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第一章 桜色の日から
09 優しいキスと、十年後の世界
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あれだけ練習していた式はあっけなく終わり、クラスに戻ると卒業アルバムが配られる。
握手と激励つきの卒業アルバムは、まずは真っ白な一番後ろを開いた。
たくさんの想い出がつまった三年間だが、最後のページは空白のままだ。窓夏は自身の心そのものだ、と自虐した。
ホームルームが終わり、窓夏は席を立った。
窓辺に立つと、開きっぱなしの窓からは春の香りがする風が吹く。
二度と立つことはない窓辺は、秋尋といろんな話をした。
恋と進路の話はお互いに避け続け、とうとう卒業してしまった。
重みのある鞄を背負い、窓夏は一礼して教室を後にした。
最後の挨拶はお世話になった動物たちだ。
「今日で最後だよ。ありがとね」
お礼を言うと、一羽のウサギは足下にやってきた。
窓夏の足を踏んだまま座ったので、頭を撫でた。
「長生きしてね。ちゃんとご飯食べるんだよ」
「昼飯食ったか?」
大人びた低音ボイスに顔を上げる。ウサギも立ち上がった。
秋尋は普段の眼鏡を外し、穏やかな表情で見つめている。
「なんで、」
「卒業おめでとう」
小屋の網目に手を当てると、秋尋も網越しに手を合わせてきた。
「お前囚人になったみたいだぞ……なんで泣く?」
「もう、話せないかと思って」
ネクタイをしていない彼に、胸が疼いた。
「来るとは思わなかった」
「ちょっと忙しかったんだ。少し話したい」
「よくここが分かったね」
「騒がしい教室にいつまでも残ってるとは思わなかったしな。倉木といえばここ」
「待って、今出る」
出ようとすると、何かを察してかウサギたちは出入り口に固まり始めた。
「いいよ。そのままで。動物と戯れる倉木を見るのが好きだった」
「あっくん」
「泣くな。ほら、これやる」
隙間から差し出したのは、ネクタイだ。
「あげたんじゃないの?」
「誰にだよ。お前にもらってほしかった」
「待って、僕も」
同じように、ネクタイを抜いて彼に渡した。
ネクタイごと指を掴まれる。熱くて力強い手だ。
「窓夏」
顔を上げると、秋尋の顔が近かった。
目を閉じると涙が頬を流れ、唇に温かい感触が触れた。
「窓夏……窓夏。いつでも幸せを願ってる。友達になってくれてありがとう。この先、何十年経っても、窓夏のことは忘れない。絶対に将来の夢は叶えよう。応援しているから」
「待って、あっくん。どうして最後みたいな、そんな言い方……」
触れていた指先が離れていく。
秋尋はかすれた声で、確かに「ありがとう」と言った。
涙を隠すように俯き、後ろを振り向く。
行かないでと言っても、彼は立ち止まらなかった。
外に出て追いかければいいのに、できなかった。
本当に囚人になったみたいだった。
物理的な距離ではなく、心の距離が遠くて遠くてどうにもならなかった。
残酷で優しいキスしか残さなかった。
腫れた顔で家に戻ると、何か空気を察してか家族は何も言わなかった。
卒業祝いにと食卓に並んだ寿司も、しょっぱさしか感じなかった。
口にすれば楽になれる「好き」も、彼は残さず窓夏の前から消えた。
交換した連絡先は、怖くて送ることさえできなかった。
あちらからも何もない。
生まれて初めての失恋は、無しかなかった。
──十年が経った。
毎年同じくやってくる春は今年も変わらずで、動物園は春が一番忙しい。
窓夏は念願だった動物園で働いており、毎日充実した日々を送っている。
「おはよう」
窓夏の担当はキリンだ。
キリンはほぼ眠らない。毎朝窓夏がやってきても帰宅時もいつも起きていて、声をかけると耳をせわしなく動かす。
春が忙しいというのは、出産の季節だからだ。動物たちも気が立っているし、健康面の問題もある。
「おはよう」
一際小さなキリンがいる。この春生まれたばかりで、最初は母乳すら飲めないほど弱っていた。
人工ミルクを混ぜながら育った子キリンは走り回れるようになった。
「そろそろこの子も公開していいと思うのよね」
「ですね。安心はできませんけど、病弱だったあの頃とは違いますから」
「倉木君、いる?」
「はい」
キリン舎に入ってきたのは仕事を教えてくれた先輩だ。
残念ながらキリンからは好かれておらず、そっと二頭が離れていく。
これには窓夏も苦笑いしかない。
動物と人には相性がある。どうしようもない問題だ。
「テレビ局の人が取材したいって申し出があったんだけど……どうする?」
「どうして僕に聞くんですか?」
「いやいや、倉木君が担当でしょう」
「もしかして取材を受けるのって僕?」
「キリンに詳しい人は倉木君だし」
「ええ? うまくできません。無理です」
「聞かれたことに答えるだけでいいってさ。あとはキリンの様子を見せてほしいんだって。別に生放送ってわけじゃないんだから」
結局、押し切られる形で受けることになってしまった。
大型動物担当の部長はすでに許可を出していたようで、あとは窓夏の許可待ちだったらしい。
翌日、少人数で朝早くからやってきたテレビ局の人と挨拶を交わし、打ち合わせを進めていく。
「親キリンはわりと誰にでも興味を示しますが、子キリンはあまり近づいてこないかもしれません」
「遠くから撮影はいいですか?」
「はい。それなら大丈夫です。わりと穏やかな性格なので大丈夫だもは思うんですが……外部の方にお見せした経験がないので、なんとも言えません」
「分かりました」
キリン舎へ行くと、さっそくカメラを構えた。
「打ち合わせ通りに喋ってくれたらいいので、忘れたりしたら止めますから」
「はい」
顔がひきつるが、カメラを見ないようにしてキリンの説明をしていく。
「三月に生まれたばかりなんです。最初はなかなか母乳も飲めず、大変でした。交代で夜勤もしながらキリンの様子を見ていたので、ここまで大きくなってくれて嬉しいです」
「ちなみに名前は決まっているんですか?」
「ないんですが……こっそり秘密の名前で呼んでいます」
「教えていただます?」
「それはちょっと。恥ずかしいので」
「初恋の人の名前だったり?」
「ええ、実は」
アナウンサーは冗談と受け取り、声を出して笑った。
本当は冗談でもないのだが、わざわざ取り消す必要もない。
ひと通りキリン舎を案内して、カットがかかった。
「ありがとうございます。あとは編集して、ニュースで流れますので楽しみにしていて下さい」
「自分が映ったら変えるかもしれないです……」
「あはは、恥ずかしいものですよね」
子キリンは人嫌いせず、いつものように母親に寄り添っている。
テレビ局の人が帰ると、子キリンは窓夏に近寄ってきた。
「お疲れ様。どうだった?」
「緊張しました。本当に僕で良かったのかな……」
「一番懐いているの倉木君じゃない。いい人選だったと思うよ」
手を差し出すと、子キリンは匂いをかいで手を舐め始めた。
「夕方のニュースでやるみたいだからチェックしないとね」
「いやいいですって……」
「なんで? せっかく映るのに、家族に言ったらいいじゃない」
「余計言いませんよ」
夢を叶えた息子を家族は誇りに思い、喜んでいる。
だがそれとこれとは別だ。
どうかばれませんようにと、窓夏は心の中で祈った。
握手と激励つきの卒業アルバムは、まずは真っ白な一番後ろを開いた。
たくさんの想い出がつまった三年間だが、最後のページは空白のままだ。窓夏は自身の心そのものだ、と自虐した。
ホームルームが終わり、窓夏は席を立った。
窓辺に立つと、開きっぱなしの窓からは春の香りがする風が吹く。
二度と立つことはない窓辺は、秋尋といろんな話をした。
恋と進路の話はお互いに避け続け、とうとう卒業してしまった。
重みのある鞄を背負い、窓夏は一礼して教室を後にした。
最後の挨拶はお世話になった動物たちだ。
「今日で最後だよ。ありがとね」
お礼を言うと、一羽のウサギは足下にやってきた。
窓夏の足を踏んだまま座ったので、頭を撫でた。
「長生きしてね。ちゃんとご飯食べるんだよ」
「昼飯食ったか?」
大人びた低音ボイスに顔を上げる。ウサギも立ち上がった。
秋尋は普段の眼鏡を外し、穏やかな表情で見つめている。
「なんで、」
「卒業おめでとう」
小屋の網目に手を当てると、秋尋も網越しに手を合わせてきた。
「お前囚人になったみたいだぞ……なんで泣く?」
「もう、話せないかと思って」
ネクタイをしていない彼に、胸が疼いた。
「来るとは思わなかった」
「ちょっと忙しかったんだ。少し話したい」
「よくここが分かったね」
「騒がしい教室にいつまでも残ってるとは思わなかったしな。倉木といえばここ」
「待って、今出る」
出ようとすると、何かを察してかウサギたちは出入り口に固まり始めた。
「いいよ。そのままで。動物と戯れる倉木を見るのが好きだった」
「あっくん」
「泣くな。ほら、これやる」
隙間から差し出したのは、ネクタイだ。
「あげたんじゃないの?」
「誰にだよ。お前にもらってほしかった」
「待って、僕も」
同じように、ネクタイを抜いて彼に渡した。
ネクタイごと指を掴まれる。熱くて力強い手だ。
「窓夏」
顔を上げると、秋尋の顔が近かった。
目を閉じると涙が頬を流れ、唇に温かい感触が触れた。
「窓夏……窓夏。いつでも幸せを願ってる。友達になってくれてありがとう。この先、何十年経っても、窓夏のことは忘れない。絶対に将来の夢は叶えよう。応援しているから」
「待って、あっくん。どうして最後みたいな、そんな言い方……」
触れていた指先が離れていく。
秋尋はかすれた声で、確かに「ありがとう」と言った。
涙を隠すように俯き、後ろを振り向く。
行かないでと言っても、彼は立ち止まらなかった。
外に出て追いかければいいのに、できなかった。
本当に囚人になったみたいだった。
物理的な距離ではなく、心の距離が遠くて遠くてどうにもならなかった。
残酷で優しいキスしか残さなかった。
腫れた顔で家に戻ると、何か空気を察してか家族は何も言わなかった。
卒業祝いにと食卓に並んだ寿司も、しょっぱさしか感じなかった。
口にすれば楽になれる「好き」も、彼は残さず窓夏の前から消えた。
交換した連絡先は、怖くて送ることさえできなかった。
あちらからも何もない。
生まれて初めての失恋は、無しかなかった。
──十年が経った。
毎年同じくやってくる春は今年も変わらずで、動物園は春が一番忙しい。
窓夏は念願だった動物園で働いており、毎日充実した日々を送っている。
「おはよう」
窓夏の担当はキリンだ。
キリンはほぼ眠らない。毎朝窓夏がやってきても帰宅時もいつも起きていて、声をかけると耳をせわしなく動かす。
春が忙しいというのは、出産の季節だからだ。動物たちも気が立っているし、健康面の問題もある。
「おはよう」
一際小さなキリンがいる。この春生まれたばかりで、最初は母乳すら飲めないほど弱っていた。
人工ミルクを混ぜながら育った子キリンは走り回れるようになった。
「そろそろこの子も公開していいと思うのよね」
「ですね。安心はできませんけど、病弱だったあの頃とは違いますから」
「倉木君、いる?」
「はい」
キリン舎に入ってきたのは仕事を教えてくれた先輩だ。
残念ながらキリンからは好かれておらず、そっと二頭が離れていく。
これには窓夏も苦笑いしかない。
動物と人には相性がある。どうしようもない問題だ。
「テレビ局の人が取材したいって申し出があったんだけど……どうする?」
「どうして僕に聞くんですか?」
「いやいや、倉木君が担当でしょう」
「もしかして取材を受けるのって僕?」
「キリンに詳しい人は倉木君だし」
「ええ? うまくできません。無理です」
「聞かれたことに答えるだけでいいってさ。あとはキリンの様子を見せてほしいんだって。別に生放送ってわけじゃないんだから」
結局、押し切られる形で受けることになってしまった。
大型動物担当の部長はすでに許可を出していたようで、あとは窓夏の許可待ちだったらしい。
翌日、少人数で朝早くからやってきたテレビ局の人と挨拶を交わし、打ち合わせを進めていく。
「親キリンはわりと誰にでも興味を示しますが、子キリンはあまり近づいてこないかもしれません」
「遠くから撮影はいいですか?」
「はい。それなら大丈夫です。わりと穏やかな性格なので大丈夫だもは思うんですが……外部の方にお見せした経験がないので、なんとも言えません」
「分かりました」
キリン舎へ行くと、さっそくカメラを構えた。
「打ち合わせ通りに喋ってくれたらいいので、忘れたりしたら止めますから」
「はい」
顔がひきつるが、カメラを見ないようにしてキリンの説明をしていく。
「三月に生まれたばかりなんです。最初はなかなか母乳も飲めず、大変でした。交代で夜勤もしながらキリンの様子を見ていたので、ここまで大きくなってくれて嬉しいです」
「ちなみに名前は決まっているんですか?」
「ないんですが……こっそり秘密の名前で呼んでいます」
「教えていただます?」
「それはちょっと。恥ずかしいので」
「初恋の人の名前だったり?」
「ええ、実は」
アナウンサーは冗談と受け取り、声を出して笑った。
本当は冗談でもないのだが、わざわざ取り消す必要もない。
ひと通りキリン舎を案内して、カットがかかった。
「ありがとうございます。あとは編集して、ニュースで流れますので楽しみにしていて下さい」
「自分が映ったら変えるかもしれないです……」
「あはは、恥ずかしいものですよね」
子キリンは人嫌いせず、いつものように母親に寄り添っている。
テレビ局の人が帰ると、子キリンは窓夏に近寄ってきた。
「お疲れ様。どうだった?」
「緊張しました。本当に僕で良かったのかな……」
「一番懐いているの倉木君じゃない。いい人選だったと思うよ」
手を差し出すと、子キリンは匂いをかいで手を舐め始めた。
「夕方のニュースでやるみたいだからチェックしないとね」
「いやいいですって……」
「なんで? せっかく映るのに、家族に言ったらいいじゃない」
「余計言いませんよ」
夢を叶えた息子を家族は誇りに思い、喜んでいる。
だがそれとこれとは別だ。
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