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第一章 想ひ出
04 懐
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虎臣が首を傾げると、幸一は荷物を下ろしてこちらへ近寄ってくる。
「家から出たいって言ってたろ」
「そういえば……」
夏の日の想い出だ。お互いの夢を語り合った日々が蘇る。寂しい家を出たいと初めて彼に明かしたのだ。
「八重澤は……、」
夢の続きを語ろうとしたが、彼の髪や衣服からは独特の匂いがした。油絵で使う道具の匂いだ。彼は夢を捨てていなかった。
「ん? どうした?」
「なんでもない。お互いに夢は続いているんだなあと思って。油絵も描いてるのか」
「ああ、匂いか。家にあるから匂いが移ったんだろう」
「どうして寄宿学校を選んだんだ? 前は入りたいとかそんなこと言ってなかっただろ」
「俺は三男だから、わりと自由なんだ」
「三男だったのか」
彼は金融会社社長の息子だ。てっきり彼が継ぐものと思っていたが、三男となると優先順位は低い。画家という夢を持つ彼にとっては、枷にならないと言える。
廊下で先輩の怒鳴り声が聞こえた。帳面や教科書に名前を書いているのかと、見回りをしている。
「八重澤も書いた方がいい」
「そうだな。一番奥の部屋で助かったよ」
入学式で告げられたのは、いかに足を乱さず卒業を迎えるかという、有り難い校長の話だった。
──この学校に入学できたのは非常に名誉なことであり、まずは校歌を覚えよ。
一週間で長ったらしい歌を覚えなければならず、体育館へ集められ、怖い先輩の元で『指導』が待っている。
体育館の隅で教師が座り、竹刀を持つ上級生が一組から順に呼んでいる。呼ばれた組は走って壇へ上がり、ピアノの演奏と共に歌わなければならない。
ちゃんと歌えているかは口元を見られ、一人でも歌えていない生徒がいればその場で腕立て伏せをさせられる。
全員歌えるようになるまで、放課後は体育館へ集められた。
「体育の授業の前に身体がとんでもないことになってるよ、俺」
「俺も」
「ごめん……俺のせいだ」
物覚えの問題なのは、腕立て伏せを二百回以上させられた原因の男──松岡は、顔を真っ赤にさせてクラスメイトに謝罪した。
「けどさ、先輩たちがあまり怖くなさそうで安心した」
「体育館での指導は一年生に対する洗礼みたいなものらしいな」
クラスメイトの会話を耳にしながら、虎臣は図書室で借りた本を読む。
「何を読んでいるんだ?」
後ろの席は幸一だ。彼は本を覗き込んできた。
「推理小説だよ」
「エドガー・アラン・ポーか。俺も読んだよ」
「まだ読みかけなんだ」
「結末は言わないって」
「なにかおすすめはある? これを読んだら次に読みたい」
「そうだな……」
教室が静まり返っているのに気づき、虎臣は顔を上げた。
彼らは全員、こちらを見ている。
「なあなあ、お前ってどこの血が入ってるんだ?」
「……………………」
幼い頃、メリケン人だと棒で殴られたり無視された経験があり、いやでも過去の記憶は掘り起こされてしまう。
虎臣は口を噤んだ。
「本田はアメリカ人とのハーフなんだ」
「すげー。母親がアメリカ人?」
「そうだ。綺麗だろ?」
「ちょっと八重澤……」
虎臣は止めようとするも、友人たちが集まり出してしまった。
「実は俺のばあちゃんもアメリカ人なんだ」
「お前、アメリカ人の血入ってんのか? 全然見えねー」
「ねんごろの仲はいるのか?」
「羨ましいぜ。経験人数どのくらい?」
「いやあの……」
「ほら、授業が始まるぞ」
今日は独語の授業からだ。その後に英語、国語と続く。
教師が入ってきたのと同時に、友人たちは一斉にはけていった。
「独語や英語は独学で学んだのか?」
学食で夕食を食べていると、八重澤は授業の話を切り出してきた。
「高校に入る前に勉強はしていた」
「発音も? 先生驚いていたぞ」
「それは……多分、うちは貿易業を営んでいるから、家に客人が多く出入りするんだ。異国の人も来て、それで自然に学べているんだと思う」
「なるほどな。それなら納得する。家庭教師でもつけているのかと思った」
「八重澤は? 学校だけで勉強したのか?」
「まあね。それより驚いたぞ。新入生代表の挨拶がお前だったなんて」
「たまたまだ。僕はあまり目立つのは好きじゃない。断ってほしかったのに、学校から電話がかかって来て父さんが勝手に受けたんだ」
普通に話せることが不思議でならなかった。
あの夏──最後の想い出だと唇を絡ませた洞窟での出来事は、虎臣にとって永遠に忘れられない日だ。
「そろそろ戻ろう」
それなのに彼は普通すぎた。まるでなかったかのように。落胆が記憶を突き刺していく。
夏がやってくる頃、校舎の木々は色濃く緑に染まり、下生えには鮮やかな花を咲かせた。
毎年見る景色であっても、高校で見る景色はまた違ったものに見えた。
「本田はどこの部活を希望してるんだ?」
同じクラスの柏尾が話しかけてきた。
「入らないよ。柏尾は野球部?」
「そうだ。ずっと野球は続けていきたいんだ」
彼の肌は太陽に焼かれた跡が残っている。外で戦い抜いた証だ。
「八重澤はどこか入るのか?」
「なんで僕に聞くんだ?」
「深い仲だって聞いたけど」
「なっ…………」
がた、と大きな音を立てて立ち上がった。教室に数人残る生徒は一斉にこちらを見る。
「そんなわけないだろう」
「なに焦ってんだよ。冗談に決まってる」
「八重澤がそんな冗談を言ったのか?」
「ああ。昔からの顔見知りでねんごろの仲だって」
「八重澤はときどきそういうことを言うんだ。忘れてくれ」
虎臣は立ったまま机の上を片づけ、荷物をまとめて教室を出た。
首が痒くなり触れるが、熱がこもったまま熱い。
どんなつもりであんなことを言ったのか。冗談でも言っていいことと悪いことがある。
「……手紙は返さなかったくせに」
あの夏からやり取りした手紙は、送ったまま返ってこなかった。それを彼は蒸し返しもせず、久しぶりだとありきたりの挨拶をした。
校舎を遠回りしてしまっていた。顔を上げると、目の前は美術室だ。
覗いてみるが、幸一の姿はない。
「新入部員ですか?」
「あ、すみません。友人を探していただけです」
美術部員に頭を下げ。来た道を戻った。そもそも寮は真逆だった。
部屋には幸一がすでにいて、勉強している。
「なんだ? 変な顔をして」
幸一は椅子に座ったまま、うんと背伸びをした。
「美術室に寄ったんだ。お前がいるかと思って」
「なんで美術室?」
「画家になりたいんだろう? てっきり部活に入るのかと思った。今日、クラスメイトの柏尾に部活のことについて聞かれたんだ」
「お前は? どこかに所属するのか?」
「しないよ。勉強する時間が減るし、やりたいこともない……俺、夢が何もないんだ」
「一つ叶えたじゃないか。良かったな」
高校生になったら学生寮に入りたいと願った夢を言っているのだろう。
「それはそうだけど、八重澤みたく将来の夢ってない」
「俺の嫁にでもなるか?」
「家から出たいって言ってたろ」
「そういえば……」
夏の日の想い出だ。お互いの夢を語り合った日々が蘇る。寂しい家を出たいと初めて彼に明かしたのだ。
「八重澤は……、」
夢の続きを語ろうとしたが、彼の髪や衣服からは独特の匂いがした。油絵で使う道具の匂いだ。彼は夢を捨てていなかった。
「ん? どうした?」
「なんでもない。お互いに夢は続いているんだなあと思って。油絵も描いてるのか」
「ああ、匂いか。家にあるから匂いが移ったんだろう」
「どうして寄宿学校を選んだんだ? 前は入りたいとかそんなこと言ってなかっただろ」
「俺は三男だから、わりと自由なんだ」
「三男だったのか」
彼は金融会社社長の息子だ。てっきり彼が継ぐものと思っていたが、三男となると優先順位は低い。画家という夢を持つ彼にとっては、枷にならないと言える。
廊下で先輩の怒鳴り声が聞こえた。帳面や教科書に名前を書いているのかと、見回りをしている。
「八重澤も書いた方がいい」
「そうだな。一番奥の部屋で助かったよ」
入学式で告げられたのは、いかに足を乱さず卒業を迎えるかという、有り難い校長の話だった。
──この学校に入学できたのは非常に名誉なことであり、まずは校歌を覚えよ。
一週間で長ったらしい歌を覚えなければならず、体育館へ集められ、怖い先輩の元で『指導』が待っている。
体育館の隅で教師が座り、竹刀を持つ上級生が一組から順に呼んでいる。呼ばれた組は走って壇へ上がり、ピアノの演奏と共に歌わなければならない。
ちゃんと歌えているかは口元を見られ、一人でも歌えていない生徒がいればその場で腕立て伏せをさせられる。
全員歌えるようになるまで、放課後は体育館へ集められた。
「体育の授業の前に身体がとんでもないことになってるよ、俺」
「俺も」
「ごめん……俺のせいだ」
物覚えの問題なのは、腕立て伏せを二百回以上させられた原因の男──松岡は、顔を真っ赤にさせてクラスメイトに謝罪した。
「けどさ、先輩たちがあまり怖くなさそうで安心した」
「体育館での指導は一年生に対する洗礼みたいなものらしいな」
クラスメイトの会話を耳にしながら、虎臣は図書室で借りた本を読む。
「何を読んでいるんだ?」
後ろの席は幸一だ。彼は本を覗き込んできた。
「推理小説だよ」
「エドガー・アラン・ポーか。俺も読んだよ」
「まだ読みかけなんだ」
「結末は言わないって」
「なにかおすすめはある? これを読んだら次に読みたい」
「そうだな……」
教室が静まり返っているのに気づき、虎臣は顔を上げた。
彼らは全員、こちらを見ている。
「なあなあ、お前ってどこの血が入ってるんだ?」
「……………………」
幼い頃、メリケン人だと棒で殴られたり無視された経験があり、いやでも過去の記憶は掘り起こされてしまう。
虎臣は口を噤んだ。
「本田はアメリカ人とのハーフなんだ」
「すげー。母親がアメリカ人?」
「そうだ。綺麗だろ?」
「ちょっと八重澤……」
虎臣は止めようとするも、友人たちが集まり出してしまった。
「実は俺のばあちゃんもアメリカ人なんだ」
「お前、アメリカ人の血入ってんのか? 全然見えねー」
「ねんごろの仲はいるのか?」
「羨ましいぜ。経験人数どのくらい?」
「いやあの……」
「ほら、授業が始まるぞ」
今日は独語の授業からだ。その後に英語、国語と続く。
教師が入ってきたのと同時に、友人たちは一斉にはけていった。
「独語や英語は独学で学んだのか?」
学食で夕食を食べていると、八重澤は授業の話を切り出してきた。
「高校に入る前に勉強はしていた」
「発音も? 先生驚いていたぞ」
「それは……多分、うちは貿易業を営んでいるから、家に客人が多く出入りするんだ。異国の人も来て、それで自然に学べているんだと思う」
「なるほどな。それなら納得する。家庭教師でもつけているのかと思った」
「八重澤は? 学校だけで勉強したのか?」
「まあね。それより驚いたぞ。新入生代表の挨拶がお前だったなんて」
「たまたまだ。僕はあまり目立つのは好きじゃない。断ってほしかったのに、学校から電話がかかって来て父さんが勝手に受けたんだ」
普通に話せることが不思議でならなかった。
あの夏──最後の想い出だと唇を絡ませた洞窟での出来事は、虎臣にとって永遠に忘れられない日だ。
「そろそろ戻ろう」
それなのに彼は普通すぎた。まるでなかったかのように。落胆が記憶を突き刺していく。
夏がやってくる頃、校舎の木々は色濃く緑に染まり、下生えには鮮やかな花を咲かせた。
毎年見る景色であっても、高校で見る景色はまた違ったものに見えた。
「本田はどこの部活を希望してるんだ?」
同じクラスの柏尾が話しかけてきた。
「入らないよ。柏尾は野球部?」
「そうだ。ずっと野球は続けていきたいんだ」
彼の肌は太陽に焼かれた跡が残っている。外で戦い抜いた証だ。
「八重澤はどこか入るのか?」
「なんで僕に聞くんだ?」
「深い仲だって聞いたけど」
「なっ…………」
がた、と大きな音を立てて立ち上がった。教室に数人残る生徒は一斉にこちらを見る。
「そんなわけないだろう」
「なに焦ってんだよ。冗談に決まってる」
「八重澤がそんな冗談を言ったのか?」
「ああ。昔からの顔見知りでねんごろの仲だって」
「八重澤はときどきそういうことを言うんだ。忘れてくれ」
虎臣は立ったまま机の上を片づけ、荷物をまとめて教室を出た。
首が痒くなり触れるが、熱がこもったまま熱い。
どんなつもりであんなことを言ったのか。冗談でも言っていいことと悪いことがある。
「……手紙は返さなかったくせに」
あの夏からやり取りした手紙は、送ったまま返ってこなかった。それを彼は蒸し返しもせず、久しぶりだとありきたりの挨拶をした。
校舎を遠回りしてしまっていた。顔を上げると、目の前は美術室だ。
覗いてみるが、幸一の姿はない。
「新入部員ですか?」
「あ、すみません。友人を探していただけです」
美術部員に頭を下げ。来た道を戻った。そもそも寮は真逆だった。
部屋には幸一がすでにいて、勉強している。
「なんだ? 変な顔をして」
幸一は椅子に座ったまま、うんと背伸びをした。
「美術室に寄ったんだ。お前がいるかと思って」
「なんで美術室?」
「画家になりたいんだろう? てっきり部活に入るのかと思った。今日、クラスメイトの柏尾に部活のことについて聞かれたんだ」
「お前は? どこかに所属するのか?」
「しないよ。勉強する時間が減るし、やりたいこともない……俺、夢が何もないんだ」
「一つ叶えたじゃないか。良かったな」
高校生になったら学生寮に入りたいと願った夢を言っているのだろう。
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