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第一章 桜色の日から
017 母の愛と宗家の間で
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しばらく顔を眺めていると、まぶたがゆっくりと開いた。
「帰っていたのか」
寝起きも重なり、しわがれた声だった。
「さっきな。元気そうでなにより」
「ああ……」
悪態の一つでも置き土産にしようと思ったが、顔を見たらそんな気も失せてしまった。
しばらく見ないうちに、厳格な顔は穏やかさを取り戻していた。
こんな表情もできるのか、と秋尋は呆気にとられる。
祖父はじっとこちらを見て、目を細めた。
忌々しいと言われ、浴びせられ続けた視線とは違い、弱々しいものだった。
祖父からしたら、代々続く宗家に外人の子供を身ごもるなどあってはならないことだろう。だが母をあんな扱いにしたのは許せない。ひとりだけ離れの家に住まわせ、自分の娘をいなかった扱いにする。母は宗家は苦手だから清々すると笑っているが、笑うたびに憎しみが溢れる。
今までの生活を思い出し、板挟み状態で言葉が喉に引っかかる。
「お前は……花を活けたかったか?」
「何を今さら。鋏ひとつ持とうとすれば、怒鳴ったくせに」
「そうだったな……」
「ただ、もし華道の道を開けていても、俺は芸能界を夢見たと思う。自分以外の何かになるのが楽しいんだ。道具を持たずに身体一つでどうにかなるし」
「…………、…………」
何か小声で言うが、はっきりとは聞こえなかった。
「すまない」という言葉が耳に引っかかったが、知らないふりをした。
「じゃあな」
外で待つ主治医に一礼して、長い廊下を進んだ。
あの様子だと、しばらくは起き上がれないだろう。
楽しい想い出が一つもない。心に溜まった鬱憤を晴らす術もなかった。
「兄さん」
いとこの正文が部屋から顔を出した。
「帰ってたんだ」
「ああ。久しぶりだな」
「いつもテレビ観てるよ。すごい活躍だね」
「意外だ。そういうのは興味ないかと思ってた」
「食事中はテレビ禁止だったからね。実はバラエティーとか好きだし。ちょっとお茶していかない?」
「悪いけど、母さんを待たせてるんだよ。一緒に来るか?」
「止めておく。まわりがあまりいい顔をしないから、迷惑をかけるし。おじいさんには会った?」
「さっきな。大変だと思うが頑張れよ」
「兄さん、家に戻ってこない?」
まさかの言葉だった。
冗談を言うタイプでもなく、正文の真剣な眼差しは、不安も混じっている。
「俺が家に戻ってどうする? 華道はさっぱりだ」
「これから一緒に覚えていけばいい。俺も教える」
「教えてどうこうなる世界じゃないだろ。センスが大事だろうし」
「俺より兄さんの方がセンスあると思う。子供の頃、俺が花を活けていると、横からこうしたらって言ってきたことあるだろ? はっとさせられることが多かった。悔しい思いもしたんだ」
「悔しい思いをした相手に家へ戻ってこいって? いない方がいいんじゃないのか? ライバルが減るし」
「藤宮家を考えてのことだよ」
正文がそんなことを考えていたなど、思いもしなかった。
「継げるのは俺か兄さんしかいない」
「お前が継いで、結婚して子供を設ければ安泰だろ。俺に期待しない方がいい」
「どういう意味?」
正文は怪訝な顔をする。
「俺は女性とは結婚できないって意味だ」
正文は目を見開いたまま動かない。
考えられる可能性がいくつかある中、一つが頭に浮かんだのだろう。
違うと否定はしなかった。いずればれることだ。元々、それを言うために実家へ来たのだから。
「嘘でしょ?」
「嘘じゃない。だからそういう意味でも、継げるのはお前しかいない」
「兄さん、モデルの女性と噂があったじゃない」
「これからも山ほどあると思う。お互い売れるために事務所がそういう売り出しをしていたりする。俺が噂になったとき、映画が公開される直前だっただろ? そういうことだ」
「映画の利益のため……」
「いちいち気にしていたら身が持たない。応援しているからな」
芸の世界は残酷だ。やる気や根気だけで乗り越えられる世界ではない。厄介なことに、向き不向きや才能がつきまとう。正文も才能の限界を感じ取ったのだろう。
それでも辞めるか、と言われたらノーだ。例え芸能界が向いていないと言われても、この先ずっと続けている。
離れに戻ると、母はテーブルにお茶菓子をたくさん用意していた。
「もらい物のお菓子なのよ。ひとりじゃ食べきれなくて」
「これ好き」
有名和菓子店の錦玉羹だ。中に金魚が泳いでいる。
ほのかな甘みは緑茶によく合う。
「正文には会った?」
「さっき話してきた」
思い浮かぶのは、信じられないといった弟の顔だった。
どうしようもない性癖の問題は、藤宮家に生まれたのが運の尽きだ。もし一般的な家庭に生まれていたら、受け入れてもらえたのかもしれない。
母が手を握ってきた。
秋尋は顔を上げる。
「一緒に歩いていた男性と付き合っているの?」
正文との会話を聞かれたのかと、母の声が落ち着いているせいもあり焦りが生じた。
「少し前に、ふたりで歩いているところを見たのよ」
話す前に話題に触れられてしまったためか、間が生じてしまう。
「気持ち悪くない?」
質問に質問で返した。これが答えだった。
「そんなことあるわけがないでしょう? ただね、あまり人が通らない道は険しいものよ」
「母さんも?」
「そうね。平坦な道はなかった。おかげで、こんな素敵な住まいをもらっちゃうくらいにはね」
「子供を下ろす選択はなかった?」
「ない」
母は迷わずに答えた。
「愛する人の子供だもの。あるわけがないわ」
「それが気がかりだった。好きな人との子でよかったよ」
「お父さんがほしい?」
「今までいないのが普通だったから今さらだよ。いらない」
「秋尋の付き合っている人はどんな人なの?」
「あー、実は付き合っているわけじゃなくて、一歩手前くらい。保留にしてる。ちゃんと親に言ってから付き合うって話をしてる」
「あまり待たせないようにね」
恋愛経験のある母だから言える言葉だが、親から愛を語られるのはとてつもなく恥ずかしかった。
ごまかそうと錦玉羹を口にするが、溶けるほど柔らかい食感で、すぐに食べ終えてしまった。
お代わりをもらいながら、今度はゆっくり食べ進めた。
「帰っていたのか」
寝起きも重なり、しわがれた声だった。
「さっきな。元気そうでなにより」
「ああ……」
悪態の一つでも置き土産にしようと思ったが、顔を見たらそんな気も失せてしまった。
しばらく見ないうちに、厳格な顔は穏やかさを取り戻していた。
こんな表情もできるのか、と秋尋は呆気にとられる。
祖父はじっとこちらを見て、目を細めた。
忌々しいと言われ、浴びせられ続けた視線とは違い、弱々しいものだった。
祖父からしたら、代々続く宗家に外人の子供を身ごもるなどあってはならないことだろう。だが母をあんな扱いにしたのは許せない。ひとりだけ離れの家に住まわせ、自分の娘をいなかった扱いにする。母は宗家は苦手だから清々すると笑っているが、笑うたびに憎しみが溢れる。
今までの生活を思い出し、板挟み状態で言葉が喉に引っかかる。
「お前は……花を活けたかったか?」
「何を今さら。鋏ひとつ持とうとすれば、怒鳴ったくせに」
「そうだったな……」
「ただ、もし華道の道を開けていても、俺は芸能界を夢見たと思う。自分以外の何かになるのが楽しいんだ。道具を持たずに身体一つでどうにかなるし」
「…………、…………」
何か小声で言うが、はっきりとは聞こえなかった。
「すまない」という言葉が耳に引っかかったが、知らないふりをした。
「じゃあな」
外で待つ主治医に一礼して、長い廊下を進んだ。
あの様子だと、しばらくは起き上がれないだろう。
楽しい想い出が一つもない。心に溜まった鬱憤を晴らす術もなかった。
「兄さん」
いとこの正文が部屋から顔を出した。
「帰ってたんだ」
「ああ。久しぶりだな」
「いつもテレビ観てるよ。すごい活躍だね」
「意外だ。そういうのは興味ないかと思ってた」
「食事中はテレビ禁止だったからね。実はバラエティーとか好きだし。ちょっとお茶していかない?」
「悪いけど、母さんを待たせてるんだよ。一緒に来るか?」
「止めておく。まわりがあまりいい顔をしないから、迷惑をかけるし。おじいさんには会った?」
「さっきな。大変だと思うが頑張れよ」
「兄さん、家に戻ってこない?」
まさかの言葉だった。
冗談を言うタイプでもなく、正文の真剣な眼差しは、不安も混じっている。
「俺が家に戻ってどうする? 華道はさっぱりだ」
「これから一緒に覚えていけばいい。俺も教える」
「教えてどうこうなる世界じゃないだろ。センスが大事だろうし」
「俺より兄さんの方がセンスあると思う。子供の頃、俺が花を活けていると、横からこうしたらって言ってきたことあるだろ? はっとさせられることが多かった。悔しい思いもしたんだ」
「悔しい思いをした相手に家へ戻ってこいって? いない方がいいんじゃないのか? ライバルが減るし」
「藤宮家を考えてのことだよ」
正文がそんなことを考えていたなど、思いもしなかった。
「継げるのは俺か兄さんしかいない」
「お前が継いで、結婚して子供を設ければ安泰だろ。俺に期待しない方がいい」
「どういう意味?」
正文は怪訝な顔をする。
「俺は女性とは結婚できないって意味だ」
正文は目を見開いたまま動かない。
考えられる可能性がいくつかある中、一つが頭に浮かんだのだろう。
違うと否定はしなかった。いずればれることだ。元々、それを言うために実家へ来たのだから。
「嘘でしょ?」
「嘘じゃない。だからそういう意味でも、継げるのはお前しかいない」
「兄さん、モデルの女性と噂があったじゃない」
「これからも山ほどあると思う。お互い売れるために事務所がそういう売り出しをしていたりする。俺が噂になったとき、映画が公開される直前だっただろ? そういうことだ」
「映画の利益のため……」
「いちいち気にしていたら身が持たない。応援しているからな」
芸の世界は残酷だ。やる気や根気だけで乗り越えられる世界ではない。厄介なことに、向き不向きや才能がつきまとう。正文も才能の限界を感じ取ったのだろう。
それでも辞めるか、と言われたらノーだ。例え芸能界が向いていないと言われても、この先ずっと続けている。
離れに戻ると、母はテーブルにお茶菓子をたくさん用意していた。
「もらい物のお菓子なのよ。ひとりじゃ食べきれなくて」
「これ好き」
有名和菓子店の錦玉羹だ。中に金魚が泳いでいる。
ほのかな甘みは緑茶によく合う。
「正文には会った?」
「さっき話してきた」
思い浮かぶのは、信じられないといった弟の顔だった。
どうしようもない性癖の問題は、藤宮家に生まれたのが運の尽きだ。もし一般的な家庭に生まれていたら、受け入れてもらえたのかもしれない。
母が手を握ってきた。
秋尋は顔を上げる。
「一緒に歩いていた男性と付き合っているの?」
正文との会話を聞かれたのかと、母の声が落ち着いているせいもあり焦りが生じた。
「少し前に、ふたりで歩いているところを見たのよ」
話す前に話題に触れられてしまったためか、間が生じてしまう。
「気持ち悪くない?」
質問に質問で返した。これが答えだった。
「そんなことあるわけがないでしょう? ただね、あまり人が通らない道は険しいものよ」
「母さんも?」
「そうね。平坦な道はなかった。おかげで、こんな素敵な住まいをもらっちゃうくらいにはね」
「子供を下ろす選択はなかった?」
「ない」
母は迷わずに答えた。
「愛する人の子供だもの。あるわけがないわ」
「それが気がかりだった。好きな人との子でよかったよ」
「お父さんがほしい?」
「今までいないのが普通だったから今さらだよ。いらない」
「秋尋の付き合っている人はどんな人なの?」
「あー、実は付き合っているわけじゃなくて、一歩手前くらい。保留にしてる。ちゃんと親に言ってから付き合うって話をしてる」
「あまり待たせないようにね」
恋愛経験のある母だから言える言葉だが、親から愛を語られるのはとてつもなく恥ずかしかった。
ごまかそうと錦玉羹を口にするが、溶けるほど柔らかい食感で、すぐに食べ終えてしまった。
お代わりをもらいながら、今度はゆっくり食べ進めた。
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