神殺しの剣

在江

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第二部 第三章 首都レグナエラ

2 喧々諤々

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 ソルピラスの妻メロスメリヌは、このところ毎日自室に篭り切りで、生まれてくる子のために用意された産着など身の回り品に、手ずから刺繍をほどこしていた。

 日常の用を足すのに不自由を感じるほど、腹も大分膨れてきている。取り上げ婆の見立てでは、産み月にはまだ少し余裕があった。

 彼女が刺繍に夢中になっていると、出し抜けに小間遣いが入ってきた。
 物音に驚いた彼女は、もう少しで道具を取り落とすところだった。叱ろうとして、小間遣いが強い緊張からか恐いくらい目を輝かせているのを見、彼女は道具を脇に置くだけで内心の怒りを押し込めた。

 激しい怒りや悲しみは、生まれてくる子によくない影響を与える、と聞いていたこともあった。

 「ベレニク、一体どうしたというの」

 そういうメロスメリヌの声には、くすぶった怒りが僅かに含まれていた。日頃から気の利かない、と形容されるベレニクは、彼女の怒りに気付いた様子がない。

 「陛下がお呼びだそうです」
 「わかりました。仕度をするから、誰か手伝いを呼んでおくれ」
 「申し訳ございません、妃殿下。ただ今他の者は手が空かず、それで私が参りました」

 申し訳ない、という言葉の割りには嬉しそうにベレニクは応じた。日頃任されない重要な仕事を扱うのが嬉しくてたまらない様子である。
 先ほどの強い目の輝きも、喜びを表していたのだ。

 メロスメリヌは、不自由な体に不慣れな小間遣いの手を借りて、手間取りながらもどうにか王の御前に出られるよう仕度を済ませた。ベレニクに手を引かれて部屋を出ると、王の使いが外で待ちわびていた。


 案内されたのは、メロスメリヌが予想したような広間ではなく、ソルマヌスが内々の用向きで使う小さな応接間であった。
 彼女を大きな長椅子に座らせると、王の使いは小間遣いを促して部屋の外へ出て行った。

 彼女はしばらく待たされた。
 部屋に入って来たソルマヌスは、ここ数日見ない間に急激に老け込んでいた。王はメロスメリヌに気付くと座ったままでよい、と身振りで示し、彼女の前に立った。
 夫のソルピラスによく似た王の目が、生真面目に彼女の目を捉える。

 「メロスメリヌよ。体の調子はどうかね」
 「お蔭様で、無事に過ごしております。お腹の子も順調に育っていると存じます」

 ソルマヌスはいつもと同じ質問をし、メロスメリヌも同じ答えを返した。いつもと違うのは、会話が交わされる場所である。
 不審を感じ取ったように、王は彼女の手を取った。ここで初めて、王の目が充血していることに、彼女は気付いた。

 「よいか、落ち着いて聞きなさい。そなたの夫であるソルピラスが戦死した。彼の遺言に従って、レグナエラの門を閉め、我々は立て篭もって敵と戦う」

 すうっとメロスメリヌの視界が暗くなった。ソルマヌスの叫び声が遠く聞こえた。どたばたという騒がしい物音、幾人かの人の声が厚い緞帳どんちょうへだてたようにくぐもって聞こえ、薄皮を剥がすように徐々に耳元へ近付いてきた。

 「妃殿下、メロスメリヌ妃殿下」

 耳元で声高に呼ばれ、メロスメリヌは重いまぶたを持ち上げた。先刻と同じ椅子の上に、仰向けに横たわっていた。
 ソルマヌスを始め、いつもの侍女など見慣れた人々が、深刻な表情で上から覗き込んでいる。耳元で怒鳴っていたのは、ベレニクだった。

 「もう平気よ。心配をかけたわね」

 メロスメリヌは笑顔を作ろうとして、上手く出来なかった。まだ、体のどこかがずきずきする。起き上がろうとすると、珍しくベレニクが器用に手助けしてくれた。
 椅子に起き直ったところで、彼女はソルマヌスに質問した。

 「私がすべきことをおっしゃってください」

 王はゆっくりと首を振った。

 「そなたはお腹の子を無事産んでくれればよい。ソルピラスの忘れ形見だ、心を落ち着けて、体を大事に保ってくれ」

 来た時とは対照的に大勢の手を借りて部屋へ戻ったメロスメリヌは、世話を焼こうとする周りの者達に、一人にして欲しいと告げた。

 夫の後を追って死ぬような真似をしない、とさんざん約束させられた後、ようやく一人になれると、メロスメリヌは両手を組んで祈りの姿勢をとった。

 「神々よ。私はソルピラス様の死を神々に願ったりなどしませんでした。何故ソルピラス様の命を召されたのでしょう。神々よ、どうかレグナエラをお救いください」

 切れ切れの声で祈りを捧げ、手を組んだまま、じっと頭を垂れていたが、弾かれたように顔を上げた。

 「神々よ、ソルペデス様が無事に戻られますように。ああ、どうか私をお許しください」

 言い終わるなり、手を解いてすたすたと部屋の入り口へ行き、ぱっと扉を開いた。色の黒い小間使いがびっくりして飛び退いた。

 「あの、メロスメリヌ妃殿下に万が一のことがないよう、お側についているよう言われまして。決して、聞き耳を立ててはおりません」

 小間使いの背後は薄暗い廊下が続くばかりで、彼女の失態を嗅ぎつけて、駆け寄る人の姿はなかった。メロスメリヌは意を決し、小間使いを部屋へ招き入れた。おどおどと命令に従う小間使いと、差し向かいに立つ。

 「ベレニク、何を見……痛っ」

 彼女は最後まで言葉を発することができなかった。両手で膨れた腹を押さえ、よろめきながら寄りかかる場所を探す。痛む腹を抱えても、うずくまることができない体型になっていた。
 ベレニクは呆然とその場に突っ立っていた。何とか体を預けられる場所まで辿りついたメロスメリヌの頭が持ち上がり、ベレニクを射る。

 「皆を呼んできなさい。生まれる!」
 「は、はい」

 普段のメロスメリヌからは想像もできないほど、強い眼光に射すくめられて、漸く小間使いはあたふたと部屋を駆け出して行った。



 王の首都レグナエラの南西にあるティコアを完全に、ではないが、一応包囲している形のレグナエラ軍は、メリディオンが攻撃してくるのを待ち構える状態であった。

 しかし、敵軍には打って出る気色がない。首都へ向かって南下しつつあるネオリアの情勢も気になるソルペデスは、内心苛立っていた。彼の前では、部下達が今後の進軍について激論を戦わせている。

 「敵が出るのを待たずとも、こちらから戦を仕掛ければ済むだろう。何で揉めるかな」

 他の二人を説得するのに疲れたのか、バラエナスはやや投げやりに見える。すっかりレグナエラ軍の参謀として納まっているエウドクシスは、初めから平静を保ったまま、根気よく自説を繰り返していた。

 「ここまで来たら、メリディオン軍はイナイゴスを欲しくなったのだろう。いくらでも外海から援軍を送り込めるからな。マエナ隊長を見捨てて、イナイゴスを敵に渡す訳にはいかない。先にイナイゴスへ兵を進めるべきだ」
 「お前、メリディオンはイナイゴスに行かない、と言っていただろう」

 最も意気が上がっているのは、デルフィニウスであった。彼はエウドクシスの以前の言葉を覚えていて、すかさず矛盾を指摘した。

 「現にアゲを経由したじゃないか。お蔭で流行り病にかかって人数も減ったし」
 「お蔭で、我が軍も若干痛手をこうむったぞ。軍を立て直すためにも、レグナエラへ戻るべきだろう」

 首都へ戻って兵力を補給すべきだ、というのがデルフィニウスの考えであった。戻っている間にイナイゴスを占領されたら戦局に影響する、というのがエウドクシスの説で、そもそもここで空論を戦わせるより今すぐ敵を叩き潰せ、というのがバラエナスの言い分であった。

 それぞれに理屈は通っている。ソルペデスとしても、決断を下すのが難しい局面であった。いよいよ議論が膠着こうちゃくし、三人が一斉に王子を見た。

 「どうしましょう、殿下」

 バラエナスが代表して尋ねる。集中する三対の視線をかわすように、ソルペデスは軽く咳払いした。

 「現在の兵力で、メリディオンに圧勝するのは難しい。それは皆、認識しているのだな」

 部下達がばらばらに肯定の意を示す。認識しているからこそ、貴重な兵力の扱いを巡って揉めるのである。王子は続けた。

 「首都に援軍を派遣する余力がないことも承知している。ただでさえ、ネオリアとメリディオンのために軍を二つに裂かねばならなかったのだ。そして今、兄上の率いる部隊は戦績思わしからず、ネオリアの勢いを押さえきれないようだ。ここで、我々が何のために戦うのか、考えてみよう。個々の目標はともかく、究極の目的はレグナエラの存続にある。領土の広さを競うのではない」

 部下達の表情が強張った。上司のいわんとするところを察したのである。ソルペデスは固く目を閉じた。閉じたまま、次の言葉を押し出した。

 「イナイゴス、そしてマエナには済まないと思う。我が軍は首都へ合流する」
 「マエナ隊長には、密かに使いを出して、脱出させるのはどうだろう」

 エウドクシスが重苦しい沈黙を破った。ソルペデスは目を開いた。同僚を見捨てずに済む方法が提案され、心なしかバラエナスやデルフィニウスがほっとしている様子であった。

 「イナイゴスの民を見捨てて、彼だけ逃げるだろうか」

 折角の提案であるが、ソルペデスは疑問を呈した。エウドクシスは答えを用意していた。

 「アゲの様子を見る限り、メリディオン軍の占領は住民を虐げるものではなさそうだ。イナイゴスが占領されても、何も知らない一般の住民は、そう酷い目に遭わないだろう。だけど、レグナエラ軍の幹部であるマエナ隊長は、メリディオン軍にとって役に立つ情報を沢山持っている。捕まったら、ただじゃ済まねえ、ということを隊長に言い聞かせれば、敢えてイナイゴスに踏み止まる理由はない筈だ」
 「ううむ」

 ソルペデスは返答しなかった。その時、首都との連絡を担当する兵士が駆け込んできた。

 「例の、烽火のろしが上がりましたっ」

 エウドクシスを除く一同の面にさっと陰が走った。ソルペデスは思わず立ち上がろうとして、かろうじて自己を押さえた。

 「わかった。元の持ち場へ戻れ」
 「例の烽火って、どういう意味だよ」

 元レグナエラの王であったエウドクシスには、その意味を推測することが容易であったものの、念のため誰にともなく訊いてみた。部下達は王子の顔色を窺った。

 「城門が閉ざされた」

 ソルペデスの顔色を読み取ったデルフィニウスが答えた。

 「恐らく」

 ソルペデスが口を開いた。その表情は仮面を被ったように強張っていた。開いた両眼は乾いて、どこに焦点を合わせているのか定かでない。

 「兄上が討ち死にされたのだろう。ネオリアが首都を攻めるのは時間の問題だ。我々は即刻レグナエラへ戻らねばなるまい。エウドクシス」

 ここで王子はエウドクシスに目を合わせた。視線は、相変わらず前髪を伸ばし放題にして顔を覆い隠すエウドクシスの、髪の覆いを突き破って奥まで届いた。

 「お前がマエナを説得して連れ戻してくれ。我々は先にレグナエラへ向かう」
 「よし。じゃあ、早速」

 エウドクシスは身軽にひょい、と立ち上がった。そして、隅に積まれた食料を勝手につまんで自分の袋に入れると、手を振って出て行った。
 残された人々は、力が抜けたように、暫く動けなかった。
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