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第一章 桜色の日から
032 桃源郷
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光の速さのごとく「する」と答えた。
秋尋は驚きで目をまんまるにしたが、彼も決断が早かった。
同棲していたマンションにさよならをし、海に近い一軒家を購入した。
仕事の拠点となる都会から離れるので、窓夏は反対した。
秋尋の意志は変わらず、窓夏の意見を聞き入れようとはしなかった。
少し車で行けば、牧場や動物園がある。ある意味動物たちに囲まれた空間だ。秋尋は何も言わないが、選択肢を残してくれた決断だった。
洗濯物を片づけ、うんと背伸びをする。生活にもようやく慣れてきたが、初めの頃は洗濯すらままならなかった。
海添いで外に乾かすと悲惨なことになる。風が強い日に干してしまったがために、砂がついてしまったのだ。
風向きや強さで干すかどうか考えればいいが、毎日の生活で考えていられない。乾燥機を買うべきだと相談し、今に至る。
秋尋は仕事でまだ帰ってこない。日課になりつつある海の散歩でも行こうかと、家を出た。
海岸に見慣れない女性がいた。この辺りのすべての知り合いではないが、近所に住む人ではないと察した。潮風で布が傷んでしまうため、着飾った服をあまり身につけない。シャツにジーンズとシンプルな格好だからだ。
都会のど真ん中を歩いていそうな女性は砂浜を覗いてはしきりに何かを探している。
「手伝いましょうか?」
女性は振り返ると、ほっとしたように息を吐くが、段々と信じられないものを見るかのような目で窓夏を凝視した。
「あの……なにか……?」
「いえ……なにも……」
挙動不審になっている。知り合いでもないし、おかしなことも言っていない。
窓夏は訝しむ目で見ていると、女性は海に視線を落とした。
「腕時計を探してるんです。あんなに大きなものなのに、外れてどこかに行ってしまって……」
「ここら辺で落としたんですか?」
「はい。するっと外れて」
おそらくは波にさらわれたのだろう。
「ちょっと付近も探してみますね」
女性が息を呑むより先に、窓夏は短パンを太股までめくり、サンダルを脱いだ。
足を取られないようにすり足で海に入った。
まだ水は冷たく、体温が一気に奪われていく。
澄んだ水を見ていると、ここに住んで良かったと思えた。
反対していた気持ちも浄化されていく。本当に良かったのかと未練はまだ少し残っているが、これは都会へ行き来する秋尋を思ってのことだ。
ふとした瞬間に思い出し、物悲しい気持ちにもなる。あともう少しで彼は帰ってくるのに、会いたくて会いたくて仕方ない。
「大丈夫ですか? 足真っ赤です。もういいですから」
「大事なものなんでしょう?」
「元彼からもらったものなんです。きっと、未練をここに残していけって神様が与えた試練だと思うんです。私が諦めないと」
「無理やり諦めるのって辛いですよね」
冷たさで足の感覚がすでになかった。
「どうやって、諦めましたか?」
「諦めるふりをしていました。実際には、好きで好きで仕方がなかったのに」
「きっと好きな人と一緒になれたから、今そう言えるんでしょうね。羨ましい。元彼、浮気をしていたんですよ」
「物騒な話ですね。許せない」
「本当にそう。時計もね、私には二千円くらいのもので、相手には二つくらい桁が違うのをあげてたの。……私が遊ばれてたってことよ」
返す言葉がない。そこまで値段の差があると、否定もできない。
「時計は諦めます。どう足掻いても望みはないですし、運命だったんだと思います。ありがとうございました」
「お力になれずにすみません」
「いいえ、嬉しかったです。この辺にずっと住んでるんですか?」
「最近引っ越ししてきたんです」
「いいところですね。好きな人と一緒にですか?」
隠すことでもないがいきなり恥ずかしくなり、目を伏せながら頷いた。
「窓夏」
顔を上げると、息を切らし切羽詰まった顔の秋尋がいた。
女性は驚愕し、ただただ驚いている。
「心配した。必ずメモが何か残してくれ。スマホも置きっぱなしだし」
「ああっ、ごめん。散歩してすぐ帰ってくる予定だったんだ」
「……こちらは?」
女性が驚いているのも気づいているはずなのに、秋尋は気づかないふりを装う。
「時計をなくして、探してたんだ。けど見つからなくて……多分、流されちゃったんだと思う」
「俺も一緒に探す」
「いいえ、もう充分ですから! ありがとうございます」
女性は何度も頭を下げると、そそくさと去ってしまった。
「あっくん、おかえり」
「ただいま。無事で良かった」
大きな身体に包まれた。少し煙草の香りがする。彼は吸わないので、誰かの残り香だろう。
「ずっと探してたのか? 足が真っ赤だぞ」
「短時間だよ。ちょっと水が冷たいから」
秋尋はしゃがみ、窓夏の足を何度もさする。
動き回る手は太股に届き、心配よりも性的な目的で動いている。
「こらこら、あっくん。ここ海だよ」
「ちょっと開放的になった。俺の勝手な独占欲だけど、あまり魅力的なものをさらさないでほしい」
「こんなの見て欲情するの、あっくんだけだよ」
「そんなことはない。いや、俺だけであってほしい」
サンダルは砂まみれだ。風が吹けば服の中まで入ってくる。
「時計と指輪、どっちがほしい?」
「え?」
逆光で太陽すら味方につけた秋尋は、一際輝いて見えた。
「指輪でも時計でも毎日つけられる」
「ゆ、指輪って……結婚指輪ってこと?」
「そういうこと。……っほんとに今日は水が冷たいな」
秋尋はしゃがみ、海の中へ手を入れた。
「あっ」
手には女性ものの腕時計を持っている。おそらく、先ほど無くしたと言っていた女性の持ち物だ。
秋尋は窓夏の顎を慣れた手つきでくいっと持ち上げ、唇を合わせた。
「悪い、先戻っててくれ。これ届けてくる」
「うん。先に帰ってご飯作ってるね」
「楽しみにしてる」
砂場を走る姿も慣れた様子だ。ドラマの撮影で、何度も走らされたと言っていた。恋愛ドラマなので、窓夏は途中から見ていない。
知り合いでもないが、女性を追いかける姿はあまり見たくないものだった。
「北山」
女性の名字を呼んだ。振り返る姿は「なぜ分かったの」驚きを隠そうともしない。
「中学の同級生だった、北山だろ」
「分かったの藤宮君が初めてだよ。すごい」
「ここに来たのは偶然とは思えないが」
「見た目、変わったでしょ?」
北山は質問に答えなかった。
「答えにくい質問だな。変わったと言えばいいのか、内面を褒めるべきなのか」
「その通り。女心は複雑なのよ」
笑い方は何も変わっていなかった。
「昔は今の倍くらい体格があったからね。努力したのよ」
「そうか。頑張ったな」
「そんなことモデルをやってる人に言っても、一般的なダイエットなんてたかが知れてるでしょうけど」
「そんなことはない」
「相変わらず淡々としてるわね」
「で、なんでここにいる?」
「藤宮君に会いにきたって言ったらどうする?」
複雑なのはこちらだ、と言いたくなった。
どう反応を返すべきか。偶然であるとも限らない。目的が窓夏の可能性だってある。警戒心は膨れ上がる。
秋尋は驚きで目をまんまるにしたが、彼も決断が早かった。
同棲していたマンションにさよならをし、海に近い一軒家を購入した。
仕事の拠点となる都会から離れるので、窓夏は反対した。
秋尋の意志は変わらず、窓夏の意見を聞き入れようとはしなかった。
少し車で行けば、牧場や動物園がある。ある意味動物たちに囲まれた空間だ。秋尋は何も言わないが、選択肢を残してくれた決断だった。
洗濯物を片づけ、うんと背伸びをする。生活にもようやく慣れてきたが、初めの頃は洗濯すらままならなかった。
海添いで外に乾かすと悲惨なことになる。風が強い日に干してしまったがために、砂がついてしまったのだ。
風向きや強さで干すかどうか考えればいいが、毎日の生活で考えていられない。乾燥機を買うべきだと相談し、今に至る。
秋尋は仕事でまだ帰ってこない。日課になりつつある海の散歩でも行こうかと、家を出た。
海岸に見慣れない女性がいた。この辺りのすべての知り合いではないが、近所に住む人ではないと察した。潮風で布が傷んでしまうため、着飾った服をあまり身につけない。シャツにジーンズとシンプルな格好だからだ。
都会のど真ん中を歩いていそうな女性は砂浜を覗いてはしきりに何かを探している。
「手伝いましょうか?」
女性は振り返ると、ほっとしたように息を吐くが、段々と信じられないものを見るかのような目で窓夏を凝視した。
「あの……なにか……?」
「いえ……なにも……」
挙動不審になっている。知り合いでもないし、おかしなことも言っていない。
窓夏は訝しむ目で見ていると、女性は海に視線を落とした。
「腕時計を探してるんです。あんなに大きなものなのに、外れてどこかに行ってしまって……」
「ここら辺で落としたんですか?」
「はい。するっと外れて」
おそらくは波にさらわれたのだろう。
「ちょっと付近も探してみますね」
女性が息を呑むより先に、窓夏は短パンを太股までめくり、サンダルを脱いだ。
足を取られないようにすり足で海に入った。
まだ水は冷たく、体温が一気に奪われていく。
澄んだ水を見ていると、ここに住んで良かったと思えた。
反対していた気持ちも浄化されていく。本当に良かったのかと未練はまだ少し残っているが、これは都会へ行き来する秋尋を思ってのことだ。
ふとした瞬間に思い出し、物悲しい気持ちにもなる。あともう少しで彼は帰ってくるのに、会いたくて会いたくて仕方ない。
「大丈夫ですか? 足真っ赤です。もういいですから」
「大事なものなんでしょう?」
「元彼からもらったものなんです。きっと、未練をここに残していけって神様が与えた試練だと思うんです。私が諦めないと」
「無理やり諦めるのって辛いですよね」
冷たさで足の感覚がすでになかった。
「どうやって、諦めましたか?」
「諦めるふりをしていました。実際には、好きで好きで仕方がなかったのに」
「きっと好きな人と一緒になれたから、今そう言えるんでしょうね。羨ましい。元彼、浮気をしていたんですよ」
「物騒な話ですね。許せない」
「本当にそう。時計もね、私には二千円くらいのもので、相手には二つくらい桁が違うのをあげてたの。……私が遊ばれてたってことよ」
返す言葉がない。そこまで値段の差があると、否定もできない。
「時計は諦めます。どう足掻いても望みはないですし、運命だったんだと思います。ありがとうございました」
「お力になれずにすみません」
「いいえ、嬉しかったです。この辺にずっと住んでるんですか?」
「最近引っ越ししてきたんです」
「いいところですね。好きな人と一緒にですか?」
隠すことでもないがいきなり恥ずかしくなり、目を伏せながら頷いた。
「窓夏」
顔を上げると、息を切らし切羽詰まった顔の秋尋がいた。
女性は驚愕し、ただただ驚いている。
「心配した。必ずメモが何か残してくれ。スマホも置きっぱなしだし」
「ああっ、ごめん。散歩してすぐ帰ってくる予定だったんだ」
「……こちらは?」
女性が驚いているのも気づいているはずなのに、秋尋は気づかないふりを装う。
「時計をなくして、探してたんだ。けど見つからなくて……多分、流されちゃったんだと思う」
「俺も一緒に探す」
「いいえ、もう充分ですから! ありがとうございます」
女性は何度も頭を下げると、そそくさと去ってしまった。
「あっくん、おかえり」
「ただいま。無事で良かった」
大きな身体に包まれた。少し煙草の香りがする。彼は吸わないので、誰かの残り香だろう。
「ずっと探してたのか? 足が真っ赤だぞ」
「短時間だよ。ちょっと水が冷たいから」
秋尋はしゃがみ、窓夏の足を何度もさする。
動き回る手は太股に届き、心配よりも性的な目的で動いている。
「こらこら、あっくん。ここ海だよ」
「ちょっと開放的になった。俺の勝手な独占欲だけど、あまり魅力的なものをさらさないでほしい」
「こんなの見て欲情するの、あっくんだけだよ」
「そんなことはない。いや、俺だけであってほしい」
サンダルは砂まみれだ。風が吹けば服の中まで入ってくる。
「時計と指輪、どっちがほしい?」
「え?」
逆光で太陽すら味方につけた秋尋は、一際輝いて見えた。
「指輪でも時計でも毎日つけられる」
「ゆ、指輪って……結婚指輪ってこと?」
「そういうこと。……っほんとに今日は水が冷たいな」
秋尋はしゃがみ、海の中へ手を入れた。
「あっ」
手には女性ものの腕時計を持っている。おそらく、先ほど無くしたと言っていた女性の持ち物だ。
秋尋は窓夏の顎を慣れた手つきでくいっと持ち上げ、唇を合わせた。
「悪い、先戻っててくれ。これ届けてくる」
「うん。先に帰ってご飯作ってるね」
「楽しみにしてる」
砂場を走る姿も慣れた様子だ。ドラマの撮影で、何度も走らされたと言っていた。恋愛ドラマなので、窓夏は途中から見ていない。
知り合いでもないが、女性を追いかける姿はあまり見たくないものだった。
「北山」
女性の名字を呼んだ。振り返る姿は「なぜ分かったの」驚きを隠そうともしない。
「中学の同級生だった、北山だろ」
「分かったの藤宮君が初めてだよ。すごい」
「ここに来たのは偶然とは思えないが」
「見た目、変わったでしょ?」
北山は質問に答えなかった。
「答えにくい質問だな。変わったと言えばいいのか、内面を褒めるべきなのか」
「その通り。女心は複雑なのよ」
笑い方は何も変わっていなかった。
「昔は今の倍くらい体格があったからね。努力したのよ」
「そうか。頑張ったな」
「そんなことモデルをやってる人に言っても、一般的なダイエットなんてたかが知れてるでしょうけど」
「そんなことはない」
「相変わらず淡々としてるわね」
「で、なんでここにいる?」
「藤宮君に会いにきたって言ったらどうする?」
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