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第4章 遠征

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「ユミル!」

ユミルは、ここ最近聞きなれた声なのに、聞きなれない呼び方だ、とぼんやりと思った。
最後に恋しがったからか、ついに幻聴まで聞こえたと思ったのだ。

瞬間、目を閉じていても分かるほどの強い光が目の前で弾けると、予想していた痛みが訪れることはなかった。

「ユミル!」

再び同じ声で名前を呼ばれユミルが恐る恐る瞼を上げると、2頭のケルベロスが跡形もなくいなくなっており、代わりにレインが立っていた。

レインは珍しいことに焦った表情をしている。
ユミルはまだ呆然としており、頭の片隅でこれも初めて見る表情だと、別のことを考えていた。

「ユミル、大丈夫か!?」

レインはユミルの足元に血溜まりができているのに気づくと焦ったようにユミルに慌てて駆け寄って、ユミルの肩に手をおいた。
分厚いコートと手袋で、人肌の温もりなど感じるはずもないのに、ユミルはその手から確かに温かさを感じた。その温もりは、緊張でずっと固まっていたユミルの体を解いていくようだった。

ユミルは力が抜けるようにその場に座り込む。
レインは一緒の目線にしゃがみ込むとユミルの目を覗き込んだ。

(見たかった瞳だ。)

そう思った瞬間、漸くユミルは現実に引き戻された。
ユミルはレインが目の前にいることが現実だと気づくと、一気に目頭が熱くなった。

「………って言った。」

ユミルは俯きながらぼそり、と何かを呟いた。

「何だ?」

レインはユミルの近いところにしゃがんでいたので、ユミルの口元に耳を近づける。

「…ここは、安全だっで、いっだ~~~!!ゔ~…。」

ユミル、到底成人女性とは思えないギャン泣きである。
ユミルは助かった、という安心で涙腺が決壊してしまったのだ。

レインはユミルが急に大きな声で泣き出すので、目を丸くして困惑したように手を彷徨わせる。

(…このくらい、貴族男性ならスマートに励ましてよ…!)

ユミルは泣きながら心の中で悪態をつく。
しかし、涙も嗚咽もまだ止まりそうにない。

レインは泣き止まないユミルに、迷った末、背に片手を当てて擦ってくれた。
ユミルは堪らなくなって、レインの服が汚れてしまうことも気にせずに思い切りレインに抱きつく。

「…すまなかった。」

レインは、唸りながら泣き続けるユミルを抱きとめると、両手を背に回してくれた。
そして、ユミルの耳元で何度も謝罪の言葉を口にした。

ユミルは暫くすると、そのまま全体重をレインに預けて気を失うように眠りについた。
極度の緊張からの開放と、腕から血を流しすぎていたせいもある。

レインはユミルを横抱きで抱き上げると、すぐにいつも世話になっている治癒魔法士の元へ移転魔法で飛んだ。

「ラウル、すまないが、この人を優先に見てもらえないか。」

治癒魔法士のラウルは救護スペースで他の人に治癒魔法をかけているところだったが、ユミルの血を失った青白い顔を見て、すぐにユミルの処置を開始した。

「レイン部隊長はいつも治療は後で良いと仰るし、怪我人を連れてきても救護室に転がすだけが基本なのに、珍しいこともあるのですね。」
「彼女は魔法局職員じゃない。それなのに、立派に同等以上の役目を果たした。優先されて然るべきだ。」
「おや、魔法局のコートを着ていたので、同僚かと思いました。」
「それは、私のコートだ。」
「どおりで、サイズが全く合っていないわけですね。それにしても、コートもお貸しになるとは、今回のレイン部隊長は珍しいことだらけです。」
「…傷は大丈夫そうか。」

ラウルが少し誂うように言うと、レインはバツの悪そうな顔をして、あからさまに話を逸らした。
ラウルは、レインがいつもは淡々と答えることを知っていたので、これまた珍しい、と目を丸くする。

「ええ、脈はちゃんとありますし、大丈夫でしょう。」
「近くにいるから、処置が終わったら呼んでくれ。」
「部隊長はお忙しいでしょう。私が部屋に送り届けておきますよ。」
「いや、良い。」

レインは短く答えると、さっさと救護スペースを後にした。
実際、部隊長であるレインは片付けなければならない問題が山ほどあった。
効率を考えるならば、このまま全てをラウルに任せた方が良い、レインはわかっていたが、何故かラウルに全てを任せる気にはならなかった。
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