも名前を見るなんて、おかしな奴ですよね」
「……………………」
「俺と鉢合わせてようやく観念したのか、事情を話してくれました。『大切な人が画家になるのを、ずっと待っている』と。聞けば、高校時代に別れて以来、一通の手紙も寄越さない薄情すぎる男のようで、俺はさっさと忘れてしまえと何度も言いました」
小川を見ていた男性は、ようやくこちらを見てくれた。恐ろしいほどの憎しみを込めて。
「その人にも事情があったんだと思います。手紙の一つも渡せない事情が」
「俺からしたら、事情なんてほんの些細なことだと思うんですよね。戦争でいつ死ぬかも判らない時代に、のらりくらりと生きて会いにもいこうとしない。一度東京へ来たらしいですが、女の人と一緒だったと聞きました。俺、こう見えても顔が広いんですよ。ちょっとした伝手でその女性を調べたら、なんと許嫁だと聞いたんです。薄情で弱虫な男だ。男同士から逃げて、愛も突き通せないなんて……」
「違う!」
男性が大声を出すと、透明な水の中で魚たちが一斉に逃げていった。
「何度も何度も。何度も何度も俺はそんな男は止めちまえ、俺にしろと言ったんです。ところが従兄弟は、笑いながら『あいつの代わりはどこにもいない』なんて言うんですよ。父親から女性を紹介されても、従兄弟は首を縦に振らなかった」
「その……従兄弟は……、どちらにいますか?」
「北海道にいます。父親の貿易会社を北海道にも置くことになって、そちらで外国人を相手に通訳をしています。あとは本の和訳の仕事も」
「……あなたの名前を教えて頂けませんか」
俺は頭を振った。
「言えません」
「なぜですか」
「言っても意味のないことだからです。あなたにも二度と会えませんので」
「二度と会えない……?」
俺は鞄から、一枚の紙を取り出した。
目の前の男は驚愕し、瞬きすら忘れている。
「柔道も剣道も成績は常に上位で、恵まれた体格もあっちゃあ、お国は放っておきませんからね」
「っ……こんなときに、あなたは俺なんかに会いにきたんですか」
「ええ、来ました。言っておきますが、あなたのためじゃありません。今も愛する人を待ち続けている従兄弟のためです。では俺はこれで。召集令状も期限がありますからね」
立ち上がると、男性も立った。上背もあり、目鼻立ちも整っていて、あいつが惚れるのも頷ける。
「叶うならお願いが一つあります。俺の存在を消して下さい。俺、従兄弟に紙を見せてないんです。従兄弟の家族に海外へ仕事に行くので、しばらく帰らないと嘘を突き通してほしいと言ってきました」
「……わかりました。必ず、約束します」
男性は敬礼した。俺も彼に向かって、敬礼する。
遠くで子供たちも面白そうに真似をしていた。
できることなら無駄な命にはならないように、彼らの未来を守りたい。
あいつの未来を、守りたい──。
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