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第一部 第二章 エウドクシスの大難
13 暗殺者と船泥棒
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縄をデリムに槍の穂先で断ち切ってもらい、俺は両腕を上げて全身伸びをした。
奴は俺の産毛一本触れることなく、一気に縄だけを切り裂いた。
双槍はいつの間にか剣ぐらいの長さに戻っており、木製らしい柄の部分にも刃にも血糊がついておらず、血曇りもなかった。
「人妻には気をつけるよう、忠告した筈だ」
「何で知っているんだよ」
「ここへ来る途中、空き家で女の死体を見つけた」
やはり、あの女は死んでしまったのだ。俺はがっかりするとともに、大事なことを思い出した。
「頭が残っているぞ。俺に毒を盛るために、宿へ取りに行くと言っていた。港の方まで行ったのなら、もう戻る頃じゃないか」
「では、その男にこの後始末をさせよう。いちいちレグナエラ兵に報告するのも面倒だからな」
レグナエラの役人とも思えぬ物言いをして、デリムは俺に荷物を手渡した。死んだ女のいた家に置き放してあったものである。
「だって、今日はレグナエラの詰所に泊るんだろう? ついでに言えばいいじゃないか」
「もう、ここでの用は済んだ。留まる理由はない」
奴は俺が待ち合わせ場所にいなかったので、神殿や詰所などを回って人々に警告してきたのだそうだ。
本当に山まで行ったのか怪しいものだが、こうして近くで見ると奴の小麦色の肌は白っぽく汚れていて、灰を被ったように見えなくもない。
めぼしい人々に警告をするのと、水浴びをしたかったのと、ついでに俺を探すのでここまで来たそうな。
豊満なシュラボス人の女と俺が話すところを見た人がいたのは、幸運だった。
「夜中に出航する船なんてないぜ」
デリムは黙って海を指差した。女の家へ入る前に見た、うち捨てられたボロ船があった。
「あんなの、動かねえよ」
「見なければわからぬ」
奴は本気だった。死体を跨いでずんずん海岸へ近付く。俺は必死で抵抗した。
「俺、船なんか操れないぜ」
「シュラボス島の人間なのに、か?」
奴の皮肉にも俺はめげなかった。
「きちんと手入れされた船ならともかく、人の手を離れた船はそのままじゃ動かないの。船の種類にもよるし、三段櫂船を考えればわかるだろ」
言い合っている間に船の側まで来た。
改めてしげしげと船を見て、俺はおやと思った。遠くから見ればただの廃船だが、こうして近くで観察すると、なんだかまだまだ動きそうな気がしたのである。
そもそも海に浮いている。錨が下ろしてあるのだ。
俺は足を波に浸しながら、折りよく垂れ下がっていた綱に掴まって船によじ登った。すぐ後からデリムも飛び乗ってきた。ただの筋肉野郎ではなく、敏捷でもある。
「この船、誰か持ち主がいるんじゃないか」
ざっと見て回って俺はデリムに言った。小型の帆船で、つい最近まで数人が乗船していたような形跡がある。帆は畳まれてわざと汚されているようであるが、広げてみると存外きれいだった。夜風を孕んで膨らむ帆は見ていて気持ちよかった。
「おーい、待てえ!」
海岸から声が聞こえた。デリムが素早く錨を上げ、櫂を漕ぎ始めた。俺は張り終えた帆の向きを咄嗟に変えた。船がぐん、と沖へ向けて動き出した。
「お前も漕げ」
「え、何で。船の持ち主だったら返さないとまずいじゃないか」
と返しつつ、つい言われるままに櫂を漕ぎ、後ろを振り向き納得した。
散らばる死体に躓き、よろけながら浜に駆け寄りつつあるのは、例の弟の気に入りだった。やはり港の方まで戻っていたので、遅くなったのだ。あの殺された女の家にでも毒を預けてあったのだろう。
とすると、この船は奴の船か。
「お前の死体を乗せて帰るつもりで、ここへ用意しておいたのかもしれぬ。一度殺し損ねているからな。死体を見なければ安心できぬだろう」
自然と、櫂を漕ぐ手が早くなった。例の召使は海へざぶざぶと入ってきた。船を停泊するような入江である。すぐに深さが変わる。がくん、と一度波に沈んだかと思うと、頭を出して泳ぎ始めた。逃げ切れるだろうか。
デリムが櫂を漕ぎながら、ぶつぶつ言い始めた。何を言っているのか、さっぱり聞き取れない。言い終わると同時に、いきなり突風が吹いて船をぐいぐいと押した。風の勢いで帆の向きが変わりそうになる。
俺は櫂を漕ぐのを止めて、帆を操ることに専念した。デリムも櫂から手を離した。一人で漕いでいても仕方がない。
突風のお蔭で、追っ手を振り切ることができた。振り切れたのはいいが、これでは俺達船盗人ではないか。でも、殺し屋の船をそいつから逃げ延びるために奪ったのだから、いいのか? 俺は習慣でほぼ無意識に帆を操りながらも、デリムに乗せられたような、今一つすっきりしない気持ちを持て余した。
夜空の星が瞬き、夜風が締めつけから解放された肌に心地よかった。船は追い風を受けて、快調にトリニ島の沖を進んでいた。
「ところで、何処へ行くんだ?」
船室を漁った戦利品の食料を頬張りながら、俺は尋ねた。
女に手料理をご馳走してもらう前に女をいただいてしまったので、結局腹には何も入れていなかった。
デリムは市場辺りで食事を済ませたのか、物欲しそうでもなく漫然と俺の食事風景を眺めている。
「プラエディコ山へ戻るために、可能ならばデーナエ付近まで川を遡りたいのだが、そこへ到達するまで距離があるゆえ、このまま西へ進んだ後、北へ進路を変えてグーデオン辺りへ入港するしかあるまいな。それまでには連絡がつけばよいのだが」
「誰と?」
「いや、こちらの話だ。お前は少し休めばよい。帆を操る程度なら、私にもできる」
俺は生干し蛸の足をわざと口からはみ出させたまま、胡乱そうにデリムを見た。奴は陸の人間である。さっきは確かに櫂を漕いでいたが、いくら小型の船だからといって、舵を任せてよいものだろうか。奴は俺の視線を読み違えて、こう付け加えた。
「もちろん、食事を終えてからでよい」
「当たり前だろう。そのぐらい判っている」
俺は不機嫌に応じた。何か奴に言いたい事がある筈なのだが、自分でもよくわからないのだ。
大体こいつは胡散臭い。ソリス王に仕える身でありながらその王を拐すし、冥王とやらにも仕えているみたいだし、やたら独り言を言うし……わざと時間をかけて蛸の足を噛みしめているうちに、俺は奴に言う事の一つを思いついた。
「お前、精霊と話ができるのか」
「う」
デリムが言葉に詰まったので、俺は意味もなく勢いづいた。
「お前、船の上でよく人目を避けてぶつぶつ独り言を言っていたじゃないか。俺は王家の血を引いていないから、精霊がこの世の中にいるなんて言われたって信じられないんだけど、本当にいるなら見せてもらいたいね」
「なるほど、シュラボス人と雖も、王家の血を引いていなければ見えぬのだな。お前には見えていないとは思っていたが、そういうことか」
奴は妙に納得した様子で独り頷き、生真面目な表情で俺の要求に応えた。
「もともと見えぬ人間に、精霊を見せることはできない。精霊が見えずとも生きるのに差し支えないのだから、信じたくないのならば信じなければよい。お前が精霊を見てみたいと考えていることは、覚えておこう」
長々と婉曲な言い回しながら、奴は精霊と話ができることを認めた。俺は自分で聞いておきながら驚いてしまった。
シュラボス島では、王家以外に精霊の言葉を話せる者はいないことになっている。レグナエラでは、こんな小役人でも精霊と話ができるとすれば、その国力は相当なものであろう。
俺は思ったことを口に出してみた。今度は奴が驚く番だった。
「レグナエラの役人ならば、誰でもという訳ではない。私が偶々話せるだけだ。ふむ、よいついでだから説明しておくが、グーデオンへ入港する前までに私が連絡をつけたいのも、お前の目に見えぬものなのだ。傍から見て頭がおかしいと思われるのも嫌なので、お前が眠るのを待とうと考えていたのだ」
「もうすでにおかしいと思っているから別に」
「何だと?」
「いや、何でもない」
やっと、デリムが俺を寝かしつけようとしていた事とその訳がわかり、俺はすっきりした。蛸も食い終わったし、奴が俺に眠っていて欲しいというのなら、眠ってやろうじゃないかという寛大な気持ちにもなった。
奴が帆を操れるというなら出来るのだろう。間違ったところで、この辺りには島も多いし、そう遠くまで流されることもあるまい。弟の追っ手は振り切ったし。
「わかったよ。じゃあ、お言葉に甘えて、俺は一眠りさせてもらうよ」
俺は奴を甲板に残し、素直に船室へ入った。
奴は俺の産毛一本触れることなく、一気に縄だけを切り裂いた。
双槍はいつの間にか剣ぐらいの長さに戻っており、木製らしい柄の部分にも刃にも血糊がついておらず、血曇りもなかった。
「人妻には気をつけるよう、忠告した筈だ」
「何で知っているんだよ」
「ここへ来る途中、空き家で女の死体を見つけた」
やはり、あの女は死んでしまったのだ。俺はがっかりするとともに、大事なことを思い出した。
「頭が残っているぞ。俺に毒を盛るために、宿へ取りに行くと言っていた。港の方まで行ったのなら、もう戻る頃じゃないか」
「では、その男にこの後始末をさせよう。いちいちレグナエラ兵に報告するのも面倒だからな」
レグナエラの役人とも思えぬ物言いをして、デリムは俺に荷物を手渡した。死んだ女のいた家に置き放してあったものである。
「だって、今日はレグナエラの詰所に泊るんだろう? ついでに言えばいいじゃないか」
「もう、ここでの用は済んだ。留まる理由はない」
奴は俺が待ち合わせ場所にいなかったので、神殿や詰所などを回って人々に警告してきたのだそうだ。
本当に山まで行ったのか怪しいものだが、こうして近くで見ると奴の小麦色の肌は白っぽく汚れていて、灰を被ったように見えなくもない。
めぼしい人々に警告をするのと、水浴びをしたかったのと、ついでに俺を探すのでここまで来たそうな。
豊満なシュラボス人の女と俺が話すところを見た人がいたのは、幸運だった。
「夜中に出航する船なんてないぜ」
デリムは黙って海を指差した。女の家へ入る前に見た、うち捨てられたボロ船があった。
「あんなの、動かねえよ」
「見なければわからぬ」
奴は本気だった。死体を跨いでずんずん海岸へ近付く。俺は必死で抵抗した。
「俺、船なんか操れないぜ」
「シュラボス島の人間なのに、か?」
奴の皮肉にも俺はめげなかった。
「きちんと手入れされた船ならともかく、人の手を離れた船はそのままじゃ動かないの。船の種類にもよるし、三段櫂船を考えればわかるだろ」
言い合っている間に船の側まで来た。
改めてしげしげと船を見て、俺はおやと思った。遠くから見ればただの廃船だが、こうして近くで観察すると、なんだかまだまだ動きそうな気がしたのである。
そもそも海に浮いている。錨が下ろしてあるのだ。
俺は足を波に浸しながら、折りよく垂れ下がっていた綱に掴まって船によじ登った。すぐ後からデリムも飛び乗ってきた。ただの筋肉野郎ではなく、敏捷でもある。
「この船、誰か持ち主がいるんじゃないか」
ざっと見て回って俺はデリムに言った。小型の帆船で、つい最近まで数人が乗船していたような形跡がある。帆は畳まれてわざと汚されているようであるが、広げてみると存外きれいだった。夜風を孕んで膨らむ帆は見ていて気持ちよかった。
「おーい、待てえ!」
海岸から声が聞こえた。デリムが素早く錨を上げ、櫂を漕ぎ始めた。俺は張り終えた帆の向きを咄嗟に変えた。船がぐん、と沖へ向けて動き出した。
「お前も漕げ」
「え、何で。船の持ち主だったら返さないとまずいじゃないか」
と返しつつ、つい言われるままに櫂を漕ぎ、後ろを振り向き納得した。
散らばる死体に躓き、よろけながら浜に駆け寄りつつあるのは、例の弟の気に入りだった。やはり港の方まで戻っていたので、遅くなったのだ。あの殺された女の家にでも毒を預けてあったのだろう。
とすると、この船は奴の船か。
「お前の死体を乗せて帰るつもりで、ここへ用意しておいたのかもしれぬ。一度殺し損ねているからな。死体を見なければ安心できぬだろう」
自然と、櫂を漕ぐ手が早くなった。例の召使は海へざぶざぶと入ってきた。船を停泊するような入江である。すぐに深さが変わる。がくん、と一度波に沈んだかと思うと、頭を出して泳ぎ始めた。逃げ切れるだろうか。
デリムが櫂を漕ぎながら、ぶつぶつ言い始めた。何を言っているのか、さっぱり聞き取れない。言い終わると同時に、いきなり突風が吹いて船をぐいぐいと押した。風の勢いで帆の向きが変わりそうになる。
俺は櫂を漕ぐのを止めて、帆を操ることに専念した。デリムも櫂から手を離した。一人で漕いでいても仕方がない。
突風のお蔭で、追っ手を振り切ることができた。振り切れたのはいいが、これでは俺達船盗人ではないか。でも、殺し屋の船をそいつから逃げ延びるために奪ったのだから、いいのか? 俺は習慣でほぼ無意識に帆を操りながらも、デリムに乗せられたような、今一つすっきりしない気持ちを持て余した。
夜空の星が瞬き、夜風が締めつけから解放された肌に心地よかった。船は追い風を受けて、快調にトリニ島の沖を進んでいた。
「ところで、何処へ行くんだ?」
船室を漁った戦利品の食料を頬張りながら、俺は尋ねた。
女に手料理をご馳走してもらう前に女をいただいてしまったので、結局腹には何も入れていなかった。
デリムは市場辺りで食事を済ませたのか、物欲しそうでもなく漫然と俺の食事風景を眺めている。
「プラエディコ山へ戻るために、可能ならばデーナエ付近まで川を遡りたいのだが、そこへ到達するまで距離があるゆえ、このまま西へ進んだ後、北へ進路を変えてグーデオン辺りへ入港するしかあるまいな。それまでには連絡がつけばよいのだが」
「誰と?」
「いや、こちらの話だ。お前は少し休めばよい。帆を操る程度なら、私にもできる」
俺は生干し蛸の足をわざと口からはみ出させたまま、胡乱そうにデリムを見た。奴は陸の人間である。さっきは確かに櫂を漕いでいたが、いくら小型の船だからといって、舵を任せてよいものだろうか。奴は俺の視線を読み違えて、こう付け加えた。
「もちろん、食事を終えてからでよい」
「当たり前だろう。そのぐらい判っている」
俺は不機嫌に応じた。何か奴に言いたい事がある筈なのだが、自分でもよくわからないのだ。
大体こいつは胡散臭い。ソリス王に仕える身でありながらその王を拐すし、冥王とやらにも仕えているみたいだし、やたら独り言を言うし……わざと時間をかけて蛸の足を噛みしめているうちに、俺は奴に言う事の一つを思いついた。
「お前、精霊と話ができるのか」
「う」
デリムが言葉に詰まったので、俺は意味もなく勢いづいた。
「お前、船の上でよく人目を避けてぶつぶつ独り言を言っていたじゃないか。俺は王家の血を引いていないから、精霊がこの世の中にいるなんて言われたって信じられないんだけど、本当にいるなら見せてもらいたいね」
「なるほど、シュラボス人と雖も、王家の血を引いていなければ見えぬのだな。お前には見えていないとは思っていたが、そういうことか」
奴は妙に納得した様子で独り頷き、生真面目な表情で俺の要求に応えた。
「もともと見えぬ人間に、精霊を見せることはできない。精霊が見えずとも生きるのに差し支えないのだから、信じたくないのならば信じなければよい。お前が精霊を見てみたいと考えていることは、覚えておこう」
長々と婉曲な言い回しながら、奴は精霊と話ができることを認めた。俺は自分で聞いておきながら驚いてしまった。
シュラボス島では、王家以外に精霊の言葉を話せる者はいないことになっている。レグナエラでは、こんな小役人でも精霊と話ができるとすれば、その国力は相当なものであろう。
俺は思ったことを口に出してみた。今度は奴が驚く番だった。
「レグナエラの役人ならば、誰でもという訳ではない。私が偶々話せるだけだ。ふむ、よいついでだから説明しておくが、グーデオンへ入港する前までに私が連絡をつけたいのも、お前の目に見えぬものなのだ。傍から見て頭がおかしいと思われるのも嫌なので、お前が眠るのを待とうと考えていたのだ」
「もうすでにおかしいと思っているから別に」
「何だと?」
「いや、何でもない」
やっと、デリムが俺を寝かしつけようとしていた事とその訳がわかり、俺はすっきりした。蛸も食い終わったし、奴が俺に眠っていて欲しいというのなら、眠ってやろうじゃないかという寛大な気持ちにもなった。
奴が帆を操れるというなら出来るのだろう。間違ったところで、この辺りには島も多いし、そう遠くまで流されることもあるまい。弟の追っ手は振り切ったし。
「わかったよ。じゃあ、お言葉に甘えて、俺は一眠りさせてもらうよ」
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