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第二部 第一章 港町イナイゴス
8 人界開戦
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まだ、夜が開けるには早い時間であった。暗いうちから働く農夫が起き出すにまでにも、もう少し時間が必要であった。
暗い空には星々が瞬く。細い月の光に照らされた空気は、昼間の熱気が嘘のようにひんやりとしている。
カラカラカラ。
町外れに住む、眠りの浅い老人が目を覚ました。彼は、窓から外を覗いた。
夜道を、見慣れぬ一団が行進していた。手に手に得物を持っている。馬に跨る者、馬に牽かせた車、荷物を載せた馬、高位の人が乗るらしい馬車などが、次々と老人の家の前を通り過ぎて行った。
軍隊である。どこかの国が、レグナエラと戦うため、遠征してきたのだ。老人は軍の行進を終いまで見物せず、一層息をひそめ、そろそろと部屋の中へ引っ込んだ。
「大変だ。逃げなくては」
灯りも点けず、闇に慣れた目で荷物をまとめ始めた。
どっ、とときの声が起こったかと思うと、小さな町はネオリアの兵士達で溢れかえった。
トラサはレグナエラの北辺に当る。その北には、川で遮られた人気のない荒野の向こうに、昔地上を荒した怪物が変じたという草木も生えない岩の群があり、更に先には神々が住むといわれる聖なる山があるだけであった。
ネオリア軍はその向こうからやってきたのだ。都から警戒するよう連絡があったにもかかわらず、トラサ駐留軍は不意を突かれた恰好になった。
「隊長、大変です! ネオリア軍が攻めてきました!」
「騒ぐな! わかっとるわ!」
そもそも隊長は、自分の家で高鼾をかいていた。部下が命の危険を冒して知らせに来た時には、辺りにネオリアの兵士が獲物を求めてうようよしていたのである。
部下が知らせるより先に、隊長がネオリアの攻撃を知っていたのは当然であった。一方、隊長不在のレグナエラ軍は浮き足立っていた。
「ど、ど、どうすれば、いいんだ?」
「くそっ、隊長はまだか?」
「ええい、戦え、とにかく戦えっ!」
重い足音、馬に牽かせた戦車が走り回る音、鎧が擦れる音、弓弦が鳴る音、矢の飛ぶ音、棍棒が当る音、骨が砕ける音、人の悲鳴、何かが倒れる音、人の悲鳴、喚き声、赤ん坊の泣き声。
隊長は部隊へ辿りつく前に命を落とした。悲報は驚くべき早さで部隊に伝わり、指揮者を失ったレグナエラ軍はたちまち混乱に陥った。
「うわあああっ、隊長の仇!」
「うおおっ、もうだめだ、逃げよう」
「おりゃああっ、死ねえ!」
「ぐふうっ」
悲鳴が悲鳴が悲鳴が悲鳴が悲鳴が悲鳴が悲鳴が悲鳴が、響き渡る。
あっという間に、トラサのレグナエラ軍は壊滅した。
ネオリア軍は、余りの呆気なさに戦の勢いが止まらず、官民の区別なしに手当たり次第人々を殺していった。レグナエラ軍の倉庫にあった食料や財宝を始め、人々の僅かな蓄えまでも根こそぎ奪った。
若い少年、美しい女で生き残った者は、奴隷として連行された。汚されなかったのは、小さな日の御子の神殿だけであった。
自軍がやりたい放題暴れた挙句、馬の毛一本も残らぬほど荒廃した町を見て、ネオリア王子にして陸軍の大将であるクロルタスは眉を顰めた。
「少々、やり過ぎではないのか」
「道中長いですからな。手に入る時に食料などを仕入れておかねば、この先どんどん手強くなりますぞ、殿下」
部隊長のセルセスが言った。王子はため息をつき、セルセスに頷いてみせたが、浮かない顔であった。
「先駆け部隊はダティスに任せてあるのだな」
「然様です。まだ年若ながら、なかなかの実力者です、殿下」
ネオリア軍は漸く落ちついて、勝利の喜びに浸りながらも整然さを保ち町中を行軍していく。愁い顔の王子の目が、視界の端に神殿を捉えた。
「日の御子の神殿だな。まさかあそこまで汚した訳ではあるまいな」
「まさか、如何に興奮した兵士といえども、そこまでは」
セルセスの答えは、自信なさげであった。
クロルタス王子は、隊列を止めるよう命じた。伝令が走る。隊が止まるのを待たず、王子は列から離れて神殿へ向かった。慌てて側近が後を追う。
神殿はそこだけ綺麗に残っていた。固く閉ざされた扉の前に立ち、王子は大声で呼ばわった。
「ネオリアの王子クロルタスが、日の御子にご挨拶に参った。神殿の扉を開けよ」
扉の向こうはしん、としたままである。王子は待った。
やがて静かに扉が開き、司祭の恰好をした老人が出てきた。白い髭に覆われた顔は、こわばっていた。
「日の御子は血を好まれません。無辜の人々の血を吸った足を神殿へ踏み入れるならば、あなた方に大いなる禍が降るでしょう」
クロルタス王子は顔色一つ変えなかった。神殿の前に立った途端、先ほどまでの愁い顔とは打って変わり、堂々たる王者の顔になっていた。
「司祭殿の言われるのももっともだ。ただ今戦の途上ゆえ、斎戒沐浴の暇がない。ここから日の御子を拝することにする」
「ところで司祭殿は、我らがトラサを襲ったのを快く思われていないようだ。長年、この地の住人に慕われてきたのだから、それは自然な感情ではある」
「だが、日の御子が我らのするままにさせたことを思い出して欲しい。かつて日の御子が治めたとされるレグナエラといえど、不正があれば神々は神罰を下すであろう。我らの無事が、神意を表すと思わないか」
「神々は遅れて復讐するのです」
司祭の顔は強張ったままであった。それでも彼は、内部の神殿が王子にも見通せるよう、扉を大きく開いた。
「あなた方が日の御子に祈りたいならば、私に止める権利はありません。終わり次第、この地を速く立ち去ってください」
司祭は扉を開け放したまま、奥へ引っ込んだ。クロルタス王子はその場に跪いて祈った。ほの暗い神殿の内部には、天井から薄明かりが差し込んでいた。東の空が、白みがかってきていた。
メリディオンの王子メリファロスは、部下を従え目の前に現れた男をしげしげと眺めた。
ネオリア人らしく、部下共々立派な髭を生やしている。とはいえ、王子には実際のところ、レグナエラ人とネオリア人の区別はつかなかった。
「ネオリア軍大将のダリウスです。こちらはキルースとヒスタス、それぞれ部隊を受け持ちます」
連れてきた通訳がほぼ同時に訳す。メリファロスも自己紹介した。
「メリディオンの王子にして海軍大将のメリファロスです」
向こうも連れてきた通訳が同時に喋った。訳に耳を傾けていたダリウスの表情が、僅かに曇ったのをメリファロスは見逃さなかった。
「部下を連れてくるべきでしたか。後ろの船に乗るのは上陸部隊です。差し当たり用はないと思い、置いてきたのですが、ご懸念があればお連れします」
「いえ、その必要はありません。殿下が直々にいらしただけで充分です」
ダリウスは慌てて返答した。脇に侍していたキルースとヒスタスが、互いに目配せを交わしたのも、メリファロスは見逃さなかったが、今度は何も言わなかった。
メリファロスが自分の船へ戻ると、上陸部隊の大将ベルースが来ていた。
「どうでした、ダリウス王子は?」
「王子? 彼は王子とは名乗らなかったぞ」
ベルースは首を傾げ、ああ、と一人大きく頷いた。それから、辺りを憚るように誰もいない室内を見回し、頭を低く落とした。
「思い出しました。ネオリア王には、二人男子があり、ダリウス王子は側室の子なのです。後から正妃の子が生まれ、そちらが後継者になったため、ネオリアの習慣か何かで、ダリウス王子は王子を名乗れなくなったのでしょう」
「なるほど。面倒な奴と組むことになったな」
ベルースの小声に合わせ、自然王子の声も低くなった。
「ところで、上陸地点はイナイゴスでよろしいのですか」
話題を切り替えて、ベルースが姿勢を正し、声の大きさを元に戻した。王子も同じように声の大きさを元へ戻した。
「我々は、イナイゴスを目指して航行している。シュラボス島には立ち寄らない。向こうが仕掛けてこない限り、無駄な戦闘はしない予定だ。我々の目的は、あくまでも首都レグナエラにある」
ネオリアとメリディオンの連合艦隊は、レグナエラ王国本土の南海に浮かぶシュラボス島付近を航行中であった。ベルースは、窓から遠くに見える島影を指した。
「連中は、動く気配がなさそうですね」
「うむ。島々は、昔から独立の気風が強いからな。もしかしたら、命令を受けても動かないかもしれない」
メリファロスは、まるで長年シュラボス島を観察してきたかのような口調で言った。王子の言葉に応えるように、シュラボス島は静まり返っていた。海に浮かぶ大小の島々の間を、連合艦隊はしずしずと通り抜けた。
レグナエラの王宮では、ソルマヌス王が伝令の報告を受け顔色をなくしていた。
「トラサが陥ちたのか。早い。早過ぎる」
脇に控えるソルピラス王子が、王の代りに伝令に報告の続きを促した。こちらも聞くうちに落ちついた様子は失われ、渋面に変わった。浮かない表情は、居並ぶ大臣達も同じことであった。
「ふむ、サルムも時間の問題とな。今から応援を派遣しても、ネイクスを救うには間に合わない。ネオリアの連中は真っ直ぐに南下するだろう」
ぶつぶつと口に出して考えをまとめるソルペデスの小声を遮るように、王が勢いよく立ち上がった。居並ぶ大臣達の顔が、一斉に王へ向けられる。その顔はそれぞれ鶴の一声を求めていた。
「プラエディコ山の麓に兵を集めよ。カーンサス湾を越えさせるな」
王は脇に侍す王子に青白い顔を向けた。
「ソルピラス、お前が総指揮を取れ」
「はい」
王はそこで力尽きたかのように、椅子へ埋もれた。ソルピラスは大臣一人一人に、指示を与えた。与えられた大臣はすぐにその場を退出したが、指示待ちの大臣達は、額を寄せ合い、ひそひそと言葉を交わした。
「陛下は、疲れておいでのようだ」
「ソルペデス殿下がいらっしゃれば、ソルピラス殿下を首都へ残しておけたのに」
「しかし、メリディオンが攻めてくるのに、海岸線を放棄する訳にもいかないだろう」
ソルピラスは大臣達に指示を与えた後、妻メロスメリヌの部屋へ行った。例になく早い時間の訪問に、妻も暗い表情で出迎えた。人払いをし、王子は妻に告げた。
「出陣することになった。プラエディコ北麓の、ジークミオンで戦うことになるだろう」
「デーナエも、戦場になりますか」
王子はメロスメリヌを抱き寄せた。妻の体が一瞬強張り、そろそろと弛んだ。彼の腕の力は変わらなかった。妻の蜂蜜色をした豊富な髪を、宥めるように優しく撫でる。
「案ずるな。お前の故郷を戦場にはしない。それに、デーナエはプラエディコ山の中腹にある。万が一、我が軍が退却することになっても、プラエディコ山を拠点にはしない。ネオリア軍も、わざわざ山へ登ってまで町を征服しないだろう。彼等の狙いはあくまでもレグナエラだからな」
「ソルピラス様、どうぞご無事で」
メロスメリヌの声は消え入りそうであった。ソルピラスがつと妻を離し、その顔に手を掛けて仰向かせ、まじまじと見つめた。
「そう震えると、お腹の子に障るぞ」
王子は妻の唇に素早く接吻し、再び妻を抱き締めた。
「案ずるな。必ず戻る」
ソルピラスの胸に押し付けられている妻の顔色は、ますます悪くなっていた。彼女は固く目を閉じていた。
暗い空には星々が瞬く。細い月の光に照らされた空気は、昼間の熱気が嘘のようにひんやりとしている。
カラカラカラ。
町外れに住む、眠りの浅い老人が目を覚ました。彼は、窓から外を覗いた。
夜道を、見慣れぬ一団が行進していた。手に手に得物を持っている。馬に跨る者、馬に牽かせた車、荷物を載せた馬、高位の人が乗るらしい馬車などが、次々と老人の家の前を通り過ぎて行った。
軍隊である。どこかの国が、レグナエラと戦うため、遠征してきたのだ。老人は軍の行進を終いまで見物せず、一層息をひそめ、そろそろと部屋の中へ引っ込んだ。
「大変だ。逃げなくては」
灯りも点けず、闇に慣れた目で荷物をまとめ始めた。
どっ、とときの声が起こったかと思うと、小さな町はネオリアの兵士達で溢れかえった。
トラサはレグナエラの北辺に当る。その北には、川で遮られた人気のない荒野の向こうに、昔地上を荒した怪物が変じたという草木も生えない岩の群があり、更に先には神々が住むといわれる聖なる山があるだけであった。
ネオリア軍はその向こうからやってきたのだ。都から警戒するよう連絡があったにもかかわらず、トラサ駐留軍は不意を突かれた恰好になった。
「隊長、大変です! ネオリア軍が攻めてきました!」
「騒ぐな! わかっとるわ!」
そもそも隊長は、自分の家で高鼾をかいていた。部下が命の危険を冒して知らせに来た時には、辺りにネオリアの兵士が獲物を求めてうようよしていたのである。
部下が知らせるより先に、隊長がネオリアの攻撃を知っていたのは当然であった。一方、隊長不在のレグナエラ軍は浮き足立っていた。
「ど、ど、どうすれば、いいんだ?」
「くそっ、隊長はまだか?」
「ええい、戦え、とにかく戦えっ!」
重い足音、馬に牽かせた戦車が走り回る音、鎧が擦れる音、弓弦が鳴る音、矢の飛ぶ音、棍棒が当る音、骨が砕ける音、人の悲鳴、何かが倒れる音、人の悲鳴、喚き声、赤ん坊の泣き声。
隊長は部隊へ辿りつく前に命を落とした。悲報は驚くべき早さで部隊に伝わり、指揮者を失ったレグナエラ軍はたちまち混乱に陥った。
「うわあああっ、隊長の仇!」
「うおおっ、もうだめだ、逃げよう」
「おりゃああっ、死ねえ!」
「ぐふうっ」
悲鳴が悲鳴が悲鳴が悲鳴が悲鳴が悲鳴が悲鳴が悲鳴が、響き渡る。
あっという間に、トラサのレグナエラ軍は壊滅した。
ネオリア軍は、余りの呆気なさに戦の勢いが止まらず、官民の区別なしに手当たり次第人々を殺していった。レグナエラ軍の倉庫にあった食料や財宝を始め、人々の僅かな蓄えまでも根こそぎ奪った。
若い少年、美しい女で生き残った者は、奴隷として連行された。汚されなかったのは、小さな日の御子の神殿だけであった。
自軍がやりたい放題暴れた挙句、馬の毛一本も残らぬほど荒廃した町を見て、ネオリア王子にして陸軍の大将であるクロルタスは眉を顰めた。
「少々、やり過ぎではないのか」
「道中長いですからな。手に入る時に食料などを仕入れておかねば、この先どんどん手強くなりますぞ、殿下」
部隊長のセルセスが言った。王子はため息をつき、セルセスに頷いてみせたが、浮かない顔であった。
「先駆け部隊はダティスに任せてあるのだな」
「然様です。まだ年若ながら、なかなかの実力者です、殿下」
ネオリア軍は漸く落ちついて、勝利の喜びに浸りながらも整然さを保ち町中を行軍していく。愁い顔の王子の目が、視界の端に神殿を捉えた。
「日の御子の神殿だな。まさかあそこまで汚した訳ではあるまいな」
「まさか、如何に興奮した兵士といえども、そこまでは」
セルセスの答えは、自信なさげであった。
クロルタス王子は、隊列を止めるよう命じた。伝令が走る。隊が止まるのを待たず、王子は列から離れて神殿へ向かった。慌てて側近が後を追う。
神殿はそこだけ綺麗に残っていた。固く閉ざされた扉の前に立ち、王子は大声で呼ばわった。
「ネオリアの王子クロルタスが、日の御子にご挨拶に参った。神殿の扉を開けよ」
扉の向こうはしん、としたままである。王子は待った。
やがて静かに扉が開き、司祭の恰好をした老人が出てきた。白い髭に覆われた顔は、こわばっていた。
「日の御子は血を好まれません。無辜の人々の血を吸った足を神殿へ踏み入れるならば、あなた方に大いなる禍が降るでしょう」
クロルタス王子は顔色一つ変えなかった。神殿の前に立った途端、先ほどまでの愁い顔とは打って変わり、堂々たる王者の顔になっていた。
「司祭殿の言われるのももっともだ。ただ今戦の途上ゆえ、斎戒沐浴の暇がない。ここから日の御子を拝することにする」
「ところで司祭殿は、我らがトラサを襲ったのを快く思われていないようだ。長年、この地の住人に慕われてきたのだから、それは自然な感情ではある」
「だが、日の御子が我らのするままにさせたことを思い出して欲しい。かつて日の御子が治めたとされるレグナエラといえど、不正があれば神々は神罰を下すであろう。我らの無事が、神意を表すと思わないか」
「神々は遅れて復讐するのです」
司祭の顔は強張ったままであった。それでも彼は、内部の神殿が王子にも見通せるよう、扉を大きく開いた。
「あなた方が日の御子に祈りたいならば、私に止める権利はありません。終わり次第、この地を速く立ち去ってください」
司祭は扉を開け放したまま、奥へ引っ込んだ。クロルタス王子はその場に跪いて祈った。ほの暗い神殿の内部には、天井から薄明かりが差し込んでいた。東の空が、白みがかってきていた。
メリディオンの王子メリファロスは、部下を従え目の前に現れた男をしげしげと眺めた。
ネオリア人らしく、部下共々立派な髭を生やしている。とはいえ、王子には実際のところ、レグナエラ人とネオリア人の区別はつかなかった。
「ネオリア軍大将のダリウスです。こちらはキルースとヒスタス、それぞれ部隊を受け持ちます」
連れてきた通訳がほぼ同時に訳す。メリファロスも自己紹介した。
「メリディオンの王子にして海軍大将のメリファロスです」
向こうも連れてきた通訳が同時に喋った。訳に耳を傾けていたダリウスの表情が、僅かに曇ったのをメリファロスは見逃さなかった。
「部下を連れてくるべきでしたか。後ろの船に乗るのは上陸部隊です。差し当たり用はないと思い、置いてきたのですが、ご懸念があればお連れします」
「いえ、その必要はありません。殿下が直々にいらしただけで充分です」
ダリウスは慌てて返答した。脇に侍していたキルースとヒスタスが、互いに目配せを交わしたのも、メリファロスは見逃さなかったが、今度は何も言わなかった。
メリファロスが自分の船へ戻ると、上陸部隊の大将ベルースが来ていた。
「どうでした、ダリウス王子は?」
「王子? 彼は王子とは名乗らなかったぞ」
ベルースは首を傾げ、ああ、と一人大きく頷いた。それから、辺りを憚るように誰もいない室内を見回し、頭を低く落とした。
「思い出しました。ネオリア王には、二人男子があり、ダリウス王子は側室の子なのです。後から正妃の子が生まれ、そちらが後継者になったため、ネオリアの習慣か何かで、ダリウス王子は王子を名乗れなくなったのでしょう」
「なるほど。面倒な奴と組むことになったな」
ベルースの小声に合わせ、自然王子の声も低くなった。
「ところで、上陸地点はイナイゴスでよろしいのですか」
話題を切り替えて、ベルースが姿勢を正し、声の大きさを元に戻した。王子も同じように声の大きさを元へ戻した。
「我々は、イナイゴスを目指して航行している。シュラボス島には立ち寄らない。向こうが仕掛けてこない限り、無駄な戦闘はしない予定だ。我々の目的は、あくまでも首都レグナエラにある」
ネオリアとメリディオンの連合艦隊は、レグナエラ王国本土の南海に浮かぶシュラボス島付近を航行中であった。ベルースは、窓から遠くに見える島影を指した。
「連中は、動く気配がなさそうですね」
「うむ。島々は、昔から独立の気風が強いからな。もしかしたら、命令を受けても動かないかもしれない」
メリファロスは、まるで長年シュラボス島を観察してきたかのような口調で言った。王子の言葉に応えるように、シュラボス島は静まり返っていた。海に浮かぶ大小の島々の間を、連合艦隊はしずしずと通り抜けた。
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「トラサが陥ちたのか。早い。早過ぎる」
脇に控えるソルピラス王子が、王の代りに伝令に報告の続きを促した。こちらも聞くうちに落ちついた様子は失われ、渋面に変わった。浮かない表情は、居並ぶ大臣達も同じことであった。
「ふむ、サルムも時間の問題とな。今から応援を派遣しても、ネイクスを救うには間に合わない。ネオリアの連中は真っ直ぐに南下するだろう」
ぶつぶつと口に出して考えをまとめるソルペデスの小声を遮るように、王が勢いよく立ち上がった。居並ぶ大臣達の顔が、一斉に王へ向けられる。その顔はそれぞれ鶴の一声を求めていた。
「プラエディコ山の麓に兵を集めよ。カーンサス湾を越えさせるな」
王は脇に侍す王子に青白い顔を向けた。
「ソルピラス、お前が総指揮を取れ」
「はい」
王はそこで力尽きたかのように、椅子へ埋もれた。ソルピラスは大臣一人一人に、指示を与えた。与えられた大臣はすぐにその場を退出したが、指示待ちの大臣達は、額を寄せ合い、ひそひそと言葉を交わした。
「陛下は、疲れておいでのようだ」
「ソルペデス殿下がいらっしゃれば、ソルピラス殿下を首都へ残しておけたのに」
「しかし、メリディオンが攻めてくるのに、海岸線を放棄する訳にもいかないだろう」
ソルピラスは大臣達に指示を与えた後、妻メロスメリヌの部屋へ行った。例になく早い時間の訪問に、妻も暗い表情で出迎えた。人払いをし、王子は妻に告げた。
「出陣することになった。プラエディコ北麓の、ジークミオンで戦うことになるだろう」
「デーナエも、戦場になりますか」
王子はメロスメリヌを抱き寄せた。妻の体が一瞬強張り、そろそろと弛んだ。彼の腕の力は変わらなかった。妻の蜂蜜色をした豊富な髪を、宥めるように優しく撫でる。
「案ずるな。お前の故郷を戦場にはしない。それに、デーナエはプラエディコ山の中腹にある。万が一、我が軍が退却することになっても、プラエディコ山を拠点にはしない。ネオリア軍も、わざわざ山へ登ってまで町を征服しないだろう。彼等の狙いはあくまでもレグナエラだからな」
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だが気がつくと、生前読んだ漫画の貴族で悪役に転生していた!?タイトルは忘れてしまったし、ラストまで読むことは出来なかったけど…確かこのキャラは、家を勘当され追放されたんじゃなかったっけ?
でも…手足は自由に動くし、ご飯は美味しく食べられる。すうっと深呼吸することだって出来る!!追放ったって殺される訳でもなし、貴族じゃなくなっても問題ないよね?むしろ私、庶民の生活のほうが大歓迎!!
ただ…私が転生したこのキャラ、セレスタン・ラサーニュ。悪役令息、男だったよね?どこからどう見ても女の身体なんですが。上に無いはずのモノがあり、下にあるはずのアレが無いんですが!?どうなってんのよ!!?
1話目はシリアスな感じですが、最終的にはほのぼの目指します。
ずっと病弱だったが故に、目に映る全てのものが輝いて見えるセレスタン。自分が変われば世界も変わる、私は…自由だ!!!
主人公は最初のうちは卑屈だったりしますが、次第に前向きに成長します。それまで見守っていただければと!
愛され主人公のつもりですが、逆ハーレムはありません。逆ハー風味はある。男装主人公なので、側から見るとBLカップルです。
予告なく痛々しい、残酷な描写あり。
サブタイトルに◼️が付いている話はシリアスになりがち。
小説家になろうさんでも掲載しております。そっちのほうが先行公開中。後書きなんかで、ちょいちょいネタ挟んでます。よろしければご覧ください。
こちらでは僅かに加筆&話が増えてたりします。
本編完結。番外編を順次公開していきます。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!
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