幽閉された美しきナズナ

不来方しい

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第一章 幽閉

05 司馬永十郎という人物

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 しばらく帰れない佐藤教授の代わりに、諏訪准教授が講義と研究の指揮を取っている。分かりやすくて優しそうな人柄のおかげか、すぐに打ち解けて生徒の中心となった。
「先生って猫とハニワが好きなんですか?」
「ばれちゃいましたか。実はそうなんです」
 使っているボールペンの頭には、ハニワが鎮座している。スマホのカバーは猫だ。
 猫が好きなのは知っていた。ハニワは他の生徒が発見した。それだけ。別になんてことはない。持っていた資料がぐしゃぐしゃになっただけ。ついでに紙コップからお茶がぼとぼと零れただけ。
「猫は分かるけど……ハニワって不気味じゃないですか?」
「ぼんやりしているところが可愛いですよ。どんなハニワでも愛して見せます」
「そういえば、藤裔君ってハニワに似てるよね」
「僕?」
 初めて言われた。どういう意味だろう。ハニワ、よく分からない。
「ぼーっとしてるところとか」
「なずな君は、お魚さんです」
「………………魚?」
「あっいや……死んだ魚の目に似てるって本人が言っていたんで。僕としては、ひなたぼっこをする猫に似ている気がしますが」
「いつ言ってたんですか?」
「あーその……あれです、この前、資料の整理を手伝って頂いたとかこに、言っていた、気がします……」
 断言する。諏訪准教授は嘘を吐けない。しかも下手。
「いつかハニワと猫に囲まれて過ごしたいです」
「猫ならすぐに叶うんじゃないんですか?」
「実家にはいたんですよ。会いたいなあ」
「遠いんですか?」
「北海道です」
「北海道……」
 小さく呟くと、諏訪准教授は微かに笑う。
「酸いも甘いも、たくさんの想い出が詰まった場所です」
「それなら、佐藤教授の代わりに行こうと思わなかったんですか?」
「行こうと思って行けるわけではありませんよ。それにもし依頼があったとしても、ひとりで行くには怖じ気づいてしまいます」
「ひとりじゃなかったらいいの?」
「そうですね……堂々と共に歩けるような方ができたら、勇気が出そうな気がします」
「ってことは、諏訪准教授って彼女いないんだ?」
 生徒の質問に丁寧に受け答えを繰り返していたが、これには言葉を詰まらせた。二重の意味があるのは、唯一僕は知っている。付き合っている人はいないだろうし、彼は女性が恋愛対象ではない。
「准教授ってさ、髪型とかなんとかしたらいけてる部類だと思うよ」
「そ、そうですかね……。どう思います?」
 なぜか僕に振ってきた。
「そのままでも、素敵だと思いますよ」
 二度目、諏訪准教授は言葉を詰まらせた。なんだかよからぬ雰囲気になり、生徒たちは静まり返る。
「……素敵だと思います」
 諏訪准教授は顔を背け、震えている。どういう感情表現なのか、僕にはよく分からない。
「……失礼しました。研究を再開しましょうか」
 この人はこんなに表情豊かなんだと思った。
 百面相すぎて、まるで感情が読めない。

 時給制ではなく、予約が入った分だけ給料がもらえる。プラス、どれだけ飲食の注文をしてもらえたかにもよる。幸いなことに、僕には予約してくれる人もついてくれて、入るお金が交通費だけということは免れている。お金は徐々に貯まってきた。大事にしなければ。
 自室を出ると、廊下で闇に紛れて小さな物体が蠢いていた。人間は驚きすぎると声が出ない。それが今、証明された。
 何かと思えば、義理で半分しか血の繋がらない、一応、僕の弟。
「ごめんね、外に出ちゃったみたい」
 開けっ放しの襖から、母親を探すために出てきてしまったらしい。
 赤ん坊は、僕を求めて腕を伸ばす。僕は一歩後ろへ下がった。
「閉めていないと危ないよ」
「ごめんねえ……あっちもこっちもやることが多くて」
 母とふたりで過ごした日々が懐かしい。今は僕の助けを必要としなくなった。
「抱っこしてみる?」
 そういえば……と、ふと思う。僕は、義理の弟を抱いたことがない。ハイハイするようになった今も、触ろうとすら思ったことがなかった。
「やめておく。バイトに行ってくる」
「気をつけてね」
 僕がいなければ、家族仲良く過ごせるはず。自虐的なのはよくないと分かっていても、悪魔が独りになれと囁く。僕はいつも、悪魔に負けている。
 本当はアルバイトなんてない。家にいると息がつまるし、かといって自室にいても赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。得体の知れない声は、とても怖かった。
 駅近くのファミレスは、学生の勉強もうちでどうぞというスタイルで、僕みたいな家にいられないタイプの学生には有り難かった。
 だったのに、店の前には臨時休業という悪夢をプレゼントされてしまった。図書館はもう閉まっている。行く道が閉ざされた。
 路頭に迷っていると、ふとビルの看板が目に入る。流行りの猫カフェとフクロウカフェが同じビルに入っているらしい。
 圧倒的猫派を貫き通す僕は、断然猫カフェに魅了されている。新しくできたアイスクリーム屋で、チーズアイスを見かけたときくらい、魅了されている。
 彼は猫が好きだと言った。本に猫の足跡も残っていた。飼っているのか、飼っていたのか。猫カフェは行くのだろうか。
「ナズナ君?」
 振り返ると、アルバイトでご贔屓にしてもらっている司馬永十郎さんがいた。
「……こんにちは。偶然ですね」
 一瞬だけつけられたかとよぎったが、駅前には彼の経営するホテルがあった。仕立ての良いスーツも着ていて、仕事帰りだろう。
「すごい偶然だねえ。また会ったよ」
「はい、偶然ですね」
「今日はアルバイトはないの?」
「はい。ご飯でも食べて帰ろうかと……」
 ファミレスの前で立ち往生している姿、そして明かりのない店内。司馬さんは交互に見回し、小さく笑みを零す。
「タイミングが悪かったね。どうだろう、これから一緒に食事でも」
「え…………」
「奢るよ。何が食べたい?」
 偶然に偶然が重なれば、必然としか思えなかった。
 向かい側から歩いてきた男性にも見覚えがある。
 猫好きで、佐藤教授の研究グループに加わった諏訪准教授だ。
 僕たちを見て固まり、足が止まっている。知らないふりをしたかったが、目が合ってしまった。
「どうかした?」
「いいえ何でも。洋食が食べたいです」
「洋食か……いいだろう。美味しい店はそれなりに知っている。君もきっと喜んでくれる」
「ありがとうございます。お言葉に甘えます」
「それじゃあ行こうか」
 司馬さんは僕の肩に手を回した。店でないのだから振りほどいてもいいはずなのに、できなかった。諏訪さんに会ったことと、手を置かれたことを切り離して考えられない。心が追いつかない。
 司馬さんの連れていってくれた店は、ビルの六十階にある夜景の見える店だった。
 予約したわけでもないのに、店員は司馬さんを見るなり「いつもありがとうございます」と深々と頭を下げる。常連らしい。
 窓際の夜景が見える席に案内され、ひと息つこうにも緊張して背筋に変な力が入る。
「慣れない?」
「なんだか、ドラマのシーンみたいです。こういうところは初めてです」
「そうかそうか。好きなものを頼むといい」
 機嫌よく、メニュー表を渡してくる。
 目に留まるのはグラタンで、他のページを見てもすぐにグラタンに戻ってしまう。チーズは貴重だ。あまり藤裔家では出ない。身体も心もチーズを欲している。
「グラタンでいいの?」
「これが食べたいです」
「俺はステーキセットにするよ。飲み物は?」
「グリーンティーで」
 司馬さんはワインも注文し、夜景を眺める。
 司馬さんの姿が父と重なる。横顔だけは、父に似ているところがあった。
「何かあった?」
 司馬さんはグラスに入る水をくるくると回す。癖なのか、それすら様になっている。
「少し元気がないように見える」
「そう、ですか」
 さて、なんて答えようかと口を開きかけたとき、ちょうど料理が来た。
 話をごまかせるかと思ったが、司馬さんはごまかす気などないらしく、料理に手をつけようとしない。
「ごめん、これじゃあ部下に対する仕事の姿勢だ。退勤しても、抜け切れていないらしい」
「家庭で、その……親とうまくいっていなくて」
「ああ……そうだったのか。そのくらいの年だと悩むよね。俺もあったよ」
 司馬さんが料理に手をつけ始めたので、僕もフォークを持った。奢られているため、先に手にしづらい。
「解決策としては、家を出ることかな。俺は一人暮らしをしたよ。離れてみると、冷静になれてお互いの言い分も分かり合えるようになるし。俺の家に来るって方法もあるけど」
 すっかり忘れていた。そういえば、司馬さんから家に来てほしいと言われていた。学校だったりアルバイトだったりと、考える余裕はなかった。
 僕が何も言えないでいると、美味しいね、と話題を変えてくれた。
 大人の対応というか、人の気持ちをくみ取ることに長けている。
「話し合うより、今のナズナ君には距離が必要に見えるよ」
「僕も、そう感じています」
 せっかくのグラタンなのに、味がよく分からなかった。多分、美味しいんだと思う。滅多に来られる店じゃないのに、申し訳なかった。
 初めて見たブラックカードは本当に黒で、きらきらしていた。
 エレベーターに乗ると、彼は僕の肩に手を回してきた。酔っているわけではない。行きも同じように回してきたのだから、彼の素だ。
 エレベーターから降りても手は離れず、さり気なく外すにはどうしたらいいのか、僕には経験が少ない。
「嫌がらないのは、そうとってもいいの?」
「司馬さん……」
「ここはホテルだよ」
 今を逃したら、とんでもないことになりそうだ。
 僕が何か言うより先に、目の前に現れた人物に驚愕して声が出なくなった。
「えっ……なんで…………」
「そ、そういうのはダメですっ……」
 帰ったはずの諏訪さんが、目の前にいた。
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