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モノ神の横溢
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1)「戦艦武蔵」(吉村昭著)を読む
吉村昭の名作といわれる「戦艦武蔵」を読んだ。濃厚な記録文学、という言い方がぴったりくる。
話は、昭和12年、有明海の海苔養殖業者たちが、漁具の素材として使う棕櫚を、誰かが買い占めたことに気づいたことからはじまる。そして、九州のある造船会社に、海軍から巨大艦船の建造が依頼される場面へと話が移る。
海軍の依頼は、当時の造船技術のレベルを凌駕したものばかりで、ベテランの造船技術者たちでさえ困惑を隠せなかった。排水量は7万トンを超え、水平線の向こうまで砲撃できる巨砲を搭載し、舷側の装甲は厚さ40センチという、当時の常識である35センチの限界をはるかに超えるものが要求された。被爆・浸水したときに備えて、船の傾きを制御する最新鋭の機構も取り入れられていた。
造船技術者たちが、それらの一つ一つに試行錯誤を繰り返しながら応えていく足取りを、物語は丁寧に追いかけていく。
武蔵の建造は軍の最高機密であり、話の冒頭に出てくる棕櫚の買い占めは、造船の現場を棕櫚のすだれで覆い隠すためのものだったことも分かる。やがて、4年と数ヶ月。費用にして、当時の金額で1億数千万円という巨費を投じて、戦艦武蔵は完成する。 物語のおよそ3分の2が、この完成までに費やされており、技術的な話の間にときおり挿入されている、人々の一喜一憂にふれる箇所が、数少ないためにかえって鮮やかに浮かび上がっている。
戦艦武蔵は、日本の大鑑巨砲主義の最後となった巨大戦艦で、双子ともいえる同型の戦艦大和とともに、不沈艦かつ海の要塞として、海軍の新兵器、最終兵器であったようだ。 戦時中、これらの艦船の存在は、国民に対してさえ秘密にされていて、この艦船の建造に少しでも気づいた人々は、憲兵や警察の厳しい尋問や拷問を受けたようだ。
さて、完成した武蔵は、なかなか前線には投入されず、戦線のはるか後方で空しく時を過ごすことになる。その理由の一つは、武蔵が重油を消費しすぎるということだった。重油の備蓄が乏しくなってきた日本は、重油を節約するために、せっかく造った武蔵を動かさないようにしていたのだという。
重油の備蓄が乏しくなることが分かっていたら、なぜ、巨艦主義に走ったのか。この辺りの先見性や整合性を欠いた計画や行動のあり方には、首を捻らざるを得ない。
また、アメリカに連戦連敗を重ねていた海軍は、洋上での最終決戦を想定して、そこに新兵器である武蔵を投入して、アメリカの連合艦隊を壊滅させるという青写真を描いていた。そのために、武蔵の存在は極秘でなければならなかったというのだ。新兵器を敵に見せたくないから使わないというのは矛盾の極みだが、ここには、玉より飛車をかわいがりという本末転倒にすぐはまり込む、日本人の非合理な心情が働いているように思えてならない。
何事にも合理的なアメリカ軍なら、すぐに最前線に投入しただろうと思う。
話を戻すと、大本営は海軍の洋上決戦を否定、武蔵は何らの戦果を収めないまま、フィリピンへ向かう作戦の途中で撃沈される。
さて、戦時中に日本の軍隊が新兵器を造っているという噂は、尾ひれをつけた幻影となって、期待と怯えとともに、ひそひそ話のうちに広まっていたのではないだろうか。そして、この得体の知れない幻影からもたらされる期待と怯えは、日本人の心の中に深刻なトラウマとして沈殿したに違いない。
2)物神崇拝
物神崇拝は、フェティシズムの訳語らしい。しかし、物神崇拝と漢字で書くと、フェティシズムを超えた意味合いを感じてしまう。
物神崇拝と似ているものは、偶像崇拝だ。
しかし、偶像崇拝には、物神崇拝という言葉が持つ微妙なニュアンスが無い。
吉村昭の「戦艦武蔵」を読んで、この小説はいったい何をテーマとしているのだろうかと考えた末に思い浮かんだ言葉が、この「物神崇拝」だった。
戦艦武蔵の建造にあたって、造船技術者たちが、不可能とも思える困難な課題を一つ一つ解決していく過程は、読んでいても迫力があるが、すぐに、これは戦時中の話でなくてもいいことに気づく。
技術者たちが奮闘する物語は、「黒部の太陽」のような戦後の映画としても成立したし、最近では、「プロジェクトX」というテレビ番組が人気を集めていた。
戦艦武蔵の建造、黒部ダムの建造、プロジェクトXでの技術者たちの挑戦。
この3つを並べてみると、この間に、歴史の流れがあったとはどうしても思えない。
いずれも、時代の背景をそぎ落としてさえ、技術者たちの情熱、あるいは、情熱のもっと奥にある何ものかが、物語を成立させてしまう。そして、そこに描かれている何ものかは、まったく同質のものであることに気づく。この何ものかの正体を考えたときに、たどり着いた言葉が「物神崇拝」だった。
第二次世界大戦の原因については、様々な研究がある。
大勢としては、軍隊に戦争の責任があったとみなして落ち着いているのだろうが、果たして、その通りだろうか? 吉村昭の「戦艦武蔵」は、そのような疑問を提出しているのかもしれない。
日本人は、技術者たちが奮闘する物語が好きだ。技術者たちが不可能とも思える挑戦によって生み出したものを崇めるのも好きだ。いや、ものを崇めるというより、技術者たちが生み出したという事柄そのものを崇めるのが好きだといった方が正しいだろう。
そして、その崇め方は、西洋人には理解できない異様な興奮への道を開くものであることも確かだ。
ここに、日本人の心の奥底に隠された本性、物神崇拝が、社会現象として現れる。
戦前から戦争中は、世界一を誇る性能を戦艦や戦闘機に求め、それが一部でも実現すると、すぐに、その戦艦や戦闘機を崇めた。やがて、その崇拝が興じて、前後の見境もつかなくなって戦争へと突入していったと思える。
戦争に敗れても、日本人の心が本当の意味で傷つかなかったのは、物神崇拝は対照を変えさえすれば、すぐに復活できるからだったのではないか。
折しも、戦後の復興を為すためには、技術者の活躍の場が無尽蔵にあった。
「黒部の太陽」は、ダムという神を造りだして、人々を新しい興奮へと導いた。
そして、子供たちは、機動戦士ガンダムやエヴァンゲリオンという物語によって、物神崇拝を再生産しつづけている。
機動戦士ガンダムは、スペックを変えた戦艦武蔵にほかならない。
それでは、その物神崇拝は何に由来するのだろうか? 日本人の物神崇拝のルーツの一つが、ペリー艦隊、いわゆる黒船の襲来だったことは間違いない。
三百年も続いた鎖国を、たった4艘でこじ開けた軍艦の威力は、軍艦万能神話を植えつけたに違いない。
これに加えて、日露戦争での日本海海戦の勝利によって、軍艦万能神話は揺るぎないものになったのだろう。 そして、この流れの果てに、戦艦武蔵や大和という、無敵軍艦という絵空事が夢想されたのだろう。
物理的には、絶対に沈まない無敵軍艦などは存在しない。しかし、そのような現実を無視して建造された無敵軍艦、これはもう妄想である。 そして、軍部が、妄想のうちに巨費を費やして建造した軍艦は、軍部の威信にかけて、モノでありながら神のごとき万能性を託されなければならなかった。
これを方程式化すれば、日本では、国民の群集心理に普遍する神話的要素を、権力者が過剰な肯定のうちに取り込むことで、モノでさえも神に昇格して、物神性を獲得する、といえるだろう。
しかし、これは西洋人からみれば、りっぱな病理現象である。
西洋では、一神教の原理がストッパーとして働くため、モノが神に昇格することはありえない。
この日本人と西洋人の心性の違いは、超えられない溝である。
3)モノ神の横溢 ゴジラとは何か。
ゴジラは、一応は古代生物ということになっているが、原爆によって新しい力を得て蘇生したという設定になっている。このことから、ゴジラは、原爆という科学技術が、制御不能なモンスターとなって立ち現れたことを心象風景として描いた物語といえるだろう。
ゴジラが、戦艦武蔵やガンダムなどと違う点は、制御不能ということにある。
これは、黒船のトラウマが、日本海海戦の勝利という成功体験によって、制御可能な神話としての無敵軍艦神話に変換されたのと対照的である。
被爆というトラウマは、その後、自らが開発した成功体験に変換されていない。そのために、ゴジラは制御不能なモンスターのままなのである。
こうしてみると、戦艦武蔵が神に昇格したモノであるのと同様に、ゴジラもまた神に昇格したモノであるといえる。
このようにモノでありながら神に昇格したものを、モノ神と呼んでみたい。
ゴジラの制御不能性は、その後、ウルトラマンなどの怪獣たちに受け継がれていくが、被爆の記憶が薄れるとともに、怪獣たちのモノ神性は矮小化していく。 日本人の心象風景の中で、モノ神たちは常に襲来するものである。 それは、黒船の襲来と被爆という体験が、今でもなお、悪夢のように潜在意識の中で繰り返されていることの証しにほかならない。
ゴジラは海底から襲来し、エヴァンゲリオンの使徒は海の彼方から襲来する。
そして、ゴジラの場合はそれを迎え撃つ力はなく人々は逃げ惑うばかりであり、エヴァンゲリオンでは、モノ神である使徒を迎え撃つ、やはりモノ神であるエヴァンゲリオンは特攻隊の仮象と考えられる。
風の谷のナウシカの巨神兵やオームもまた、この文脈で生まれてきたモノ神であると思われる。
こうしてみると、日本の映画やアニメなどの物語は、自らのトラウマを託す新しいモノ神を創造することで、新しい表現の可能性を獲得してきたともいえるだろう。
4)モノ神 パラドックスの不在
ギリシャ神話に登場するカサンドラが得た予言の能力には、その予言を誰も信じないというパラドックスが宿っていた。
これは、予言のような人智を越えた能力には、その能力によってもたらされるプラス面と同程度のマイナス面が、避けがたく内包されているということを指し示している。
同じギリシャ神話のミダス王の物語、ホラーの古典「猿の手」、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」も、同様のパラドックスを内包している。
そして、人智を越えた能力を得た者、あるいは操る者の物語が、人間の存在の本質に迫る力を持つのは、このパラドックスのためであるといえる。
ところが、日本人が無意識裏につくりだす人智を越えたモノには、このようなパラドックスが内包されていないと感じられる。
多くの場合、日本人が考える人智を越えたモノは、このパラドックスを無視して、自在に制御されうるモノやチカラとして描かれることが多いようだ。
言い方をかえれば、日本では、人智を越えたモノやチカラは、そのモノやチカラが内包する別の側面によって抑止される、あるいは復讐されるという双方向性を獲得していない。人智を越えたモノやチカラは、一方通行的に恣意的に解き放たれ、駆使される。
戦艦武蔵はモノ神であったと考えてみたが、戦艦武蔵に託された無敵性は、パラドックスの抑止を持たなかった。
きわめて現代的な物語である「デスノート」は、パソコン(ノート型)のブラックボックス性を、死神の魔力に読み替えたモノ神だと考えられるが、このデスノートもまたパラドックスを内包していない。
そして、これらのことは、日本人の精神の奥底に潜む、ある危うさを示しているように思える。
吉村昭の名作といわれる「戦艦武蔵」を読んだ。濃厚な記録文学、という言い方がぴったりくる。
話は、昭和12年、有明海の海苔養殖業者たちが、漁具の素材として使う棕櫚を、誰かが買い占めたことに気づいたことからはじまる。そして、九州のある造船会社に、海軍から巨大艦船の建造が依頼される場面へと話が移る。
海軍の依頼は、当時の造船技術のレベルを凌駕したものばかりで、ベテランの造船技術者たちでさえ困惑を隠せなかった。排水量は7万トンを超え、水平線の向こうまで砲撃できる巨砲を搭載し、舷側の装甲は厚さ40センチという、当時の常識である35センチの限界をはるかに超えるものが要求された。被爆・浸水したときに備えて、船の傾きを制御する最新鋭の機構も取り入れられていた。
造船技術者たちが、それらの一つ一つに試行錯誤を繰り返しながら応えていく足取りを、物語は丁寧に追いかけていく。
武蔵の建造は軍の最高機密であり、話の冒頭に出てくる棕櫚の買い占めは、造船の現場を棕櫚のすだれで覆い隠すためのものだったことも分かる。やがて、4年と数ヶ月。費用にして、当時の金額で1億数千万円という巨費を投じて、戦艦武蔵は完成する。 物語のおよそ3分の2が、この完成までに費やされており、技術的な話の間にときおり挿入されている、人々の一喜一憂にふれる箇所が、数少ないためにかえって鮮やかに浮かび上がっている。
戦艦武蔵は、日本の大鑑巨砲主義の最後となった巨大戦艦で、双子ともいえる同型の戦艦大和とともに、不沈艦かつ海の要塞として、海軍の新兵器、最終兵器であったようだ。 戦時中、これらの艦船の存在は、国民に対してさえ秘密にされていて、この艦船の建造に少しでも気づいた人々は、憲兵や警察の厳しい尋問や拷問を受けたようだ。
さて、完成した武蔵は、なかなか前線には投入されず、戦線のはるか後方で空しく時を過ごすことになる。その理由の一つは、武蔵が重油を消費しすぎるということだった。重油の備蓄が乏しくなってきた日本は、重油を節約するために、せっかく造った武蔵を動かさないようにしていたのだという。
重油の備蓄が乏しくなることが分かっていたら、なぜ、巨艦主義に走ったのか。この辺りの先見性や整合性を欠いた計画や行動のあり方には、首を捻らざるを得ない。
また、アメリカに連戦連敗を重ねていた海軍は、洋上での最終決戦を想定して、そこに新兵器である武蔵を投入して、アメリカの連合艦隊を壊滅させるという青写真を描いていた。そのために、武蔵の存在は極秘でなければならなかったというのだ。新兵器を敵に見せたくないから使わないというのは矛盾の極みだが、ここには、玉より飛車をかわいがりという本末転倒にすぐはまり込む、日本人の非合理な心情が働いているように思えてならない。
何事にも合理的なアメリカ軍なら、すぐに最前線に投入しただろうと思う。
話を戻すと、大本営は海軍の洋上決戦を否定、武蔵は何らの戦果を収めないまま、フィリピンへ向かう作戦の途中で撃沈される。
さて、戦時中に日本の軍隊が新兵器を造っているという噂は、尾ひれをつけた幻影となって、期待と怯えとともに、ひそひそ話のうちに広まっていたのではないだろうか。そして、この得体の知れない幻影からもたらされる期待と怯えは、日本人の心の中に深刻なトラウマとして沈殿したに違いない。
2)物神崇拝
物神崇拝は、フェティシズムの訳語らしい。しかし、物神崇拝と漢字で書くと、フェティシズムを超えた意味合いを感じてしまう。
物神崇拝と似ているものは、偶像崇拝だ。
しかし、偶像崇拝には、物神崇拝という言葉が持つ微妙なニュアンスが無い。
吉村昭の「戦艦武蔵」を読んで、この小説はいったい何をテーマとしているのだろうかと考えた末に思い浮かんだ言葉が、この「物神崇拝」だった。
戦艦武蔵の建造にあたって、造船技術者たちが、不可能とも思える困難な課題を一つ一つ解決していく過程は、読んでいても迫力があるが、すぐに、これは戦時中の話でなくてもいいことに気づく。
技術者たちが奮闘する物語は、「黒部の太陽」のような戦後の映画としても成立したし、最近では、「プロジェクトX」というテレビ番組が人気を集めていた。
戦艦武蔵の建造、黒部ダムの建造、プロジェクトXでの技術者たちの挑戦。
この3つを並べてみると、この間に、歴史の流れがあったとはどうしても思えない。
いずれも、時代の背景をそぎ落としてさえ、技術者たちの情熱、あるいは、情熱のもっと奥にある何ものかが、物語を成立させてしまう。そして、そこに描かれている何ものかは、まったく同質のものであることに気づく。この何ものかの正体を考えたときに、たどり着いた言葉が「物神崇拝」だった。
第二次世界大戦の原因については、様々な研究がある。
大勢としては、軍隊に戦争の責任があったとみなして落ち着いているのだろうが、果たして、その通りだろうか? 吉村昭の「戦艦武蔵」は、そのような疑問を提出しているのかもしれない。
日本人は、技術者たちが奮闘する物語が好きだ。技術者たちが不可能とも思える挑戦によって生み出したものを崇めるのも好きだ。いや、ものを崇めるというより、技術者たちが生み出したという事柄そのものを崇めるのが好きだといった方が正しいだろう。
そして、その崇め方は、西洋人には理解できない異様な興奮への道を開くものであることも確かだ。
ここに、日本人の心の奥底に隠された本性、物神崇拝が、社会現象として現れる。
戦前から戦争中は、世界一を誇る性能を戦艦や戦闘機に求め、それが一部でも実現すると、すぐに、その戦艦や戦闘機を崇めた。やがて、その崇拝が興じて、前後の見境もつかなくなって戦争へと突入していったと思える。
戦争に敗れても、日本人の心が本当の意味で傷つかなかったのは、物神崇拝は対照を変えさえすれば、すぐに復活できるからだったのではないか。
折しも、戦後の復興を為すためには、技術者の活躍の場が無尽蔵にあった。
「黒部の太陽」は、ダムという神を造りだして、人々を新しい興奮へと導いた。
そして、子供たちは、機動戦士ガンダムやエヴァンゲリオンという物語によって、物神崇拝を再生産しつづけている。
機動戦士ガンダムは、スペックを変えた戦艦武蔵にほかならない。
それでは、その物神崇拝は何に由来するのだろうか? 日本人の物神崇拝のルーツの一つが、ペリー艦隊、いわゆる黒船の襲来だったことは間違いない。
三百年も続いた鎖国を、たった4艘でこじ開けた軍艦の威力は、軍艦万能神話を植えつけたに違いない。
これに加えて、日露戦争での日本海海戦の勝利によって、軍艦万能神話は揺るぎないものになったのだろう。 そして、この流れの果てに、戦艦武蔵や大和という、無敵軍艦という絵空事が夢想されたのだろう。
物理的には、絶対に沈まない無敵軍艦などは存在しない。しかし、そのような現実を無視して建造された無敵軍艦、これはもう妄想である。 そして、軍部が、妄想のうちに巨費を費やして建造した軍艦は、軍部の威信にかけて、モノでありながら神のごとき万能性を託されなければならなかった。
これを方程式化すれば、日本では、国民の群集心理に普遍する神話的要素を、権力者が過剰な肯定のうちに取り込むことで、モノでさえも神に昇格して、物神性を獲得する、といえるだろう。
しかし、これは西洋人からみれば、りっぱな病理現象である。
西洋では、一神教の原理がストッパーとして働くため、モノが神に昇格することはありえない。
この日本人と西洋人の心性の違いは、超えられない溝である。
3)モノ神の横溢 ゴジラとは何か。
ゴジラは、一応は古代生物ということになっているが、原爆によって新しい力を得て蘇生したという設定になっている。このことから、ゴジラは、原爆という科学技術が、制御不能なモンスターとなって立ち現れたことを心象風景として描いた物語といえるだろう。
ゴジラが、戦艦武蔵やガンダムなどと違う点は、制御不能ということにある。
これは、黒船のトラウマが、日本海海戦の勝利という成功体験によって、制御可能な神話としての無敵軍艦神話に変換されたのと対照的である。
被爆というトラウマは、その後、自らが開発した成功体験に変換されていない。そのために、ゴジラは制御不能なモンスターのままなのである。
こうしてみると、戦艦武蔵が神に昇格したモノであるのと同様に、ゴジラもまた神に昇格したモノであるといえる。
このようにモノでありながら神に昇格したものを、モノ神と呼んでみたい。
ゴジラの制御不能性は、その後、ウルトラマンなどの怪獣たちに受け継がれていくが、被爆の記憶が薄れるとともに、怪獣たちのモノ神性は矮小化していく。 日本人の心象風景の中で、モノ神たちは常に襲来するものである。 それは、黒船の襲来と被爆という体験が、今でもなお、悪夢のように潜在意識の中で繰り返されていることの証しにほかならない。
ゴジラは海底から襲来し、エヴァンゲリオンの使徒は海の彼方から襲来する。
そして、ゴジラの場合はそれを迎え撃つ力はなく人々は逃げ惑うばかりであり、エヴァンゲリオンでは、モノ神である使徒を迎え撃つ、やはりモノ神であるエヴァンゲリオンは特攻隊の仮象と考えられる。
風の谷のナウシカの巨神兵やオームもまた、この文脈で生まれてきたモノ神であると思われる。
こうしてみると、日本の映画やアニメなどの物語は、自らのトラウマを託す新しいモノ神を創造することで、新しい表現の可能性を獲得してきたともいえるだろう。
4)モノ神 パラドックスの不在
ギリシャ神話に登場するカサンドラが得た予言の能力には、その予言を誰も信じないというパラドックスが宿っていた。
これは、予言のような人智を越えた能力には、その能力によってもたらされるプラス面と同程度のマイナス面が、避けがたく内包されているということを指し示している。
同じギリシャ神話のミダス王の物語、ホラーの古典「猿の手」、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」も、同様のパラドックスを内包している。
そして、人智を越えた能力を得た者、あるいは操る者の物語が、人間の存在の本質に迫る力を持つのは、このパラドックスのためであるといえる。
ところが、日本人が無意識裏につくりだす人智を越えたモノには、このようなパラドックスが内包されていないと感じられる。
多くの場合、日本人が考える人智を越えたモノは、このパラドックスを無視して、自在に制御されうるモノやチカラとして描かれることが多いようだ。
言い方をかえれば、日本では、人智を越えたモノやチカラは、そのモノやチカラが内包する別の側面によって抑止される、あるいは復讐されるという双方向性を獲得していない。人智を越えたモノやチカラは、一方通行的に恣意的に解き放たれ、駆使される。
戦艦武蔵はモノ神であったと考えてみたが、戦艦武蔵に託された無敵性は、パラドックスの抑止を持たなかった。
きわめて現代的な物語である「デスノート」は、パソコン(ノート型)のブラックボックス性を、死神の魔力に読み替えたモノ神だと考えられるが、このデスノートもまたパラドックスを内包していない。
そして、これらのことは、日本人の精神の奥底に潜む、ある危うさを示しているように思える。
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