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第一章 想ひ出

02 美

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「薫子、おいで」
 虎臣が優しく声をかけると、ゆっくりと顔を出した。
「本田薫子といいます」
 薫子は裾を掴み、お辞儀をした。とたんに拍手が起こる。
「なんと可愛らしいお嬢さんだ。そう思うだろう、幸一」
 呼ばれた幸一は、返事をしない。それどころか、じっとこちらを見ている。なぜか幸一と見つめ合っていた。
「本田とあっちで食事してきていい?」
「お前というやつは……」
「いいじゃないか。幸一君にもここの別荘を気に入ってもらいたい。虎臣、ふたりで行って来なさい」
「ああ…………」
「ほら、行こう」
 握られた手は生暖かい。家族以外と手を握ったのは、生まれて初めてだった。
 幸一は人に紛れて部屋の端までくると、肩で大きく息を吐いた。
 助かった、と彼は呟いた。なんのことだろうと、虎臣は首を傾げる。
「今日、何の社交界か知ってる?」
「……君はどこまで知ってるの?」
「知ってるさ、何もかも。俺と君の妹の本田薫子さんと見合いの場を設けるためだってことは」
「僕は父さんが電話してるのを聞いた」
「なんだ、そうだったのか。ということは、俺の父さんと本田の父さんが電話しているのを俺たちが聞いたんだな。六も離れた子供相手に、どうしろっていうんだ」
「本気で見合いをさせるというより、顔合わせ程度だと思うよ」
「親が勝手に決めるなんて、嬉しくもなんともない」
 大人びた表情は子供に戻り、虎臣は初めて同じ年なのだと納得できた。
「にしても、すごい建物だな。うちにも別荘はあるけど、こんなに大きくない。ステンドグラスまである」
「父さんが異国の文化が好きなんだ。僕は日本式の建物が好きだけど」
「それだとうちの別荘が気に入るかもな。来てみる?」
「いいの?」
「ああ。明日、家においでよ。父さんたちもいないし」
「勝手にいいのかな……」
「ちゃんと聞いてみるって」
 料理をいくつか選んでいると、人の視線が一箇所に集中する。宝石を耳や指につけ、薫子よりも目立つドレスを身にまとう母の姿があった。
 恥ずかしくなり視線を逸らすと、幸一と視線が重なった。
「本当に綺麗だな」



 「こんなに大きくない」別荘のはずが、虎臣は玄関の前から動けなくなっていた。
「僕んちの別荘より小さいんじゃなかったの?」
「一階しかないぞ、うち」
 小さな池には亀がいて、鹿威しが小気味よい音を立てる。
 使用人の出迎えに頭を下げ、虎臣は案内されるがまま奥の部屋へ入った。
「ここが俺の部屋」
 ちゃぶ台と座布団、箪笥に布団とシンプルな部屋だ。部屋の広さと置いてある家具の数が割に合わず、余計に部屋が広く感じる。
「あ、カステラ食べる? 持ってくるよ」
「ありがとう」
 幸一が持ってきたお盆にはカステラとカップが二つ乗っている。
「珈琲は飲める?」
「ほとんど飲んだことない。僕の家は紅茶ばっかりだから」
「じゃあ何事も経験だな」
 黒い液体が喉を通る。焼けるような熱さと、口の中がカステラを求めてきた。
「苦い……」
「大人の味だ。カステラと一緒に食べると美味いんだ」
「……ほんとだ。紅茶もいいけど、珈琲も合う」
「だろ? 食べたら海に行こう」
「水着持ってきてないよ」
「泳ぐだけが遊びじゃないだろ。潮干狩りとかもできるし」
 お腹を満たした後は、スコップとバケツを持って海へ出かけた。相変わらず人で溢れている。
「向こうが空いてる。行こう」
「波が穏やかだね」
「ああ、ほんとに。……こういう普通の会話ができるって、幸せなのかもな。異国じゃ、暗殺やら戦争やら物騒なことばっかりだし」
「僕たちも駆り出されないといいけど……」
「そうだな。平和に学校へ通いたい」
 学校。そう、彼とは通う学校も出身も違う。夏の間は一緒に居られるが、それっきりなのだ。
「あと少ししかここにいられない」
「寂しい?」
「うん……友達になれたし」
「手紙出すよ。それなら寂しくないだろ?」
「僕も出す」
「ここにいる間は一緒だ。そうだ、宿題は持ってきた?」
「あるよ」
「教え合おう。そっちがどんなの勉強してるか気になるし」
「なら、明日はうちに来る?」
「行く」
 バケツいっぱいになったとき、日は沈みかけていた。
 ふたりで半分にわけ、この日の夕食はアサリの料理がたくさん並んだ。



「外、あまり好きじゃないのか?」
 部屋で宿題をしていると、幸一から唐突に聞かれた。
「そんなことはないけど、同い年くらいの子がいたら避けるかも」
「なんで?」
「アメリカ人の血が通ってるから」
「それは見れば判るだろ。色素薄いし」
「メリケンは敵だって、木の棒で……っ……叩かれたりする」
「学校でいじめられているのか?」
 意外だ、という顔で幸一は見てくる。
「こんなに綺麗なのに? 俺ならずっと見つめて授業なんて集中できないよ」
「なんで……いつもそんな言い方をするんだよ」
 出会ってまだ数日だが、彼はことあるごとに褒めの言葉を口にする。嫌みでもなく恥ずかしがることもなく、純粋に向けてくるのだ。嫌なわけではないが、とてつもなく叫びたくなる。どうしていいのか判らないのだ。
「綺麗なものに綺麗って言わないのか? 変なやつだな」
「変なのはそっちだ」
「美しいものは人でも風景でも描きたくなる」
 彼の帳面の後ろ側には、開いた跡が残っている。
「見てもいい?」
「いいよ」
 よれている頁を開くと、虎臣は言葉を失った。
 中には鉛筆で書いた絵が描かれている。授業中に書いたのか、外の風景や学校の様子だ。
「綺麗とか美しいって、こういうものを言うんだよ……すごい。全部生きてる。動いてる」
「それはどうも。全然だけどね」
「どこが? なんでこんなに上手く描けるんだよ。僕の何倍もすごい」
「俺さ、将来は画家になりたいんだ」
「画家…………」
 夢を語れるのはここだけの話だ。彼は金融業社長の息子であり、家は跡継ぎを欲しているだろう。
「なれるよ、絶対」
「そう思う?」
「もちろん。目指してほしい」
「簡単に言ってくれるな。嬉しいけどさ。本田の夢は?」
「僕はとにかく家から出たい」
「へえ」
「全寮制の高校に行くのが夢なんだ。自由がほしい」
「お互いに大変だな」
 虎臣もまた、窮屈な人生を背負っている。貿易会社の社長の息子だ。どうあがいたって父親は息子に継がせようとするだろう。
「本田、絵を描かせてくれないか?」
「僕を?」
「一番俺が興味ある人だ。目とか鼻がはっきりしてるから、横顔を描いてみたい。そのまま俯いて」
「こんなの初めてだよ……」
 何時間も同じ姿勢をしなければならないと覚悟していたが、幸一は描くのが早かった。
 簡単に線をなぞっているように見えるが、虎臣ではこうはならない。
「な? 綺麗だろ」
 嘘偽りない幸一の言葉が一番綺麗だと、彼の手を握った。
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