バーテンダーL氏の守り人

不来方しい

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第二章 フィアンセとバーテンダー

054 麗しき女性

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 空港は、国の香りがすると言われている。日本であれば醤油や魚、アメリカは甘いスイーツ、インドはスパイス。食生活の特色が鼻でも楽しめるなんて、世界中の空港を回りたくなる。
 人生二度目のフランスのシャルル・ド・ゴール国際空港は、香水の香りがした。フランス人は香水好きで、俺もフランス人からプレゼントをもらったことがある。空港の香りからも、フランス人はいかに香水文化を大切にしているのか伺える。
 スーツにサングラスという男性たちがいて、俺を見つけるなりまっすぐに向かってきた。どう見ても怪しい。
「花岡さんですね」
「はい、お久しぶりです。お元気でしたか?」
「お迎えに上がりました。ディミトリ様がお待ちです」
「ありがとうございます」
 いつぞやの会話を彷彿させるような、淡々とした会話である。必要のある台詞だけを選び、余計なものは省く。けれど答えはしてくれるので、マンドリュー・ラ・ナプールまでの数時間も退屈しなそうだ。
 縦に長い車に乗ると、料理やワインが用意されていた。モニターでテレビも観られる。退屈しないで済みそうだ。
 時間の感覚がおかしくなっているが、今は昼だ。甘めのクロワッサンとバゲットにハムとチーズを挟んだサンドイッチを食べたが、お酒は遠慮した。
 黙って座っていただけなのに疲労が溜まっていたのか、しばらく車の中で眠ってしまった。ほどよい揺れも眠気を誘う原因だった。
「着きましたよ」
 車から降りると、満開ではなくてもミモザの香りがしっかりと残っている。
 優しい香りに向かえられて、お城とも呼べる大きな建築物の中に入った。
「ディミトリさんはいますか?」
「今は仕事で外出しております。夕食の時間帯には戻られますので、それまでは部屋でおくつろぎ下さい」
「なら、外に探検しに行ってもいいですか?」
「構いません。十九時までにはお戻り下さい」
「はーい」
 てっきりついてくるかと思ったが、彼らは部屋を案内するだけでいなくなってしまった。
 日本のアパートは小さめにできているというが、差がありすぎてため息しか出てこない。客室だろうが、ホテルのスイートルームを思わせるような、至れり尽くせりの部屋だ。テレビ、大きなベッド、テーブル。隣の部屋は風呂場とトイレ。トイレなんて、大人数名入れるんじゃないかという広さだ。十条のアパートと比べると差があるが、こんなに広いと落ち着かない。
 荷物を置いて廊下に出ると、メイドとはち合わせた。決して愛想が良いわけではないが、歓迎されていないわけではないらしい。必要なものはあるか、夕食は午後七時、ベルを鳴らせば部屋まで行くと、彼女は必要事項を述べる。
 ご親切にありがとうと、メルシーよりも最上級のフランス語を口にすると、彼女はとても驚いて笑顔を見せた。
 探検したいのは、ルイの住んでいた塔の近くだ。あそこならば、土地勘はあるし、迷わないだろう。多分。
 上着を持ってきて良かった。東京よりも肌寒く、気温は二十度を下回っている。天気が良いのは幸いで、寒くても外でじっとしていられないほどではない。
 ルイの住んでいた塔を見つけた。相変わらず孤独に佇んでいる。家というより、ルイにとっては牢獄のような場所だろう。
 しばらく眺めてから、もっと奥に進んでみることにした。
「………………?」
 奥で、誰かの声がした。女性だ。小鳥のさえずりのように、かろやかで優しい声。
 こっそり木陰から覗くと、モデルのようなすらりとした女性が、ワンピースの裾をひらめかせて歌を歌っていた。
 人間というより、まるで妖精だ。ハニーブロンドの長い髪が揺れ、木々の若葉も彼女のステージを応援する舞台装置と化していた。
 女性には人を吸い込む力があるようで、俺は小幅で彼女の元へ歩いていく。
「だあれ?」
 フランス語だ。フランス人なのだから当たり前だろうが、言語を超えた何かを話しそうな気がする。
 つい癖で頭を下げると、彼女は不思議そうに首を傾け、もう一度くるりと回った。
「あなた、日本人ね?」
「ええ、そうです」
「フランス語は分かるかしら? 英語の方がいい? 私は息子と違って、日本語が分からないの。日本ってどんなところかしら。和食は好きよ。ヘルシーで美味しいもの」
 フランス語での日常会話はそこそこできるようになったと自負していたが、半分ほど理解できなかった。聞き間違いでなければ、息子という「フィス」が聞こえた。
「え? 息子?」
「あらやだ。子供がいるように見えないの? うふふ……成人息子が二人いるわ」
 今度こそはっきり聞こえた。息子がいると言っている。
 人に年齢を聞くのは失礼だが、この女性は時間が止まっているのではないか。成人の息子がいるのであれば、二十歳で生んでいても四十歳を超えている。
 歌うように何か話しかけてくるが、ほとんどが聞き取れなかった。
「あの、できれば英語でお願いします。フランス語はまだ完璧じゃないんです」
「うふふ……そうなの? あなたのフランス語は好きよ。息子が目の前にいるみたい。ねえ、踊りましょう? 歌ってあげるわ。さあ、手を取って」
「ええ?」
「大丈夫よ。ほら、早く」
 てっきり、さっきまで歌っていた歌だと思ったら、いきなりオペラが始まった。日本人でも知っている、有名な曲だ。しかもめちゃくちゃな上手さ。上手いなんて褒め言葉自体が失礼なんじゃないかと思う。
 触れた腰は細いのに筋肉がしっかりしている。
「ぎこちないのは、女性と触れ合うのが慣れていないから? それともダンス経験がないのかしら?」
「どちらもですよ」
「なら、私が教えてあげる。あのね、一緒に踊ったら、きっと楽しいと思うの」
「息子さんとは踊らないんですか?」
「ダンスパーティーのときくらいしか踊ってくれないわ。とっても悲しい」
 大きな目が潤み、涙だけではなく、瞳まで落ちてきてしまいそうだ。
「わ、分かりました……踊りましょう」
「あなたは音感あるから、きっとすぐに上手になるわ。ほら、早く」
 年上のはずなのに、親戚の小さな子供を預かった気分だ。妹がいたら、きっと楽しいだろう。
 彼女は音に敏感なだけでなく、体力も有り余っている。力を込めて引き寄せても、もたれかかったりせず、軸が一切ぶれなかった。
「あなたのこと、とても気に入ったわ。デートしてあげる。どこがいい? お茶でもしましょうよ」
「あの、なんてお呼びすれば?」
「そうねえ……」
 ペラペラとよく喋る口が止まり、彼女は首を傾げて上を向いた。可愛らしい癖だ。
「ナンナ、はどうかしら? 日本人でも発音しやすいんじゃないかしら? 余計な敬称はなしにしてね」
「分かりました、ナンナ。俺はシキです」
「うふふ」
 何がおかしいのか、自己紹介すると、彼女は新しいおもちゃを見つけたみたいに、ぴょんぴょん跳ねた。
「でも、十九時までに帰らないといけないんです」
「ま、シンデレラみたい。いいわ。数時間でも嬉しいもの」
 今さらだと思うが、見ず知らずの女性と出かけてもいいものか。俺の手を掴んで離そうとしないので、とりあえずついて行くことにした。ドラッグの売人にも詐欺師にも見えない。
 森を抜けると、車で来ていたようで運転席には男性が暇を持て余していた。
 ナンナはものすごい早さのフランス語で何かつたえると、運転手は怪しげな目でじろじろと俺を見る。彼からすれば、王女様をたぶらかす悪者だ。
「すみません、英語は分かりますか? 彼女とお茶をすることになったんですけど……」
「まあシキったら。許可なんて必要ないわ。私があなたと甘いお菓子をつまみたいだけよ。紅茶とコーヒーはどちらが好き? 私はね、ハーブティーにするわ」
「ええと……お構いなく……」
「もう、はっきり言って」
「じゃあ、ハーブティーで」
「それならハーブティーの美味しいお店に行きましょう。タルトとよく合うのよ」
 運転手は諦めたのか、何も言わなかった。
 二人で後部座席に乗っている間も、彼女の話は止まらない。質問してきてはこちらが答える前に、納得して次の質問に飛んでいく。けれど、不思議と居心地は悪くなかった。よく喋っていても心地良い声で、歌うように話す彼女は波の音や山のせせらぎに近い。
「シキ、シキ、見て。あの木はすべてミモザなのよ」
「綺麗ですね。見頃は冬なんですよね」
「知っていたの? んもう、私が教えたかったのに」
「日本から来るときに、教えてもらいましたから」
「ふうん。あなたに教えた人は、どんな人? 素敵な人? ハンサム? オシャレな方?」
「ん? 全部当てはまってる人です」
 ちょっと気になる質問だが、今は気にせずスルーすることにした。
「あなたにとって、その人はどんな人?」
「尊敬していて、大事な人です。俺の人間関係の中で、一番近い位置にいます。できれば、俺は側にいたい。けど……」
「何かあるの?」
「迷惑なんじゃないかって、思うときがあるんです。よく言われるんですけど、俺には暴走癖があって、それを指摘されます。迷惑をかけている自覚もあります」
「あなたが側にいたくて、相手もそれを望んでいるならいいんじゃないの?」
「相手が望んでいるかは、分からないんですよね。あまり自分の感情を表に出すタイプでもないんで」
「あなたは、その人とどうなりたいの?」
「どう?」
「お付き合いしているの?」
「そういう間柄じゃないんです。でも訳あって婚約を結んでいて、ある意味人質のような関係なんです」
 日本に渡った遺産を探してルイの近状を内密に知らせるのが俺の仕事だ。勢いで婚約を結んだのはいいが、時間が経つごとに隠し事をしている事実から目を逸らしきれなくなってきた。ルイとは誠実に向かい合いたいのに、それができない。
 車は細道に入り、駐車場に止まった。ナンナは顔の半分を隠すくらいの大きな黒いサングラスをかけ、外に出るよう促した。
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