幽閉された美しきナズナ

不来方しい

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第一章 幽閉

010 不幸中の幸いと偶然

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 レントゲンも撮ってもらった結果、骨に異常はなかった。あんな高いところから落ちて捻挫で済んだのだから、不幸中の幸いだ。
「良かった……本当に良かった」
「ありがとうございます。諏訪さんが早めに対応して下さったので、ひどくならずに済みました」
「でも少し熱が出てきていますね。今日はこのまま帰って早めに休みましょう。何か飲みますか?」
「シェイクが飲みたいです」
「スポーツドリンクですね。ちょっと待ってて下さい」
 にっこり笑う諏訪さん。強い。でも確かに身体が熱い。彼の言う通り、スポーツドリンクが今はいい気がした。
 名前を呼ばれて薬の説明と支払いを済ませても、諏訪さんはまだ帰ってこなかった。
「あの……」
 厳めしい目つきの男性が遠慮がちに話しかけてきた。
 背は高く、諏訪さんと似た背格好の人だ。
「はい」
「そのカード……」
 保険証を差しているのかと思いきや、埴輪の絵が描いているカードだ。
「こちらですか?」
 お守り代わりにと、諏訪さんからもらったものだ。彼はくれると言ったが、そのうち返す予定ではいる。想い出のつまったものは、そう簡単に受け取れない。
「それ……あなたのですか?」
 どういう意図の質問だろう。僕のと言えば僕のものだし、違うと言ってもそれは正しい。
「知り合いから……借りました」
 曖昧に濁すことにした。
「そのカードの持ち主って……」
 遠くから諏訪さんがやってくる。手にはビニール袋とシェイクを抱えていた。やけに遅いと思ったら、わざわざファーストフード店まで走って買いにいったらしい。
 僕にシェイクを渡しつつ、隣に立つ男性に視線を送る。
 危うく落としかけたシェイクを両手で掴み、諏訪さんを見上げると固まっている。
 どうしたんだと反対側の男性を見ても、諏訪さんと同じ反応をしていた。
「京介……」
 確かに、男性は「京介」と諏訪さんの名前を呟いた。知り合いか、または……。
「兄さん……」
「お前、なんでここに」
「ちょっと、いろいろあって」
「なんでいるんだよ」
「大丈夫。すぐに帰りますから」
 僕に話すような優しい言い方ではない。敬語を使った、感情のないロボットのように言うと、僕の手を取って腰に手を伸ばしてきた。
「この子は、」
「教え子です」
「教師か何かやってんのか?」
「……ええ、まあ」
 家に勘当されたのも帰ってないのも、嘘じゃなかった。職業すら話していない。寂しくて、優しい人。
「では。僕はこれで」
 諏訪さんは何事もなかったかのように歩き出した。痛み止めのおかげか、だいぶ引いていて歩く分には支障はない。それよりも、心に支障はありすぎる。
「待てよ」
 兄さんと呼ばれた男性は、諏訪さんではなく僕の肩を掴む。たった数分で、諏訪さんの弱点を掴んだようだった。
 掴まれたからじゃない。身勝手な行いと平然と第三者を巻き込もうとする性格が、とても怖い。
「母さんが入院してる」
 彼の発する一言は、諏訪さんを動揺させるに充分だった。
「具合が良くないんだ。ときどき、お前の名前を呼ぶ」
「僕は…………、」
「自分勝手なのは分かってる。会いに来てくれないか」
 鬼になれないところが諏訪さんの優しさだ。それとは逆に、即頷かないのは彼の葛藤も垣間見える。今までどれだけ苦労し、悩み、考古学に没頭してきたのか。
「今は、この子の怪我で病院に来ています。まずは連れて帰るのが先です」
 その通りだと思ったのだろう。諏訪さんの兄は唇を噛み締めるだけて何も言わなかった。
「後で連絡をくれ」
 名刺を諏訪さんに渡し、彼はロビーから立ち去った。
 ふたり呆然としすぎて、しばらくは身動きが取れなかった。
 彼にとって人生の岐路と言っても過言ではないような分かれ道は、突然訪れた。
「諏訪さん……お薬もらいに行きませんか?」
 は、と目に意識が戻り、僕の腰を抱える手に力がこもった。
「すみません……ええと、なんて言ったらいいか」
「家に戻ってからゆっくり考えましょう。それとシェイクありがとうございます」
「どういたしまして」
 諏訪さんが買ってきてくれたシェイクはストロベリー味だった。普通、シェイクといえば大体はバニラシェイクを購入するものだが、僕はストロベリー味が良かったので、こんなときでも好みが一致したと嬉しくなる。
 車に乗って一口どうぞと告げると、諏訪さんは戸惑いながらストローをくわえた。
「それ、三口分です」
「…………うん?」
「食べ物の怨みは怖いですよ。怨念がどこまでも付きまといます」
 顔が強張っていた諏訪さんが、ようやく笑ってくれた。こうなると、ちょっとした悪戯心も芽生えてくる。
「京介さん」
「ちょっと、止め……いや止めないで下さい。ハンドルを引っこ抜くところだったじゃないですかっ」
「どっちですか」
「借り物の車ですよっ」
「京介さん」
 彼だって僕の名前を呼んでくれる。それは僕自身が名字を好ましいものと思っていないから、気を利かせてくれているのが大きいが、それでも嬉しかった。
 手を借りてホテルに戻ってきたとき、疲れが一気に押し寄せてきてベッドに倒れた。諏訪さんも隣に寝転ぶ。
「うどんにしましょうか。海鮮の出汁にして」
「絶対美味しいです。卵も入れたいです」
「いいですね。黄身を絡めて食べましょう」
 とは言っても、諏訪さんも僕も動かない。たまにはごろごろしたくなるときもある。
「家にいるとこうはならないので、こういう狭い空間は落ち着きます」
「自室はないんですか?」
「ありますけど……いつも廊下は誰かが通ってて、落ち着かないんです。お客さんは多いし」
「藤裔の当主の方が、何かまた賞を取ったみたいですね」
「そうなんですか? 諏訪さんの方が僕の家庭を知っているって、なんだか変な感じです」
「たくさんテレビに映ってますからね」
 自分の家のことなのでちょっとは興味を持つべきだろうが、何分才能がないと相手柄から意思表示があったとき、藤裔に興味が沸かなくなった。拒否をされれば、された側も同じ気持ちを持つ。
「もうちょっと君とだらだらしたいところですが、お腹が空きました。作りますね。デザートに林檎を剥きましょう」
「家族って、いいものですね」
 唐突の質問に、諏訪さんは面食らった顔をする。
「そうですね……普通というものは個々に持っていますが、なずな君と過ごす今が普通だとしたら、贅沢過ぎてこれ以上望むものはないです」
「………………僕も」
 嘘でも合わせてくれて、とてもうれしい。
 ふたりでご飯を作ったり、笑ったりごろごろしたり。
 彼は、僕の気持ちに寄り添ってくれる。傷つけないように、優しく見守ってくれる。
 いずれさようならをするときが来たら、笑ってお別れの言葉を口にできるだろうか。

 手探りで人肌を手繰り寄せようとしたが、どこを触っても冷たい感触しか残らなかったので、諦めて手を引っ込めた。
 隣に寝ていたはずの諏訪さんがいない。トイレでも風呂でもない。
 重たい瞼をこじ開けながら、ベッドから降りた。
 諏訪さんがいた。僕を背にして、誰かと電話している。そっと近づくと、敬語とざっくばらんな言葉遣いを織り交ぜながら……予想はつく。
「ええ……ええ、聞いています。明後日には……うん。それでも、僕は、戻れません」
 噛み締めるように、一語一語丁寧に話す諏訪さんは、声を荒げたり苛立ちも見せず、淡々と伝えていく。ある意味、怒るよりも心に刺さる話し方。僕はとても好きだ。
 諏訪さんは背後に気づき、あたふたと目線が泳ぐ。
 僕はトースターを指差し、彼に合図を送る。今日の朝食は僕が目玉焼きパンを作ろう。
 食パンの回りをチーズで囲い、卵を落とす。さらに上からチーズをかける。このまま焼けば完成だ。
 ミルクを温めていると、チーズの焼けた良い香りが漂ってくる。電話を終えた諏訪さんがトースターを開け、皿に乗せた。
「焼きすぎるところでした」
「タイミングばっちりですね」
 温かなミルクと一緒に食事をし、食後はデザートにヨーグルトを食べた。
「聞きたいことがあるだろうに、そっと寄り添って下さって、ありがとうございます。今の電話は兄からです。実は昨日メールを送り、僕の電話番号も伝えました。母の状況が思わしくないみたいで、深刻でした」
「諏訪さん……」
「……少しだけ、顔を出して来ようと思います」
「諏訪さんが決めたことです。良い決断をしたと思います」
 諏訪さんは笑い、僕の手にそっと重ねる。
「京介って、呼んでほしいです」
「京介さん、不安ですか? 不安ですよね」
「ええ……あまり良い結果は期待していませんが。京介さんと呼ばれるたび、目を背けてきたものと向かい合える気がします。なずな君の癒やし効果も含めて」
「死んだ魚でもアロマ系の効果は出せるんですね」
「ふふ、昼寝の猫は癒やされます」
 別れ道を引き返す方法もある、と伝えたかったが、今の諏訪さんには余計なお世話のようだ。
 それは僕自身に言い聞かせたかったことなのかもしれない。誰かに回れ道をしてもいいとと言われたい。けれどそれも敵わない。僕も立ち向かわなければならない。家の問題に。
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