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半日で再婚約を決めてきます!
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「君はいつだって、第五王女殿下のことを優先してばかりだ。このまま婚約関係を続けるのは難しいと判断した。婚約を破棄してくれ。」
マリアンヌ・キャンバー伯爵令嬢の婚約者、トムソン・カーディナル伯爵令息は不遜な態度で言い切った。
今日は月に1回、定期的に行っている、ふたりのお茶会の時間だ。今日はキャンバー伯爵の屋敷で会っている。
「かしこまりました。それは、そちらの判断での破棄、ということでよろしいですね。」
マリアンヌはここで泣いたり追いすがったりするような可愛い性格ではない。
それに、トムソンは家が数年前に決めた結婚相手で、それほど情も抱いていなかった。
「なぜだ!そちらの都合による破棄に決まっているだろう!」
カーディナル伯爵家は、昨年の悪天候により主力の農産業に悪影響が出ていて、今は財政に難がある。先ほどの発言のとおり、トムソンがマリアンヌを気に入らないことは確かだろうが、あわよくば、キャンバー伯爵家から違約金をもらおうとしているに違いない、とマリアンヌは内心ため息をつきながら考える。
「私が日中忙しいのは、王家からの命令によるものですもの。我が家に責めはございません。それに、私が王宮で忙しくしている間、貴方は学園で大層他の女生徒と遊んでいるそうではありませんか。」
(貴族の噂話が私の耳に入らないとでも思っているのかしら。)
マリアンヌはまだ幼い第五王女殿下・キャサリン本人の希望もあって、学園には通わず、ずっと侍女として仕えている。キャサリンにとって有害なものを先に取り除くのも臣下の務め。どこに悪意が落ちているかわからないため、マリアンヌは貴族の噂話を積極的に聞くようにしていた。
「お前は王宮に居るのだから、わからないだろう!」
「親切に教えてくださる知人は多いですわ。証人でしたらいくらでも。」
「お前の知人など、どうせ王宮の下働きばかりで信頼性のない発言ばかりじゃないのか。」
「まぁ!王宮勤めの侍女は私も含め、貴族の令嬢ばかりですわよ。それに、私の知人は令嬢だけではございません。王宮に居れば、学園に通う方や勤める方のお話をお聞きすることもございます。」
マリアンヌがそう言うと、トムソンは唇を噛みしめ、ぐっと黙ってしまった。
トムソンがマリアンヌに口喧嘩に勝てたことは一度もない。
トムソンは学園に通ってはいるが、マリアンヌの方が、頭の回転が速いのだ。
トムソンはそのことにひどく劣等感を覚えていたため、自尊心を保つためにもマリアンヌを不幸にしてやりたい気持ちでいっぱいだった。だから、マリアンヌにはわからないだろうと、学園で女生徒と無駄に仲良くして、優位に立ったつもりでいた。そしてついに、女生徒のひとりに唆されて、このような奇行に至ったのだ。
マリアンヌは何も言わなくなったトムソンを見て、今度はあからさまにため息を吐くと、口を開いた。
「貴方のお気持ちはわかりましたが、ふたりだけで決められる問題ではありません。父に伝えますので、本日はお帰りください。」
マリアンヌが先に席を立つと、トムソンもつられたように席を立つ。
トムソンは自分が口に出してしまったことを今更になって後悔し始めたのか、マリアンナの方を何度も呼び止めてほしそうに振り返りながら、帰っていった。
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マリアンヌとトムソンの婚約関係は、”解消”という形で落ち着くこととなった。
“破棄”とした場合、互いに有責を認めなければ裁判に至ることもある。
世間から見て、カーディナル伯爵家に責めがあることは明らかだったが、裁判になればマリアンヌが拘束される時間も長くなる。マリアンヌがキャサリンに心配をかけまいとした結果だった。
トムソンは、マリアンヌとの婚約解消後、唆した令嬢と婚約をすることになったが、随分と散財癖のある令嬢だったらしく、カーディナル伯爵家の財政はさらに火の車。領地の返還も視野に入ってきたと、マリアンヌは噂に聞いている。
一方、マリアンヌは「せいせいした」とばかりに、さらにキャサリンの側に居るようになり、ついにはキャサリンが学園に通うような年になっても、婚約者がいないままで、完全に行き遅れになっていた。
マリアンヌには兄が2人、姉が1人、弟が1人いる。
マリアンヌはまだ学園に通う年になる前に、キャサリンの侍女になることになった。
キャサリンは気が弱いうえに人見知りが激しく、なかなか人に心を開こうとしないことで知られていた。最初はマリアンヌより高位の令嬢に声がかかっていたが、次々と辞めていくので、ついにマリアンヌに白羽の矢が立ったのだった。
マリアンヌは小さいころからずっと可愛い妹が欲しかった。
不敬かとは思いつつも、マリアンヌはキャサリンを本当の妹のように甲斐甲斐しく世話をして、可愛がった。
マリアンヌがしつこいほどに世話を焼いたおかげか、単に相性が良かったのか、マリアンヌはキャサリンに気に入られるとそれからずっと、第五王女殿下の側に仕え続けた。
キャサリンも、マリアンヌが側を離れることを頑なに嫌がったため、マリアンヌは王宮に通い詰めたし、途中でできた婚約者よりも、キャサリンを一等大切にしていた。
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学園に通うようになったキャサリンは、その才気を発揮していた。学園長の推薦もあり、キャサリンは学園の夏季休暇を利用して、獣人の国へと短期留学することになった。
他にも学園の生徒が数名、一緒に留学をするが、人見知りのキャサリンは当然のようにマリアンヌの同行を求め、マリアンヌもそれを了承した。
この世界は、人間と獣人が共存しており、それぞれ別に国をたてている。
人間は獣人よりもはるかに数が多い。一方で、獣人は人数が少ないが人間よりも力が強く、そして中には”異能”を持つ者がいる。”異能”は獣人により多種多様なものがあり、その”異能”による現象は、人間の科学では到底計り知れない怪奇である。
そのような力を持つ獣人の人数が少ない理由としては、”つがい”の性質が挙げられる。”つがい”は獣人にとって唯一無二の存在だ。しかし、一生のうちに出会える可能性は高くはなく、また、”つがい”以外の間には子が成しづらいという問題もあった。
今となっては、人間と獣人の両者の人の行き来は盛んで、人間の国に住む獣人もいれば、獣人の国に住む人間もいるが、昔は互いを蔑み、しょっちゅう戦争をしていたらしい。
さて、マリアンヌは小さいころから侍女として勤めているためか、周りからきびきびしたかっこいい女性に見られがちである。しかし、マリアンヌはふわふわした可愛いものが大好きだった。
マリアンヌは国内にいる少数の獣人たちをいつも周りに気づかれないようにチェックしていて、「いつかあの耳としっぽを触らせてくれるくらい、仲の良い獣人の友達が欲しい」と心から願っていた。
今回はまたとないチャンスだと、マリアンヌは大変に心を躍らせている。
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来たる当日、マリアンヌは少しの荷物を持ってキャサリンの側に控えていた。
獣人の国への移動は、獣人のもつ空間移動の異能で荷物ごと移転してもらった。獣人の国でも重宝される異能のため、人間は滅多に経験することができない。
マリアンヌは移転先にいる多くの獣人に目を輝かせたが、目の前に高貴そうな人がいるのを見て、咄嗟にキャサリンの後ろで頭を下げた。
どうやら先方の王子殿下・アルベルトが出迎えてくれたようで、キャサリンは少々顔が強張っているが、何とかアルベルトと挨拶を交わしていた。
(王女殿下、御立派になられて…!)
マリアンヌはその様子を、首を垂れたまま、子を見守る親のような気持ちで熱心にその声を聴いていたので、マリアンヌを見つめる強い視線に気が付かなった。
マリアンヌに強い視線を向けていたその人は、アルベルトの側に控えていた騎士で、白豹の獣人だった。年はマリアンヌと同じか、少し上くらいだろうか。
大層見目の麗しい獣人で、きらりと光る灰青色の瞳を驚いたように見開いてマリアンナを一心に見つめていた。
キャサリンとアルベルトの会話が終わると、マリアンヌはほっと息を吐いて、姿勢を正すと、退席するキャサリンの後に続こうとした。
「お待ちください!」
マリアンヌにずっと視線を向けていた騎士は、アルベルトの後ろから乗り出す勢いでマリアンヌに声をかけた。マリアンヌは自分に声をかけられたとは思わなかったが、反射的に振り向くと、初めてその獣人と目が合った。
マリアンヌはその美しい獣人が真っ直ぐに自分を見るので、一時言葉を失った。
芸術品のような美貌に、頭には白銀色の美しい毛並みの見るからにふわふわの耳が付いている。後ろでは、耳と同じ毛並みに、ところどころ灰色と黒色のスポットがある尾が揺れていた。
マリアンヌが声をかけられた理由が分からず黙っていると、その獣人はマリアンヌの前に跪いて甘やかな声で語りかけた。
「私はルカーシュ・シュナイダーと申します。可憐な貴女のお名前を教えていただけないでしょうか?」
マリアンヌは慌てて貴族の礼を取ると、自己紹介をした。
「マリアンヌ・キャンバーでございます。キャサリン王女殿下の侍女としてまいりました。」
「マリアンヌ嬢…素敵なお名前ですね。これからよろしくお願いいたします。」
「はい、どうぞよろしくお願いいたします。」
ルカーシュは恍惚としたような表情でマリアンヌに話しかけるが、マリアンヌの視線は、ルカーシュが跪いて見やすくなった頭のてっぺんにある耳にくぎ付けになってしまう。
暫くお互いに見つめ合ったまま(片方は頭に目線がいっているが、)沈黙の時間が流れると、マリアンヌの耳にか細い声が聞こえた。
「マリー…。」
マリアンヌが声の方を振り向くと、キャサリンが見知らぬ獣人の召使に囲まれて不安そうな顔をしていた。
「王女殿下、申し訳ございません。それでは、失礼いたします。」
マリアンヌは即座に顔を上げると、キャサリンを安心させるように微笑んでから、アルベルトとルカーシュに再び会釈をして颯爽とキャサリンの後ろに続いた。
キャサリンは言葉の数が少ないため、マリアンヌはキャサリンが自分を呼ぶその一言だけで、その感情を読み取ることができるようになっていた。
いつ何時も、マリアンヌの最優先事項はキャサリンである。
ルカーシュはマリアンヌが去っていく背中を、アルベルトが声をかけるまでずっと見つめていた。
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翌日、驚いたことにルカーシュがキャサリンとマリアンヌのもとへやってきた。
「キャサリン殿下の滞在中、護衛を務めさせていただきます。」
「ありがたいお申し出ですが、こちらでも護衛の騎士は用意しておりますし…昨日の様子では、シュナイダー卿はアルベルト殿下の騎士様だったのではないでしょうか?大変恐れ多いことでございます。」
マリアンヌが困ったように眉を下げると、ルカーシュは食い下がった。
「獣人は人間よりも力が強いですし、異能もあります。獣人の護衛も付けていた方がキャサリン殿下の安全をよりお守りできると思います。それに、私は近々家督を継ぐため、騎士職は退く予定なのです。既に騎士の後継はおりますので、ご心配なさらないでください。」
マリアンヌは、キャサリンの安全のことを思うと、確かに、と思った。
通常の騎士では獣人に太刀打ちはできない。しかし、王子の護衛まで勤めていたような獣人が側に居れば、襲ってくるような人も減るだろうし、とてつもなく安全だろう。
(けれど…、人見知りのキャサリン王女殿下が嫌がらないかしら。)
そう思ってマリアンヌはキャサリンの方を向くと、マリアンヌの予想に反して、キャサリンは力強く頷いた。
「私は構わないわ。」
「承知しました。…それではシュナイダー卿、お言葉に甘えさせていただきます。」
「ええ、どうぞよろしくお願いいたします。」
ルカーシュはマリアンヌにとって恐ろしいほど美しかったが、ルカーシュが嬉しそうにはにかむ顔は、思わず胸が高鳴るほど可愛らしかった。
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ルカーシュは、キャサリンの予定にすべて帯同しており、いつの間にか、マリアンヌの横はルカーシュの定位置となった。
ルカーシュは護衛としてだけではなく、行く先々の情報を補足してくれるので、短い間で随分とキャサリンも心を開いているようだった。
一方のマリアンヌはルカーシュが恐ろしいほど美しいので、”耳を触らしてほしい”という欲望を、ルカーシュに伝えられる勇気が全くなかった。ついては、マリアンヌは気安く接することのできるような他の獣人と仲良くなりたくて、行く先々の関係者に迷惑にならない程度に質問をして話しを広げようと思うのに、そのすべてをルカーシュが代わって答えてくれるため、すっかり他の獣人との仲良くなるチャンスを奪われてしまっていた。
(シュナイダー卿はただ親切なだけなのでしょうけれど…、少し残念な気持ちだわ。まだ機会があると良いのだけれど。)
マリアンヌはしっかりと仕事をこなしつつも、その機会に目を光らせていた。
そのような中、獣人の国の学園へ行った際に、出迎えてくれた男性教員のネロ・ホフマンにマリアンヌの目はくぎ付けになった。
(絶対、お近づきになりたいわ…!)
ネロは猫の獣人だった。ピンと立った大きめの三角耳に、すこしぼさっとしたふかふかのしっぽ、丸眼鏡の奥に隠された、釣り目がちのぱっちりな瞳が、本当の猫を彷彿とさせて、マリアンヌは一目で狙いを定めた。
マリアンヌはキャサリンが学園の生徒たちと交流をしている間、偶々ルカーシュが他の公務の都合で学園長に話しかけられていたので、その隙にそっとネロに近づいて声をかけた。
「ホフマン様は、ここに勤めて長いのですか?」
急に話しかけられたネロが少し驚いたように目をぱちくりさせるので、その様子が可愛らしくて、マリアンヌは思わずにやけてしまう。
「ええ、学園を出てから、ずっとここで働かせてもらっています。…キャンバー様は貴族の御令嬢と伺いました。私はこの学園に勤めていますが、出自は平民です。だから…」
貴族と平民には隔たりがある。それは人間も獣人も一緒だが、その差別意識は人間の方が大きい。
だから、ネロは自分と話すことでマリアンヌが気分を害すのではないかと思い、言葉を濁す。
「この由緒正しい学園にお勤めなのですから、きっと学園ではとても優秀な成績だったのでしょうね。私は出自を気にいたしません。」
「そうですか、ありがとうございます。」
ネロが漸く笑顔を見せたので、マリアンヌも機嫌がよさそうににっこりと笑ってみせた。
「短い間ですが、キャサリン王女殿下に随行して何度か学園を訪問させていただく予定ですので、ぜひ仲良くしてください。私のことはぜひマリーと。」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。僕のこともネロと呼んでください。」
マリアンヌは心の中でガッツポーズをした。仲良くなるための第一歩を踏み出せそうだ。
マリアンヌは視線を再びネロの耳に移す。
(あんなにふかふかな耳に触らせてもらえたら、きっととっても幸せな気持ちになるに違いないわ!)
「マリー様、僕の耳が気になるのですか?」
マリアンヌがあまりに熱心に耳を見つめすぎたせいか、ネロがおかしそうに笑った。ネロは最初こそ緊張していたようだったが、本来は気安い性格のようだ。悪戯気に細められた瞳も、猫のようで、マリアンヌはますますネロと仲良くなりたいと思った。
(そうだ、と言ったら、触らせてくれるかしら…。でも、まだ会ったばかりなのに不躾よね…。)
マリアンヌは葛藤した。
しかし、この流れを逃せば次にいつ機会がやってくるかわからない。
実際、既に短期留学の半分の期間を過ぎているが、今まで機会がないどころか、ルカーシュ以外の獣人と話す機会さえ少なかったのだ。
「実は、そうなのです…。獣人の方の耳を、小さいころからずぅっと触らせてほしいと思っていたのです。」
マリアンヌははしたないと思いつつも、照れたように心の内を打ち明けた。
「そういう方は結構いますよ。僕で良ければ、触って構いません。」
ネロが何てこと無いように言うので、マリアンヌは目を輝かせて食いついた。
「本当によろしいのですか!?」
「ええ、どうぞ。」
ネロはマリアンヌが触りやすいように、少し頭を下げてみせた。
マリアンヌはドキドキしながらその手をそっとネロの耳に近づける。
十数年、触ってみたいと思っていたこの耳はどのような触り心地なのだろう、とマリアンヌはもう少しで届く幼いころからの夢に気分が高揚する。
しかし、マリアンヌの指先がネロの耳に触れる寸前で、誰かがマリアンヌの手首を掴んだ。
「そう簡単に、男性に触れるものではありませんよ。」
マリアンヌが手首を掴んだ人を確認しようと視線を上げると、そこには張り付けたような笑みを浮かべたルカーシュが立っていた。
どうやら、学園長との話しが終わって戻ってきたようだった。
「そうかもしれませんが…、私、ずっと触れてみたくて…。」
ルカーシュが叱ることももっともだが、あと少しで触れそうだったのに、とマリアンヌは居心地が悪そうに視線を彷徨わせた。
「ホフマン殿、君はもう外して大丈夫だ。」
マリアンヌはまだネロの耳を諦められていなかったが、ルカーシュはネロを冷たい瞳で一瞥すると、部屋から追い出そうとする。
ネロはルカーシュが怖かったのか、「マリー様、また今度お会いしましょう」と早口で言うと、マリアンヌが呼び止める間もなく、怯える猫のように音もなく俊敏に立ち去ってしまった。
マリアンヌはその背中を名残惜しそうな目でずっと見ていたため、ルカーシュが横で不機嫌そうな顔をしていることに気づかない。
「突然手を取ってしまい失礼いたしました。でも、獣人では仲の良い者にしか耳や尾は触れさせないのです。このような他の人の目のある場所では、控えた方が良いでしょう。」
ルカーシュはそっとマリアンヌの手首から手を離すと、マリアンヌには不機嫌を悟られないようにと、優しい顔でマリアンヌの顔を覗き込んだ。
獣人は人より背の高い種族だが、ルカーシュは獣人の中でも背が高いようで、マリアンヌの顔を見るために少し首を傾げてみせた。
マリアンヌが周囲を見ると、キャサリンをはじめ、何人かの生徒が壁際にいるマリアンヌとルカーシュの方を見ていたため、マリアンヌは自分の行動の軽率さを恥じた。
「ご忠告ありがとうございます。」
マリアンヌは人の目もあるため、距離の近いルカーシュから離れようと少し離れるように動きながらルカーシュにお礼を言った。
「…獣人ならば、私も近くにいるではありませんか。どうしてホフマン殿だったのですか?」
ルカーシュは傾げていた首を元に戻すと、マリアンヌに一歩近づいて隣に並んだ。
「ネロ様には失礼かもしれませんが、私は猫が好きなのです。ネロ様は全体的にとっても可愛い猫を彷彿とさせるので、つい…。」
マリアンヌがさらに一歩ルカーシュから距離を取るようにして話すと、ルカーシュはまた一歩マリアンヌに近づきながら、少し眉をひそめた。
「私だって、ネコ科の動物の獣人です。私の耳を触っても良いのですよ?それに、彼は貴女のことを愛称で呼んでいましたが…ぜひ私のことも気軽に呼んでください。」
「シュナイダー卿はとても美しいですから、少し気が引けてしまいます。」
マリアンヌはルカーシュに徐々に気安い態度を取れるようになっていたが、神々しさすら感じる美しいルカーシュを見ると、つい不敬な態度を取ってはいけないと思ってしまう。
一方のルカーシュはネロに完全に嫉妬していた。マリアンヌが触れようとしていたことも、名前で呼ばれていたことも、マリアンヌを愛称で呼ぶことを許されていたことも、気に入らなかった。
自分も同じ土俵に立とうと言葉を紡いだが、マリアンヌの返答に敢え無く撃沈してしまう。
(私はまだ、名前ですら呼んでいただけないのに。)
「そんな、気になさらないでください。私は…、」
ルカーシュがさらに言葉を続けようとすると、マリアンヌは丁度ここを出なければいけない時間になっていることに気づく。
「次の予定がございますので、移動いたしましょう。」
マリアンヌはルカーシュの言葉を遮ってそう言うと、キャサリンのもとへ声をかけに離れてしまう。
マリアンヌの最優先事項はキャサリンであり、ここで無理に呼び止めればマリアンヌに嫌な気持ちをさせてしまう、ルカーシュはそう考えると残念そうにため息を吐いた。
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別の日、マリアンヌはキャサリンへ随行して、また同じ学園を訪れていた。
今日は珍しく、ルカーシュに外せない予定があるようで、別の獣人の護衛が付けられていた。
マリアンヌはネロと他愛もない話をしながら、獣人の生徒たちと交流をするキャサリンを見守っていた。
キャサリンは頑張って話をしているが、元来気弱で人見知りな性格なので、獣人の生徒に囲まれながら、控えめに相槌を打ち、時折たおやかにほほ笑んでいた。
しかし、獣人の女生徒が何かをキャサリンに囁くと、キャサリンは様子を一転させて、両手を強く握りしめながら強く抗議をするように声を出した。
「王女殿下、いかがされたのですか?」
マリアンヌは急いでキャサリンのもとへ駆けつけると、キャサリンは瞳にいっぱいの涙を溜めていた。
「マリー…。」
(これは悔しいことがあるときのお声だわ。)
何か意地悪を言われたのだろうか、とマリアンヌはキャサリンの背中をさすって、次の言葉を促したが、キャサリンは口を開こうとしない。
マリアンヌは諦めて、周りの獣人の生徒たちに事情を尋ねると、みな顔を見合わせて答えを迷っているようだったが、ひとりの女生徒が控えめに声を上げた。
直前にキャサリンに何かを囁いた女生徒とはまた別の生徒だ。
「それが…、会話のはずみで、貴女の話しになったのです。」
その女生徒が叱られる子どものようにマリアンヌを見るので、マリアンヌはまさか自分の話題だったとは、と驚いた。
その女生徒は大きな声で言うのが憚られたのか、マリアンヌの耳に口を近づけると、マリアンヌにしか聞こえない音量でこう言った。
「どこで彼女が知ったのかは存じませんが、結婚や婚約をしていない侍女を側に仕えさせるのは、その…。」
「キャサリン王女殿下の品位が落ちる、とでも仰ったのかしら。」
女生徒は何とかやんわりと伝えようとしたが、マリアンヌはすべてを察した。きっともっとひどい言葉でマリアンヌのことを話題にしたはずだ。
「キャサリン王女殿下、私のためにありがとうございます。どうか私のことを何か言われても、お気になさらないでください。」
「マリーはこんなにも素敵な女性なのに、わたくし、悔しくて…。上手くできなくてごめんなさい、マリー。」
マリアンヌはキャサリンがついにぽろぽろと涙を流したのを見て、急に決断した。
(そうだ、婚約しよう。)
「王女殿下、今から半日ほど席を外す御無礼をお許しいただけますか?」
「…ええ、他の侍女もいるから半日くらい構わないけれど…、どうしたの?」
急なことに、キャサリンは目をぱちくりとさせた。
「少し、国へ戻って至急婚約を済ませてまいります。」
キャサリンが周りから攻撃される芽はひとつ残らず摘み取るに限る。
幸い、マリアンヌには、伯爵家の持参金を目的としたものや、妻に先立たれて後妻を探しているものなど、曰くつきの縁談ならいくつも届いていた。婚約後も働いてよい、と言っている家もいくつかあるので、その中から適当に決めてしまえばいい。
その家に黒い噂がないかは、既に両親が調べているはずだ。
今ここで、マリアンヌのことを瑕疵とされて、キャサリンが責められるようなことがあるのなら、今すぐにでもその憂いを取っ払ってしまおう。
キャサリンや周囲の人が絶句している間に、マリアンヌは側にいた獣人の騎士と他の侍女に声をかける。
「突然のことで申し訳ございませんが、少しの間、キャサリン王女殿下をよろしくお願いいたします。」
マリアンヌは、善は急げ、とばかりに気にせず空間移動の異能を持つ獣人の下へと急いだ。
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「ルカーシュ、あの人間の女とはどうなっているんだ。」
獣人の国の第三王子、アルベルトは、ルカーシュとともに出席していた会議から自室へ戻ると、お茶を飲みながら、にやにやと尋ねた。
「徐々に距離を詰めたいのです、放っておいてください。」
ルカーシュはこのままではアルベルトが変なお節介を焼きそうだと、面倒臭そうに答えた。
「そうはいっても、相手はずっとこちらにいるわけではないだろう。折角“つがい”が見つかったんだ。人間にはその概念が無いからな、あの女があの年で婚約者もいなかったのは幸いだったな。」
アルベルトの言うとおり、獣人同士の“つがい”であれば、互いにその結びつきを瞬時に理解し、寄り添うようになるが、“つがい”相手が人間だった場合、必ずしもその人間が“つがい”の獣人と一緒になってくれるとは限らない。
当然、ルカーシュはマリアンヌに会ってすぐに、婚約者の有無を調査した。一度婚約を解消した形跡があり、マリアンヌと婚約を解消するなんて馬鹿なことをする、とルカーシュは思ったが、それと同時に相手に感謝した。今も婚約者はいない、ということが分かった瞬間、ルカーシュはこれは真に運命なのだと思った。
「ただ、“つがい”の概念がわからない女性が、いきなり男から距離を詰められたら怖いでしょう。それに…、私自身が距離を詰めてくる女性を忌避してきました。マリアンヌ嬢に同じように思われたら…。」
ルカーシュは“つがい”云々にかかわらず、非常によくモテた。
女性があらゆる手を使って近づいてこようとするので、なぜそんなにも気持ちを押し付けてくるのかと、うんざりした気持ちでいたうえに、それに対して冷たい態度をとってきた。
今更になって、相手に振り向いてもらいたい、という気持ちを理解して、今まであしらってきた女性たちに申し訳なくなるとともに、同じように思われたらと考えると、ルカーシュは心臓が凍りついたような気持ちになった。
「無表情で女をあしらっていたうえに、“つがい”なんかいらないと言っていたお前が、随分な変わりようだな。俺の騎士の任期をさらに短縮したいなんて、そんなことをいうのはお前くらいさ。」
「以前の女性に対する対応は忘れてください。マリアンヌ嬢にお会いした瞬間、私の世界は変わったのです。」
「“つがい”に会えた獣人は皆、口を揃えてそういうが…、羨ましいものだ。噂で聞いたが、あの女は他の獣人の侍従ともうまくやっているそうじゃないか。」
「ええ、マリアンヌ嬢は頭の回転が速いので、指示やフォローが適切です。キャサリン王女殿下が心を開く理由もわかります。」
「そうか。まぁ、お前のその顔面があれば大丈夫だと思うが、逃がさないようにするんだな。」
「残念ながらマリアンヌ嬢は私の顔がお好みではないようですが…、そのつもりです。」
ルカーシュはそう言うと、お茶を飲み干して席を立った。
「おい、今日は一日他の騎士に任せているんだろう。もう行くのか。」
「はい、少しでも早く戻りたいのです。」
ルカーシュが平然と言ってのけると、アルベルトはつまらなそうに鼻を鳴らした。
ルカーシュが部屋の扉に手をかけようとしたところ、外から扉をたたく音が聞こえた。第三王子殿下の自室の扉を叩くなど、緊急のことに違いない、とルカーシュは扉の向こうの声に耳を澄ます。
「シュナイダー卿!!こちらにいらっしゃいますか!?」
どうやらアルベルトではなく、ルカーシュに用事だったようだと、ルカーシュが扉を開けて来客を確認すると、そこには今日一日キャサリンとマリアンヌの護衛を任せていた獣人の騎士が立っていた。
「君、護衛の任はどうしたんだ。」
ルカーシュはその獣人を確認した瞬間、勝手に護衛対象の側を離れたことに対し叱責の念を込めて威圧した。
「申し訳ございません、今は他の騎士に任せております。ただ、急ぎお伝えしなければならないことがございまして…。」
騎士はルカーシュの威圧に怯えながらも焦ったように言葉を続けた。
「キャサリン王女殿下とマリアンヌ嬢の安全よりも、重要なことなのか。」
「まぁまぁ、ルカ。こんなにも焦っているんだ、まずは話しを聞いてやれよ。」
後ろから様子を伺っていたアルベルトが、ルカーシュが苛立っているのを察して、その騎士に助け舟を出す。
「ありがとうございます。…実は、マリアンヌ嬢が半日こちらを不在にしたいと、お国へ帰ってしまわれたのです。」
確かに随分急なことだ、とルカーシュが目を丸くする。あのキャサリン第一のマリアンヌが、留学の途中でキャサリンの側を何の理由もなく離れることも考えづらかった。
(ただ、マリアンヌ嬢が怪我をした、という話しではなかったようで安心したな。)
ルカーシュはひとまず内心安堵の息を吐く。
「そうか、何か家から急ぎの連絡があったのではないのか?」
「いえ、それが…半日で婚約を済ませてくるとのことで…、」
「なんだって!?どうして、急にそのような話しになるんだ!」
ルカーシュは驚きのあまり、騎士の話しを思わず途中で遮ってしまう。
キャサリンとマリアンヌは今日も学園の生徒たちとの交流会だったはずだ。
何がどうして、急にこのような話になるのか、ルカーシュは頭が追い付かない。
「それが…、女生徒の中に貴方に懸想している女性がいたようで…、キャサリン王女殿下に『あの年で婚約もしていない女性を筆頭侍女につけるなど、品位が下がる』と言ったそうです。それに対しキャサリン王女殿下がお怒りになりましたので、キャサリン王女殿下の憂いはすべて断つ、とばかりにキャンバー伯爵令嬢は静止の声もかけられないほど速く、飛び出て行ってしまわれました。他の者にキャンバー伯爵令嬢を追わせていますが、説得できるかどうか…。」
ここ最近のルカーシュの様子から、獣人から見れば、マリアンヌがルカーシュの“つがい”であることは一目瞭然だった。いつも冷静な雰囲気を纏ったルカーシュが、体中から幸せオーラを出しながらマリアンヌの側に立っていたのだから。
ルカーシュはここまで騎士の話しを聞くと、空間移動の異能を持つ獣人がいるところへ向かおうと走り出した。
獣人の国には、人材交流や物の輸出入を盛んに行うため、空間移動の異能を持つ獣人がシフトを組まれて待機する移転施設がある。キャサリンとマリアンヌも行きはそこに着いたので、マリアンヌはそこへ向かったに違いない、とルカーシュは当たりをつけた。
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ルカーシュが移転施設に到着すると、何人か学園の生徒が来ているようだった。
女生徒のひとりがルカーシュに気づくと、涙で顔を濡らしながらルカーシュに近づいた。
「ルカーシュ様、申し訳ございません!申し訳ございません!!」
その女生徒は、キャサリンにマリアンヌのことを囁いた令嬢だった。
ルカーシュも何度か話したことのある令嬢だ。
「私、私…、ルカーシュ様からキャンバー嬢を引き離そうと思ったわけではないのです!申し訳ございません!」
獣人であれば、子供でも“つがい”の重要性を理解している。
獣人は“つがい”を奪われれば、正気を失ってしまう。“つがい”は獣人同士が大多数のため、結ばれない例は少ない。ただし、相手が人間となると、相手側にその意識が無いため、度々不幸が起きてしまうのだ。
その女生徒は、ルカーシュが見たこともない表情をマリアンヌに向けるので、悔しさから、少し意地悪を言ってやりたかっただけだった。まさか、マリアンヌが半日で婚約を決めてくると言い出すなんて、誰も予想できなかった。
ルカーシュは泣いて謝る令嬢を一瞥すると何も声をかけずに、今日の空間移動の当番の獣人へと近づいたが、ルカーシュは当番の獣人を見て、思い切り顔を顰めた。
(よりにもよって、こいつが当番なのか!)
その獣人はサリバンという、学生時代から何かとルカーシュに対抗心を燃やしてくる男だった。その空間移動の異能は同じ異能を持つ者中でも随一だが、大変意地悪く、器の小さい男だ。
「やぁ、ルカーシュ。息災か?」
サリバンはルカーシュが焦っている様子を見て、意地悪くゆったりと話しかけた。
「ああ、君も元気なようだな。ここにマリアンヌ嬢が来なかったか?人間の、キャサリン王女殿下の侍女だ。」
ルカーシュが早口で尋ねると、サリバンは瞳を三日月型にして笑う。
「随分急いでいたんでね、先ほど送ってあげたばかりだよ。」
「それなら、すぐにマリアンヌ嬢の前まで移動させてくれないか。」
「まぁ、仕事だから送りはするけども、特定の人の前に移動させるのは疲れるんだ。先ほど移動させたばかりだから、半刻は休ませてほしい。」
確かに、緻密な操作が必要な空間移動の異能を使うことは、使用者に多大な負担をもたらす。しかし、サリバンはマリアンヌがルカーシュの“つがい”と知ったうえで、マリアンヌを通し、今も時間を稼ごうとしているに違いない、とルカーシュは考える。
(その半刻で、マリアンヌ嬢がどこぞの輩との婚約の書類に署名をしてしまうかもしれないじゃないか!)
ルカーシュは内心焦ったが、サリバンに対し“お願い”しても決して受け入れてもらえないことを経験から知っていた。だから、逆に挑発するように声をかける。
「サリバン、君は学園でも特に優秀だったのに、その程度の空間移動もできないのか。残念だ、他の異能者を呼ぶことにするよ。」
ルカーシュが見下すように冷たい声で言い放つと、ルカーシュの狙いどおり、サリバンはわかりやすく笑顔を消して眉を顰めた。
「なんだと?」
「事実じゃないか。たった令嬢ひとりを人間の国に送ったくらいで、随分と消耗しているようだからね。」
「僕はこの国一番の空間移動の異能の持ち主さ、不可能なことなどない。」
「それじゃあ、今すぐ送ってくれ。君の仕事だろう?」
サリバンは「ぐぬぬ」と唸ると、仕方ないとばかりに特大のため息をつく。
ルカーシュに特定の位置に立つように言うと、踏ん反り返りながら言う。
「今日が優秀な僕の当番だったことに感謝するんだな!せめて僕の手を煩わせないよう、帰りはキャンバー嬢が先に提示した時間と場所で待っていたまえ!」
_____
一方のマリアンヌは、移転施設でサリバンに快く送り出してもらえたことに安堵していた。
個人利用は件数が限られているようで、受付で一時帰国をしたい旨を申し出たところ断られてしまったが、通りかかったサリバンが声をかけてくれたのだ。
少し何かを企むように瞳を細めているように見えたが、きっと彼が狐の獣人だからそう見えてしまっただけに違いない、とマリアンヌはサリバンに感謝した。
マリアンヌはキャンバー伯爵家の前に移転させてもらうと、外で掃除をしていた侍女が驚いたように腰を抜かしてしまった。侍女からしてみれば、突然マリアンヌが目の前に姿を見せたのだから、当然だ。
「急にごめんなさい。獣人の異能で一時帰国させてもらったの。少し急ぐわ。」
マリアンヌはそう言って、侍女が立ち上れるよう手を貸すと、急いで屋敷の中に入っていた。
マリアンヌは自室に入り、机の引き出しの中から、釣書をすべて取り出すと、ぱらぱらと簡単にめくり、3件に絞った。
マリアンヌはその釣書を手に、父ガードンの書斎へと足を向ける。
「お父様、マリアンヌです。少々お時間よろしいでしょうか?」
マリアンヌがノックをして声をかけると、暫くして、ガードンの執事が扉を開けてくれた。
「マリー、君は今、獣人の国へ行っているのではなかったか?」
ガードンは書斎から顔を上げずに尋ねた。ガードンは厳格な人で、貴族らしい人だったが、今までマリアンヌに婚約話を持って来はしても、強要することはなかった。
きっと彼なりに、末娘を可愛がっているのだろうと、ガードンは言葉が少なかったが、マリアンヌはそれをちゃんと理解していた。
「はい。ただ、少し王女殿下の憂いを晴らすため、半日ほど帰国することを許していただきました。」
「王女殿下の憂い?」
ガードンはここで漸くマリアンヌの方へ視線を上げた。
「はい。筆頭侍女たる私が、未だに誰とも婚約していない点です。そこで、この3名のどなたかと、早急に婚約を結びたいのですが、キャンバー伯爵家にとって、一番都合の良い相手はどなたでしょう?」
マリアンヌが淡々と言うので、ガードンは眉間を揉んだ。
「この中なら、ソフモンド伯爵家の長男、ロイヒャーが良いだろう。自分の興味がある研究ばかりに没頭する気難しい男のようだが、興味があるなら一度会ってみるといい。」
ロイヒャーは変人として社交界でも有名だった。何でも、数多のお見合いで全ての家から断られているらしい。見た目も大変奇怪だと噂になっている。
「手紙には、婚約後も私の自由にしてくれていいとありました。別に、私はお会いしなくてもこのまま進めていただいて構いません。」
先ほど、マリアンヌは婚約後の自由度合いで釣書を3件までに選別していたのだ。
マリアンヌは、ソフモンド伯爵家から送られてきた書状に、手持ちのペンでさらさらと署名を入れた。ソフモンド伯爵家の署名は既に入っていたので、ソフモンド伯爵家もきっと婚約を急いでいるのだろう。
ガードンは本当にこれで良いのかと、ついに頭を抱えた。しかし、もしキャサリンがどこかの公爵家などに輿入れする場合は、侍女の任が解かれるだろうし、このままマリアンヌが誰とも婚約しないまま、というのは一番困る。マリアンヌがその気になった今、身を任せてみるのも一興かもしれない。
ガードンはマリアンヌから書状を受け取ると、マリアンヌの署名の上に、自身の署名を足した。ガードンは後で妻らに叱られる未来がありありと見えた気がして、頭痛がする思いだった。
「ありがとうございます、それでは早速、神殿に届けに行ってまいりますわ。」
マリアンヌは急いでキャサリンの下に戻らねば、とすぐにガードンの書斎を後にする。
母や兄弟に見つかってしまえば、何を言われるかわからない。マリアンヌは打算的でドライな考えをするところがガードンと似ていると、自覚していた。だから、最短最速で話しを進めるためにも、ガードンのところにのみ、訪れたのだ。
馬車の準備が整ったので、マリアンヌは外に出ようと屋敷の玄関から一歩を踏み出すと、突然目の前に影が差して、急に現れた壁にぶつかった。
「きゃあ!」
声を上げたのは、マリアンヌではなく、後ろに控えていた侍女だ。先ほど庭で腰を抜かしてしまった侍女が、再び突然人が現れる怪奇を目の当たりにして腰を抜かしている。
一方のマリアンヌは驚きすぎて声も出せず、ただ立ち尽くしてしまう。
その壁は、マリアンヌを少しだけ優しく抱き寄せた後、両肩を掴んで少しだけ距離を空けると、上からマリアンヌの顔を見下ろした。
「急に申し訳ございません、マリアンヌ嬢。」
急に現れた壁はルカーシュだった。マリアンヌはポカンとした顔でルカーシュの顔を見上げる。
「…シュナイダー卿、どうしてこちらに?」
マリアンヌは驚きで震える声で尋ねた。
ルカーシュはそんなマリアンヌが綴じられた書類を両手に抱えているのを見て、その書類を優しく取り上げた。
「どうしてって、貴女の婚約を止めるために来たのです。」
ルカーシュはそう言って書類の中身をぱらぱらと確認すると、青い炎で書類を跡形もなく一瞬で燃やしてしまった。どうやらルカーシュの異能は燃焼のようだ。
「何をするのですか!」
マリアンヌは目の前で書類が燃え上がる怪奇を見て、更に目を丸くしたが、はっと我に返るとルカーシュをキッと睨みつけた。
「誰でも良いのなら、私と婚約してください。」
ルカーシュはそう言ってマリアンヌに甘い微笑みを向けるので、マリアンヌは思わずくらくらしてしまう。
マリアンヌは「このお顔は危険だ」と思い、目線を下に向けてルカーシュを見ないようにすると、考えが正常に戻ってきたような気がした。
「私、婚約中はまだ王女殿下のお側に居たいのです。貴方とは物理的な距離も大きいですし、難しいと思います。」
「それなら、婚約期間中は私がこちらの国におりましょう。」
「…結婚後も、王女殿下に何かあったときは駆けつけられる距離でいたいのです。」
「貴女のために、ひとりお抱えの空間移動の異能者を雇いましょう。我々獣人の異能があれば、距離など無いも等しいものです。」
「…家のためにもメリットのある婚姻を優先したいのです。」
「以前お伝えしたと思いますが、私は家を継ぐ予定です。爵位は侯爵ですし、豊富な資源のある領地もあります。きっと貴女の家に損はさせません。」
マリアンヌはルカーシュにすべてを打ち返されて、「ぐぬぬ」と唸りたくなってしまう。
「シュナイダー卿は獣人の国でお相手を見つけた方が良いと思います。貴方に気のある女性は多そうですし、面倒ごとは嫌いです。」
マリアンヌはあの女生徒がルカーシュに懸想していることを何となくわかっていた。
ルカーシュのあの顔なら、あの女生徒だけではなく、数多の女性を虜にしていることだろう。ぽっと出の人間が突然ルカーシュの隣に並んだら針の筵にされるに違いない、とマリアンヌは身震いをした。
「このことを言うか迷ったのですが、マリアンヌ嬢は私の“つがい”なのです。獣人の“つがい”については貴女も御存じでしょう?」
マリアンヌはルカーシュのこの発言に大変驚いた。確かにルカーシュはいつも一緒に居てくれたが、適切(とはいえ少し近かったようにも思うが)な距離を保ってくれていたので、マリアンヌはその考えに至らなかった。もしや、他の獣人に中々近づけないのは、ルカーシュが意図的にそうしていたのか、とマリアンヌはここでようやく気がついた。
「ええ、知っていますが…全然気づきませんでした。」
「急に距離を縮めようとしたら、逃げられてしまうと思ったので、ゆっくりと信頼関係を築きたかったのです。…貴女がこんなに突飛な行動を取るのなら、もっと早く言っておくべきだったと思っています。」
「それは…すみません。でも、人間の“つがい”など、シュナイダー卿のお家からは歓迎されないのではないですか?」
マリアンヌは、獣人の異能は遺伝すると聞いたことがあった。
人間と獣人の関係が良好になってきたとは言えども、侯爵家ともなれば、異能を持たない人間の血が家系に混ざることを嫌悪するのではないかとマリアンヌは考える。
「既に貴女のことは話していますが、大変歓迎しています。人間の“つがい”は珍しく、獣人の異能の血筋をより強くすると言い伝えられています。…ただ、私は家のためにマリアンヌ嬢と一緒に居たいわけではありません。私が、貴女を愛しているから、一緒になりたいのです。どうか私の手を取っていただけませんか?」
ルカーシュはマリアンヌの両頬に手を添えて再びマリアンヌの顔を上に向かせた。
マリアンヌはよく口の回る令嬢だったが、どうやらルカーシュはその上をいくらしい。
マリアンヌにはルカーシュが余裕綽々に見えていたが、実際ルカーシュは焦りで心臓が壊れそうなほど動いていた。ルカーシュは、マリアンヌが好むのは冷静に話し合いのできる理知的な人であることを理解していたため、決して感情的にはならないよう気を張っていたのだ。
ルカーシュがあまりにも熱心に言葉を紡ぐので、マリアンヌはルカーシュの熱を正面から受け止めてしまい、徐々に顔が赤くなっていくのを感じていた。
(こんなの、知らないわ…!)
マリアンヌは火照る顔も、高鳴る胸も、初めてのことにすっかり戸惑ってしまい、言葉をなくして立ち尽くしてしまう。
「マリアンヌ嬢、どうか、頷いてください。」
ルカーシュがさらに言葉を続けると、マリアンヌはどこか遠くに思考を置いてきてしまったような状態のままごくわずかに首を縦に振った。
マリアンヌは後で、ルカーシュが本当に良い条件の揃っている婚約相手だったと認識するのだが、このときのマリアンヌは、ルカーシュの上げてくれた条件を打算的に考えられないほど、頭が全く回っていなかった。ただ、こんなにも熱心に求めてくれるルカーシュに、理由もなく頷きたくなってしまったのだ。
「ありがとうございます!」
ルカーシュはそれを見るや否や、マリアンヌに熱烈に抱き着いた後、マリアンヌの腰に両手を添えてマリアンヌを持ちあげて、その場でくるくると回りだした。
「シュナイダー卿、降ろしてください!」
マリアンヌは思わずルカーシュの腕を叩いて止めさせると、後ろでガードンが渋い顔をして立っているのが見えてしまい、急に恥ずかしさが襲ってきた。
「突然お邪魔して申し訳ございません。私はルカーシュ・シュナイダーと申します。獣人の国の侯爵家の息子で、将来は侯爵位を継ぐことになっています。」
ルカーシュもガードンに気づくと、気に入られようと笑顔でガードンに握手を求めた。
ガードンは戸惑いながら手を重ねたが、美しい顔に見合わない騎士らしい固い掌に目を見張った。
「ガードン・キャンバーと申します。これは…一体どういうことなのでしょう?」
先ほど娘が突然婚約の契約書に署名を求めてきたと思ったら、玄関先で別の男、しかも大変見目麗しい獣人と一緒に居たのだ。ガードンは表情を変えなかったが、内心は疑問だらけで混乱していた。
ルカーシュは懇切丁寧にここに至るまでの経緯をガードンに説明すると、懐のうちから、婚約の契約書を取り出した。
「どうして持っているのですか!?」
ルカーシュが計算されたようなタイミングで出すので、マリアンヌは思わず声を上げてしまう。
「貴女という“つがい”が現れてからすぐ、こちらの書類は準備していたのです。これをお出しするタイミングはまだまだ先になると思っていましたが…、結果、こんなにも早くキャンバー伯爵に直接お渡しする機会が得られて幸甚でした。」
ルカーシュが晴れやかに笑うと、マリアンヌはまたまた顔を真っ赤にした。
先ほどから、マリアンヌはルカーシュに気持ちを乱されてばかりだ。
ガードンは初めて見るマリアンヌの様子を見て、少し悩んだ末に、書類に署名をした。
シュナイダー侯爵家のことをガードンは前から知っていたし、先ほどまで婚約させようとしていたロイヒャーよりも良さそうな嫁ぎ先が見つかったのだ。娘もまんざらではなさそうだし、この機会を逃すべきではないだろう。
「マリアンヌ嬢、キャンバー伯爵、本当にありがとうございます。」
ルカーシュが大げさに嬉しそうにするので、マリアンヌも思わず笑みを浮かべてしまう。
「もう婚約者になるのですから、堅苦しいのは止めましょう。私のことはマリーと呼んで。」
「ずっと、そう呼びたかったんだ、マリー。僕のことはルカと呼んでほしい。」
「ルカ、私は可愛げのない女だけれど…どうぞ末永くよろしくね。」
「僕にとっては君が世界一可愛いさ。絶対に幸せにするよ。」
「ありがとう。でも、幸せはふたりで掴むものよ。」
「君のそういうところが堪らなく好きだ。」
ふたりはガードンに見送られながら馬車に乗り込むと、その足ですぐに神殿へ向かい、婚約の契約書を届け出た。
こうして、ふたりはスピード婚約を成し遂げたのだった。
ふたりがサリバンの異能で獣人の国へ帰ると、色々な人が移転施設に集まっていた。
キャサリンにアルベルト、そしてルカーシュの親族に、あの発言をした女生徒の親族までいたのだ。“つがい”はマリアンヌが想像していたよりも獣人の中で大変な問題のようだ。マリアンヌは自分がルカーシュの“つがい”であったことを知らなかったとはいえ、迷惑をかけてしまったことを詫びた。
あの女生徒とその親族が顔を真っ青にして謝ってきたときは、思わずマリアンヌの方が悪いことをしたのではないかと思ってしまうほどだった。
また、ルカーシュの言うとおり、ルカーシュの親族は手放しでマリアンヌとの婚約を喜んだ。
「王女殿下にも、ご迷惑とご心配をおかけして申し訳ございませんでした。」
漸く一息ついたところで、マリアンヌはキャサリンに首を垂れた。
「良いのです。貴女が帰ってしまったことは驚きましたが、私はここに来た日からずっと、貴女がシュナイダー卿と結ばれると思っていましたから。貴女の幸せが一番嬉しいです。」
キャサリンは自分のことのようにマリアンヌのことを祝福した。
マリアンヌはキャサリンの言葉を受けて、感激したように瞳を潤ませる。
「恐れ入ります、王女殿下。私も、王女殿下の幸せが一番嬉しく思います。」
このふたりを少し離れたところで見守っていたルカーシュは少しつまらなそうに口を尖らせた。
「早く、私の幸せを一番に思ってほしいものです。」
「あのふたりの信頼関係じゃあ、難しいだろ。まぁ、嫌われない程度に頑張れよ。」
アルベルトはルカーシュの方を軽くたたくと、ひらりと手を振って護衛と共に帰っていった。
確かに、マリアンヌとキャサリンは、ルカーシュがマリアンヌと過ごした時間よりも圧倒的に多くの年月を共に過ごしているのだから、すぐに追いつくのは難しいだろう。
(男性だけではなく、女性にも嫉妬をしなければならないなんて、“つがい”とは難儀なものだな。)
ルカーシュはそう思うものの、その表情は穏やかだ。
これからふたりの思い出を誰よりも長く紡いでいこう、とルカーシュはマリアンヌの下へ足を向けた。
マリアンヌ・キャンバー伯爵令嬢の婚約者、トムソン・カーディナル伯爵令息は不遜な態度で言い切った。
今日は月に1回、定期的に行っている、ふたりのお茶会の時間だ。今日はキャンバー伯爵の屋敷で会っている。
「かしこまりました。それは、そちらの判断での破棄、ということでよろしいですね。」
マリアンヌはここで泣いたり追いすがったりするような可愛い性格ではない。
それに、トムソンは家が数年前に決めた結婚相手で、それほど情も抱いていなかった。
「なぜだ!そちらの都合による破棄に決まっているだろう!」
カーディナル伯爵家は、昨年の悪天候により主力の農産業に悪影響が出ていて、今は財政に難がある。先ほどの発言のとおり、トムソンがマリアンヌを気に入らないことは確かだろうが、あわよくば、キャンバー伯爵家から違約金をもらおうとしているに違いない、とマリアンヌは内心ため息をつきながら考える。
「私が日中忙しいのは、王家からの命令によるものですもの。我が家に責めはございません。それに、私が王宮で忙しくしている間、貴方は学園で大層他の女生徒と遊んでいるそうではありませんか。」
(貴族の噂話が私の耳に入らないとでも思っているのかしら。)
マリアンヌはまだ幼い第五王女殿下・キャサリン本人の希望もあって、学園には通わず、ずっと侍女として仕えている。キャサリンにとって有害なものを先に取り除くのも臣下の務め。どこに悪意が落ちているかわからないため、マリアンヌは貴族の噂話を積極的に聞くようにしていた。
「お前は王宮に居るのだから、わからないだろう!」
「親切に教えてくださる知人は多いですわ。証人でしたらいくらでも。」
「お前の知人など、どうせ王宮の下働きばかりで信頼性のない発言ばかりじゃないのか。」
「まぁ!王宮勤めの侍女は私も含め、貴族の令嬢ばかりですわよ。それに、私の知人は令嬢だけではございません。王宮に居れば、学園に通う方や勤める方のお話をお聞きすることもございます。」
マリアンヌがそう言うと、トムソンは唇を噛みしめ、ぐっと黙ってしまった。
トムソンがマリアンヌに口喧嘩に勝てたことは一度もない。
トムソンは学園に通ってはいるが、マリアンヌの方が、頭の回転が速いのだ。
トムソンはそのことにひどく劣等感を覚えていたため、自尊心を保つためにもマリアンヌを不幸にしてやりたい気持ちでいっぱいだった。だから、マリアンヌにはわからないだろうと、学園で女生徒と無駄に仲良くして、優位に立ったつもりでいた。そしてついに、女生徒のひとりに唆されて、このような奇行に至ったのだ。
マリアンヌは何も言わなくなったトムソンを見て、今度はあからさまにため息を吐くと、口を開いた。
「貴方のお気持ちはわかりましたが、ふたりだけで決められる問題ではありません。父に伝えますので、本日はお帰りください。」
マリアンヌが先に席を立つと、トムソンもつられたように席を立つ。
トムソンは自分が口に出してしまったことを今更になって後悔し始めたのか、マリアンナの方を何度も呼び止めてほしそうに振り返りながら、帰っていった。
_____
マリアンヌとトムソンの婚約関係は、”解消”という形で落ち着くこととなった。
“破棄”とした場合、互いに有責を認めなければ裁判に至ることもある。
世間から見て、カーディナル伯爵家に責めがあることは明らかだったが、裁判になればマリアンヌが拘束される時間も長くなる。マリアンヌがキャサリンに心配をかけまいとした結果だった。
トムソンは、マリアンヌとの婚約解消後、唆した令嬢と婚約をすることになったが、随分と散財癖のある令嬢だったらしく、カーディナル伯爵家の財政はさらに火の車。領地の返還も視野に入ってきたと、マリアンヌは噂に聞いている。
一方、マリアンヌは「せいせいした」とばかりに、さらにキャサリンの側に居るようになり、ついにはキャサリンが学園に通うような年になっても、婚約者がいないままで、完全に行き遅れになっていた。
マリアンヌには兄が2人、姉が1人、弟が1人いる。
マリアンヌはまだ学園に通う年になる前に、キャサリンの侍女になることになった。
キャサリンは気が弱いうえに人見知りが激しく、なかなか人に心を開こうとしないことで知られていた。最初はマリアンヌより高位の令嬢に声がかかっていたが、次々と辞めていくので、ついにマリアンヌに白羽の矢が立ったのだった。
マリアンヌは小さいころからずっと可愛い妹が欲しかった。
不敬かとは思いつつも、マリアンヌはキャサリンを本当の妹のように甲斐甲斐しく世話をして、可愛がった。
マリアンヌがしつこいほどに世話を焼いたおかげか、単に相性が良かったのか、マリアンヌはキャサリンに気に入られるとそれからずっと、第五王女殿下の側に仕え続けた。
キャサリンも、マリアンヌが側を離れることを頑なに嫌がったため、マリアンヌは王宮に通い詰めたし、途中でできた婚約者よりも、キャサリンを一等大切にしていた。
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学園に通うようになったキャサリンは、その才気を発揮していた。学園長の推薦もあり、キャサリンは学園の夏季休暇を利用して、獣人の国へと短期留学することになった。
他にも学園の生徒が数名、一緒に留学をするが、人見知りのキャサリンは当然のようにマリアンヌの同行を求め、マリアンヌもそれを了承した。
この世界は、人間と獣人が共存しており、それぞれ別に国をたてている。
人間は獣人よりもはるかに数が多い。一方で、獣人は人数が少ないが人間よりも力が強く、そして中には”異能”を持つ者がいる。”異能”は獣人により多種多様なものがあり、その”異能”による現象は、人間の科学では到底計り知れない怪奇である。
そのような力を持つ獣人の人数が少ない理由としては、”つがい”の性質が挙げられる。”つがい”は獣人にとって唯一無二の存在だ。しかし、一生のうちに出会える可能性は高くはなく、また、”つがい”以外の間には子が成しづらいという問題もあった。
今となっては、人間と獣人の両者の人の行き来は盛んで、人間の国に住む獣人もいれば、獣人の国に住む人間もいるが、昔は互いを蔑み、しょっちゅう戦争をしていたらしい。
さて、マリアンヌは小さいころから侍女として勤めているためか、周りからきびきびしたかっこいい女性に見られがちである。しかし、マリアンヌはふわふわした可愛いものが大好きだった。
マリアンヌは国内にいる少数の獣人たちをいつも周りに気づかれないようにチェックしていて、「いつかあの耳としっぽを触らせてくれるくらい、仲の良い獣人の友達が欲しい」と心から願っていた。
今回はまたとないチャンスだと、マリアンヌは大変に心を躍らせている。
_____
来たる当日、マリアンヌは少しの荷物を持ってキャサリンの側に控えていた。
獣人の国への移動は、獣人のもつ空間移動の異能で荷物ごと移転してもらった。獣人の国でも重宝される異能のため、人間は滅多に経験することができない。
マリアンヌは移転先にいる多くの獣人に目を輝かせたが、目の前に高貴そうな人がいるのを見て、咄嗟にキャサリンの後ろで頭を下げた。
どうやら先方の王子殿下・アルベルトが出迎えてくれたようで、キャサリンは少々顔が強張っているが、何とかアルベルトと挨拶を交わしていた。
(王女殿下、御立派になられて…!)
マリアンヌはその様子を、首を垂れたまま、子を見守る親のような気持ちで熱心にその声を聴いていたので、マリアンヌを見つめる強い視線に気が付かなった。
マリアンヌに強い視線を向けていたその人は、アルベルトの側に控えていた騎士で、白豹の獣人だった。年はマリアンヌと同じか、少し上くらいだろうか。
大層見目の麗しい獣人で、きらりと光る灰青色の瞳を驚いたように見開いてマリアンナを一心に見つめていた。
キャサリンとアルベルトの会話が終わると、マリアンヌはほっと息を吐いて、姿勢を正すと、退席するキャサリンの後に続こうとした。
「お待ちください!」
マリアンヌにずっと視線を向けていた騎士は、アルベルトの後ろから乗り出す勢いでマリアンヌに声をかけた。マリアンヌは自分に声をかけられたとは思わなかったが、反射的に振り向くと、初めてその獣人と目が合った。
マリアンヌはその美しい獣人が真っ直ぐに自分を見るので、一時言葉を失った。
芸術品のような美貌に、頭には白銀色の美しい毛並みの見るからにふわふわの耳が付いている。後ろでは、耳と同じ毛並みに、ところどころ灰色と黒色のスポットがある尾が揺れていた。
マリアンヌが声をかけられた理由が分からず黙っていると、その獣人はマリアンヌの前に跪いて甘やかな声で語りかけた。
「私はルカーシュ・シュナイダーと申します。可憐な貴女のお名前を教えていただけないでしょうか?」
マリアンヌは慌てて貴族の礼を取ると、自己紹介をした。
「マリアンヌ・キャンバーでございます。キャサリン王女殿下の侍女としてまいりました。」
「マリアンヌ嬢…素敵なお名前ですね。これからよろしくお願いいたします。」
「はい、どうぞよろしくお願いいたします。」
ルカーシュは恍惚としたような表情でマリアンヌに話しかけるが、マリアンヌの視線は、ルカーシュが跪いて見やすくなった頭のてっぺんにある耳にくぎ付けになってしまう。
暫くお互いに見つめ合ったまま(片方は頭に目線がいっているが、)沈黙の時間が流れると、マリアンヌの耳にか細い声が聞こえた。
「マリー…。」
マリアンヌが声の方を振り向くと、キャサリンが見知らぬ獣人の召使に囲まれて不安そうな顔をしていた。
「王女殿下、申し訳ございません。それでは、失礼いたします。」
マリアンヌは即座に顔を上げると、キャサリンを安心させるように微笑んでから、アルベルトとルカーシュに再び会釈をして颯爽とキャサリンの後ろに続いた。
キャサリンは言葉の数が少ないため、マリアンヌはキャサリンが自分を呼ぶその一言だけで、その感情を読み取ることができるようになっていた。
いつ何時も、マリアンヌの最優先事項はキャサリンである。
ルカーシュはマリアンヌが去っていく背中を、アルベルトが声をかけるまでずっと見つめていた。
_____
翌日、驚いたことにルカーシュがキャサリンとマリアンヌのもとへやってきた。
「キャサリン殿下の滞在中、護衛を務めさせていただきます。」
「ありがたいお申し出ですが、こちらでも護衛の騎士は用意しておりますし…昨日の様子では、シュナイダー卿はアルベルト殿下の騎士様だったのではないでしょうか?大変恐れ多いことでございます。」
マリアンヌが困ったように眉を下げると、ルカーシュは食い下がった。
「獣人は人間よりも力が強いですし、異能もあります。獣人の護衛も付けていた方がキャサリン殿下の安全をよりお守りできると思います。それに、私は近々家督を継ぐため、騎士職は退く予定なのです。既に騎士の後継はおりますので、ご心配なさらないでください。」
マリアンヌは、キャサリンの安全のことを思うと、確かに、と思った。
通常の騎士では獣人に太刀打ちはできない。しかし、王子の護衛まで勤めていたような獣人が側に居れば、襲ってくるような人も減るだろうし、とてつもなく安全だろう。
(けれど…、人見知りのキャサリン王女殿下が嫌がらないかしら。)
そう思ってマリアンヌはキャサリンの方を向くと、マリアンヌの予想に反して、キャサリンは力強く頷いた。
「私は構わないわ。」
「承知しました。…それではシュナイダー卿、お言葉に甘えさせていただきます。」
「ええ、どうぞよろしくお願いいたします。」
ルカーシュはマリアンヌにとって恐ろしいほど美しかったが、ルカーシュが嬉しそうにはにかむ顔は、思わず胸が高鳴るほど可愛らしかった。
_____
ルカーシュは、キャサリンの予定にすべて帯同しており、いつの間にか、マリアンヌの横はルカーシュの定位置となった。
ルカーシュは護衛としてだけではなく、行く先々の情報を補足してくれるので、短い間で随分とキャサリンも心を開いているようだった。
一方のマリアンヌはルカーシュが恐ろしいほど美しいので、”耳を触らしてほしい”という欲望を、ルカーシュに伝えられる勇気が全くなかった。ついては、マリアンヌは気安く接することのできるような他の獣人と仲良くなりたくて、行く先々の関係者に迷惑にならない程度に質問をして話しを広げようと思うのに、そのすべてをルカーシュが代わって答えてくれるため、すっかり他の獣人との仲良くなるチャンスを奪われてしまっていた。
(シュナイダー卿はただ親切なだけなのでしょうけれど…、少し残念な気持ちだわ。まだ機会があると良いのだけれど。)
マリアンヌはしっかりと仕事をこなしつつも、その機会に目を光らせていた。
そのような中、獣人の国の学園へ行った際に、出迎えてくれた男性教員のネロ・ホフマンにマリアンヌの目はくぎ付けになった。
(絶対、お近づきになりたいわ…!)
ネロは猫の獣人だった。ピンと立った大きめの三角耳に、すこしぼさっとしたふかふかのしっぽ、丸眼鏡の奥に隠された、釣り目がちのぱっちりな瞳が、本当の猫を彷彿とさせて、マリアンヌは一目で狙いを定めた。
マリアンヌはキャサリンが学園の生徒たちと交流をしている間、偶々ルカーシュが他の公務の都合で学園長に話しかけられていたので、その隙にそっとネロに近づいて声をかけた。
「ホフマン様は、ここに勤めて長いのですか?」
急に話しかけられたネロが少し驚いたように目をぱちくりさせるので、その様子が可愛らしくて、マリアンヌは思わずにやけてしまう。
「ええ、学園を出てから、ずっとここで働かせてもらっています。…キャンバー様は貴族の御令嬢と伺いました。私はこの学園に勤めていますが、出自は平民です。だから…」
貴族と平民には隔たりがある。それは人間も獣人も一緒だが、その差別意識は人間の方が大きい。
だから、ネロは自分と話すことでマリアンヌが気分を害すのではないかと思い、言葉を濁す。
「この由緒正しい学園にお勤めなのですから、きっと学園ではとても優秀な成績だったのでしょうね。私は出自を気にいたしません。」
「そうですか、ありがとうございます。」
ネロが漸く笑顔を見せたので、マリアンヌも機嫌がよさそうににっこりと笑ってみせた。
「短い間ですが、キャサリン王女殿下に随行して何度か学園を訪問させていただく予定ですので、ぜひ仲良くしてください。私のことはぜひマリーと。」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。僕のこともネロと呼んでください。」
マリアンヌは心の中でガッツポーズをした。仲良くなるための第一歩を踏み出せそうだ。
マリアンヌは視線を再びネロの耳に移す。
(あんなにふかふかな耳に触らせてもらえたら、きっととっても幸せな気持ちになるに違いないわ!)
「マリー様、僕の耳が気になるのですか?」
マリアンヌがあまりに熱心に耳を見つめすぎたせいか、ネロがおかしそうに笑った。ネロは最初こそ緊張していたようだったが、本来は気安い性格のようだ。悪戯気に細められた瞳も、猫のようで、マリアンヌはますますネロと仲良くなりたいと思った。
(そうだ、と言ったら、触らせてくれるかしら…。でも、まだ会ったばかりなのに不躾よね…。)
マリアンヌは葛藤した。
しかし、この流れを逃せば次にいつ機会がやってくるかわからない。
実際、既に短期留学の半分の期間を過ぎているが、今まで機会がないどころか、ルカーシュ以外の獣人と話す機会さえ少なかったのだ。
「実は、そうなのです…。獣人の方の耳を、小さいころからずぅっと触らせてほしいと思っていたのです。」
マリアンヌははしたないと思いつつも、照れたように心の内を打ち明けた。
「そういう方は結構いますよ。僕で良ければ、触って構いません。」
ネロが何てこと無いように言うので、マリアンヌは目を輝かせて食いついた。
「本当によろしいのですか!?」
「ええ、どうぞ。」
ネロはマリアンヌが触りやすいように、少し頭を下げてみせた。
マリアンヌはドキドキしながらその手をそっとネロの耳に近づける。
十数年、触ってみたいと思っていたこの耳はどのような触り心地なのだろう、とマリアンヌはもう少しで届く幼いころからの夢に気分が高揚する。
しかし、マリアンヌの指先がネロの耳に触れる寸前で、誰かがマリアンヌの手首を掴んだ。
「そう簡単に、男性に触れるものではありませんよ。」
マリアンヌが手首を掴んだ人を確認しようと視線を上げると、そこには張り付けたような笑みを浮かべたルカーシュが立っていた。
どうやら、学園長との話しが終わって戻ってきたようだった。
「そうかもしれませんが…、私、ずっと触れてみたくて…。」
ルカーシュが叱ることももっともだが、あと少しで触れそうだったのに、とマリアンヌは居心地が悪そうに視線を彷徨わせた。
「ホフマン殿、君はもう外して大丈夫だ。」
マリアンヌはまだネロの耳を諦められていなかったが、ルカーシュはネロを冷たい瞳で一瞥すると、部屋から追い出そうとする。
ネロはルカーシュが怖かったのか、「マリー様、また今度お会いしましょう」と早口で言うと、マリアンヌが呼び止める間もなく、怯える猫のように音もなく俊敏に立ち去ってしまった。
マリアンヌはその背中を名残惜しそうな目でずっと見ていたため、ルカーシュが横で不機嫌そうな顔をしていることに気づかない。
「突然手を取ってしまい失礼いたしました。でも、獣人では仲の良い者にしか耳や尾は触れさせないのです。このような他の人の目のある場所では、控えた方が良いでしょう。」
ルカーシュはそっとマリアンヌの手首から手を離すと、マリアンヌには不機嫌を悟られないようにと、優しい顔でマリアンヌの顔を覗き込んだ。
獣人は人より背の高い種族だが、ルカーシュは獣人の中でも背が高いようで、マリアンヌの顔を見るために少し首を傾げてみせた。
マリアンヌが周囲を見ると、キャサリンをはじめ、何人かの生徒が壁際にいるマリアンヌとルカーシュの方を見ていたため、マリアンヌは自分の行動の軽率さを恥じた。
「ご忠告ありがとうございます。」
マリアンヌは人の目もあるため、距離の近いルカーシュから離れようと少し離れるように動きながらルカーシュにお礼を言った。
「…獣人ならば、私も近くにいるではありませんか。どうしてホフマン殿だったのですか?」
ルカーシュは傾げていた首を元に戻すと、マリアンヌに一歩近づいて隣に並んだ。
「ネロ様には失礼かもしれませんが、私は猫が好きなのです。ネロ様は全体的にとっても可愛い猫を彷彿とさせるので、つい…。」
マリアンヌがさらに一歩ルカーシュから距離を取るようにして話すと、ルカーシュはまた一歩マリアンヌに近づきながら、少し眉をひそめた。
「私だって、ネコ科の動物の獣人です。私の耳を触っても良いのですよ?それに、彼は貴女のことを愛称で呼んでいましたが…ぜひ私のことも気軽に呼んでください。」
「シュナイダー卿はとても美しいですから、少し気が引けてしまいます。」
マリアンヌはルカーシュに徐々に気安い態度を取れるようになっていたが、神々しさすら感じる美しいルカーシュを見ると、つい不敬な態度を取ってはいけないと思ってしまう。
一方のルカーシュはネロに完全に嫉妬していた。マリアンヌが触れようとしていたことも、名前で呼ばれていたことも、マリアンヌを愛称で呼ぶことを許されていたことも、気に入らなかった。
自分も同じ土俵に立とうと言葉を紡いだが、マリアンヌの返答に敢え無く撃沈してしまう。
(私はまだ、名前ですら呼んでいただけないのに。)
「そんな、気になさらないでください。私は…、」
ルカーシュがさらに言葉を続けようとすると、マリアンヌは丁度ここを出なければいけない時間になっていることに気づく。
「次の予定がございますので、移動いたしましょう。」
マリアンヌはルカーシュの言葉を遮ってそう言うと、キャサリンのもとへ声をかけに離れてしまう。
マリアンヌの最優先事項はキャサリンであり、ここで無理に呼び止めればマリアンヌに嫌な気持ちをさせてしまう、ルカーシュはそう考えると残念そうにため息を吐いた。
_____
別の日、マリアンヌはキャサリンへ随行して、また同じ学園を訪れていた。
今日は珍しく、ルカーシュに外せない予定があるようで、別の獣人の護衛が付けられていた。
マリアンヌはネロと他愛もない話をしながら、獣人の生徒たちと交流をするキャサリンを見守っていた。
キャサリンは頑張って話をしているが、元来気弱で人見知りな性格なので、獣人の生徒に囲まれながら、控えめに相槌を打ち、時折たおやかにほほ笑んでいた。
しかし、獣人の女生徒が何かをキャサリンに囁くと、キャサリンは様子を一転させて、両手を強く握りしめながら強く抗議をするように声を出した。
「王女殿下、いかがされたのですか?」
マリアンヌは急いでキャサリンのもとへ駆けつけると、キャサリンは瞳にいっぱいの涙を溜めていた。
「マリー…。」
(これは悔しいことがあるときのお声だわ。)
何か意地悪を言われたのだろうか、とマリアンヌはキャサリンの背中をさすって、次の言葉を促したが、キャサリンは口を開こうとしない。
マリアンヌは諦めて、周りの獣人の生徒たちに事情を尋ねると、みな顔を見合わせて答えを迷っているようだったが、ひとりの女生徒が控えめに声を上げた。
直前にキャサリンに何かを囁いた女生徒とはまた別の生徒だ。
「それが…、会話のはずみで、貴女の話しになったのです。」
その女生徒が叱られる子どものようにマリアンヌを見るので、マリアンヌはまさか自分の話題だったとは、と驚いた。
その女生徒は大きな声で言うのが憚られたのか、マリアンヌの耳に口を近づけると、マリアンヌにしか聞こえない音量でこう言った。
「どこで彼女が知ったのかは存じませんが、結婚や婚約をしていない侍女を側に仕えさせるのは、その…。」
「キャサリン王女殿下の品位が落ちる、とでも仰ったのかしら。」
女生徒は何とかやんわりと伝えようとしたが、マリアンヌはすべてを察した。きっともっとひどい言葉でマリアンヌのことを話題にしたはずだ。
「キャサリン王女殿下、私のためにありがとうございます。どうか私のことを何か言われても、お気になさらないでください。」
「マリーはこんなにも素敵な女性なのに、わたくし、悔しくて…。上手くできなくてごめんなさい、マリー。」
マリアンヌはキャサリンがついにぽろぽろと涙を流したのを見て、急に決断した。
(そうだ、婚約しよう。)
「王女殿下、今から半日ほど席を外す御無礼をお許しいただけますか?」
「…ええ、他の侍女もいるから半日くらい構わないけれど…、どうしたの?」
急なことに、キャサリンは目をぱちくりとさせた。
「少し、国へ戻って至急婚約を済ませてまいります。」
キャサリンが周りから攻撃される芽はひとつ残らず摘み取るに限る。
幸い、マリアンヌには、伯爵家の持参金を目的としたものや、妻に先立たれて後妻を探しているものなど、曰くつきの縁談ならいくつも届いていた。婚約後も働いてよい、と言っている家もいくつかあるので、その中から適当に決めてしまえばいい。
その家に黒い噂がないかは、既に両親が調べているはずだ。
今ここで、マリアンヌのことを瑕疵とされて、キャサリンが責められるようなことがあるのなら、今すぐにでもその憂いを取っ払ってしまおう。
キャサリンや周囲の人が絶句している間に、マリアンヌは側にいた獣人の騎士と他の侍女に声をかける。
「突然のことで申し訳ございませんが、少しの間、キャサリン王女殿下をよろしくお願いいたします。」
マリアンヌは、善は急げ、とばかりに気にせず空間移動の異能を持つ獣人の下へと急いだ。
_____
「ルカーシュ、あの人間の女とはどうなっているんだ。」
獣人の国の第三王子、アルベルトは、ルカーシュとともに出席していた会議から自室へ戻ると、お茶を飲みながら、にやにやと尋ねた。
「徐々に距離を詰めたいのです、放っておいてください。」
ルカーシュはこのままではアルベルトが変なお節介を焼きそうだと、面倒臭そうに答えた。
「そうはいっても、相手はずっとこちらにいるわけではないだろう。折角“つがい”が見つかったんだ。人間にはその概念が無いからな、あの女があの年で婚約者もいなかったのは幸いだったな。」
アルベルトの言うとおり、獣人同士の“つがい”であれば、互いにその結びつきを瞬時に理解し、寄り添うようになるが、“つがい”相手が人間だった場合、必ずしもその人間が“つがい”の獣人と一緒になってくれるとは限らない。
当然、ルカーシュはマリアンヌに会ってすぐに、婚約者の有無を調査した。一度婚約を解消した形跡があり、マリアンヌと婚約を解消するなんて馬鹿なことをする、とルカーシュは思ったが、それと同時に相手に感謝した。今も婚約者はいない、ということが分かった瞬間、ルカーシュはこれは真に運命なのだと思った。
「ただ、“つがい”の概念がわからない女性が、いきなり男から距離を詰められたら怖いでしょう。それに…、私自身が距離を詰めてくる女性を忌避してきました。マリアンヌ嬢に同じように思われたら…。」
ルカーシュは“つがい”云々にかかわらず、非常によくモテた。
女性があらゆる手を使って近づいてこようとするので、なぜそんなにも気持ちを押し付けてくるのかと、うんざりした気持ちでいたうえに、それに対して冷たい態度をとってきた。
今更になって、相手に振り向いてもらいたい、という気持ちを理解して、今まであしらってきた女性たちに申し訳なくなるとともに、同じように思われたらと考えると、ルカーシュは心臓が凍りついたような気持ちになった。
「無表情で女をあしらっていたうえに、“つがい”なんかいらないと言っていたお前が、随分な変わりようだな。俺の騎士の任期をさらに短縮したいなんて、そんなことをいうのはお前くらいさ。」
「以前の女性に対する対応は忘れてください。マリアンヌ嬢にお会いした瞬間、私の世界は変わったのです。」
「“つがい”に会えた獣人は皆、口を揃えてそういうが…、羨ましいものだ。噂で聞いたが、あの女は他の獣人の侍従ともうまくやっているそうじゃないか。」
「ええ、マリアンヌ嬢は頭の回転が速いので、指示やフォローが適切です。キャサリン王女殿下が心を開く理由もわかります。」
「そうか。まぁ、お前のその顔面があれば大丈夫だと思うが、逃がさないようにするんだな。」
「残念ながらマリアンヌ嬢は私の顔がお好みではないようですが…、そのつもりです。」
ルカーシュはそう言うと、お茶を飲み干して席を立った。
「おい、今日は一日他の騎士に任せているんだろう。もう行くのか。」
「はい、少しでも早く戻りたいのです。」
ルカーシュが平然と言ってのけると、アルベルトはつまらなそうに鼻を鳴らした。
ルカーシュが部屋の扉に手をかけようとしたところ、外から扉をたたく音が聞こえた。第三王子殿下の自室の扉を叩くなど、緊急のことに違いない、とルカーシュは扉の向こうの声に耳を澄ます。
「シュナイダー卿!!こちらにいらっしゃいますか!?」
どうやらアルベルトではなく、ルカーシュに用事だったようだと、ルカーシュが扉を開けて来客を確認すると、そこには今日一日キャサリンとマリアンヌの護衛を任せていた獣人の騎士が立っていた。
「君、護衛の任はどうしたんだ。」
ルカーシュはその獣人を確認した瞬間、勝手に護衛対象の側を離れたことに対し叱責の念を込めて威圧した。
「申し訳ございません、今は他の騎士に任せております。ただ、急ぎお伝えしなければならないことがございまして…。」
騎士はルカーシュの威圧に怯えながらも焦ったように言葉を続けた。
「キャサリン王女殿下とマリアンヌ嬢の安全よりも、重要なことなのか。」
「まぁまぁ、ルカ。こんなにも焦っているんだ、まずは話しを聞いてやれよ。」
後ろから様子を伺っていたアルベルトが、ルカーシュが苛立っているのを察して、その騎士に助け舟を出す。
「ありがとうございます。…実は、マリアンヌ嬢が半日こちらを不在にしたいと、お国へ帰ってしまわれたのです。」
確かに随分急なことだ、とルカーシュが目を丸くする。あのキャサリン第一のマリアンヌが、留学の途中でキャサリンの側を何の理由もなく離れることも考えづらかった。
(ただ、マリアンヌ嬢が怪我をした、という話しではなかったようで安心したな。)
ルカーシュはひとまず内心安堵の息を吐く。
「そうか、何か家から急ぎの連絡があったのではないのか?」
「いえ、それが…半日で婚約を済ませてくるとのことで…、」
「なんだって!?どうして、急にそのような話しになるんだ!」
ルカーシュは驚きのあまり、騎士の話しを思わず途中で遮ってしまう。
キャサリンとマリアンヌは今日も学園の生徒たちとの交流会だったはずだ。
何がどうして、急にこのような話になるのか、ルカーシュは頭が追い付かない。
「それが…、女生徒の中に貴方に懸想している女性がいたようで…、キャサリン王女殿下に『あの年で婚約もしていない女性を筆頭侍女につけるなど、品位が下がる』と言ったそうです。それに対しキャサリン王女殿下がお怒りになりましたので、キャサリン王女殿下の憂いはすべて断つ、とばかりにキャンバー伯爵令嬢は静止の声もかけられないほど速く、飛び出て行ってしまわれました。他の者にキャンバー伯爵令嬢を追わせていますが、説得できるかどうか…。」
ここ最近のルカーシュの様子から、獣人から見れば、マリアンヌがルカーシュの“つがい”であることは一目瞭然だった。いつも冷静な雰囲気を纏ったルカーシュが、体中から幸せオーラを出しながらマリアンヌの側に立っていたのだから。
ルカーシュはここまで騎士の話しを聞くと、空間移動の異能を持つ獣人がいるところへ向かおうと走り出した。
獣人の国には、人材交流や物の輸出入を盛んに行うため、空間移動の異能を持つ獣人がシフトを組まれて待機する移転施設がある。キャサリンとマリアンヌも行きはそこに着いたので、マリアンヌはそこへ向かったに違いない、とルカーシュは当たりをつけた。
_____
ルカーシュが移転施設に到着すると、何人か学園の生徒が来ているようだった。
女生徒のひとりがルカーシュに気づくと、涙で顔を濡らしながらルカーシュに近づいた。
「ルカーシュ様、申し訳ございません!申し訳ございません!!」
その女生徒は、キャサリンにマリアンヌのことを囁いた令嬢だった。
ルカーシュも何度か話したことのある令嬢だ。
「私、私…、ルカーシュ様からキャンバー嬢を引き離そうと思ったわけではないのです!申し訳ございません!」
獣人であれば、子供でも“つがい”の重要性を理解している。
獣人は“つがい”を奪われれば、正気を失ってしまう。“つがい”は獣人同士が大多数のため、結ばれない例は少ない。ただし、相手が人間となると、相手側にその意識が無いため、度々不幸が起きてしまうのだ。
その女生徒は、ルカーシュが見たこともない表情をマリアンヌに向けるので、悔しさから、少し意地悪を言ってやりたかっただけだった。まさか、マリアンヌが半日で婚約を決めてくると言い出すなんて、誰も予想できなかった。
ルカーシュは泣いて謝る令嬢を一瞥すると何も声をかけずに、今日の空間移動の当番の獣人へと近づいたが、ルカーシュは当番の獣人を見て、思い切り顔を顰めた。
(よりにもよって、こいつが当番なのか!)
その獣人はサリバンという、学生時代から何かとルカーシュに対抗心を燃やしてくる男だった。その空間移動の異能は同じ異能を持つ者中でも随一だが、大変意地悪く、器の小さい男だ。
「やぁ、ルカーシュ。息災か?」
サリバンはルカーシュが焦っている様子を見て、意地悪くゆったりと話しかけた。
「ああ、君も元気なようだな。ここにマリアンヌ嬢が来なかったか?人間の、キャサリン王女殿下の侍女だ。」
ルカーシュが早口で尋ねると、サリバンは瞳を三日月型にして笑う。
「随分急いでいたんでね、先ほど送ってあげたばかりだよ。」
「それなら、すぐにマリアンヌ嬢の前まで移動させてくれないか。」
「まぁ、仕事だから送りはするけども、特定の人の前に移動させるのは疲れるんだ。先ほど移動させたばかりだから、半刻は休ませてほしい。」
確かに、緻密な操作が必要な空間移動の異能を使うことは、使用者に多大な負担をもたらす。しかし、サリバンはマリアンヌがルカーシュの“つがい”と知ったうえで、マリアンヌを通し、今も時間を稼ごうとしているに違いない、とルカーシュは考える。
(その半刻で、マリアンヌ嬢がどこぞの輩との婚約の書類に署名をしてしまうかもしれないじゃないか!)
ルカーシュは内心焦ったが、サリバンに対し“お願い”しても決して受け入れてもらえないことを経験から知っていた。だから、逆に挑発するように声をかける。
「サリバン、君は学園でも特に優秀だったのに、その程度の空間移動もできないのか。残念だ、他の異能者を呼ぶことにするよ。」
ルカーシュが見下すように冷たい声で言い放つと、ルカーシュの狙いどおり、サリバンはわかりやすく笑顔を消して眉を顰めた。
「なんだと?」
「事実じゃないか。たった令嬢ひとりを人間の国に送ったくらいで、随分と消耗しているようだからね。」
「僕はこの国一番の空間移動の異能の持ち主さ、不可能なことなどない。」
「それじゃあ、今すぐ送ってくれ。君の仕事だろう?」
サリバンは「ぐぬぬ」と唸ると、仕方ないとばかりに特大のため息をつく。
ルカーシュに特定の位置に立つように言うと、踏ん反り返りながら言う。
「今日が優秀な僕の当番だったことに感謝するんだな!せめて僕の手を煩わせないよう、帰りはキャンバー嬢が先に提示した時間と場所で待っていたまえ!」
_____
一方のマリアンヌは、移転施設でサリバンに快く送り出してもらえたことに安堵していた。
個人利用は件数が限られているようで、受付で一時帰国をしたい旨を申し出たところ断られてしまったが、通りかかったサリバンが声をかけてくれたのだ。
少し何かを企むように瞳を細めているように見えたが、きっと彼が狐の獣人だからそう見えてしまっただけに違いない、とマリアンヌはサリバンに感謝した。
マリアンヌはキャンバー伯爵家の前に移転させてもらうと、外で掃除をしていた侍女が驚いたように腰を抜かしてしまった。侍女からしてみれば、突然マリアンヌが目の前に姿を見せたのだから、当然だ。
「急にごめんなさい。獣人の異能で一時帰国させてもらったの。少し急ぐわ。」
マリアンヌはそう言って、侍女が立ち上れるよう手を貸すと、急いで屋敷の中に入っていた。
マリアンヌは自室に入り、机の引き出しの中から、釣書をすべて取り出すと、ぱらぱらと簡単にめくり、3件に絞った。
マリアンヌはその釣書を手に、父ガードンの書斎へと足を向ける。
「お父様、マリアンヌです。少々お時間よろしいでしょうか?」
マリアンヌがノックをして声をかけると、暫くして、ガードンの執事が扉を開けてくれた。
「マリー、君は今、獣人の国へ行っているのではなかったか?」
ガードンは書斎から顔を上げずに尋ねた。ガードンは厳格な人で、貴族らしい人だったが、今までマリアンヌに婚約話を持って来はしても、強要することはなかった。
きっと彼なりに、末娘を可愛がっているのだろうと、ガードンは言葉が少なかったが、マリアンヌはそれをちゃんと理解していた。
「はい。ただ、少し王女殿下の憂いを晴らすため、半日ほど帰国することを許していただきました。」
「王女殿下の憂い?」
ガードンはここで漸くマリアンヌの方へ視線を上げた。
「はい。筆頭侍女たる私が、未だに誰とも婚約していない点です。そこで、この3名のどなたかと、早急に婚約を結びたいのですが、キャンバー伯爵家にとって、一番都合の良い相手はどなたでしょう?」
マリアンヌが淡々と言うので、ガードンは眉間を揉んだ。
「この中なら、ソフモンド伯爵家の長男、ロイヒャーが良いだろう。自分の興味がある研究ばかりに没頭する気難しい男のようだが、興味があるなら一度会ってみるといい。」
ロイヒャーは変人として社交界でも有名だった。何でも、数多のお見合いで全ての家から断られているらしい。見た目も大変奇怪だと噂になっている。
「手紙には、婚約後も私の自由にしてくれていいとありました。別に、私はお会いしなくてもこのまま進めていただいて構いません。」
先ほど、マリアンヌは婚約後の自由度合いで釣書を3件までに選別していたのだ。
マリアンヌは、ソフモンド伯爵家から送られてきた書状に、手持ちのペンでさらさらと署名を入れた。ソフモンド伯爵家の署名は既に入っていたので、ソフモンド伯爵家もきっと婚約を急いでいるのだろう。
ガードンは本当にこれで良いのかと、ついに頭を抱えた。しかし、もしキャサリンがどこかの公爵家などに輿入れする場合は、侍女の任が解かれるだろうし、このままマリアンヌが誰とも婚約しないまま、というのは一番困る。マリアンヌがその気になった今、身を任せてみるのも一興かもしれない。
ガードンはマリアンヌから書状を受け取ると、マリアンヌの署名の上に、自身の署名を足した。ガードンは後で妻らに叱られる未来がありありと見えた気がして、頭痛がする思いだった。
「ありがとうございます、それでは早速、神殿に届けに行ってまいりますわ。」
マリアンヌは急いでキャサリンの下に戻らねば、とすぐにガードンの書斎を後にする。
母や兄弟に見つかってしまえば、何を言われるかわからない。マリアンヌは打算的でドライな考えをするところがガードンと似ていると、自覚していた。だから、最短最速で話しを進めるためにも、ガードンのところにのみ、訪れたのだ。
馬車の準備が整ったので、マリアンヌは外に出ようと屋敷の玄関から一歩を踏み出すと、突然目の前に影が差して、急に現れた壁にぶつかった。
「きゃあ!」
声を上げたのは、マリアンヌではなく、後ろに控えていた侍女だ。先ほど庭で腰を抜かしてしまった侍女が、再び突然人が現れる怪奇を目の当たりにして腰を抜かしている。
一方のマリアンヌは驚きすぎて声も出せず、ただ立ち尽くしてしまう。
その壁は、マリアンヌを少しだけ優しく抱き寄せた後、両肩を掴んで少しだけ距離を空けると、上からマリアンヌの顔を見下ろした。
「急に申し訳ございません、マリアンヌ嬢。」
急に現れた壁はルカーシュだった。マリアンヌはポカンとした顔でルカーシュの顔を見上げる。
「…シュナイダー卿、どうしてこちらに?」
マリアンヌは驚きで震える声で尋ねた。
ルカーシュはそんなマリアンヌが綴じられた書類を両手に抱えているのを見て、その書類を優しく取り上げた。
「どうしてって、貴女の婚約を止めるために来たのです。」
ルカーシュはそう言って書類の中身をぱらぱらと確認すると、青い炎で書類を跡形もなく一瞬で燃やしてしまった。どうやらルカーシュの異能は燃焼のようだ。
「何をするのですか!」
マリアンヌは目の前で書類が燃え上がる怪奇を見て、更に目を丸くしたが、はっと我に返るとルカーシュをキッと睨みつけた。
「誰でも良いのなら、私と婚約してください。」
ルカーシュはそう言ってマリアンヌに甘い微笑みを向けるので、マリアンヌは思わずくらくらしてしまう。
マリアンヌは「このお顔は危険だ」と思い、目線を下に向けてルカーシュを見ないようにすると、考えが正常に戻ってきたような気がした。
「私、婚約中はまだ王女殿下のお側に居たいのです。貴方とは物理的な距離も大きいですし、難しいと思います。」
「それなら、婚約期間中は私がこちらの国におりましょう。」
「…結婚後も、王女殿下に何かあったときは駆けつけられる距離でいたいのです。」
「貴女のために、ひとりお抱えの空間移動の異能者を雇いましょう。我々獣人の異能があれば、距離など無いも等しいものです。」
「…家のためにもメリットのある婚姻を優先したいのです。」
「以前お伝えしたと思いますが、私は家を継ぐ予定です。爵位は侯爵ですし、豊富な資源のある領地もあります。きっと貴女の家に損はさせません。」
マリアンヌはルカーシュにすべてを打ち返されて、「ぐぬぬ」と唸りたくなってしまう。
「シュナイダー卿は獣人の国でお相手を見つけた方が良いと思います。貴方に気のある女性は多そうですし、面倒ごとは嫌いです。」
マリアンヌはあの女生徒がルカーシュに懸想していることを何となくわかっていた。
ルカーシュのあの顔なら、あの女生徒だけではなく、数多の女性を虜にしていることだろう。ぽっと出の人間が突然ルカーシュの隣に並んだら針の筵にされるに違いない、とマリアンヌは身震いをした。
「このことを言うか迷ったのですが、マリアンヌ嬢は私の“つがい”なのです。獣人の“つがい”については貴女も御存じでしょう?」
マリアンヌはルカーシュのこの発言に大変驚いた。確かにルカーシュはいつも一緒に居てくれたが、適切(とはいえ少し近かったようにも思うが)な距離を保ってくれていたので、マリアンヌはその考えに至らなかった。もしや、他の獣人に中々近づけないのは、ルカーシュが意図的にそうしていたのか、とマリアンヌはここでようやく気がついた。
「ええ、知っていますが…全然気づきませんでした。」
「急に距離を縮めようとしたら、逃げられてしまうと思ったので、ゆっくりと信頼関係を築きたかったのです。…貴女がこんなに突飛な行動を取るのなら、もっと早く言っておくべきだったと思っています。」
「それは…すみません。でも、人間の“つがい”など、シュナイダー卿のお家からは歓迎されないのではないですか?」
マリアンヌは、獣人の異能は遺伝すると聞いたことがあった。
人間と獣人の関係が良好になってきたとは言えども、侯爵家ともなれば、異能を持たない人間の血が家系に混ざることを嫌悪するのではないかとマリアンヌは考える。
「既に貴女のことは話していますが、大変歓迎しています。人間の“つがい”は珍しく、獣人の異能の血筋をより強くすると言い伝えられています。…ただ、私は家のためにマリアンヌ嬢と一緒に居たいわけではありません。私が、貴女を愛しているから、一緒になりたいのです。どうか私の手を取っていただけませんか?」
ルカーシュはマリアンヌの両頬に手を添えて再びマリアンヌの顔を上に向かせた。
マリアンヌはよく口の回る令嬢だったが、どうやらルカーシュはその上をいくらしい。
マリアンヌにはルカーシュが余裕綽々に見えていたが、実際ルカーシュは焦りで心臓が壊れそうなほど動いていた。ルカーシュは、マリアンヌが好むのは冷静に話し合いのできる理知的な人であることを理解していたため、決して感情的にはならないよう気を張っていたのだ。
ルカーシュがあまりにも熱心に言葉を紡ぐので、マリアンヌはルカーシュの熱を正面から受け止めてしまい、徐々に顔が赤くなっていくのを感じていた。
(こんなの、知らないわ…!)
マリアンヌは火照る顔も、高鳴る胸も、初めてのことにすっかり戸惑ってしまい、言葉をなくして立ち尽くしてしまう。
「マリアンヌ嬢、どうか、頷いてください。」
ルカーシュがさらに言葉を続けると、マリアンヌはどこか遠くに思考を置いてきてしまったような状態のままごくわずかに首を縦に振った。
マリアンヌは後で、ルカーシュが本当に良い条件の揃っている婚約相手だったと認識するのだが、このときのマリアンヌは、ルカーシュの上げてくれた条件を打算的に考えられないほど、頭が全く回っていなかった。ただ、こんなにも熱心に求めてくれるルカーシュに、理由もなく頷きたくなってしまったのだ。
「ありがとうございます!」
ルカーシュはそれを見るや否や、マリアンヌに熱烈に抱き着いた後、マリアンヌの腰に両手を添えてマリアンヌを持ちあげて、その場でくるくると回りだした。
「シュナイダー卿、降ろしてください!」
マリアンヌは思わずルカーシュの腕を叩いて止めさせると、後ろでガードンが渋い顔をして立っているのが見えてしまい、急に恥ずかしさが襲ってきた。
「突然お邪魔して申し訳ございません。私はルカーシュ・シュナイダーと申します。獣人の国の侯爵家の息子で、将来は侯爵位を継ぐことになっています。」
ルカーシュもガードンに気づくと、気に入られようと笑顔でガードンに握手を求めた。
ガードンは戸惑いながら手を重ねたが、美しい顔に見合わない騎士らしい固い掌に目を見張った。
「ガードン・キャンバーと申します。これは…一体どういうことなのでしょう?」
先ほど娘が突然婚約の契約書に署名を求めてきたと思ったら、玄関先で別の男、しかも大変見目麗しい獣人と一緒に居たのだ。ガードンは表情を変えなかったが、内心は疑問だらけで混乱していた。
ルカーシュは懇切丁寧にここに至るまでの経緯をガードンに説明すると、懐のうちから、婚約の契約書を取り出した。
「どうして持っているのですか!?」
ルカーシュが計算されたようなタイミングで出すので、マリアンヌは思わず声を上げてしまう。
「貴女という“つがい”が現れてからすぐ、こちらの書類は準備していたのです。これをお出しするタイミングはまだまだ先になると思っていましたが…、結果、こんなにも早くキャンバー伯爵に直接お渡しする機会が得られて幸甚でした。」
ルカーシュが晴れやかに笑うと、マリアンヌはまたまた顔を真っ赤にした。
先ほどから、マリアンヌはルカーシュに気持ちを乱されてばかりだ。
ガードンは初めて見るマリアンヌの様子を見て、少し悩んだ末に、書類に署名をした。
シュナイダー侯爵家のことをガードンは前から知っていたし、先ほどまで婚約させようとしていたロイヒャーよりも良さそうな嫁ぎ先が見つかったのだ。娘もまんざらではなさそうだし、この機会を逃すべきではないだろう。
「マリアンヌ嬢、キャンバー伯爵、本当にありがとうございます。」
ルカーシュが大げさに嬉しそうにするので、マリアンヌも思わず笑みを浮かべてしまう。
「もう婚約者になるのですから、堅苦しいのは止めましょう。私のことはマリーと呼んで。」
「ずっと、そう呼びたかったんだ、マリー。僕のことはルカと呼んでほしい。」
「ルカ、私は可愛げのない女だけれど…どうぞ末永くよろしくね。」
「僕にとっては君が世界一可愛いさ。絶対に幸せにするよ。」
「ありがとう。でも、幸せはふたりで掴むものよ。」
「君のそういうところが堪らなく好きだ。」
ふたりはガードンに見送られながら馬車に乗り込むと、その足ですぐに神殿へ向かい、婚約の契約書を届け出た。
こうして、ふたりはスピード婚約を成し遂げたのだった。
ふたりがサリバンの異能で獣人の国へ帰ると、色々な人が移転施設に集まっていた。
キャサリンにアルベルト、そしてルカーシュの親族に、あの発言をした女生徒の親族までいたのだ。“つがい”はマリアンヌが想像していたよりも獣人の中で大変な問題のようだ。マリアンヌは自分がルカーシュの“つがい”であったことを知らなかったとはいえ、迷惑をかけてしまったことを詫びた。
あの女生徒とその親族が顔を真っ青にして謝ってきたときは、思わずマリアンヌの方が悪いことをしたのではないかと思ってしまうほどだった。
また、ルカーシュの言うとおり、ルカーシュの親族は手放しでマリアンヌとの婚約を喜んだ。
「王女殿下にも、ご迷惑とご心配をおかけして申し訳ございませんでした。」
漸く一息ついたところで、マリアンヌはキャサリンに首を垂れた。
「良いのです。貴女が帰ってしまったことは驚きましたが、私はここに来た日からずっと、貴女がシュナイダー卿と結ばれると思っていましたから。貴女の幸せが一番嬉しいです。」
キャサリンは自分のことのようにマリアンヌのことを祝福した。
マリアンヌはキャサリンの言葉を受けて、感激したように瞳を潤ませる。
「恐れ入ります、王女殿下。私も、王女殿下の幸せが一番嬉しく思います。」
このふたりを少し離れたところで見守っていたルカーシュは少しつまらなそうに口を尖らせた。
「早く、私の幸せを一番に思ってほしいものです。」
「あのふたりの信頼関係じゃあ、難しいだろ。まぁ、嫌われない程度に頑張れよ。」
アルベルトはルカーシュの方を軽くたたくと、ひらりと手を振って護衛と共に帰っていった。
確かに、マリアンヌとキャサリンは、ルカーシュがマリアンヌと過ごした時間よりも圧倒的に多くの年月を共に過ごしているのだから、すぐに追いつくのは難しいだろう。
(男性だけではなく、女性にも嫉妬をしなければならないなんて、“つがい”とは難儀なものだな。)
ルカーシュはそう思うものの、その表情は穏やかだ。
これからふたりの思い出を誰よりも長く紡いでいこう、とルカーシュはマリアンヌの下へ足を向けた。
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嬉しい感想をありがとうございます。
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その際はどうぞよろしくお願いいたします( ꈍᴗꈍ)
面白かったです。
出来れば、モフっているストーリーを入れていただけると嬉しいです。
数多くある作品の中から御覧いただきありがとうございました!
連載の途中に飽きて、寄り道した作品でした笑
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