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第一章 探偵として
005 リサの気持ち
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「ジロー、大丈夫かい?」
聞くのは何度目だろうか。ジローはいい加減にしろ、という眼差しで見つめ、小さく頷いた。
ここのところ、ジローの体調は優れないでいる。家族でごたごたがあると聞いてからだ。
「寝不足なんだ」
「薬は飲んでるのか?」
「ああ……それでも夜中に起きてしまう。薬が入ったまま、眠気もつねにある状態だ」
「それはきついね。薬は止めて、少し酒を飲んだらどうだ?」
「そうさせてもらう。じゃあ」
「ああ。お大事に」
僕は悪魔の鱗粉でも振りまいているのか? 僕の周りはいつも不幸になる。日に日に目に隈ができる彼を見ているのはつらい。
記憶の端に追いやった記憶は、何かの拍子にやってくる。慌てなくてもいいのに、全力で走ってくる。
父の笑顔はいつも優しく力強く、大きな手で頭を撫でてくれた。断片的に切り替わる絵は、何かのマークが頭をよぎる。
信号が切り替わり、アクセルを踏んだ。タイミングが良かった。今は思い出したくない。あの日のことは、心の中に閉じ込めておきたい。
バー『オアシス』にやってくると、ちょうどリサが表に看板を出しているところだった。
「リック…………」
「やあ、リサ」
「大変な思いをしたわね」
一度大きなハグを交わし、離れようとしたところ、彼女は背中に手を回した。道路側から口笛が聞こえたが、構うもんかと僕も手を回す。
「どうする? 寄ってく?」
「リサ、頼みがあるんだ」
神妙な顔をしていたと思う。ただごとではないと悟ったリサは、まだオープン前なのにもかかわらず、中へ招いた。
賑わいを見せている店内が、今は恐ろしいくらいに静かだ。隣にいるリサの呼吸の音や香水の香りが生きていると思わせてくれる。
「ちょっと、顔が真っ青よ」
「大丈夫だ。それより頼みのことなんだけど、僕に防犯カメラの映像を見せてくれないかな」
リサは大きく間を空け、さして困った様子も見せずに口を開いた。
「どうして?」
「リサ、分かっていないふりをするつもりかい? 僕とジェフが最後に交わしたときの映像が見たいんだ」
「それは、興信所の人間として? それとも個人として?」
「深く考えていなかったよ。探偵として追っている事実もある。けれど僕自身で決着をつけたいのもある。そんなため息をつかないでくれ」
「顧客の情報を簡単に渡すわけにはいかないわ」
「何かほしい情報は?」
「何もいらない。……しばらくこのままで」
リサはもう一度、僕を抱きしめる。
こういうハグは、僕は一度だけ経験がある。学生時代の淡い想い出だ。彼はどうしているだろう。今になって思い出すなんて、僕にとって彼はその程度の記憶でしかない。父のように、思い出さないようにしていたわけではないのに。
「あなたは優しすぎるわ」
「そうでもないさ」
「私を特別扱いしないし、特別に扱わないし」
「言ってることがむちゃくちゃだよ」
はは、と声に出して笑うと、リサも笑ってくれた。
狭い扉を通り、彼女の後を追う。女性らしくも逞しい背中は、夕焼け空の下で別れを告げる友人を思い出す。
「ここよ」
「留置所より狭いじゃないか」
「縁のない場所だろうし、味わってみたらいいわ」
窓もエアコンもない部屋には椅子と机、モニターがある。大きなモニターには、誰もいない売場の様子が映し出されていた。
「器用なのね」
「だからこそ、車に細工したんじゃないかった疑われているんだ」
このような機械は初めてではないが、見てちょっと弄ってみればだいたいはできるようになる。だからといって爆弾作りは専門外だが。
もう会えない男性の姿が映っていた。肩がつきそうなほど近い距離で、何か話している。時折リサが僕らを気にしている様子も映っている。
感傷に浸っている場合じゃない。目的はジェフであってジェフではない。画面を切り替え、フロア全体が映るよう切り替える。
映っているのは十人未満の男性たち。特徴を上げるとすると、いやにやせ細った男、頭部が心もとない男、スカートをはいて足を広げている男。誰も見覚えがない。過去に会ったことのある人でも、時間が経てば見た目も変わるし、記憶は最後の記憶で止まってしまう。僕だって相当変わっているはずだ。
画面越しにこっそりカメラで撮影し、リサにお礼を言った。
「リック、あなたはひとりじゃないわ」
「ああ、充分伝わっているよ」
「上手く言えないの。何を言ったらいいのか……」
「分かっているさ。事件が解決したら、また飲みにくるよ」
「解決しなくても来てちょうだい。ハンサムな顔は何度だって見たいもの」
「ありがとう、リサ。君もとても綺麗だよ」
警察が当てにならないと知った以上、犯人特定のために自ら動くしかない。こっそり撮った写真を持ち帰り、鮮明になるようなんとか修正をかけていく。こうするしか方法がない。リサの店は会員制というわけでもなく、客人の個人情報は手に入れられないのだ。
──思い出したわ。イアン・チャーチ。
リサからメールが届く。続けて、
──女装していた男性よ。彼なら住んでいる場所も知っている。
と来た。
──よく来る人?
──週に一回は。また来たらあの日のことを聞いておこうか?
──なんとか連絡は取れないかな?
──個人的な付き合いはしていないの。店のすぐ近くに住んでいるらしいけど。
──なら、僕が行くよ。名前が分かれば多分、大丈夫。調べるから。
珍しい名前ではないので調べれば何件も引っかかるが、おおよその住所を割り出してみると、ヒットするのは一人だけだ。
僕は一旦席を立って車のキーを手にした途端、身体が硬直して元に戻した。
ジェフは僕に会って殺されている。万が一、先回りをした犯人がイアン・チャーチと僕が会っているのを知り、何かしたら。そう思うと、硬直して動けなくなってしまった。
少し様子を見た方がいい。慌ててもいいことなんてない。感情的になれば、土壇場で動きが読まれやすくなる。
夕食にシリアスにフルーツをトッピングし、牛乳をかけて食べた。お腹が膨れると、余計なことは考えないで済む。ついでにホラー映画でも観よう。
僕はアクションやホラーを好んで観る。もし実家で観ていたら、母に絶叫されていただろう。特にホラーは心臓に負担がかかるだの喘息が酷くなるだの、医者でもないのにとんだ言いがかりをつけてくる。過保護もいきすぎると敷いたレールを外したくなる。画面チェーンソーを持った男が現れても僕は死んでいないし、心臓発作も起こしていない。
戸締まりをしっかり確認し、僕はベッドに横になった。思っていた以上に疲労は溜まっていて、目を瞑っただけで意識を手放した。
翌日も昨日と同じ夕食のメニューを食べて出勤すると、ちょうど刑事ふたりが事務所から出てくるところだった。
「デートのお誘い?」
「振られたさ。次はお前だ」
「ジローと僕とではだいぶタイプが違うけど」
刑事の片割れがメモ帳を出し、何かを書くと一枚切って僕に渡してきた。ウィリアム・ギルバート。そして端末番号。
「本当にデートの誘いだったんだ……」
「俺個人の番号だ。有り難く思え。場合によっては九一一より早いかもしれん」
言うだけ言い終わると、ふたりはさっさと階段を下りていった。
事務所の変わった様子といえば、僕のデスクに行方不明だったカップが置いてあった。
「奴らだろ?」
「ああ」
やはりとしか言いようがない。初めて彼らをここに入れたとき、キム刑事は事務所内を徘徊していた。こっそり拝借して、僕らの指紋を取ったのだ。
「なあ、リック。お前も俺が犯人だと疑ってるか?」
「僕が? ジローを?」
ギルバート刑事も似たようなことを言っていた。どちらかというと、僕よりジローを疑っていると。
「あるわけがない。警察は誰にでも疑う。気にする必要はないよ。体調はまだ良くないのか?」
「寝不足なだけだから。弟の様子が最近おかしいんだよ」
「退院したのか?」
「いや……この前も病院を勝手に抜け出していたみたいで、俺も呼び出されて怒られた」
「家族に会えず寂しかったんじゃないか?」
「……だといいが」
いつもより会話の少ない仕事だったが滞りなく終え、車に乗ってキーを出そうとしたとき、くしゃりと紙が手の甲に当たった。
──俺個人の番号だ。有り難く思え。
ジローにも渡したのか定かではないが、有り難く登録させてもらった。
今からは興信所の人間としてではなく、好奇心旺盛なリックとして動く。夕焼け空の下、車を走らせるのは気持ちがいいが、どうか天国へ通じる道になりませんように。
少し遠くの駐車場で車を止め、イアン・チャーチ氏の住む家まで来た。リサのバーからそれほど離れていない。一軒家が密集している場所で、迷うだけだ。
ノッカーで叩いてみるが、返事がない。もう一度叩くが、そもそも人のいる気配がしなかった。
犬を散歩中の男性と目が合ったので声をかけると、彼は気さくに手を上げた。
「やあ、大きな犬だね」
「娘に散歩を押しつけられたのさ。そこの家の人の知り合いかい?」
「彼はいないのか?」
嘘は吐かず、質問に対して質問で返す。
「今日は見ていないよ。こんなことなら娘に散歩させるんだった」
「こんなことなら?」
「彼……いや、彼女か? 娘が女装趣味のあるそこの……住人を怖がってね」
子供ならばなおさらだろう。自分が普通の基準となる。それ以外は異物と見なす。
大きな犬はよほど可愛がられているのか、毛並みも良いし真っ白だ。飼い主が座ると、寄り添っておとなしくしている。
「最近、ここら辺で見慣れない人はいなかったか?」
「怪しい人って意味か?」
「いや、怪しくなくても、誰か知らない人がうろうろしていたとか」
「ないな。俺が知る限りでは。警察かい? 少し前にも来たが」
「いや……ちょっとした知り合いなんだ」
ちゃっかり警察も来ていた。こちらは間違いなくデートのお誘いではないだろう。
男性に礼を告げ、日にちをずらしてからまた来ようと、僕はその場を後にした。
のちに、手袋の一つでもはめて置けば良かったと後悔した。
聞くのは何度目だろうか。ジローはいい加減にしろ、という眼差しで見つめ、小さく頷いた。
ここのところ、ジローの体調は優れないでいる。家族でごたごたがあると聞いてからだ。
「寝不足なんだ」
「薬は飲んでるのか?」
「ああ……それでも夜中に起きてしまう。薬が入ったまま、眠気もつねにある状態だ」
「それはきついね。薬は止めて、少し酒を飲んだらどうだ?」
「そうさせてもらう。じゃあ」
「ああ。お大事に」
僕は悪魔の鱗粉でも振りまいているのか? 僕の周りはいつも不幸になる。日に日に目に隈ができる彼を見ているのはつらい。
記憶の端に追いやった記憶は、何かの拍子にやってくる。慌てなくてもいいのに、全力で走ってくる。
父の笑顔はいつも優しく力強く、大きな手で頭を撫でてくれた。断片的に切り替わる絵は、何かのマークが頭をよぎる。
信号が切り替わり、アクセルを踏んだ。タイミングが良かった。今は思い出したくない。あの日のことは、心の中に閉じ込めておきたい。
バー『オアシス』にやってくると、ちょうどリサが表に看板を出しているところだった。
「リック…………」
「やあ、リサ」
「大変な思いをしたわね」
一度大きなハグを交わし、離れようとしたところ、彼女は背中に手を回した。道路側から口笛が聞こえたが、構うもんかと僕も手を回す。
「どうする? 寄ってく?」
「リサ、頼みがあるんだ」
神妙な顔をしていたと思う。ただごとではないと悟ったリサは、まだオープン前なのにもかかわらず、中へ招いた。
賑わいを見せている店内が、今は恐ろしいくらいに静かだ。隣にいるリサの呼吸の音や香水の香りが生きていると思わせてくれる。
「ちょっと、顔が真っ青よ」
「大丈夫だ。それより頼みのことなんだけど、僕に防犯カメラの映像を見せてくれないかな」
リサは大きく間を空け、さして困った様子も見せずに口を開いた。
「どうして?」
「リサ、分かっていないふりをするつもりかい? 僕とジェフが最後に交わしたときの映像が見たいんだ」
「それは、興信所の人間として? それとも個人として?」
「深く考えていなかったよ。探偵として追っている事実もある。けれど僕自身で決着をつけたいのもある。そんなため息をつかないでくれ」
「顧客の情報を簡単に渡すわけにはいかないわ」
「何かほしい情報は?」
「何もいらない。……しばらくこのままで」
リサはもう一度、僕を抱きしめる。
こういうハグは、僕は一度だけ経験がある。学生時代の淡い想い出だ。彼はどうしているだろう。今になって思い出すなんて、僕にとって彼はその程度の記憶でしかない。父のように、思い出さないようにしていたわけではないのに。
「あなたは優しすぎるわ」
「そうでもないさ」
「私を特別扱いしないし、特別に扱わないし」
「言ってることがむちゃくちゃだよ」
はは、と声に出して笑うと、リサも笑ってくれた。
狭い扉を通り、彼女の後を追う。女性らしくも逞しい背中は、夕焼け空の下で別れを告げる友人を思い出す。
「ここよ」
「留置所より狭いじゃないか」
「縁のない場所だろうし、味わってみたらいいわ」
窓もエアコンもない部屋には椅子と机、モニターがある。大きなモニターには、誰もいない売場の様子が映し出されていた。
「器用なのね」
「だからこそ、車に細工したんじゃないかった疑われているんだ」
このような機械は初めてではないが、見てちょっと弄ってみればだいたいはできるようになる。だからといって爆弾作りは専門外だが。
もう会えない男性の姿が映っていた。肩がつきそうなほど近い距離で、何か話している。時折リサが僕らを気にしている様子も映っている。
感傷に浸っている場合じゃない。目的はジェフであってジェフではない。画面を切り替え、フロア全体が映るよう切り替える。
映っているのは十人未満の男性たち。特徴を上げるとすると、いやにやせ細った男、頭部が心もとない男、スカートをはいて足を広げている男。誰も見覚えがない。過去に会ったことのある人でも、時間が経てば見た目も変わるし、記憶は最後の記憶で止まってしまう。僕だって相当変わっているはずだ。
画面越しにこっそりカメラで撮影し、リサにお礼を言った。
「リック、あなたはひとりじゃないわ」
「ああ、充分伝わっているよ」
「上手く言えないの。何を言ったらいいのか……」
「分かっているさ。事件が解決したら、また飲みにくるよ」
「解決しなくても来てちょうだい。ハンサムな顔は何度だって見たいもの」
「ありがとう、リサ。君もとても綺麗だよ」
警察が当てにならないと知った以上、犯人特定のために自ら動くしかない。こっそり撮った写真を持ち帰り、鮮明になるようなんとか修正をかけていく。こうするしか方法がない。リサの店は会員制というわけでもなく、客人の個人情報は手に入れられないのだ。
──思い出したわ。イアン・チャーチ。
リサからメールが届く。続けて、
──女装していた男性よ。彼なら住んでいる場所も知っている。
と来た。
──よく来る人?
──週に一回は。また来たらあの日のことを聞いておこうか?
──なんとか連絡は取れないかな?
──個人的な付き合いはしていないの。店のすぐ近くに住んでいるらしいけど。
──なら、僕が行くよ。名前が分かれば多分、大丈夫。調べるから。
珍しい名前ではないので調べれば何件も引っかかるが、おおよその住所を割り出してみると、ヒットするのは一人だけだ。
僕は一旦席を立って車のキーを手にした途端、身体が硬直して元に戻した。
ジェフは僕に会って殺されている。万が一、先回りをした犯人がイアン・チャーチと僕が会っているのを知り、何かしたら。そう思うと、硬直して動けなくなってしまった。
少し様子を見た方がいい。慌ててもいいことなんてない。感情的になれば、土壇場で動きが読まれやすくなる。
夕食にシリアスにフルーツをトッピングし、牛乳をかけて食べた。お腹が膨れると、余計なことは考えないで済む。ついでにホラー映画でも観よう。
僕はアクションやホラーを好んで観る。もし実家で観ていたら、母に絶叫されていただろう。特にホラーは心臓に負担がかかるだの喘息が酷くなるだの、医者でもないのにとんだ言いがかりをつけてくる。過保護もいきすぎると敷いたレールを外したくなる。画面チェーンソーを持った男が現れても僕は死んでいないし、心臓発作も起こしていない。
戸締まりをしっかり確認し、僕はベッドに横になった。思っていた以上に疲労は溜まっていて、目を瞑っただけで意識を手放した。
翌日も昨日と同じ夕食のメニューを食べて出勤すると、ちょうど刑事ふたりが事務所から出てくるところだった。
「デートのお誘い?」
「振られたさ。次はお前だ」
「ジローと僕とではだいぶタイプが違うけど」
刑事の片割れがメモ帳を出し、何かを書くと一枚切って僕に渡してきた。ウィリアム・ギルバート。そして端末番号。
「本当にデートの誘いだったんだ……」
「俺個人の番号だ。有り難く思え。場合によっては九一一より早いかもしれん」
言うだけ言い終わると、ふたりはさっさと階段を下りていった。
事務所の変わった様子といえば、僕のデスクに行方不明だったカップが置いてあった。
「奴らだろ?」
「ああ」
やはりとしか言いようがない。初めて彼らをここに入れたとき、キム刑事は事務所内を徘徊していた。こっそり拝借して、僕らの指紋を取ったのだ。
「なあ、リック。お前も俺が犯人だと疑ってるか?」
「僕が? ジローを?」
ギルバート刑事も似たようなことを言っていた。どちらかというと、僕よりジローを疑っていると。
「あるわけがない。警察は誰にでも疑う。気にする必要はないよ。体調はまだ良くないのか?」
「寝不足なだけだから。弟の様子が最近おかしいんだよ」
「退院したのか?」
「いや……この前も病院を勝手に抜け出していたみたいで、俺も呼び出されて怒られた」
「家族に会えず寂しかったんじゃないか?」
「……だといいが」
いつもより会話の少ない仕事だったが滞りなく終え、車に乗ってキーを出そうとしたとき、くしゃりと紙が手の甲に当たった。
──俺個人の番号だ。有り難く思え。
ジローにも渡したのか定かではないが、有り難く登録させてもらった。
今からは興信所の人間としてではなく、好奇心旺盛なリックとして動く。夕焼け空の下、車を走らせるのは気持ちがいいが、どうか天国へ通じる道になりませんように。
少し遠くの駐車場で車を止め、イアン・チャーチ氏の住む家まで来た。リサのバーからそれほど離れていない。一軒家が密集している場所で、迷うだけだ。
ノッカーで叩いてみるが、返事がない。もう一度叩くが、そもそも人のいる気配がしなかった。
犬を散歩中の男性と目が合ったので声をかけると、彼は気さくに手を上げた。
「やあ、大きな犬だね」
「娘に散歩を押しつけられたのさ。そこの家の人の知り合いかい?」
「彼はいないのか?」
嘘は吐かず、質問に対して質問で返す。
「今日は見ていないよ。こんなことなら娘に散歩させるんだった」
「こんなことなら?」
「彼……いや、彼女か? 娘が女装趣味のあるそこの……住人を怖がってね」
子供ならばなおさらだろう。自分が普通の基準となる。それ以外は異物と見なす。
大きな犬はよほど可愛がられているのか、毛並みも良いし真っ白だ。飼い主が座ると、寄り添っておとなしくしている。
「最近、ここら辺で見慣れない人はいなかったか?」
「怪しい人って意味か?」
「いや、怪しくなくても、誰か知らない人がうろうろしていたとか」
「ないな。俺が知る限りでは。警察かい? 少し前にも来たが」
「いや……ちょっとした知り合いなんだ」
ちゃっかり警察も来ていた。こちらは間違いなくデートのお誘いではないだろう。
男性に礼を告げ、日にちをずらしてからまた来ようと、僕はその場を後にした。
のちに、手袋の一つでもはめて置けば良かったと後悔した。
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