幽閉された美しきナズナ

不来方しい

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第一章 幽閉

013 誰しも心に悪魔がいる

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 藤裔家が裕福に見えて、実はスポンサーによって成り立っている。
 父の足下に置かれた茶封筒の意味は、何らかの契約の証であり、僕は人柱のような存在。だからこそ、こんな大事な話をするときでさえ、血の繋がった母を外したのだろう。
 そして司馬さんは、僕と藤裔家の関係性を調べ尽くしているはずだ。多額のお金をちらつかせれば、父も味方になってくれると思っている。
「今すぐに返事は出さないで下さい。私も、心の準備ができていないのですよ。断られることを承知の上で、参りましたから」
「なずなも返答に困るでしょう。そうだろう、なずな?」
「はい…………」
「なずな君、君の好きそうなお菓子を買ってきたからぜひ食べてね」
 爽やかな笑顔の裏にある脅威に、立ち上がることもできず、見送りは父のみが行った。
 今の僕にはお菓子すら刃物に見える。不法の何か。ひと口でも食べるなと、心の声が囁いてくる。
「なずなが人助けをしているとは知らなかった。自慢の息子だ」
「……ありがとうございます」
 戻ってきて父は褒めるが、もう何を言われても嘘っぱちにしか聞こえなかった。
「なずなの人生だ。ゆっくり考えるといい」
「はい」
 そう、これは僕の人生だ。父のために、藤裔家のために何かしなくたっていい。唯一自由なのは、僕が家を継がなくていいということだ。才能がなくて心底良かった。チュパカブラを編み出した僕を心底褒めたい。
 リビングに戻って話せる力が残っていなかったので、部屋に戻った。
 スーツケースの中身もまだ片づけていない。それよりも眠かった。現実を忘れて寝てしまいたかったが、引き戻したのはスマホのメールだ。
 画面が明るく光り、名前が浮かぶ。
──お疲れ様でした。忘れられない北海道の旅になりました。なずな君の考古学に対する姿勢に、とても勉強させて頂きました。できることなら……と名残惜しく感じてしまいます。家族のことも、君がいたから大きな一歩を踏み出せました。僕が北海道へ行く件ですが、なずな君を惑わせてしまいましたね。まずはゆっくり休みましょう。
 淡い気持ちを胸に、強く唇を噛み締める。そうしないと、溢れる想いで溺れそうになってしまう。
 ふんわりした将来設計図が胸に宿るも、今は勇気が出ず行動にも移せない。
──京介さん、北海道へ行ってしまうんですか?
 返事を待たず、僕は眠りについてしまった。

 起きると次の日の朝で、父はもうすでに仕事へ向かっていなかった。
 顔を合わせづらかったので、これには助かった。
 足の調子も良かったので、僕は大学に行くことにした。
 研究室に行くと、同じゼミの子たちが驚いたように目を見開いている。
「藤裔さん……おはようございます」
「おはようございます」
 同じ年代であるのにもかかわらず、こうして距離を離されると心には曲がりくねった砂利道ができる。まっすぐにも歩けないし、足元も覚束ない。
 なんだろう。いつもよりも距離が遠ざかっている気がする。残念ながら、僕には聞く術がない。
「佐藤教授は?」
「諏訪准教授と、何か話してます。生徒だけで進めてくれって言われてます」
「分かりました」
 ちょうど入ってきたのは、諏訪准教授だ。佐藤教授はいない。
 背中がしょんぼりと小さくなり、いかにも落ち込んでいますと後ろ姿が語っている。あまり良い話ではなかったようだ。聞こうにも、他の生徒の目があるため、何も声をかけられなかった。
「諏訪准教授、何かあったんですか?」
 勇気のない僕の代わりに、他の生徒が口にする。
「僕だって落ち込みますよ……はあ」
 本当に元気がないようだ。
 諏訪准教授は僕に気づくと、何でいるのという動揺を見せるが、一瞬で消す。それよりも傷心が勝っているようだ。
「二重も三重も嫌なことが重なりました」
「うわ、気になるう」
「では特別に一つだけ。来る途中にコンビニでソフトクリームを購入したんですが、カップの蓋を開けたとたん、ざっくり半分逝ってしまいました」
「なになに? カップについちゃったの? あれってたまに起こりますよねえ」
「カップについただけならいいんですが、そのカップについたアイス部分が下に落っこちてしまいました。見ていた野良猫が集まってきてしまいましたし」
「あげたらいいじゃん」
「だっだめです! 猫に人間のおやつは与えられません!」
「そうなんですか? 知らなかった」
「あとは言えません。僕を研究に没頭させて下さい」
 かきむしった頭部は鳥の巣状態になっていた。優しく撫でたくても、生徒がいる以上どうしようもない。
 僕は僕で、研究に集中することにした。

 夕方になり、生徒もまばらになってくる。諏訪准教授となんとか話をしたくて残ろうとするも、他の生徒は佐藤教授と話が盛り上がっている。これでは当分帰りそうにない。
「それでは……僕はこれで」
 諏訪准教授は一瞬だけ僕を見やる。
「……ココアが飲みたい」
 僕にしか聞こえないくらいの小さな声で独り言を言うと、さっさと片づけて帰ってしまった。
「……ココア」
 優しくて甘くて、なんていい響き。諏訪准教授とも何度もココアを飲んだ。彼の好みに染まってしまったのか、僕ひとりでもココアを飲むようになった。
 発した一言がどうしても気になり、僕は帰るふりをして諏訪准教授の研究部屋まで行くと、廊下まで甘ったるい香りがした。
 ノックをしてみると、控えめな返事が聞こえる。
「僕です。藤裔なずなです」
「どうぞ」
 ドアの向こうは対して驚いた声でもなく、僕は遠慮がちにドアを開けた。
「あっ」
「来てくれると信じてました。もし来てくれなかったら……カロリーオーバーです」
 湯気の立つマグカップを二つ持ち、諏訪さんは片方を横に置いた。
「お話がしたいです」
「……僕も」
 何度もふたりきりになってきたはずなのに、今日は緊張しかない。
「メールありがとうございました。返せなくてすみません」
「いいえ……ちょっと悲しかったですけど」
「そうですか。でもね、なずな君。僕はもっともっと悲しかったですよ」
「アイスを落としたから?」
「違います。いえ、それもあります。どうして話してくれなかったんですか?」
「話す?」
「……養子に行くかもしれないって話です」
「えっ……どうしてそれを諏訪さんが?」
「やっぱり……本当だったんですね。藤裔家の長男が養子に行く話が浮上しているってネットニュースになっていました。デマの可能性が高いですが、でも火が出ているのは何かしら火種はあるかもしれないと」
「もう出てるんですか? でもそれは僕はOKしたわけじゃないです。確かにそんな話はされましたけど……。落ち込んでいる理由はそれですか?」
「それ、です」
「可愛い人ですね」
「なんで笑うんですか、もう」
 いつもよりココアが甘い。気のせいかと思ったが、諏訪さんが一口飲んで首を傾げたので、気のせいではないのだろう。
「動揺してたみたいです」
「やっぱり可愛い」
「三十歳を超えた人に可愛いって……そんなこと言うのは、なずな君だけです」
 相変わらず笑うと眉毛がハの字になる。
 恋愛初心者なのは、僕も諏訪さんも変わらない。
 恋愛の駆け引きもできないし、先へ進むには何をすべきかも分からない。
「まだ母とも話していないんです。朝は会わなかったし。今日、帰ったら話してみるつもりです」
 諏訪さんも会ったことがある人だとは言わなかった。余計な気を使わせたくなかった。
「諏訪さんは、北海道にいつ行くか……」
 最後まで言葉が出なかった。
 びくりと身体を震わせ、いかにも聞かないでほしいと言わんばかりで、僕は言葉を詰まらせた。
「なずな君」
 諏訪さんは僕の手を握ると、今度は身体が跳ねたのは僕だった。
「北海道へ、行くことになりました」
 諏訪さんは改めて事実を伝え、僕を突き放す。けれど離れてほしくないと、掴んだ手に力を込めた。
「いつからですか?」
「それは…………」
 諏訪さんの手が震え、僕にも振動が伝わってくる。
「来月からです」
「来月…………」
「あちらから連絡があったんです。できれば早めに来てほしいと」
 いくら何でも早すぎだ。想像していた以上だった。
「諏訪准教授は、答えを出したんですね」
「なずな君……僕は…………」
「あなたからはたくさんのことを学びました。たった数か月でも、勉強させて頂きました」
「なずな君、待って」
「ココア、美味しかったです。ありがとうございました」
 勇気のない、哀れで滑稽な自分に嫌気が差した。
 別れを告げられるのが嫌で、逃げた弱虫な僕。勇気を振り絞って伝えてくれた諏訪さんと僕は、相応しくない。
 大学を出ると、なぜちゃんと話をしなかったのだろうと罪悪感で満たされた。けれど戻る勇気すらなく、諏訪さんはこんな僕を呆れているに違いない。
 流れる涙をそのままに、ただひたすら無心で歩き続けた。
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