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第一章 大学生とバーテンダー
029 近くて遠い人
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日本酒をモチーフにしたキャラクターは、商店街で作ったものらしく、キーホルダーやボールペン、下敷きと多種にある。どれもルイのイメージにない。
「真剣だね」
健太さんはいつもおっとりしていて、和み系男子と勝手に思っている。笑顔も素敵で、健太さん目当てにやってくる客人もいる。
「そこまで思ってくれる人がいるなんて、ルイさんって幸せな人だね」
「憧れの兄ちゃんって感じで、俺が勝手に慕ってるだけですよ」
健太さんはにこにこ笑う。園児の前の先生みたいで、なんだか恥ずかしい。俺ひとりではしゃいでいるみたいだ。
「君をここまで夢中にさせるくらい、魅力ある人なんだって分かるよ」
「そうですね。魅力と美の固まりって感じです。仕草一つにしても惹かれるし、動きに無駄がない。ああなりたいって思っても、無理でしようね。現在進行形で、俺は何度も彼に助けられてきました。ルイが困っているなら、俺だって全力で助けたい」
ふと、端に置かれた瓶に目がいった。酒瓶よりも小さく、値段はコンマがつくほどそれなりにする。
「それは香水だよ」
「これも商店街で作ったんですか?」
「うちの店オリジナルで、専門店とコラボして作ってみたんだ。お姉さんが発案だよ」
試しに腕につけてみると、何かの花の香りの後に、ほのかに日本酒の香りも広がる。いくつかあるうちの一つが、なぜだか昔からつけているような感覚に襲われ、右の手首にもつけてみた。
「それが気に入った? 藤の花の香りだね」
「藤……ルイに合いそう」
枝垂れる藤の花の下にルイが佇む姿を想像した。どこかのお貴族様にしか見えない。
身につけられるものがいいと言っていたが、これもある意味身につけられる部類に入る。キーホルダーなど、形あるものではなくても、プレゼントとして送ることができる。
「割引するよ」
「いや、大丈夫です。これは絶対に払いたいんで」
高級店の香水とは違い、大学生が払えない額ではない。おもいきって購入したはいいものの、ルイは某高級ブランドの香水を買っていた。気に入った香りがあるのならと今さらだ。
渡そう。ルイなら喜んでくれる……気がする。なんて言ったって、世界で一番優しい男だ。優しさにつけ込んでしまい、罪悪感も沸く。
「喜んでもらえるといいね」
「だ、大丈夫ですよね……今になって心配になってきた」
「香水は好みがあるからね。藤よりもお酒の香りが微かにするから、苦手だとするとお酒の香りだと思うよ」
「むしろお酒は好きな人なんで。じゃないとバーテンダーも仕事に選ばないだろうし」
奮発した甲斐があったと安堵したい。そのためには、まずはプレゼントを渡せない限りはどんな反応も返ってこない。
健太さんにお礼を言うと、思ってもみない言葉が返ってきた。
「志樹君、俺の方がありがとうだよ。踏み入れたことのない土地に婿としてやってきた俺を、暖かく迎えてくれたんだから。本当は、とても怖かった。田舎は閉鎖的だと聞いていたし、あまり良いイメージを持っていなかったから」
「閉鎖的なのはその通りですよ。俺もいろいろ痛い目は合ってきましたし。でも、良いところもたくさんあります」
「東京は遠いしなかなか帰ってこられなかったんだと思うけど、もしかして俺や子供の存在が原因なのかもとか考えてたんだ。遠慮しないで、いつでも帰ってきて。ルイさんもぜひ連れておいでよ。会ってみたいなあ」
「いいんですか? ルイはめちゃくちゃ良い人なんですよ! きっと気に入ると思います!」
部屋が子供のもので埋もれていたり、いつも座る席が狭くなったり。俺の居場所が少しずつ消えてしまいそうで、本当は少し怖かった。あれだけ抜けたかった田舎でも、祖母との想い出が詰まった場所でもあるし、完全に捨てることはできない。消えかかる火種でも、ちょっぴりでも残してもらえると、救われる。住みたいか、と聞かれるとそれとこれとは話が別だ。今は都会の方が居心地が良いし、社会人として働きたい。
健太さんにお礼を言い、商店街を歩いて包装紙も購入した。家に戻り、買ったばかりの香水を包んだ。
時間を忘れて格闘していると、いつの間にか夕飯の時間になっていた。いつもよりも豪華で、寿司が真ん中に鎮座している。父が出前を頼んでくれたらしい。お礼を伝えても、目配せをするだけで黙ったままだ。これが俺と父の距離感だ。よその家からすると、奇妙に見えてしまうかもしれない。有り難く、寿司はたらふく食べさせてもらった。
食後は荷物だらけの部屋に戻り、端末を開いた。寿司は確かに美味しかった。でも、嘘偽りなく言うと、半分くらいは味が分からなかった。何を話したのかも上の空で、赤子の泣き声で現実に戻ってきた。
「…………既読?」
既読マークはついている。だが肝心の返信がない。絶対におかしい。
──寿司食べたぞ。
適当に送ってみると、すぐに既読がつく。
「違う、ルイじゃない」
電波の向こう側にいるのは俺の兄貴分ではないと察した俺は、一旦メールの送信を止めた。俺の勘が正しければ、ルイの手元に携帯端末はない。報連相の報連ふたつは欠かさない上司が、部下に返信しないなど有り得ない。寿司食べた程度のどうでもいいメールだって、ルイなら真顔で『ネタはなんだ』くらいは返す。ルイ・H・ドルヴィエという男はそういう男だ。
けれど、俺が何かに気づいたと今の持ち主に気づかれるのではないか。気づかせたくて返信しないのか、何も考えていないのか。未知の世界との遭遇は、いつだって不気味で謎に満ちているものだ。
次の日は忙しない朝を迎えたが、姉は駅まで送ると言ってきかなかった。
「バタバタしていて悪かったね。子供の面倒もみてくれて助かったわ」
「俺の方こそバタバタしてたし」
「上司と連絡は取れた?」
「ううん、既読マークはつくんだけど、返事はない。返さないような人じゃないし、何かあったんだと思う」
「極少数が歩む道を行くって辛いことよ。でも姉ちゃんはいつも応援してるからね」
「大学を卒業して就職しろって言わなかったっけ?」
「それは最低限の話よ。いい? 信じすぎるのも足下すくわれるからね。危ないことには突っ込まないこと。逃げて笑われたって、姉ちゃんが褒めてやるから。いつでも帰っておいで」
「俺って恵まれてるよなあ……」
「やっと分かったか。部屋、悪かったわね。次来るときまでに片づけておくから」
俺のわだかまりをすかっと取り除いてくれる。母親代わりを務めてくれる姉は、言葉も態度も厳しいけれど、いつも俺の一番の理解者でいてくれる。
「また泣くの? ボクシングを習って弱い自分とおさらばしたんじゃなかったっけ?」
「した! これは感動の涙なの! 感動の涙はいくら流したっていいんだ!」
ルイと再会したときに流す涙も別物だ。俺はきっと泣く。嬉しくて頬にキスくらいしてしまうかもしれない。
号泣したわりには姉と後腐れのないさっぱりとした別れの挨拶をし、改札を通って電車に乗った。
小さな窓から風景を見ていると、俺は眠気に襲われた。睡眠はしっかりと取ったが、泣くと身体の中の水分と共に体力も奪われる。隣に座るサラリーマン風の男性は泣いている俺にも無関心だったおかげで、人目を憚らず眠りにつけた。
またしても夢を見た。最近、夢を見る回数が格段に増えた。
夢の中の俺は森の中で切り倒された切り株に座り、誰かを待っている。待てども待てども誰も来なくて、結局俺は泣いて顔中を真っ赤に腫らすのだ。側に寄り添ってくれた小鳥も飛び立ち、俺はまた孤独に戻る。起きると目元がぱりぱりに乾いている。
数日離れただけなのに降りる東京駅は懐かしさに変わっていた。ここからどうするか、だ。電車を乗り継いでアパートに戻るか、池袋に直行するか。
謀ったかのようなタイミングで端末にメールが入った。期待していた人ではない。誰かも分からない相手だった。だが直感でルイの関係者かもしれないと思ったのは、日本人の俺に対し無遠慮で自制の欠片もないドストレートなフランス語をつらつらと並べているからだ。俺がフランス語を学んでいると知った上での文章とは思えない。むしろ書きたいから書いたという自由奔放な性格さが滲み出ている。
難しくてすべてを解読するのは不可能だったが、要約すると「やあ! さっさと池袋へ来い」である。おそらくルイの関係者であれば、行く以外に選択肢はない。
重い荷物を背負い、裏口に回り暗証番号を入力する。番号は変わっていなかった。もし扉が開かなかったら、泣くだけでは済まされないところだった。
控え室の前で立ち止まった。中に人の気配がする。十秒全力で走ったときの運動会を思い出す。あのときも今のように、心臓が口から出そうだった。
ノックをすると、中からフランス語が聞こえてきた。俺は日本語で「失礼します」と答え、緊張のドアを破った。
「…………あの、」
とりあえず、頭を下げてみる。バスローブを着た、長身の男性がソファーに座ってカクテルを飲んでいた。
「お……俺、花岡志樹といいます。メールを送ってきたのはあなたですか?」
その通り、とフランス語で答えた。それくらいは分かる。けれど、これ以上続けられても俺は困難を要する。フランス語は挨拶と単語レベルの会話しかできないのだ。
「すみません、英語の方がまだできます。英語は話せますか?」
「これは何だか分かるかい?」
日本語だ。しかも流暢で、俺は呆気に取られた。
男性はカクテルグラスを傾け、ピンクの液体を見せつけた。
「ホワイト・ラム、グレナデン・シロップ、レモンジュース、そして卵白」
実際に飲んだことはないが、本で読んだ。そこの本棚にある、カクテルのレシピ本に書いてあった。
「自信がないんですが、」
「君はお客様を相手にするとき、自信がないと前置きするのか? 大学で英語やフランス語を話すとき、相手に下手ですとわざわざ伝えるのか?」
厳しい意見だ。だが全くもってその通りである。
「セプテンバーモーンです」
「素晴らしい! 間違ってもいい、自信を持ちなさい」
飴と鞭の使い道が上手い人だ。緊張でこんがらがった糸が徐々に解けていく。
「今回はライムジュースを使ったが、レモンジュースを使用する場合もある。さて、ではカクテル言葉は?」
「え、ええ? えと……すみません、分かりません」
「カクテル言葉は『あなたの心はどこに』。九月の朝という意味があるカクテル。覚えておきなさい」
「はい」
心地良い声の持ち主だ。穏やかでいて、早くも遅くもなく、身体が浮いている感覚をもたらす声。だからこそ、厳しい言葉も心に刻まれる。説明を聞いているうちに、俺はこの声を一度聞いたことがあると思い出した。
「もしかして……ユーリさん?」
彼は目を細め、トリビアンと称賛の言葉を口にした。
「真剣だね」
健太さんはいつもおっとりしていて、和み系男子と勝手に思っている。笑顔も素敵で、健太さん目当てにやってくる客人もいる。
「そこまで思ってくれる人がいるなんて、ルイさんって幸せな人だね」
「憧れの兄ちゃんって感じで、俺が勝手に慕ってるだけですよ」
健太さんはにこにこ笑う。園児の前の先生みたいで、なんだか恥ずかしい。俺ひとりではしゃいでいるみたいだ。
「君をここまで夢中にさせるくらい、魅力ある人なんだって分かるよ」
「そうですね。魅力と美の固まりって感じです。仕草一つにしても惹かれるし、動きに無駄がない。ああなりたいって思っても、無理でしようね。現在進行形で、俺は何度も彼に助けられてきました。ルイが困っているなら、俺だって全力で助けたい」
ふと、端に置かれた瓶に目がいった。酒瓶よりも小さく、値段はコンマがつくほどそれなりにする。
「それは香水だよ」
「これも商店街で作ったんですか?」
「うちの店オリジナルで、専門店とコラボして作ってみたんだ。お姉さんが発案だよ」
試しに腕につけてみると、何かの花の香りの後に、ほのかに日本酒の香りも広がる。いくつかあるうちの一つが、なぜだか昔からつけているような感覚に襲われ、右の手首にもつけてみた。
「それが気に入った? 藤の花の香りだね」
「藤……ルイに合いそう」
枝垂れる藤の花の下にルイが佇む姿を想像した。どこかのお貴族様にしか見えない。
身につけられるものがいいと言っていたが、これもある意味身につけられる部類に入る。キーホルダーなど、形あるものではなくても、プレゼントとして送ることができる。
「割引するよ」
「いや、大丈夫です。これは絶対に払いたいんで」
高級店の香水とは違い、大学生が払えない額ではない。おもいきって購入したはいいものの、ルイは某高級ブランドの香水を買っていた。気に入った香りがあるのならと今さらだ。
渡そう。ルイなら喜んでくれる……気がする。なんて言ったって、世界で一番優しい男だ。優しさにつけ込んでしまい、罪悪感も沸く。
「喜んでもらえるといいね」
「だ、大丈夫ですよね……今になって心配になってきた」
「香水は好みがあるからね。藤よりもお酒の香りが微かにするから、苦手だとするとお酒の香りだと思うよ」
「むしろお酒は好きな人なんで。じゃないとバーテンダーも仕事に選ばないだろうし」
奮発した甲斐があったと安堵したい。そのためには、まずはプレゼントを渡せない限りはどんな反応も返ってこない。
健太さんにお礼を言うと、思ってもみない言葉が返ってきた。
「志樹君、俺の方がありがとうだよ。踏み入れたことのない土地に婿としてやってきた俺を、暖かく迎えてくれたんだから。本当は、とても怖かった。田舎は閉鎖的だと聞いていたし、あまり良いイメージを持っていなかったから」
「閉鎖的なのはその通りですよ。俺もいろいろ痛い目は合ってきましたし。でも、良いところもたくさんあります」
「東京は遠いしなかなか帰ってこられなかったんだと思うけど、もしかして俺や子供の存在が原因なのかもとか考えてたんだ。遠慮しないで、いつでも帰ってきて。ルイさんもぜひ連れておいでよ。会ってみたいなあ」
「いいんですか? ルイはめちゃくちゃ良い人なんですよ! きっと気に入ると思います!」
部屋が子供のもので埋もれていたり、いつも座る席が狭くなったり。俺の居場所が少しずつ消えてしまいそうで、本当は少し怖かった。あれだけ抜けたかった田舎でも、祖母との想い出が詰まった場所でもあるし、完全に捨てることはできない。消えかかる火種でも、ちょっぴりでも残してもらえると、救われる。住みたいか、と聞かれるとそれとこれとは話が別だ。今は都会の方が居心地が良いし、社会人として働きたい。
健太さんにお礼を言い、商店街を歩いて包装紙も購入した。家に戻り、買ったばかりの香水を包んだ。
時間を忘れて格闘していると、いつの間にか夕飯の時間になっていた。いつもよりも豪華で、寿司が真ん中に鎮座している。父が出前を頼んでくれたらしい。お礼を伝えても、目配せをするだけで黙ったままだ。これが俺と父の距離感だ。よその家からすると、奇妙に見えてしまうかもしれない。有り難く、寿司はたらふく食べさせてもらった。
食後は荷物だらけの部屋に戻り、端末を開いた。寿司は確かに美味しかった。でも、嘘偽りなく言うと、半分くらいは味が分からなかった。何を話したのかも上の空で、赤子の泣き声で現実に戻ってきた。
「…………既読?」
既読マークはついている。だが肝心の返信がない。絶対におかしい。
──寿司食べたぞ。
適当に送ってみると、すぐに既読がつく。
「違う、ルイじゃない」
電波の向こう側にいるのは俺の兄貴分ではないと察した俺は、一旦メールの送信を止めた。俺の勘が正しければ、ルイの手元に携帯端末はない。報連相の報連ふたつは欠かさない上司が、部下に返信しないなど有り得ない。寿司食べた程度のどうでもいいメールだって、ルイなら真顔で『ネタはなんだ』くらいは返す。ルイ・H・ドルヴィエという男はそういう男だ。
けれど、俺が何かに気づいたと今の持ち主に気づかれるのではないか。気づかせたくて返信しないのか、何も考えていないのか。未知の世界との遭遇は、いつだって不気味で謎に満ちているものだ。
次の日は忙しない朝を迎えたが、姉は駅まで送ると言ってきかなかった。
「バタバタしていて悪かったね。子供の面倒もみてくれて助かったわ」
「俺の方こそバタバタしてたし」
「上司と連絡は取れた?」
「ううん、既読マークはつくんだけど、返事はない。返さないような人じゃないし、何かあったんだと思う」
「極少数が歩む道を行くって辛いことよ。でも姉ちゃんはいつも応援してるからね」
「大学を卒業して就職しろって言わなかったっけ?」
「それは最低限の話よ。いい? 信じすぎるのも足下すくわれるからね。危ないことには突っ込まないこと。逃げて笑われたって、姉ちゃんが褒めてやるから。いつでも帰っておいで」
「俺って恵まれてるよなあ……」
「やっと分かったか。部屋、悪かったわね。次来るときまでに片づけておくから」
俺のわだかまりをすかっと取り除いてくれる。母親代わりを務めてくれる姉は、言葉も態度も厳しいけれど、いつも俺の一番の理解者でいてくれる。
「また泣くの? ボクシングを習って弱い自分とおさらばしたんじゃなかったっけ?」
「した! これは感動の涙なの! 感動の涙はいくら流したっていいんだ!」
ルイと再会したときに流す涙も別物だ。俺はきっと泣く。嬉しくて頬にキスくらいしてしまうかもしれない。
号泣したわりには姉と後腐れのないさっぱりとした別れの挨拶をし、改札を通って電車に乗った。
小さな窓から風景を見ていると、俺は眠気に襲われた。睡眠はしっかりと取ったが、泣くと身体の中の水分と共に体力も奪われる。隣に座るサラリーマン風の男性は泣いている俺にも無関心だったおかげで、人目を憚らず眠りにつけた。
またしても夢を見た。最近、夢を見る回数が格段に増えた。
夢の中の俺は森の中で切り倒された切り株に座り、誰かを待っている。待てども待てども誰も来なくて、結局俺は泣いて顔中を真っ赤に腫らすのだ。側に寄り添ってくれた小鳥も飛び立ち、俺はまた孤独に戻る。起きると目元がぱりぱりに乾いている。
数日離れただけなのに降りる東京駅は懐かしさに変わっていた。ここからどうするか、だ。電車を乗り継いでアパートに戻るか、池袋に直行するか。
謀ったかのようなタイミングで端末にメールが入った。期待していた人ではない。誰かも分からない相手だった。だが直感でルイの関係者かもしれないと思ったのは、日本人の俺に対し無遠慮で自制の欠片もないドストレートなフランス語をつらつらと並べているからだ。俺がフランス語を学んでいると知った上での文章とは思えない。むしろ書きたいから書いたという自由奔放な性格さが滲み出ている。
難しくてすべてを解読するのは不可能だったが、要約すると「やあ! さっさと池袋へ来い」である。おそらくルイの関係者であれば、行く以外に選択肢はない。
重い荷物を背負い、裏口に回り暗証番号を入力する。番号は変わっていなかった。もし扉が開かなかったら、泣くだけでは済まされないところだった。
控え室の前で立ち止まった。中に人の気配がする。十秒全力で走ったときの運動会を思い出す。あのときも今のように、心臓が口から出そうだった。
ノックをすると、中からフランス語が聞こえてきた。俺は日本語で「失礼します」と答え、緊張のドアを破った。
「…………あの、」
とりあえず、頭を下げてみる。バスローブを着た、長身の男性がソファーに座ってカクテルを飲んでいた。
「お……俺、花岡志樹といいます。メールを送ってきたのはあなたですか?」
その通り、とフランス語で答えた。それくらいは分かる。けれど、これ以上続けられても俺は困難を要する。フランス語は挨拶と単語レベルの会話しかできないのだ。
「すみません、英語の方がまだできます。英語は話せますか?」
「これは何だか分かるかい?」
日本語だ。しかも流暢で、俺は呆気に取られた。
男性はカクテルグラスを傾け、ピンクの液体を見せつけた。
「ホワイト・ラム、グレナデン・シロップ、レモンジュース、そして卵白」
実際に飲んだことはないが、本で読んだ。そこの本棚にある、カクテルのレシピ本に書いてあった。
「自信がないんですが、」
「君はお客様を相手にするとき、自信がないと前置きするのか? 大学で英語やフランス語を話すとき、相手に下手ですとわざわざ伝えるのか?」
厳しい意見だ。だが全くもってその通りである。
「セプテンバーモーンです」
「素晴らしい! 間違ってもいい、自信を持ちなさい」
飴と鞭の使い道が上手い人だ。緊張でこんがらがった糸が徐々に解けていく。
「今回はライムジュースを使ったが、レモンジュースを使用する場合もある。さて、ではカクテル言葉は?」
「え、ええ? えと……すみません、分かりません」
「カクテル言葉は『あなたの心はどこに』。九月の朝という意味があるカクテル。覚えておきなさい」
「はい」
心地良い声の持ち主だ。穏やかでいて、早くも遅くもなく、身体が浮いている感覚をもたらす声。だからこそ、厳しい言葉も心に刻まれる。説明を聞いているうちに、俺はこの声を一度聞いたことがあると思い出した。
「もしかして……ユーリさん?」
彼は目を細め、トリビアンと称賛の言葉を口にした。
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