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第二章 フィアンセとバーテンダー
048 呪いのブレスレット
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池袋の秘密基地に戻ってきてから、俺のレポートは進む進む。順調すぎてほとんど終え、フランス人のお墨付きまで頂いてしまった。
今日は最後にギプスが取れるかどうかの瀬戸際で、記念すべき日にルイもついてくると言ってくれた。
「そんなに祝福したかったのか」
「赤飯でも炊いてやろうか」
軽口を叩いていると、花岡さんと名前を呼ばれた。呼ばれたのは俺なのに、とことん付き添ってくれるらしい。ふたりで病室に入ると、先生はルイを二度見する。
去年のレントゲン写真と見比べると、素人目にも違いがはっきり分かった。
「綺麗にくっついてるよ。もう大丈夫」
「ボクシングはやってもいいですか?」
「最初は日常生活が元通りになるまで待とうか。いずれできるようになるよ」
遠回しに駄目だと言われてしまった。グーパーを繰り返すと、血がしっかり通い始めてじんわり温かい。スプーンも持てるし、箸も持てる。右手が使えないのはけっこうつらかった。
先生は、家でもできるリハビリのやり方を書いた冊子をくれた。漫画のように絵つきで分かりやすい。ボクシングのために毎日頑張ろう。
痛み止めの薬を処方してもらい、薬局にふたりで向かった。
「またカクテル作れるようになるよな! 忘れていないか心配になってくるよ」
「腕は落ちているかもしれんが、簡単には忘れない。スキーやスノーボードもしばらくしていなくても覚えていたりするだろう?」
「確かに」
薬局に入ると、ロングスカートを履いた女性一人だけだった。俺たちが近くに来ても、女性の目は揺るがない。じっと真正面を見ている。壁しかないのに、彼女には違うものが映っているのかもしれない。
「ルイ?」
息しているか、大丈夫かと本気で心配になった。ルイも視線が固定され、後を追うとソファーに投げ出された女性の手だ。腕には光るブレスレットがある。古めかしいもので、錆びついた鎖に石がたくさんついているが、人の顔が掘られていた。
「ルイ、大丈夫か? 水でも飲むか?」
「水?」
処方せん薬局ではおなじみの給水機器がある。お茶も水もコーヒーも飲み放題だ。
「ああ、そうだな。もらおう」
立ち上がろうとするが、ルイは右手で制した。ルイが給水機器の前に行っても、女性は少しも頭を動かさない。紙コップを持ってこちらに戻ってくるが、なぜか来た道を戻らず俺めがけて歩いてくる。よけなればルイの席はない。俺が左に移動すればいいだけだ。
腰を上げようとしたときだ。ルイは紙コップを手から滑らせ、透明な液体が宙を舞った。人形のようにしていた女性も、さすがに小さな悲鳴を上げる。液体は床に零れることなく、すべて女性のスカートに吸い込まれていく。立ち上がって、女性に近寄った。
「大丈夫ですか?」
「申し訳ございません。スカートはこちらで弁償させて頂きます」
片膝をつき、ルイは頭を下げた。謝罪というより、どこぞの王子様だ。女性も俺と同じ感想を持ったようで、怒るでも悲しむでもなく、唖然とルイを見ている。
「や、あの……そんな……」
「差し支えがなければ、ご連絡先を」
「いえ……どうしよう、」
「日本では女性に連絡先を聞くのは失礼にあたるのですね。軽率でした」
ルイは名刺入れを出し、彼女に一枚差し出した。
「こちらにご連絡を下さい」
「……バーテンダー?」
「ええ、池袋でバーテンダーをしております」
死んだ魚の目だったが、いくらか光が戻った。こうして見ると、十歳くらい若返ったように見える。目に覇気があるかどうかで、これほど印象が変わるとは驚きだ。
「ぜひ、ご馳走させて頂きたいです」
「それくらいなら……」
「金土日に営業しております。お時間の空いた日に、ご来店下さい」
「日本語、お上手ですね」
「頑張りました」
気兼ねない答え方だ。努力の人だと印象も受けるし、見た目が王子様でも親近感が沸く。
名前を呼ばれて薬を受け取っていると、女性はもういなくなっていた。
「ケガはない? 転びそうになってたけど」
「私は全く問題ない」
残った紙コップをゴミ箱に捨て、ルイはさっさと外に出た。俺も後を追いかける。
なんとなくだが、別のものがぼんやりと頭を巡る。さっきの女性がしていたブレスレットも含め、ルイの様子がおかしくなった。
心がざわめいて、大切にしていたものが口からすべり落ちた。
「もしかして……わざと水ぶっかけたのか?」
「ネックレスにはかかっていない。元々のネックレスは我々の監視下にあったものだ」
「ほ、本当に?」
信じられない。何かあるとは思ったが、こんな偶然があるものか。
「偶然は起こるから偶然という」
「警察に通報しなくてよかったのか?」
「警察には私の家系についても話さないといけなくなる。面倒事はできる限り控えたい。それに、多分店にくる」
「自信を持って言えるっていいなあ……」
「自分の顔は好きではないが、今日ほどこの顔に生まれて良かったと思ったことはない」
「俺、ルイの顔も好きだよ」
「………………そうか」
ブラックアイだと化け物扱いされた過去を持つルイ。でも俺は、どんな過去を持とうがどんな家庭に生まれようが、ルイが好きだ。大好きだ。憧れているし、世界一優しい上司だし、ピンチのときは駆けつけてくれるヒーローだし、俺もこんな大人になれるだろうか。
変な顔をしていたのか、ルイは「お前はそのままでいい」と言ってくれた。外に出ると風が吹いて、ピンクのリボンが揺れた。
アクションがあったのは、この出来事から一週間経ったときだ。混み合う店内にアンティークのベルが鳴り、顔を向けると覇気のない女性が立っていた。あのときとは違うロングスカートで、今日は長い黒髪を一本に束ねている。
店内を見回して人の多さに帰ろうとする彼女を引き留め、一名様ならカウンター席が空いていますと、これでもかと笑顔を作った。観念した女性は、渋々着席する。
「綺麗なお店ですね」
「ありがとうございます。ごゆっくりどうぞ」
メニュー表を渡すと、この前のお詫びにサービスをさせて下さいとこっそり伝える。事前に打ち合わせをしておいて良かった。
「なんでもいいんですか?」
「はい、店主がお好きなものをと話していますので」
「じゃあ……これ」
「かしこまりました」
甘みが強いものが好みなのか、カルーア・ミルクを注文した。注文を受けたのは今日だけで五回目だ。
ロックグラスにミルクとリキュールを混ぜ、撹拌する。たったこれだけの作業でも、かき混ぜ方、氷の大きさや形により味がまったく違うものになる。初めて作らせてもらったときは、ユーリさんにおままごとですかと笑顔できついお叱りを受けた。
「カクテルってこれくらいしか知らないんです。度数は高くないか心配で……」
「カクテルの中では度数は少ない方ですよ。高いものだと二十五度以上のものもありますし」
「良かった。お酒は好きですけど、そんなに強くないんです」
「ノンアルコールのものもございますから、遠慮なくどうぞ。素敵なブレスレットですね」
あのときと変わらず、女性はブレスレットを身につけている。話題が早かったか、とちったかとルイを見ても、彼は淡々とカクテルを作っていた。オーケーボス、このまま続けます。
「……このブレスレットは、呪われているんです」
隣に座る女性二人組がぎょっとして女性と腕を交互に見る。呪いと聞けば遠ざけるか興味津々になるかの二択だろうが、彼女たちは後者のようだ。
「呪いですか」
「不吉なことばかり起こるんです。人の後ろに何か黒いものが見えたり、事故が起こるとお告げのようなものがあったり、知人宅の目の前で交通事故が起きたり」
「それは……大変ですね」
「憚りながら、目に見えぬ者が相手なら、占いや姓名判断などされてみてはいかがでしょう。もしくは、お祓いという手もございます。目に見えない分、対抗できるのは手で掴めないような不思議体験ではないかと存じます」
「占い、ですか」
ついにルイが口を挟んだ。まさか帝国を築いた女王の遺産が、呪いのアイテムと化しているのは微塵も予想しなかった。彼女からすれば水をかけられたのも、不幸のうちだったはず。災難すぎる。
彼女と薬局で初めて会った後、ブレスレットについている平たい石について調べた。石に文字や人物を浮かばせるようにする彫り方で、浮き彫りというらしい。何個も連なっている石は、一体どれほどの価値の宝石が使われたのだろう。
「そもそも、そちらはどこで手に入れたものなんです?」
「似合いませんよね」
「いえいえ、ただシンプルな服装や鞄を好む方なのかなあと思ったので。ブレスレットの石も大きいでしょ? そういうこだわりがあるのかなあと」
「頂き物なんです。憧れの人からもらったものだから、つけないって選択肢はなくて。でもあまり良いことが起こらないのも事実なので、どうしたらいいのか……」
「そのような素敵な品を送るなんて、愛されていらっしゃるのですね」
「本当にそんなんじゃないんです。恋人とかではまったくないんです」
「気のない方に、何か身につけるプレゼントはしないと思いますが、これは私が外国人ならではの感覚なのでしょうね」
「そんなことないぞ、ルイ。好きな人にはお返しだとか恩の押し売りとか考えずにあげたくなるもんだって。単純に喜んでほしいんだよ」
なぜ、ルイもそんな顔をするのか。目元を押さえ、何かフランス語で呟いている。
女性はごちそうさま、と告げ、グラスを前に押した。
「占いかあ……行ってみようかな……」
「私もついていって構いませんか」
「あの、どうしてそこまで……」
「目の前で失態をお見せしてしまい、クリーニング代だけでは申し訳なく感じているのです。料金はこちらで負担させて頂きます」
「ただの水でしたし、家で干したらすぐに乾きました」
女性は鞄に手を入れ、何かを出そうか考えあぐねている。辛抱強く待つと、手にしているのは名刺だった。
「ウェディングプランナー? 結婚式の準備とかする仕事ですよね? すごい」
「幸せそうな夫婦を見ていると嬉しくなりました」
「過去系ですか」
「なんだかもう、人生も嫌になります。これだけ頑張って働いても、私には良い巡り会わせもないし、なんでこんな仕事をしているんだろうと、最近ではそう思うことばかりです」
「仕事に生きがいを見出すべきではありません。プライベートを充実させるために、仕事があるのです」
「はあ……ルイさんもですか?」
「私には特殊な事情がございます」
仕事に誇りを持っているルイだ。そんな生き方に、俺は憧れる。もちろんプライベートも大切にしたい。
「最高の出逢いというのは、どこで待っているのか分かりませんね」
「ルイさんは出会っていますか?」
「ええ、私のような者にも好きだと言ってくれる人がいます。いつまでのお付き合いとなるか分かりませんが、大事にしていきたいです」
「それって、恋人とか?」
「いえ、違います。フィアンセです」
見えない何かで頭を殴られた。飲み物を口に含んでいなくて心底良かった。またもや彼女を水浸しにするところだった。
「………あの、お願いがあります」
「はい、なんでしょうか」
ルイの口調は穏やかだ。普段のルイを知っているだけに、笑いそうになる。
「占いついでに、私とデートしてくれませんか?」
固唾を呑んでいた横の女性たちも、俺も、ルイも一瞬息を止めた。
第一印象は、気の弱そうなイメージで、無理に感情を押すイメージはなかった。今も無理をしているように見える。
「私、この年齢になってデートってしたことないんです。もうすぐ三十歳になるのに……」
「私には、婚約者がおりますが」
「内緒にしていて下さい。一度でいいので、あなたみたいな人とデートしてみたかったんです」
むちゃくちゃな理由を並べている。意味が分からないわけでもないだろうし、まるで恋愛したての中学生にしか見えない。
「一度、こちらから連絡を差し上げてもよろしいですか? フィアンセに相談したいのです」
「ルイさんって結婚しても浮気していいかって聞くタイプなんですか?」
「私は浮気自体、しないタイプです。ですので、この状況にいささか困惑しております」
隣にいるフィアンセの立場としては、気が気でないし、何がおかしいのか面白みに欠ける。理解しているのは、婚約者がいると伝えても浮気を勧める人間が存在するということだ。
今にも消えてしまいそうな儚い印象だったが、帰る頃には少し、元気が出たように見えた。
閉店した後は俺もルイも、さすがにへとへとだ。ジンジャーエールをふたり分入れてテーブルに置いた。
「大丈夫か? 頂き物のクッキーがあるけど食べる?」
「………………食べる」
皿に並べてこちらも出すと、レモンクッキーに手を伸ばした。俺も食べよう。
ルイは疲れきっている。気の済むまで食べてもらって、少しでも糖分を頭に入れてほしい。
ルイが口を開いたのは、三枚目を口にしたときだ。
「美味しい」
「良かった。もっと何か飲むか?」
「……………………水」
「了解、ボス!」
きっと、もっと話したいことがあったはずだ。ルイは俺を見て笑っただけで、これ以上何も言わなかった。水を出しても淡々と口をつけ、もう一枚クッキーを食べた。
話したくないときもある。そういう日もある。空気感で疲れ果てているのは感じているので、今はまとった空気をなだらかにするのが俺の役目だ。美味しいものを食べて、シャワーを浴びて寝て朝日を浴びれば、気持ちも切り替わる。戦いはこれからなのだから。
今日は最後にギプスが取れるかどうかの瀬戸際で、記念すべき日にルイもついてくると言ってくれた。
「そんなに祝福したかったのか」
「赤飯でも炊いてやろうか」
軽口を叩いていると、花岡さんと名前を呼ばれた。呼ばれたのは俺なのに、とことん付き添ってくれるらしい。ふたりで病室に入ると、先生はルイを二度見する。
去年のレントゲン写真と見比べると、素人目にも違いがはっきり分かった。
「綺麗にくっついてるよ。もう大丈夫」
「ボクシングはやってもいいですか?」
「最初は日常生活が元通りになるまで待とうか。いずれできるようになるよ」
遠回しに駄目だと言われてしまった。グーパーを繰り返すと、血がしっかり通い始めてじんわり温かい。スプーンも持てるし、箸も持てる。右手が使えないのはけっこうつらかった。
先生は、家でもできるリハビリのやり方を書いた冊子をくれた。漫画のように絵つきで分かりやすい。ボクシングのために毎日頑張ろう。
痛み止めの薬を処方してもらい、薬局にふたりで向かった。
「またカクテル作れるようになるよな! 忘れていないか心配になってくるよ」
「腕は落ちているかもしれんが、簡単には忘れない。スキーやスノーボードもしばらくしていなくても覚えていたりするだろう?」
「確かに」
薬局に入ると、ロングスカートを履いた女性一人だけだった。俺たちが近くに来ても、女性の目は揺るがない。じっと真正面を見ている。壁しかないのに、彼女には違うものが映っているのかもしれない。
「ルイ?」
息しているか、大丈夫かと本気で心配になった。ルイも視線が固定され、後を追うとソファーに投げ出された女性の手だ。腕には光るブレスレットがある。古めかしいもので、錆びついた鎖に石がたくさんついているが、人の顔が掘られていた。
「ルイ、大丈夫か? 水でも飲むか?」
「水?」
処方せん薬局ではおなじみの給水機器がある。お茶も水もコーヒーも飲み放題だ。
「ああ、そうだな。もらおう」
立ち上がろうとするが、ルイは右手で制した。ルイが給水機器の前に行っても、女性は少しも頭を動かさない。紙コップを持ってこちらに戻ってくるが、なぜか来た道を戻らず俺めがけて歩いてくる。よけなればルイの席はない。俺が左に移動すればいいだけだ。
腰を上げようとしたときだ。ルイは紙コップを手から滑らせ、透明な液体が宙を舞った。人形のようにしていた女性も、さすがに小さな悲鳴を上げる。液体は床に零れることなく、すべて女性のスカートに吸い込まれていく。立ち上がって、女性に近寄った。
「大丈夫ですか?」
「申し訳ございません。スカートはこちらで弁償させて頂きます」
片膝をつき、ルイは頭を下げた。謝罪というより、どこぞの王子様だ。女性も俺と同じ感想を持ったようで、怒るでも悲しむでもなく、唖然とルイを見ている。
「や、あの……そんな……」
「差し支えがなければ、ご連絡先を」
「いえ……どうしよう、」
「日本では女性に連絡先を聞くのは失礼にあたるのですね。軽率でした」
ルイは名刺入れを出し、彼女に一枚差し出した。
「こちらにご連絡を下さい」
「……バーテンダー?」
「ええ、池袋でバーテンダーをしております」
死んだ魚の目だったが、いくらか光が戻った。こうして見ると、十歳くらい若返ったように見える。目に覇気があるかどうかで、これほど印象が変わるとは驚きだ。
「ぜひ、ご馳走させて頂きたいです」
「それくらいなら……」
「金土日に営業しております。お時間の空いた日に、ご来店下さい」
「日本語、お上手ですね」
「頑張りました」
気兼ねない答え方だ。努力の人だと印象も受けるし、見た目が王子様でも親近感が沸く。
名前を呼ばれて薬を受け取っていると、女性はもういなくなっていた。
「ケガはない? 転びそうになってたけど」
「私は全く問題ない」
残った紙コップをゴミ箱に捨て、ルイはさっさと外に出た。俺も後を追いかける。
なんとなくだが、別のものがぼんやりと頭を巡る。さっきの女性がしていたブレスレットも含め、ルイの様子がおかしくなった。
心がざわめいて、大切にしていたものが口からすべり落ちた。
「もしかして……わざと水ぶっかけたのか?」
「ネックレスにはかかっていない。元々のネックレスは我々の監視下にあったものだ」
「ほ、本当に?」
信じられない。何かあるとは思ったが、こんな偶然があるものか。
「偶然は起こるから偶然という」
「警察に通報しなくてよかったのか?」
「警察には私の家系についても話さないといけなくなる。面倒事はできる限り控えたい。それに、多分店にくる」
「自信を持って言えるっていいなあ……」
「自分の顔は好きではないが、今日ほどこの顔に生まれて良かったと思ったことはない」
「俺、ルイの顔も好きだよ」
「………………そうか」
ブラックアイだと化け物扱いされた過去を持つルイ。でも俺は、どんな過去を持とうがどんな家庭に生まれようが、ルイが好きだ。大好きだ。憧れているし、世界一優しい上司だし、ピンチのときは駆けつけてくれるヒーローだし、俺もこんな大人になれるだろうか。
変な顔をしていたのか、ルイは「お前はそのままでいい」と言ってくれた。外に出ると風が吹いて、ピンクのリボンが揺れた。
アクションがあったのは、この出来事から一週間経ったときだ。混み合う店内にアンティークのベルが鳴り、顔を向けると覇気のない女性が立っていた。あのときとは違うロングスカートで、今日は長い黒髪を一本に束ねている。
店内を見回して人の多さに帰ろうとする彼女を引き留め、一名様ならカウンター席が空いていますと、これでもかと笑顔を作った。観念した女性は、渋々着席する。
「綺麗なお店ですね」
「ありがとうございます。ごゆっくりどうぞ」
メニュー表を渡すと、この前のお詫びにサービスをさせて下さいとこっそり伝える。事前に打ち合わせをしておいて良かった。
「なんでもいいんですか?」
「はい、店主がお好きなものをと話していますので」
「じゃあ……これ」
「かしこまりました」
甘みが強いものが好みなのか、カルーア・ミルクを注文した。注文を受けたのは今日だけで五回目だ。
ロックグラスにミルクとリキュールを混ぜ、撹拌する。たったこれだけの作業でも、かき混ぜ方、氷の大きさや形により味がまったく違うものになる。初めて作らせてもらったときは、ユーリさんにおままごとですかと笑顔できついお叱りを受けた。
「カクテルってこれくらいしか知らないんです。度数は高くないか心配で……」
「カクテルの中では度数は少ない方ですよ。高いものだと二十五度以上のものもありますし」
「良かった。お酒は好きですけど、そんなに強くないんです」
「ノンアルコールのものもございますから、遠慮なくどうぞ。素敵なブレスレットですね」
あのときと変わらず、女性はブレスレットを身につけている。話題が早かったか、とちったかとルイを見ても、彼は淡々とカクテルを作っていた。オーケーボス、このまま続けます。
「……このブレスレットは、呪われているんです」
隣に座る女性二人組がぎょっとして女性と腕を交互に見る。呪いと聞けば遠ざけるか興味津々になるかの二択だろうが、彼女たちは後者のようだ。
「呪いですか」
「不吉なことばかり起こるんです。人の後ろに何か黒いものが見えたり、事故が起こるとお告げのようなものがあったり、知人宅の目の前で交通事故が起きたり」
「それは……大変ですね」
「憚りながら、目に見えぬ者が相手なら、占いや姓名判断などされてみてはいかがでしょう。もしくは、お祓いという手もございます。目に見えない分、対抗できるのは手で掴めないような不思議体験ではないかと存じます」
「占い、ですか」
ついにルイが口を挟んだ。まさか帝国を築いた女王の遺産が、呪いのアイテムと化しているのは微塵も予想しなかった。彼女からすれば水をかけられたのも、不幸のうちだったはず。災難すぎる。
彼女と薬局で初めて会った後、ブレスレットについている平たい石について調べた。石に文字や人物を浮かばせるようにする彫り方で、浮き彫りというらしい。何個も連なっている石は、一体どれほどの価値の宝石が使われたのだろう。
「そもそも、そちらはどこで手に入れたものなんです?」
「似合いませんよね」
「いえいえ、ただシンプルな服装や鞄を好む方なのかなあと思ったので。ブレスレットの石も大きいでしょ? そういうこだわりがあるのかなあと」
「頂き物なんです。憧れの人からもらったものだから、つけないって選択肢はなくて。でもあまり良いことが起こらないのも事実なので、どうしたらいいのか……」
「そのような素敵な品を送るなんて、愛されていらっしゃるのですね」
「本当にそんなんじゃないんです。恋人とかではまったくないんです」
「気のない方に、何か身につけるプレゼントはしないと思いますが、これは私が外国人ならではの感覚なのでしょうね」
「そんなことないぞ、ルイ。好きな人にはお返しだとか恩の押し売りとか考えずにあげたくなるもんだって。単純に喜んでほしいんだよ」
なぜ、ルイもそんな顔をするのか。目元を押さえ、何かフランス語で呟いている。
女性はごちそうさま、と告げ、グラスを前に押した。
「占いかあ……行ってみようかな……」
「私もついていって構いませんか」
「あの、どうしてそこまで……」
「目の前で失態をお見せしてしまい、クリーニング代だけでは申し訳なく感じているのです。料金はこちらで負担させて頂きます」
「ただの水でしたし、家で干したらすぐに乾きました」
女性は鞄に手を入れ、何かを出そうか考えあぐねている。辛抱強く待つと、手にしているのは名刺だった。
「ウェディングプランナー? 結婚式の準備とかする仕事ですよね? すごい」
「幸せそうな夫婦を見ていると嬉しくなりました」
「過去系ですか」
「なんだかもう、人生も嫌になります。これだけ頑張って働いても、私には良い巡り会わせもないし、なんでこんな仕事をしているんだろうと、最近ではそう思うことばかりです」
「仕事に生きがいを見出すべきではありません。プライベートを充実させるために、仕事があるのです」
「はあ……ルイさんもですか?」
「私には特殊な事情がございます」
仕事に誇りを持っているルイだ。そんな生き方に、俺は憧れる。もちろんプライベートも大切にしたい。
「最高の出逢いというのは、どこで待っているのか分かりませんね」
「ルイさんは出会っていますか?」
「ええ、私のような者にも好きだと言ってくれる人がいます。いつまでのお付き合いとなるか分かりませんが、大事にしていきたいです」
「それって、恋人とか?」
「いえ、違います。フィアンセです」
見えない何かで頭を殴られた。飲み物を口に含んでいなくて心底良かった。またもや彼女を水浸しにするところだった。
「………あの、お願いがあります」
「はい、なんでしょうか」
ルイの口調は穏やかだ。普段のルイを知っているだけに、笑いそうになる。
「占いついでに、私とデートしてくれませんか?」
固唾を呑んでいた横の女性たちも、俺も、ルイも一瞬息を止めた。
第一印象は、気の弱そうなイメージで、無理に感情を押すイメージはなかった。今も無理をしているように見える。
「私、この年齢になってデートってしたことないんです。もうすぐ三十歳になるのに……」
「私には、婚約者がおりますが」
「内緒にしていて下さい。一度でいいので、あなたみたいな人とデートしてみたかったんです」
むちゃくちゃな理由を並べている。意味が分からないわけでもないだろうし、まるで恋愛したての中学生にしか見えない。
「一度、こちらから連絡を差し上げてもよろしいですか? フィアンセに相談したいのです」
「ルイさんって結婚しても浮気していいかって聞くタイプなんですか?」
「私は浮気自体、しないタイプです。ですので、この状況にいささか困惑しております」
隣にいるフィアンセの立場としては、気が気でないし、何がおかしいのか面白みに欠ける。理解しているのは、婚約者がいると伝えても浮気を勧める人間が存在するということだ。
今にも消えてしまいそうな儚い印象だったが、帰る頃には少し、元気が出たように見えた。
閉店した後は俺もルイも、さすがにへとへとだ。ジンジャーエールをふたり分入れてテーブルに置いた。
「大丈夫か? 頂き物のクッキーがあるけど食べる?」
「………………食べる」
皿に並べてこちらも出すと、レモンクッキーに手を伸ばした。俺も食べよう。
ルイは疲れきっている。気の済むまで食べてもらって、少しでも糖分を頭に入れてほしい。
ルイが口を開いたのは、三枚目を口にしたときだ。
「美味しい」
「良かった。もっと何か飲むか?」
「……………………水」
「了解、ボス!」
きっと、もっと話したいことがあったはずだ。ルイは俺を見て笑っただけで、これ以上何も言わなかった。水を出しても淡々と口をつけ、もう一枚クッキーを食べた。
話したくないときもある。そういう日もある。空気感で疲れ果てているのは感じているので、今はまとった空気をなだらかにするのが俺の役目だ。美味しいものを食べて、シャワーを浴びて寝て朝日を浴びれば、気持ちも切り替わる。戦いはこれからなのだから。
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