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第二章 フィアンセとバーテンダー

065 バーテンダーへの旅立ち

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 一週間前、何の前触れもなく宅配便が届いた。
 送り主は俺の上司、中身はシンプルに『衣服』とだけ書かれている。
「……俺の知ってる衣服と違う…………」
 Hから始まるブランドで、送り主は香水やリップバームを愛用している。衣服と聞くと、シャツやジーンズを思い浮かべたが、なぜこうなったと呟いても送り主はここにはいない。入っていたのは
スーツ一着だ。
──卒業おめでとう。
 短い言葉で祝いのメッセージが添えてある。こちらも実にシンプル。日本語が上手い。
 試しに袖を通してみると、どこで測ったのかぴったりだった。
 ブランドのスーツを着て、卒業式に出ろということか。
 ダンボールの一番下にはまだ細長い箱が入っていて、こちらはネクタイだ。
 上から下までブランドで身を固めて、最初で最後の卒業式に出席した。顔もろくに覚えていない、四年ぶりに見た学長は、よく分からない言葉を述べる。すでに寝る姿勢に入っている人もいる。
 卒業式の感想は、特に何も感動もなかった。これからの人生を考えれば、ただの通過点にしかすぎない。
「よっ」
「竹山。なんか毎回久しぶりの再会になるなあ」
「だよな。卒業おめでとう。卒業しても仲良くしてくれ」
「こちらこそ」
 名前で呼ばれることを嫌う彼は、いつも名字で呼んでいる。呼び方は間柄を表すわけではないが、俺はルイに名前で呼ばれるようになってからもっと仲良くなれたと思っている。
 彼の名前は竹山剛流。剛流と書いて『ごうる』。名前のせいで苛められ、教師からも笑われた経験が過去にあり、竹山以外呼ばせてくれなかった。彼にとって「珍しい名前だね」は御法度だ。名前の苦労は分かるだけに、名字での呼び合いには慣れたものだ。
「俺さ、お前にお礼を言いたかったんだ」
「お礼?」
「からかうわけでもなく、ずっと俺のこと『竹山』って呼んでくれただろ? それが嬉しくてさ。弄りのこもったからかいに、俺は上手く答えられないし、好きじゃないから」
「名前に重みがあるとおかしな地位からスタートしてる気分だよな」
「そう、それだよ。そんな感じ。就職前に、名前を変えようかと思ってたんだ。法のことは詳しくないけど、正当な理由があれば変えられるらしいし」
「え」
 それは初耳だ。
「大学四年生活してきて、名前をどうしようか答えは出なかった。けど、出会った友達が俺のことずっと名字で呼んでくれて、高校までの世界はちっちぇなあって思ったんだ。もしかしたら、世界はもっと広いのかもしれないって思った。だから俺、海外に行く。俺の名前が受け入れてくれる場所が他にもあるなら、見つけたい」
「すげえかっこいいじゃん。応援してるよ。海外ならばったり会うかもな」
「海外のどこかで合わせして、遊ぼうぜ。いろいろ案内してほしいし、俺もしてやる」
「おう、約束な」
 こういう約束をしても、結局は口約束で終わるパターだ。けれど竹山とは、なぜか近々叶う気がした。
「なんかあっちに、人だかりができてるな。さっきの美人かな」
「美人?」
「ロン毛の外国人がいたんだ。バラの花束持ってさ」
 ろくにの美人と聞くと、俺の中ではひとりしか思い浮かばない。そんなはずはない。彼は今、北海道にいるはずだ。
「志樹」
 おかしい。北海道にいるはずの彼の声がする。会いたさによりついに幻覚が見え始めたと頭を疑い始めたとき、肩を掴まれた。生花の良い香りがする。
「…………わあ、なんでかな」
「なんだそのリアクションは」
「北海道で牛と日光浴してるんじゃなかったのか?」
「あいにく、夜専門なんでな。卒業祝いと、小言を言いにきた」
「小言? なにか言われるようなことでもしたか?」
 そのときのルイの顔ったらない。美人は怒ると美人になる。
「なぜ卒業後のことを話さなかった。なぜユーリにしか言わない」
「ごめんって! びっくりさせようと思ってさ」
「ユーリの元で修行だと? 日本を離れてフランスへ飛び立つだと? 私は聞いていない」
「そんな声を荒げるなって。みんな見てるし。だからジン・フィズをうまく作れるようになりたかったんだって。ユーリさんからの弟子入りの条件でさ。あ、来週フランスに行くから。お世話になりました。これからもよろしくな」
「……私は猛烈に頭が痛い。今日の夕食はお前が奢れ。許さない」
「悪かったよ。時期を見て言うつもりだったんだ。忙しそうだったから、先回しにしてたんだって」
「……普通、フィアンセに先に言うものではないのか」
「まあ……確かに。今言ったんだからいいじゃんか。夕食はあんまり高いものはやめてくれよ。あ、あとスーツどうもありがとう。こんな高いのもらったことないよ」
「似合っている。それとネクタイ」
「ん」
 ルイはバラの花束を渡すついでに、曲がったネクタイに手をかけた。
「こんな大きな花束もらったのって初めてかも」
「日本人にはあまり買う習慣がないだけだろう」
「ん。なんかルイって姉ちゃんみたいだなあ! 子供の頃から姉ちゃんに怒られてきてさ、ズボン泥だらけだの口にご飯ついてるだの」
 気づけば、回りの人だかりは静まり返っていた。竹山は悟りを開いたみたいな顔をしている。カメラを向けてくる女子生徒もいたので、ルイに早く行こうと促した。
 高いブランドのスーツを着ていると、ルイの右腕になれた気がして鼻が高い。こちらを見てくる女性がいるが、俺と目が合うとあなたじゃないですと分かりやすいほどに目を逸らされた。
 今日で最後になるだろう、向かったのは俺のアパート。途中で寿司を買って、チェーン店の揚げた鶏肉料理も購入し、良い香りを漂わせながら鍵を開けた。
「今なら言える……! チキンの香りって、空腹のときはルイの香水より良い香りだって自信持って言えるぞ」
「奇遇だな。カレーの香りも常々そう思っていた」
「分かる」
「日本人のお祝い事には、寿司が欠かせないのだな」
「フランスだってあるだろ? ガレットとか、七面鳥とか」
「カタツムリもな」
「………………え?」
「エスカルゴ」
 発音は日本語のエスカルゴとそっくりだ。
「なんかカタツムリって聞くと、不味そうに聞こえるんだけど」
「エスカルゴはいいのにか?」
「言葉の印象だよ。ザリガニって聞くと不味そうだろ? けどロブスターは美味しい、絶対。食べたことないけど」
「フランスへ行ったら、ユーリに奢ってもらえばいい」
 バラの花は半分に分けて、玄関とリビングに飾った。生バラの香りは嫌いと言う人はいないんじゃないだろうか。瑞々しくて気持ちが晴れやかになる。
「いつからフランスで修行したいと思うようになった?」
「大学四年生になった頃かな。バーで働きたいって思うようにもなって、けど語学力ももっと腕を上げたかった。一番良い方法としては、海外でお酒を作ること。ルイって優しいから、自分が英語でもフランス語でも教えるって言うだろ? 俺知ってるんだぞ。ルイは俺と話すとき、言葉遣いがゆっくりになってるって」
「……………………」
「他の外国人はもっとスラング用語も話すし癖もあるし、もっとそういうところで揉まれたかった。スラング語を話したいって意味じゃなくて、ルイとだけ話してても耳を鍛えるには限界があるってこと」
「なるほどな。お前の人生だ、好きにしろと言いたいが……」
「俺が抜けた後、バイトも困るよな。いきなり一人減るわけだし。俺の代わりになる人雇うべきだと思う」
「そうそうお前の代わりなど務まる人間がいるわけないだろう」
「お、おう……そっか」
「アルバイトの心配はいらない。元々私一人でやってきた」
「本当にごめん。自分の将来のことばっかで、後先考えなしだ」
「謝るな」
「腹割って話すついでなんだけど……」
 ずっとずっと考えてきたことがある。俺の気持ちをまだ伝えていなかった。
「俺さ……将来はルイの人生に寄り添える人間になりたい」
「……………………」
 下を俯いたせいで、ルイの反応が伺えない。
 ルイも何も言わない。
 たった十秒くらいであっても、俺にとっては何十分にも感じられた。
「お前の言う寄り添える人間だが、」
「うん」
「一緒にご飯を食べたり、どこかへ出かけたり、酒に溺れて介抱したり。そういう間柄か?」
「うん……改めると照れるしわざわざ口に出す必要ないかもしれないけどさ……。あれ? 友達か? 家族って言いたかったのかも」
「言う必要性を感じないな。今までと変わらないじゃないか」
「そっか……そうだよな。だろうなあとは思ってたんだ」
 何を当たり前なことを、という顔で、ルイはどくだみ茶を飲み干した。
「私も志樹に言わねばならないことがある」
「どうした?」
 ポーカーフェイスのため、良い話なのか悪い話なのか区別がつかない。とりあえず、正座のまま切り替えたまま背筋を伸ばした。
「ごく稀にだが、身体の調子が良いとき、私はどくだみ茶を飲まなくても味が分かるときがある」
「え…………」
 ここ一番の驚いた話だ。
「いつもではないが、睡眠が不足していなかったり、気持ちが穏やかだったりすれば、味が分かるようになるらしい」
「すごいなあ! 大学卒業より嬉しいニュースだよ!」
「……少しは自分をいたわれ。ごちそうさま」
「お粗末さまでした」
「人から奢ってもらうご飯は、こんなにも美味しいものなんだな」
「奢りがいがあったよ」
 寿司を買うときもチキンを買うときも、一切財布を出そうとしないルイに、ちょっとだけ誇らしい気持ちになった。ブランドのスーツを着させられている感が強かったが、お金を支払うことで隣に立てた気がした。いつか、もっとこんな感情で満たされるような人生を送りたい。
「今日泊まってく?」
「そうさせてもらう」
「やった! ついでに引っ越しの準備手伝ってよ。ほとんど手つけてないんだ」
「どうせそちらが目的だろう」
「どっちもだって! ルイが泊まって嬉しいんだって!」
 言い訳がましいと、ルイは笑っている。嘘はつけない。マジで手伝って下さい。
 端末が明るく光り、姉からメールが届いた。
──卒業おめでとう。ルイさんって良い方ね。しっかり頑張りなさい。
「ルイ……? どういうこと?」
「なんだ?」
「姉ちゃんと会ったのか?」
「電話で話した」
「いつ? どこで?」
「ついさっき」
 俺が食事の準備をしている間、ルイはスマホを手にしたまま外に出た。てっきり仕事の用事かと思いきや、姉宛の電話だったらしい。
「なんで実家の……履歴書か」
「把握済みだ。私もいきなりの話で混乱していた」
「何を話したんだ?」
「ふつつか者ですが、どうぞお願い申し上げます、と」
「……ちょっと待て。俺も混乱してる」
「日本語は不慣れで、至らない点があるとも伝えているが、あまりよくない言葉だったか?」
「いやいや、いいと思うぞ。多分」
 これ以上何か言ったら、ルイの脳を刺激してまた味が分からなくなっても困る。そのままにしておくことにした。



 俺はもうすぐ旅立つ。悲しい別れなんじゃなく、明日に向かった別れだ。
 空港に送ってくれたルイは瞼を熱くさせるわけでもなく、いつもの様子で淡々とカクテルについて語っている。この瞬間、俺はとても好きだ。
 これから日常は明日から大きく変わる。将来に向けた挑戦は、山も谷もどぶ川もあるだろう。裸足で歩けるわけがないが、道中も楽しみたい。ときには花見もしたりして、新しい旅立ちを大いに祝おう。
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