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第二章 フィアンセとバーテンダー

044 正義と不道徳

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 袖をまくり、見せびらかすように刺青をさらけ出す男性や、瓶の転がるソファーの上で倒れている男性。共通点があるとすれば、側には注射器や煙草のようなものが転がっている。
「そこに座れ」
 寝ている男性の正面のソファーに腰を下ろした。ブロンドヘアーの女性を捜すが、ここには男性しかいない。部屋はまだある。
「悪いねえ、大事なもんを落とした人がいて。君みたいな人良さそうな子が拾ってくれて安心したよ」
「拾ったわけじゃないです。置いてたのを発見しただけで」
「兄ちゃん、ちょっと相談があるんだが、この件は誰にも言わないでもらいたいんだよね」
「すみません、俺は口が軽いんで、喋っちゃうと思います」
 男性の眉間の皺が深い。指を入れたら第一関節まで入ってしまうんじゃないか。指を入れる前に、小指を切断されそうだ。
「それじゃあこちらも困るんだよ。店の秘密を知ってしまったわけだし」
 独特の臭いは、あまり良い香りとは言えない。はっきり言うと草だが、鼻で感じるというより脳に残る臭いだ。俺は好きになれない香り。
 作動しているのか怪しいが、一応防犯カメラはある。
 男性の携帯端末が鳴り、誰かと電話し始めた。
「兄ちゃんの知り合いだと名乗る男がここにいるんだ。会ってもらえないか?」
「知り合い……?」
 一瞬、ルイと写真に写るベルナデット嬢が浮かぶが、彼女は俺を知るわけがない。ルイはここにいることを知らないし、知り合いといっても限られる。
 二の腕を持ち上げられ、無理やり立たされた。おとなしくすべきなのは分かるが、二の腕という肌の弱い箇所を触れられると気分が悪い。払いのけると男性は掴みかかろうとするが、戦う気はないと両腕を上げると、男性は親指で奥の通路を差した。一体どれだけ部屋があるのだろう。ひと部屋ごとに開けて確認したいが、きっとこの世のものとは思えない光景が広がっていて、ますます帰してもらえない。
 一番奥の手前で止まった。男性は開けろ、と顎で指示を出し、なるべく時間をかけてドアノブを回した。
 背中に衝撃が走り、足で支えきれずに前に倒れた。頭はかろうじて庇ったが、手の指の先から肘まで鈍痛が襲ってきた。右手が痺れる。
 外側から鍵を掛けられた音がした。この分だと内側から開けられないだろう。
 頭の上から黒い影に覆われ、照明の明かりが遮られた。
「よお、正義。久しぶりだな」
 この世のものとは思えない光景は、まさにこのことだった。
 俺はゆっくりと顔を上げ、目の前に立つ人物を見た。
「重野……カズアキ」
「俺のことを覚えていてくれたんだなあ」
 忘れるはずもないが、右手の痛みで声が出ない。あれだ、精神的苦痛のというものも混ざって、何を話したらいいのか分からないのだ。
「つっ……」
「腕を怪我したのか? ベッドの上でいくらでも看てやるからなあ」
 おかしい。ギョロっとした大きな目が飛んでいる。特殊清掃員の仕事をしていると、心がおかしくなることもあるが、ここまで異常な姿は目にしたことはなかった。
 テーブルに転がっている注射器と手遅れに広がる白い粉は、俺の生き方に反する残骸だ。
 重野氏は俺の腰を抱えると、ベッドに転がした。体格は元々良かったが、さらに大柄になった。これだけの変化に気づいたのは、それなりの時間が経っていないと気づけない。まだ一年も経っていないのに、前のアルバイトを離れてからは毎日充実していて、遠い昔に感じられた。
「い……たい……っ」
「右腕を怪我したのか? どれ、看てやろう」
「触るなっ……」
「歯を磨くときも靴を履くときもいつも右からだもんなあ……俺はなんでも知ってるんだぜ」
 コートを脱がされ、パーカーの下に手が入り込んでくる。得体の知れない虫が這っているようで、注射針を打ってもいないのに胃の中がおかしくなりそうだ。
「俺なあ……ずっとずっとずっとずっとお前を捜してたんだ。メールを送っても返事はないし、家に行っても電気は暗いし、ちゃんと帰ってきてるのか心配で合い鍵も作ったんだ。なのにまた鍵は変えられてるしよお」
 気持ち悪いことを何か言っているのは分かるが、頭に入ってこない。右腕の痛みが広がり、肩や首にまで到達している。巨体がのし掛かると、一瞬だけ痛みは消えて大きな痛みが全身に到達する。
 額には玉の粒が浮かび、目尻を伝い布団に吸い込まれていった。
「お前の部屋にあったチラシの女の子は彼女か? 秋葉原まで捜しに行ったのによ、しばらく休んでるとか言いやがった。二人で旅行にでも出かけてたのか? ん?」
「違う!」
 間一髪だ。万が一すれ違っていたらと思うと、背筋が凍り付く。
「なあ……これからは志樹って呼んでもいいか? 俺はお前の特別になりたいんだ。名字より、名前の方が特別って感じがするだろ? 志樹も俺のこと、カズアキって呼んでいいからな」
 熱がじわじわと頭のてっぺんまで到達し、血と汗が一気に吹き出したようだ。利き腕ではないが、まだ使い物になる左手の肘を大きく振るうと、大きな顔の顎に命中した。
 崩れ落ちる巨体からなんとか這い出し、ベッドの下に落ちた。地面に光が当たり、夏の水面みたいにキラキラしている。そんな綺麗なものではない。視界の片隅にしか入らないような地面でも、法に反する世界が広がっている。白い粉を吸わないように、左手で口を押さえた。
「志樹……よくも……俺を……」
「俺は名前を呼ばれるのは好きじゃない! 犯罪者に呼ばれたくない!」
 巨体が臀部にのしかかる。腹部であれば、息をするのもやっとだったろう。けれど尻は尻で、はっきり言って気持ち悪い。男に乗られるのが気持ち悪いのか、この男だから気持ち悪いのか。
 地面に顔をつけているせいで、外の足音やざわついた人の声が耳に届いた。遠かった足音は徐々に近づき、扉の前で止まる。
 勢いよくドアが破られた。とてつもない音が響き、上に乗る重野氏が身体を震わせた。隙をついて抜け出そうにも、右手にまで乗られているので動かせない。
「重野カズアキ氏だな」
 いつもの声色より、二、三割増しほど低い。霞んだ目と俺の体勢からだと顔までは見えないが、絶対に怒っている。しかも今まで見たことのない激怒だ。
「ハニーを返しにもらいにきた。そいつは私のだ」
 おそらく、だ。『重野氏の怒りを頂点にして正常ではいられない作戦』を実行したのだと思う。わけの分からなくなった重野氏は、俺の服の中から手を出し、震え上がっている。
 その後のことは、記憶が途切れ途切れになってしまった。ガラの悪い声で新しいチンピラがやってきたと思ったら警察官だったり、床に押さえつけられた重野氏の咆哮が部屋中に響き渡ったり。形勢逆転をした小さな世界では、どちらか悪者か分からなくなっていた。
 警察官はすぐその場で逮捕し、囲まれて引きずられるようにして部屋を出ていく。残った警察官は俺に駆け寄り、大丈夫か、意識はあるかと声を張り上げた。
 ルイは俺に駆け寄るより先にすぐに救急車を呼んだ。電話越しに知人がストーカーに襲われ、右腕が折れている、方向がおかしいと告げた。痛いはずなのに冷静に右腕を見ては「ほんとだ、折れてる」とぼんやりと考えていた。
 担架に乗せられ、運ばれる中、
「身内だ。私も乗せてくれ」
 警察官に簡潔な説明を終えたルイはそう告げ、一緒に救急車に乗った。
 救急車の中はものすごく寒くて、襲われた部屋よりも寒く感じた。ルイが自分の着ていたコートをかけてくれた。毛布をかけますねと言われたが、俺はコートがあるので大丈夫ですと断った。
「ねむい……今ねたら俺、死ぬのかな……」
「骨折しているだけだ。死ぬわけがない」
「……なんでルイがいるの?」
「生きていたら説明してやろう」
 火傷しそうなほど、ルイの手は熱かった。左手に熱が伝わってくる。
 ルイは何か話しかけてくるが、夢現状態で途中で瞼を閉じてしまった。これもルイの声が心地良いのがよくない。

 何も見えない暗闇の中、手探りで彷徨わせていると、何か硬いものが手に当たった。冷たく、身体の熱が吸収されていく。
 もう一度目を閉じると、今日の出来事が部分的に浮かび上がった。一気に波が押し寄せて、引いていく。海の真ん中にいるようだ。心の奥にある感情をさらわれていき、半分ほど戻ってくる。感情の波が激しい。水の色もきれいだといいが、汚染されて手遅れ状態の水だ。ちっとも澄んでいない。
 水が清浄にならないのは、すべて俺の言動が招いたせいだ。勝手な暴走で悪い方向へ進んでいき、そもそもトイレで不道徳なものを発見してから、すぐに警察に通報すれば良かったのだ。余計な正義感のせいで、落ちるだけ落ちてしまった。得たものはあったかと並べても、全部波に流されてしまう。
 硬いものが手に触れているが、スマートフォンだった。突然光だして手がびくりと反応する。
 何かに期待を寄せて左手で操作すると、メールは一件入っていた。
──ご飯をしっかり食べて、休むように。
 メールの相手は上司のボスで、俺にとっては手の届かない存在でありながら、ずかずかと入り込んでくる人。
──ユーリさんも、早めに寝て下さい。
 とはいっても、今は店の片づけをしている時間だろう。変わらない生活を送ってもらえると、俺も安心する。右手のギプスを見ていると、どうしても気が滅入ってしまうから。
 こんなのは前向きな俺らしくない。今できることを考えても、まずは寝る。これだけだ。ならば寝てしまえばいい。明日になってギプスは取れることはなくても、きっと現状は少しずつよくなっていくはずだ。
「おやすみなさい」
 隣で誰が寝ているのかも分からないが、声に出すと少しは眠気が襲ってきた。
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