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第二章 フィアンセとバーテンダー
053 婚約破棄の選択肢
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さあ、これからどう動くか。そんな大雑把な悩みを抱えたままカレーを作り、ふたり向かい合って食べた。サラダはルイがデパ地下で買ってきてくれたものだ。黒いぷちっとしたものが乗っているが、サメの卵ではないことを祈ろう。値段を聞くのが怖い。
──どうだ?
恐怖の一言メールである。
端末を見ながらサラダをつついていると、食事中だとルイに目でたしなめられた。フランスからは催促のメール。目の前はマナー講師。兄弟に挟まれて、愛想笑いしかできない俺。
「ゴールデンウィークに、ちょっと海外に遊びに行きたいなあ」
「海外? どこだ?」
「例えばだけど、フランスとか」
訝しむ目というか、純粋に捨て身の覚悟で怪しむ目を向けるルイに、俺も全力で目を逸らした。
「フランスといえど、土地は広い」
「マンドリュー・ラ・ナプールとかかなあ。ミモザが綺麗だろうなあ」
「見頃は一月から二月だ。残念だったな。旅行なら東北がおすすめだ」
「いやいや、東北はないって。就活生は帰れって怒鳴られるのがオチだし」
「就活生だと自覚があったか。まあ、普段から勉強もしっかりやっていれば、焦ることはない」
ルイは反対もしなければ、勧めもしない。
「本当に行く気があるのなら、餞別くらいやろう」
「え、いいの?」
「将来の選択肢にも必要なものだ。何も大学にいるだけが勉強ではない」
いろいろ聞きたいだろうに、ルイは何も言わずに聞かないでいてくた。有り難いやら申し訳ないやらで、まずは腹ごしらえだと目の前のカレーに集中した。
ベルナデット嬢のこと、ブレスレットのこと、関係している組織について、聞きたいことは山ほどある。義理の兄になりそうなディミトリさんも、俺と同意見だろう。メールは定期的に来るが、内容は現状報告しろとという、余計な会話を切り捨てた通信に近い。弟は元気か、などもう少し何かあってもいいんじゃないかと思うが、花岡家とドルヴィエ家では家柄も何もかも違う。当然、備わっている常識も異なる。俺が口出しできる権限はないにしても「ルイは今日も元気でしたよ」と送ったことがあるが、メールは返ってこなかった。
ならば、こちらから向かって聞きたいことを聞いて現状報告をする。それがいい。
「いらっしゃいませ」
本日最初のお客さんは、女性二人だ。入るなり俺を見てはかっこいいともらす。
「あの、名刺交換しませんか?」
「すみません、俺、アルバイトで名刺はまだ持っていないんですよ」
「じゃあ私のをもらって下さい」
「はは……ありがとうございます」
ここ数日で一番もてる日だ。うれしい。男として、ちょっとは有頂天になってもいいだろう。
だと思ったのに、名刺の裏には『女性はソファー席へ』と一言。モテ期は一瞬で終わった。書いてある名前は偽名で間違いない。
次々となだれ込む女性客はソファー席に案内すると、広くないフロアはあっという間に埋まった。本当の客人はいるのかもしれないが、誰が警察なのか素人の俺にはまったく見分けがつかない。注文するカクテルは、すべて度数の低いものばかりだ。
続いて入ってきたのは、女性に腕を組まれ気分がいいと全面に書いてある例の男性だった。
「いらっしゃいませ」
「やあ」
ルイを見て、機嫌が良さそうにカウンター席につく。前回会ったときに、腕時計が素敵だとこれでもかと褒めたのだ。悪い印象は与えていない。
「パラライカは頼める?」
「かしこまりました」
ウォッカとホワイト・キュラソー、レモンジュースをシェイクしてカクテルグラスに注ぐ。白い液体がグラスの中で揺れた。
腕を組んで歩いてきた女性はカルーア・ミルク。この人も協力者だろうが、見分けがつかなかつた。俺は黙って仕事をすればいい。客人なのか警察なのか協力者なのか、判断する必要はまったくない。
「皿でも洗うか?」
視線が定まらない俺に気づいて、ルイの与える選択は感謝だ。皿やグラスを割るより、黙って洗い物とつまみの用意に徹するべきだろう。
ほどよくお酒が入ったところで、女性はトイレに行くと席を立った。一瞬だけ、男性には気づかれないようにルイを見てはすぐに逸らした。
女性がいなくなると、男性は前のめりになり、ルイの顔をまじまじと見つめた。
「バーテンダーさん、ちょっと聞きたいんですが、この前一緒に来ていた女性は覚えていますか?」
「はい」
「あの子、あれから店に来ました?」
「いいえ、一度も来ておりません」
「はっきり言うね。賑わってる店なのに、客の顔は分かるんだ?」
「一度来て頂ければ。それに、店は年中無休で開いているわけではありません。金土日の三日間のみの営業です」
「それでアルバイトを雇える余裕があるなんてすごいねえ」
いやにつっかかる言い方だった。ばれているのかと手元が狂いそうになるが、ルイは平然と二杯目のカクテルに取りかかる。今度はアレキサンダーというカカオ・リキュールを使ったカクテルだ。甘めのカクテルでも、度数は高い。初めて見たときは、台風後のどぶ川に似た色だなあと思ったが、今ここで口に出したら給料半減では済まされないだろう。
ルイがグラスを差し出すと、男性は一度取り逃した。ばれているわけではなく、どうやら酔っているらしい。
「花菜さん……どこに行ったんだろ……」
「連絡が取れない状況にあるのですか?」
「え? ええ……まあ…………」
独り言を拾われるとは思わなかったのだろう。居づらそうに、男性はちびちびとグラスに口をつける。
「先ほどは、大島様が店に来ていないと申し上げました。個人情報を守る義務がございますので、ご来店されていてもお話しするわけには参りません。ですが、貴方様がよろしければ、大島様にお話しすることは可能ですが」
「……そうですか。あと少しだったのに……」
空気に消え混じる独り言は俺の耳にも届いたが、何が「あと少し」なのか。俺には「怪しげな宗教に勧誘できそうだったのに」しか意味が取れなかった。
万が一、大島さんが協力者でなかったら。人の言うことを信じすぎる彼女は、悪しき道へ進んでしまっていたかもしれない。
「もし来たら、会えなくて寂しいと伝えて下さい」
「承りました」
ちょうど、トイレから女性が戻ってきた。女性も二杯目のカクテルを頼んだ。
「オレンジ系のカクテルはありますか?」
「かしこまりました。ファジー・ネーブルをお作り致します」
女性は面白そうにカウンターの中を覗く。
オレンジジュースとクレーム・ド・ペシェ。『クレーム・ド』がつくものは、糖分がたくさん入っていて度数も高い証。
「ペシェ……?」
「フランス語だ」
発音良く言ってくれたおかげで、何なのか理解できた。フランス語で桃。ペシェより、カタカナ語で言うとペッシュになる。
「…………なんだ?」
「いや、なにも」
口が滑る前に閉じた方がいいだろう。
規定の量より、リキュールを少なめに入れている気がする。いつもの入れ方より、メジャーカップに注がれる液体が細い。この分だと、女性たちにはアルコールの量を少なくしていそうだ。
女性はグラスを受け取ると、ゆっくりと傾けた。
二人はカウンター席で他愛のない会話を楽しみ、一時間ほどで席を立った。カメラ映像をほしいと言っていたが、今の会話で何か得られるものがあるのだろうか。
他の客人たちも帰って行き、後から数名のサラリーマンがカウンターを埋め、今日の仕事は終えた。
「収穫はあったそうだ。後で映像の提供をお願いしたいとメールが届いた」
「あれで?」
「我々には分からないこともあるんだろうな。今日は早めに休むように」
「はーい」
渡されたマグカップの中身は、エッグノックだ。ルイも同じものを飲むのかと思ったら、中身は透明で湯気が立っている。味が分からないので白湯にしたのだろうが、近くにいるのに遠くに感じられて、空いた穴を埋めようと一口飲んだ。
いよいよ向かえた就活生。待っていなくてもやってくる就活生。怒濤に過ぎていった日々は、自信を持って濃い日々だったと言える。ルイとの出会い、大学の友人関係、上司を追ってフランスへ旅立ち、まさかの婚約、ベルナデット嬢の秘密、祖母を殺めた組織。出会いは必然だったのか、組織はドルヴィエ家が守る遺産を持っている可能性があった。
伝えられなければならないところはドルヴィエ家にも言わなければならない。俺と婚約を交わしたところで、ルイの人生を縛るだけだと、勢いで結んでしまった婚約に後ろめたい気持ちも少しあった。俺の思いつきで勝手に結んでしまい、さぞ迷惑していることだろう。早めに破棄するために、遺産を彼らの家に戻してやらなければ。
五月にそちらに行きますとフランス語でメールをすると、分かりやすいように短文で返事が来た。訳すと「往復チケットを送る」。アルバイト代を使い果たすところだったので、これは素直に受け取ることにした。
問題は、ルイが渡してきた封筒の中身だ。大したものではないと言い、気だるげにコーヒーを飲む姿もかっこいいなんてぼやくが、聞いているのか聞いていないのか。
「ちょっと待て。餞別にしては多すぎるんだけど」
「誰もお前にすべてやるとは言っていない。私に土産を買ってこいと言っているだけだ」
「けどさあ……親でもこんなにくれないよ」
「フィアンセに渡した、と言えば納得するか?」
「その件なんだけど、」
ソファーに座るルイと目が合うと、言おうとしていた言葉が出てこない。
ベルナデット嬢も一応見つかり、遺産の在処も見当がついたので、婚約破棄すべきなんじゃないかと。俺は付き合っている人も結婚の予定もないのだからそのままで構わないが、もしルイにいい人ができたと思うと落ち着かない。
「こちらのことは気にせず、楽しんでこい」
「おう、ありがとう」
ルイにはフランスに行くとは伝えたが、目的は半分も伝えていない。嘘はついたつもりはなくても、肝心なことを話していないので、妙にそわそわする。
「冷蔵庫にミルク寒天作ってるから、食べてくれ。みかん入りで練乳の量は抑えたから、さっぱりしてるよ。あとどくだみ茶もアイスで作ってあるから」
「…………人種差別に捉えかねないが、日本人はお前のようなタイプご多いのか?」
「俺みたいなタイプ?」
「なんでもない。有り難く受け取ろう」
「じゃあ、行ってきます」
一度、十条のアパートに戻り、荷物をまとめなければならない。しばらくルイとも池袋ともお別れだ。
──どうだ?
恐怖の一言メールである。
端末を見ながらサラダをつついていると、食事中だとルイに目でたしなめられた。フランスからは催促のメール。目の前はマナー講師。兄弟に挟まれて、愛想笑いしかできない俺。
「ゴールデンウィークに、ちょっと海外に遊びに行きたいなあ」
「海外? どこだ?」
「例えばだけど、フランスとか」
訝しむ目というか、純粋に捨て身の覚悟で怪しむ目を向けるルイに、俺も全力で目を逸らした。
「フランスといえど、土地は広い」
「マンドリュー・ラ・ナプールとかかなあ。ミモザが綺麗だろうなあ」
「見頃は一月から二月だ。残念だったな。旅行なら東北がおすすめだ」
「いやいや、東北はないって。就活生は帰れって怒鳴られるのがオチだし」
「就活生だと自覚があったか。まあ、普段から勉強もしっかりやっていれば、焦ることはない」
ルイは反対もしなければ、勧めもしない。
「本当に行く気があるのなら、餞別くらいやろう」
「え、いいの?」
「将来の選択肢にも必要なものだ。何も大学にいるだけが勉強ではない」
いろいろ聞きたいだろうに、ルイは何も言わずに聞かないでいてくた。有り難いやら申し訳ないやらで、まずは腹ごしらえだと目の前のカレーに集中した。
ベルナデット嬢のこと、ブレスレットのこと、関係している組織について、聞きたいことは山ほどある。義理の兄になりそうなディミトリさんも、俺と同意見だろう。メールは定期的に来るが、内容は現状報告しろとという、余計な会話を切り捨てた通信に近い。弟は元気か、などもう少し何かあってもいいんじゃないかと思うが、花岡家とドルヴィエ家では家柄も何もかも違う。当然、備わっている常識も異なる。俺が口出しできる権限はないにしても「ルイは今日も元気でしたよ」と送ったことがあるが、メールは返ってこなかった。
ならば、こちらから向かって聞きたいことを聞いて現状報告をする。それがいい。
「いらっしゃいませ」
本日最初のお客さんは、女性二人だ。入るなり俺を見てはかっこいいともらす。
「あの、名刺交換しませんか?」
「すみません、俺、アルバイトで名刺はまだ持っていないんですよ」
「じゃあ私のをもらって下さい」
「はは……ありがとうございます」
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だと思ったのに、名刺の裏には『女性はソファー席へ』と一言。モテ期は一瞬で終わった。書いてある名前は偽名で間違いない。
次々となだれ込む女性客はソファー席に案内すると、広くないフロアはあっという間に埋まった。本当の客人はいるのかもしれないが、誰が警察なのか素人の俺にはまったく見分けがつかない。注文するカクテルは、すべて度数の低いものばかりだ。
続いて入ってきたのは、女性に腕を組まれ気分がいいと全面に書いてある例の男性だった。
「いらっしゃいませ」
「やあ」
ルイを見て、機嫌が良さそうにカウンター席につく。前回会ったときに、腕時計が素敵だとこれでもかと褒めたのだ。悪い印象は与えていない。
「パラライカは頼める?」
「かしこまりました」
ウォッカとホワイト・キュラソー、レモンジュースをシェイクしてカクテルグラスに注ぐ。白い液体がグラスの中で揺れた。
腕を組んで歩いてきた女性はカルーア・ミルク。この人も協力者だろうが、見分けがつかなかつた。俺は黙って仕事をすればいい。客人なのか警察なのか協力者なのか、判断する必要はまったくない。
「皿でも洗うか?」
視線が定まらない俺に気づいて、ルイの与える選択は感謝だ。皿やグラスを割るより、黙って洗い物とつまみの用意に徹するべきだろう。
ほどよくお酒が入ったところで、女性はトイレに行くと席を立った。一瞬だけ、男性には気づかれないようにルイを見てはすぐに逸らした。
女性がいなくなると、男性は前のめりになり、ルイの顔をまじまじと見つめた。
「バーテンダーさん、ちょっと聞きたいんですが、この前一緒に来ていた女性は覚えていますか?」
「はい」
「あの子、あれから店に来ました?」
「いいえ、一度も来ておりません」
「はっきり言うね。賑わってる店なのに、客の顔は分かるんだ?」
「一度来て頂ければ。それに、店は年中無休で開いているわけではありません。金土日の三日間のみの営業です」
「それでアルバイトを雇える余裕があるなんてすごいねえ」
いやにつっかかる言い方だった。ばれているのかと手元が狂いそうになるが、ルイは平然と二杯目のカクテルに取りかかる。今度はアレキサンダーというカカオ・リキュールを使ったカクテルだ。甘めのカクテルでも、度数は高い。初めて見たときは、台風後のどぶ川に似た色だなあと思ったが、今ここで口に出したら給料半減では済まされないだろう。
ルイがグラスを差し出すと、男性は一度取り逃した。ばれているわけではなく、どうやら酔っているらしい。
「花菜さん……どこに行ったんだろ……」
「連絡が取れない状況にあるのですか?」
「え? ええ……まあ…………」
独り言を拾われるとは思わなかったのだろう。居づらそうに、男性はちびちびとグラスに口をつける。
「先ほどは、大島様が店に来ていないと申し上げました。個人情報を守る義務がございますので、ご来店されていてもお話しするわけには参りません。ですが、貴方様がよろしければ、大島様にお話しすることは可能ですが」
「……そうですか。あと少しだったのに……」
空気に消え混じる独り言は俺の耳にも届いたが、何が「あと少し」なのか。俺には「怪しげな宗教に勧誘できそうだったのに」しか意味が取れなかった。
万が一、大島さんが協力者でなかったら。人の言うことを信じすぎる彼女は、悪しき道へ進んでしまっていたかもしれない。
「もし来たら、会えなくて寂しいと伝えて下さい」
「承りました」
ちょうど、トイレから女性が戻ってきた。女性も二杯目のカクテルを頼んだ。
「オレンジ系のカクテルはありますか?」
「かしこまりました。ファジー・ネーブルをお作り致します」
女性は面白そうにカウンターの中を覗く。
オレンジジュースとクレーム・ド・ペシェ。『クレーム・ド』がつくものは、糖分がたくさん入っていて度数も高い証。
「ペシェ……?」
「フランス語だ」
発音良く言ってくれたおかげで、何なのか理解できた。フランス語で桃。ペシェより、カタカナ語で言うとペッシュになる。
「…………なんだ?」
「いや、なにも」
口が滑る前に閉じた方がいいだろう。
規定の量より、リキュールを少なめに入れている気がする。いつもの入れ方より、メジャーカップに注がれる液体が細い。この分だと、女性たちにはアルコールの量を少なくしていそうだ。
女性はグラスを受け取ると、ゆっくりと傾けた。
二人はカウンター席で他愛のない会話を楽しみ、一時間ほどで席を立った。カメラ映像をほしいと言っていたが、今の会話で何か得られるものがあるのだろうか。
他の客人たちも帰って行き、後から数名のサラリーマンがカウンターを埋め、今日の仕事は終えた。
「収穫はあったそうだ。後で映像の提供をお願いしたいとメールが届いた」
「あれで?」
「我々には分からないこともあるんだろうな。今日は早めに休むように」
「はーい」
渡されたマグカップの中身は、エッグノックだ。ルイも同じものを飲むのかと思ったら、中身は透明で湯気が立っている。味が分からないので白湯にしたのだろうが、近くにいるのに遠くに感じられて、空いた穴を埋めようと一口飲んだ。
いよいよ向かえた就活生。待っていなくてもやってくる就活生。怒濤に過ぎていった日々は、自信を持って濃い日々だったと言える。ルイとの出会い、大学の友人関係、上司を追ってフランスへ旅立ち、まさかの婚約、ベルナデット嬢の秘密、祖母を殺めた組織。出会いは必然だったのか、組織はドルヴィエ家が守る遺産を持っている可能性があった。
伝えられなければならないところはドルヴィエ家にも言わなければならない。俺と婚約を交わしたところで、ルイの人生を縛るだけだと、勢いで結んでしまった婚約に後ろめたい気持ちも少しあった。俺の思いつきで勝手に結んでしまい、さぞ迷惑していることだろう。早めに破棄するために、遺産を彼らの家に戻してやらなければ。
五月にそちらに行きますとフランス語でメールをすると、分かりやすいように短文で返事が来た。訳すと「往復チケットを送る」。アルバイト代を使い果たすところだったので、これは素直に受け取ることにした。
問題は、ルイが渡してきた封筒の中身だ。大したものではないと言い、気だるげにコーヒーを飲む姿もかっこいいなんてぼやくが、聞いているのか聞いていないのか。
「ちょっと待て。餞別にしては多すぎるんだけど」
「誰もお前にすべてやるとは言っていない。私に土産を買ってこいと言っているだけだ」
「けどさあ……親でもこんなにくれないよ」
「フィアンセに渡した、と言えば納得するか?」
「その件なんだけど、」
ソファーに座るルイと目が合うと、言おうとしていた言葉が出てこない。
ベルナデット嬢も一応見つかり、遺産の在処も見当がついたので、婚約破棄すべきなんじゃないかと。俺は付き合っている人も結婚の予定もないのだからそのままで構わないが、もしルイにいい人ができたと思うと落ち着かない。
「こちらのことは気にせず、楽しんでこい」
「おう、ありがとう」
ルイにはフランスに行くとは伝えたが、目的は半分も伝えていない。嘘はついたつもりはなくても、肝心なことを話していないので、妙にそわそわする。
「冷蔵庫にミルク寒天作ってるから、食べてくれ。みかん入りで練乳の量は抑えたから、さっぱりしてるよ。あとどくだみ茶もアイスで作ってあるから」
「…………人種差別に捉えかねないが、日本人はお前のようなタイプご多いのか?」
「俺みたいなタイプ?」
「なんでもない。有り難く受け取ろう」
「じゃあ、行ってきます」
一度、十条のアパートに戻り、荷物をまとめなければならない。しばらくルイとも池袋ともお別れだ。
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