あの夏をもう一度─大正時代の想ひ出と恋文─

不来方しい

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第一章 想ひ出

012 噺

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「逢い引き……」
 幸一はそう呟くと、肩を落とした。
「体育教師と生徒が?」
「有り得ない話じゃないだろう」
「それは……そうだけど、」
「管野進と会う日を書いていたんだ。『明日、Sに話す』ってのは、管野進が亡くなる前日に記した可能性が高い。それ以降、何も残されていない。体育教師は数人いるが、すぐに特定できそうだ」
「八重澤、」
 虎臣は幸一の手の甲へ重ねた。幸一は手をひっくり返し、指と指を絡める。指の腹が擦れ合った。
 くすぐったさともどかしさが生まれ、幸一の唇を凝視する。乾燥する時期に入りつつあり、厚くも薄くもない唇が乾燥している。
 虎臣は喉を鳴らし、内股に力を入れた。
「教師と生徒ってだけでも秘め事なのに、男同士だ」
「そうだな」
「表沙汰になれば、どうしたってただでは済まない。悩んでいるのか?」
 指の動きが止まった。
「もし犯人なら……絶対に警察へ突き出さなければならない。だけどそれとは別に、知られちゃいけないことだってある。誰にでも」
 自分に言い聞かせるように、虎臣は断言した。
「要は新聞社へばれなければいいんだろ。父に掛け合ってみるよ」
「本当に? できるのか?」
「賭けみたいなものだ。絶対にできると約束は難しい」
「それでも希望があるなら、頼みたい」
「ここから先は、俺たちの仕事じゃない。相手はもしかしたら殺人犯の可能性がある。相手が体育教師なら、俺たちが取っ組み合いになったところで負ける」
 お互いに怪我が治っていない状況だ。全快したところで、勝てる見込みはない。
「手帳も父さんに渡すってことでいいか? 警察にこんな目に合わされたせいで二度と関わりたくないから、直接警察へ渡さずに父を通したって言い訳ができる」
「ああ、あんな奴らに会うことはないよ」
 彼らは将来、どうするつもりだったのだろう。
 子を成して後世に残さねばならないのに、男同士に未来は生まれない。もっと昔は同性愛を禁止する法すら生まれた。色濃く残る今も、差別の色は残っている。
 指が絡まったまま、離れない。淡い繋がりはどこまで未来を見せてくれるのだろう。



 数日後、体育教師は学校へ来なくなった。事情を知らない生徒が理由を聞くと「家の都合で辞めた」らしい。これが答えだった。
 しばらく経ってから聞いた話だが、故人には抵抗した跡がないという。
 最後まで恋人を信じ続けた故人を、ふたりで合掌した。



 一つの物語が終わりを迎え、厳しい冬の寒さが訪れようとしていた。
 幸一の父がうまくやったおかげか、教師と生徒の物語は収束した。無論、知っていたのは虎臣と幸一だけである。
 柏尾たちからいろいろ聞かれたが、ふたりは黙っていることにした。故人の人権を守るために、それが一番いいとお互いに納得した。
 冬季休暇は夏ほど長くなく、実家と連絡を取って帰省しないことにした。他の生徒も半数以上が寄宿舎で過ごすことに決めていた。
「八重澤も帰らないのか?」
「ああ。お前が残るって言うから、実家に電話して次は来年の夏に帰ることにした」
「冬の休みは短いしな」
 理由は他にもある。紅緒は冬の間、家にいるとタエから聞いた。幸一からの手紙を隠し持っていた件もあるし、顔を合わせたくなかった。
「数週間、お前と一緒にいられる。どこかに出かけないか?」
 ふたりきりになると、幸一は距離を詰めてくるようになった。前々からではあるが、松葉杖を手放してからさらに身体を密着させてくる。
 虎臣は頬に触れる熱を受け止め、したいようにさせていた。
 扉ががこん、と大きな音を立てた。反射的に幸一は離れていく。
 扉の鍵を開けると、不機嫌そうな柏尾が立っていた。
「なんで鍵なんか閉めてんだよ」
「お前みたいなのが勝手に入ってくるからだ。用件はなんだ?」
 幸一は面倒そうに立ち上がり、虎臣の元へ近づいた。
「残念な知らせがある」
「残念な知らせ?」
「俺に許嫁ができそうなんだ……」
「良かったじゃないか。おめでとう」
 幸一はしれっと言いのける。心にもない言葉だ。
「嫌に決まってるだろ! 会ったこともない人といきなり
結婚させられる可能性があるんだぞ!」
「どこのお嬢さんなんだ?」
「道場のお嬢らしい。剣道の腕前は、弟子たちも一本も取れないほどの才があるんだと」
「そいつはすごいな」
 虎臣は感心すると、
「冗談じゃないぞ。俺の好きな女は可憐な乙女だ。相手は竹刀で鬼や山をも切り裂くとか言われてるんだぞ」
「いざとなったら守ってもらえ」
「男としての誇りがズタズタだ……」
「会ってみないと判らないだろ」
 そう言うと、柏尾は虎臣の肩を掴んだ。
「それなんだ。お前ら、明後日は暇だよな? 帰る予定はないって言ってたよな?」
 幸一は柏尾の腕を払いのけながら、
「暇と言えばまあ、暇だ」
 と苦虫を潰したような顔で告げる。
「明日、銀座で会うことになったんだよ。あわよくば俺から断りを入れようと思ってさ。こっそりついてきてくれないか?」
「俺たちがついていって何をすればいいんだ?」
「ただ見守ってくれるだけでいい。一人が怖いんだ。喫茶店の中で別の席にいてほしい。友人目線で、良い女なのか見極めてくれ」
 幸一と目配せをすると、彼もまた頷いた。

 冬休みの最大任務は、銀座の駅前で行われた。
 十歩ほど先を歩く柏尾は、いわゆる銀座のモダンガールに釘付けである。ふらふらついて行こうとするので、虎臣は幸一と共に背後から睨みをきかせた。
「ったく。なにやってんだあいつは」
「あそこの喫茶店みたいだな。僕たちも入ろう」
 新しくできた喫茶店は、入り口付近ですでに珈琲の香りがする。
 柏尾の席を確認して、一つ奥の席に座った。
「何にする?」
「珈琲で」
「二つお願いします」
 幸一といるときは、珈琲の気分になる。彼の別荘で出してくれたあの味が忘れられない。味たけではなく、想い出にも浸れる飲み物だ。
 向こうから大柄な女性が歩いてきた。女にしては身長が高く、着物の上からでも判るほど身体つきががっしりしている。
「柏尾さん?」
「は、はい!」
 柏尾は声が裏返り、目にも留まらぬ速さで立ち上がった。
「秋山と申します」
 可憐な女性とはほど遠いが、礼をする姿は見惚れるほど凛としている。朱い着物に咲く牡丹に負けていなかった。
「ご連絡を頂いたときは驚きました。顔合わせよりも前に会ってみたいだなんて。大方、警戒されていたのでしょうね」
 秋山と名乗った女性は物怖じせず、はっきりと告げた。
「いや、まあ……気にはなりました。親から許嫁として紹介したい人がいるなんて言われたら……頭は抱えました」
「結婚に乗り気でないのは充分に承知しています。女で剣道を極めようとしている私に、父と母がとても心配しているのです。同じ運動競技である野球に打ち込むあなたならばと、私の父が暴走した結果、このような話になってしまったのです」
 一瞬ではあるが、秋山の瞳が揺れた。
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