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第二章 フィアンセとバーテンダー
060 母という存在
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二十四時間営業の店は、こういうときに助かる。例えば、小学生のときに生き別れた母親と偶然再会し、どこか話せる場所でお茶をしようとしたときとか。
池袋ともなると、深夜でもお客さんはいて、席はそれなりに埋まっている。
少し空腹だったが食べる気もおきなかったので、アイスコーヒーを注文した。彼女はウーロン茶だ。
「元気にしてた?」
「まあまあだよ」
「…………そう」
会話が終了してしまった。俺のせいか。けれど話題がない。うまく繋げられない。
「なんで、エレティックに来たの?」
「たまたまよ」
「たまたまで来られる店じゃないんだけど。駅から離れてるし」
「……息子がね、いるのよ」
息子、とは。
俺を指す言葉ではないだろう。期待でぴくりとも心が跳ねない。
「息子は旦那と一緒にここに住んでるの。私は別で一人暮らし」
左手の薬指に、光るものがある。まだ田舎にいた頃、彼女がしているところなんて一度も見たことがなかった。父や家族に対して愛の重さを天秤にかけられた気がして、天秤ごとひっくり返したくなった。いっそ子供の駄々のように、投げつけられたらすっきりするだろうか。
「いつから、こっちにいるの?」
「高校卒業してから。田舎で生活はあまりしたくなくて」
「そうなのね。お母さんに似たのかしら」
「さあ……それはどうだろう」
何かを探るような目で、俺を一瞬だけ見た。
「すっかり大きくなったのね」
「そっちが出ていってから、それなりに経つしね」
「…………そうね。時間が経つのは早いわ。どうしてあそこでバイトしてるの?」
「いろいろあって」
今の生活以上に、話したくない話題だ。俺とルイとの間に紙切れ一枚だって挟みたくない。
「志樹……」
用があった呼び方ではなくて、俺の反応を確かめるような言い方だった。
頭の中で写真が次々と入れ替わる。深夜に出ていこうとする母の手を掴んだら振り払われたこと、運動会に来てほしいと懇願しても来てくれなかったこと、朝帰りの母にテストで良い点を取ったと報告したら、見向きもせずに部屋にこもられたこと。
名前のつけられない感情で、泣きたいのかどうかも分からない。渇いた笑いが込み上げてきた。
「寂しくなかった?」
「ばあちゃんが死んで、そりゃあ寂しかったよ」
「お姉ちゃんは元気にしてる?」
「元気だよ。旦那さんもいて、子供も生まれてる」
「私はおばあちゃんになったのね」
「おばあちゃんって感じじゃないでしょ」
どちらかというと、今も深夜にクラブで踊り明かしているようなイメージだ。あの頃も、いつも朝にお酒の香りを漂わせて帰ってきていた。子供だったが、あの頃は母親はアルコール中毒なんじゃないかと心配していた。今日のバーでの飲み方を見ると、抑えは利くらしい。
「またお店に行ってもいい?」
「…………うん。金土日は開いてるから」
言葉少なげだが、彼女はほっとした標準的を見せた。
何を言っているんだろう、俺は。
いざ久しぶりに再会すると、何を話したらいいのか出てこなかった。喉まで出かかって呑み込むというより、何も浮かばない。流れるままに答えるだけ。
お茶代は彼女が出してくれた。長財布の中に差し込んである写真は、息子が映っていて、彼女に似た目をしていた。俺や姉でもない、息子。彼女の中では、花岡志樹という存在はすでにいないものとして扱われていた。
終電が過ぎてしまったので、アパートには行かずにエレティックへ戻った。鞄を投げ、ベッドに倒れたまま目を瞑るが、頭は冴えていてなかなか眠りにつけない。
携帯端末を開くが、誰からもメールは来ていない。唐突に姉と会話をしたくなった。声が聞きたくなった。
電話をかけてみると、三コール目でコール音が止むが、代わりに子供の泣き声が聞こえてくる。タイミングが悪すぎた。
『志樹?』
「子供まだ起きてんの?」
『熱出して昼間も寝てたのよ』
「ごめん、後でかけ直すよ」
『悪いわね』
じゃあ、というタイミングでぷっつりと切れてしまった。テレビでよく流れる悲しみの歌が俺の頭にも唐突に流れ、なんだか切なくなった。
翌日は九時に目覚めるというとんでもない寝坊をしてしまい、大学もないしまあいいかと再び布団に潜る。何かしたい気分にはなれなかったが、テーブルにはサンドイッチがある。それとヨーグルト。
「一度来たのか」
面倒かけっぱなしだ。このままだと俺はダメ人間になりそうで、彼がいないとおかしくなりそうだ。けれどサンドイッチは有り難く頂戴しよう。パンがふかふかで、卵が甘くて美味しい。
食べた後はまたもや眠気に誘われて、ベッドに横になった。
「ん…………」
頭に乗る何かに触れようとするも、そのままでいろと低い声に遮られた。
見慣れた天井で、けれど自分のアパートではない。なぜここにいるんだと肩の力を抜き、昨日のやりとりが思い浮かぶ。子供だった俺を捨てて田舎を出た母と暗黒の邂逅を果たした。偽りの花岡志樹は、言いたいことも言えずに何となくの会話で別れを告げた。また店に来ると伝えた彼女も、偽りの母親だろう。
「花岡家の黒歴史は、こうして一ページが刻まれるのだった……」
「熱はあるようだが、他に痛いところはあるか?」
「ひどいな……真剣なんだって」
「私も真剣だ」
「ん?」
額に乗る何かを取ろうとするも、剥がすなと二度目の警告が降ってくる。
タオルか何かを乗せられているのかと思ったが、冷却シートだ。
「顔が赤くてうなされていたので、勝手に熱を測らせてもらった」
「その結果、冷却シート?」
「ああ」
「微熱だろうが薬は飲め。今日一日寝ているように」
「体温はどのくらい?」
「聞きたいのか? 具合が悪くなるからやめておけ」
今朝はサンドイッチとヨーグルト、今は何かのスープが置いてある。
「トマトスープだ。胃に入りそうか?」
「あんまり食欲ない……」
「そうか。食べろ」
「なんで聞いたんだよ……もう。昨日は大変だったんだって」
「家を出た母親と遭遇して一緒にお茶をし、また店に来てもいいと伝えたほど、大変だったらしいな」
「なんで知ってんの?」
「先ほど店の前にいた。本日は閉店して、私もゆっくりしよう」
「ちょっと待て。俺のせいか? 俺のせいで店を閉めるのか? 微熱程度なら店に立てるよ」
「断じてお前のせいではない。ここ数週間、私は休みなく働いていた。お前の体調が思わしくないことを理由にしたのは事実だが、いい加減休みをよこせとユーリに伝えたところ、本日は休業日となった。あと微熱をなめるな。母親には、明日ならば店を開けるからと伝えててある」
聞きたいことをまとめてくれた。嬉しいが、結局店を閉めるきっかけを作ったのは俺だ。
「なんか……ごめん」
「なぜ謝る」
「謝りたい気分なんだよ」
「何があった?」
「うー……息子になりきれない男に、なんでまた会いにくるのかこっちが聞きたい」
「そんな声で震えてないで、泣きたいならさっさと泣け。フィアンセのよしみで話くらいは聞いてやる」
「フィアンセもだよ! いつまでこんな関係でいてくれるんだ」
悪の感情が怒濤に押し寄せる。残念なのは、波のように一度やってきたものが引っ込まないことだ。出しっぱなしの感情は、駄々をこね続けておもちゃ箱から放り投げるだけの三歳児と同じだった。
「……利用してしまっている自覚はある。フィアンセという存在がいれば、実家からとやかく言われる心配はないし、男性であるから世継ぎのあれこれも言われない。お前には、申し訳なく思っている。いずれ言わないと思っていたが、ここまで引きずり回してしまった」
「……………………」
まさかルイがそんな思いでいるとは思わなかった。
日本流に頭を下げる姿は、妙に様になっている。
「驚いただろう。お前の顔を見れば分かる」
「いやいや、確かに驚くけどさ。俺は俺でルイの特別になれたみたいで嬉しかったし。切っても切れない兄弟の絆っぽいものがあればいいなあとか、勝手に考えてた」
「そうか。このようなあくどい話をした手前、言うべきことではないが……」
「別にあくどくないけど」
「もし、お前に好きな人ができて、付き合いたいと願う相手ができたときは解消したい。今は、継続したいんだ」
人間、やましいことがあると目を見ていられないが、今のルイがまさにそうだ。分かりやすいほどに逸らす。ポーカーフェイスが行方不明。
「お互いに?」
「そうだな。この先、私にできるとは考えられないが。もしできたら、一番に告げる。親よりも誰よりも早く」
「う、分かった。俺も、言う」
「いい子だ。ハンカチを貸そう」
「うわあ、俺があげた香水の香りがする」
調子に乗ってすんすん嗅いでいたら、初めて納豆を見たときのような目で見られた。ゲテモノ扱いもいいところだ。
俺は、目に見える繋がりも見えない繋がりも欲しかったのかもしれない。フィアンセは継続だと言われ、ひどく安心した。これ以上眠れないのに、頭は眠いと訴えている。
俺は嫉妬深い性格だ。さらさらした砂よりも、どぶ川に沈んだ泥に近い。見えないところでまっとうで前に進む人を引きずり込もうとしている。浅ましい人間。 頭の良い彼はきっと俺の考えなんてお見通しだろうに、それでも側にいてくれようとする。
「具合の悪い人の横で、私はステーキ丼を食す。しかもヒレ肉だ。食べたいのであれば、さっさと体調を元に戻すことだ」
「なんだよそれ」
「私はしょせん、この程度の人間だ。嫉妬もするし、大切な人を奪われそうになればあの手この手を尽くす。おまけに意地も悪い。お前の分のステーキはないしな。お前はたまに私を王子に例えるが、いつも魅惑的な微笑みをするわけでもないし、舞踏会を開いて朝まで踊り明かすわけでもない」
とか言いつつも、しっかりとスープを用意してくれるあたり優しさにまみれた人だ。
「わたあめをそのまま喉につっこんでる感じ。甘ったるい人だなあ」
「何を言い出すんだ」
「なんでもない。お腹空いてきた。スープあっためて」
食欲とは急に沸いてくるもので、トマトスープと買い置きのロールパンも食べた。
食事の後は、久しぶりにルイとの時間を過ごした。こんな風に時間に追われない空気は久しぶりだ。仕事の合間を縫って会いにきてくれたりはするものの、お茶をしながらというのはなかった。
ルイは俺が眠くなるまで付き合ってくれた。フィアンセという枷が外れ、新しくフィアンセという名の絆が生まれた気がして、調子に乗って喋りまくっていたら、いい加減寝ろとさすがに怒られてしまった。
怒る声も心地いい。
池袋ともなると、深夜でもお客さんはいて、席はそれなりに埋まっている。
少し空腹だったが食べる気もおきなかったので、アイスコーヒーを注文した。彼女はウーロン茶だ。
「元気にしてた?」
「まあまあだよ」
「…………そう」
会話が終了してしまった。俺のせいか。けれど話題がない。うまく繋げられない。
「なんで、エレティックに来たの?」
「たまたまよ」
「たまたまで来られる店じゃないんだけど。駅から離れてるし」
「……息子がね、いるのよ」
息子、とは。
俺を指す言葉ではないだろう。期待でぴくりとも心が跳ねない。
「息子は旦那と一緒にここに住んでるの。私は別で一人暮らし」
左手の薬指に、光るものがある。まだ田舎にいた頃、彼女がしているところなんて一度も見たことがなかった。父や家族に対して愛の重さを天秤にかけられた気がして、天秤ごとひっくり返したくなった。いっそ子供の駄々のように、投げつけられたらすっきりするだろうか。
「いつから、こっちにいるの?」
「高校卒業してから。田舎で生活はあまりしたくなくて」
「そうなのね。お母さんに似たのかしら」
「さあ……それはどうだろう」
何かを探るような目で、俺を一瞬だけ見た。
「すっかり大きくなったのね」
「そっちが出ていってから、それなりに経つしね」
「…………そうね。時間が経つのは早いわ。どうしてあそこでバイトしてるの?」
「いろいろあって」
今の生活以上に、話したくない話題だ。俺とルイとの間に紙切れ一枚だって挟みたくない。
「志樹……」
用があった呼び方ではなくて、俺の反応を確かめるような言い方だった。
頭の中で写真が次々と入れ替わる。深夜に出ていこうとする母の手を掴んだら振り払われたこと、運動会に来てほしいと懇願しても来てくれなかったこと、朝帰りの母にテストで良い点を取ったと報告したら、見向きもせずに部屋にこもられたこと。
名前のつけられない感情で、泣きたいのかどうかも分からない。渇いた笑いが込み上げてきた。
「寂しくなかった?」
「ばあちゃんが死んで、そりゃあ寂しかったよ」
「お姉ちゃんは元気にしてる?」
「元気だよ。旦那さんもいて、子供も生まれてる」
「私はおばあちゃんになったのね」
「おばあちゃんって感じじゃないでしょ」
どちらかというと、今も深夜にクラブで踊り明かしているようなイメージだ。あの頃も、いつも朝にお酒の香りを漂わせて帰ってきていた。子供だったが、あの頃は母親はアルコール中毒なんじゃないかと心配していた。今日のバーでの飲み方を見ると、抑えは利くらしい。
「またお店に行ってもいい?」
「…………うん。金土日は開いてるから」
言葉少なげだが、彼女はほっとした標準的を見せた。
何を言っているんだろう、俺は。
いざ久しぶりに再会すると、何を話したらいいのか出てこなかった。喉まで出かかって呑み込むというより、何も浮かばない。流れるままに答えるだけ。
お茶代は彼女が出してくれた。長財布の中に差し込んである写真は、息子が映っていて、彼女に似た目をしていた。俺や姉でもない、息子。彼女の中では、花岡志樹という存在はすでにいないものとして扱われていた。
終電が過ぎてしまったので、アパートには行かずにエレティックへ戻った。鞄を投げ、ベッドに倒れたまま目を瞑るが、頭は冴えていてなかなか眠りにつけない。
携帯端末を開くが、誰からもメールは来ていない。唐突に姉と会話をしたくなった。声が聞きたくなった。
電話をかけてみると、三コール目でコール音が止むが、代わりに子供の泣き声が聞こえてくる。タイミングが悪すぎた。
『志樹?』
「子供まだ起きてんの?」
『熱出して昼間も寝てたのよ』
「ごめん、後でかけ直すよ」
『悪いわね』
じゃあ、というタイミングでぷっつりと切れてしまった。テレビでよく流れる悲しみの歌が俺の頭にも唐突に流れ、なんだか切なくなった。
翌日は九時に目覚めるというとんでもない寝坊をしてしまい、大学もないしまあいいかと再び布団に潜る。何かしたい気分にはなれなかったが、テーブルにはサンドイッチがある。それとヨーグルト。
「一度来たのか」
面倒かけっぱなしだ。このままだと俺はダメ人間になりそうで、彼がいないとおかしくなりそうだ。けれどサンドイッチは有り難く頂戴しよう。パンがふかふかで、卵が甘くて美味しい。
食べた後はまたもや眠気に誘われて、ベッドに横になった。
「ん…………」
頭に乗る何かに触れようとするも、そのままでいろと低い声に遮られた。
見慣れた天井で、けれど自分のアパートではない。なぜここにいるんだと肩の力を抜き、昨日のやりとりが思い浮かぶ。子供だった俺を捨てて田舎を出た母と暗黒の邂逅を果たした。偽りの花岡志樹は、言いたいことも言えずに何となくの会話で別れを告げた。また店に来ると伝えた彼女も、偽りの母親だろう。
「花岡家の黒歴史は、こうして一ページが刻まれるのだった……」
「熱はあるようだが、他に痛いところはあるか?」
「ひどいな……真剣なんだって」
「私も真剣だ」
「ん?」
額に乗る何かを取ろうとするも、剥がすなと二度目の警告が降ってくる。
タオルか何かを乗せられているのかと思ったが、冷却シートだ。
「顔が赤くてうなされていたので、勝手に熱を測らせてもらった」
「その結果、冷却シート?」
「ああ」
「微熱だろうが薬は飲め。今日一日寝ているように」
「体温はどのくらい?」
「聞きたいのか? 具合が悪くなるからやめておけ」
今朝はサンドイッチとヨーグルト、今は何かのスープが置いてある。
「トマトスープだ。胃に入りそうか?」
「あんまり食欲ない……」
「そうか。食べろ」
「なんで聞いたんだよ……もう。昨日は大変だったんだって」
「家を出た母親と遭遇して一緒にお茶をし、また店に来てもいいと伝えたほど、大変だったらしいな」
「なんで知ってんの?」
「先ほど店の前にいた。本日は閉店して、私もゆっくりしよう」
「ちょっと待て。俺のせいか? 俺のせいで店を閉めるのか? 微熱程度なら店に立てるよ」
「断じてお前のせいではない。ここ数週間、私は休みなく働いていた。お前の体調が思わしくないことを理由にしたのは事実だが、いい加減休みをよこせとユーリに伝えたところ、本日は休業日となった。あと微熱をなめるな。母親には、明日ならば店を開けるからと伝えててある」
聞きたいことをまとめてくれた。嬉しいが、結局店を閉めるきっかけを作ったのは俺だ。
「なんか……ごめん」
「なぜ謝る」
「謝りたい気分なんだよ」
「何があった?」
「うー……息子になりきれない男に、なんでまた会いにくるのかこっちが聞きたい」
「そんな声で震えてないで、泣きたいならさっさと泣け。フィアンセのよしみで話くらいは聞いてやる」
「フィアンセもだよ! いつまでこんな関係でいてくれるんだ」
悪の感情が怒濤に押し寄せる。残念なのは、波のように一度やってきたものが引っ込まないことだ。出しっぱなしの感情は、駄々をこね続けておもちゃ箱から放り投げるだけの三歳児と同じだった。
「……利用してしまっている自覚はある。フィアンセという存在がいれば、実家からとやかく言われる心配はないし、男性であるから世継ぎのあれこれも言われない。お前には、申し訳なく思っている。いずれ言わないと思っていたが、ここまで引きずり回してしまった」
「……………………」
まさかルイがそんな思いでいるとは思わなかった。
日本流に頭を下げる姿は、妙に様になっている。
「驚いただろう。お前の顔を見れば分かる」
「いやいや、確かに驚くけどさ。俺は俺でルイの特別になれたみたいで嬉しかったし。切っても切れない兄弟の絆っぽいものがあればいいなあとか、勝手に考えてた」
「そうか。このようなあくどい話をした手前、言うべきことではないが……」
「別にあくどくないけど」
「もし、お前に好きな人ができて、付き合いたいと願う相手ができたときは解消したい。今は、継続したいんだ」
人間、やましいことがあると目を見ていられないが、今のルイがまさにそうだ。分かりやすいほどに逸らす。ポーカーフェイスが行方不明。
「お互いに?」
「そうだな。この先、私にできるとは考えられないが。もしできたら、一番に告げる。親よりも誰よりも早く」
「う、分かった。俺も、言う」
「いい子だ。ハンカチを貸そう」
「うわあ、俺があげた香水の香りがする」
調子に乗ってすんすん嗅いでいたら、初めて納豆を見たときのような目で見られた。ゲテモノ扱いもいいところだ。
俺は、目に見える繋がりも見えない繋がりも欲しかったのかもしれない。フィアンセは継続だと言われ、ひどく安心した。これ以上眠れないのに、頭は眠いと訴えている。
俺は嫉妬深い性格だ。さらさらした砂よりも、どぶ川に沈んだ泥に近い。見えないところでまっとうで前に進む人を引きずり込もうとしている。浅ましい人間。 頭の良い彼はきっと俺の考えなんてお見通しだろうに、それでも側にいてくれようとする。
「具合の悪い人の横で、私はステーキ丼を食す。しかもヒレ肉だ。食べたいのであれば、さっさと体調を元に戻すことだ」
「なんだよそれ」
「私はしょせん、この程度の人間だ。嫉妬もするし、大切な人を奪われそうになればあの手この手を尽くす。おまけに意地も悪い。お前の分のステーキはないしな。お前はたまに私を王子に例えるが、いつも魅惑的な微笑みをするわけでもないし、舞踏会を開いて朝まで踊り明かすわけでもない」
とか言いつつも、しっかりとスープを用意してくれるあたり優しさにまみれた人だ。
「わたあめをそのまま喉につっこんでる感じ。甘ったるい人だなあ」
「何を言い出すんだ」
「なんでもない。お腹空いてきた。スープあっためて」
食欲とは急に沸いてくるもので、トマトスープと買い置きのロールパンも食べた。
食事の後は、久しぶりにルイとの時間を過ごした。こんな風に時間に追われない空気は久しぶりだ。仕事の合間を縫って会いにきてくれたりはするものの、お茶をしながらというのはなかった。
ルイは俺が眠くなるまで付き合ってくれた。フィアンセという枷が外れ、新しくフィアンセという名の絆が生まれた気がして、調子に乗って喋りまくっていたら、いい加減寝ろとさすがに怒られてしまった。
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