神殺しの剣

在江

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第一部 第二章 エウドクシスの大難

11 ティリの女

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 ティリの市場は、シュラボス島の市場を小さくした感じだった。
 レグナエラの大きな市場ばかり見てきた後では、貧弱に思うのは仕方がない。
 ティリは貝の漁場から発展した町とかで、港の辺りが一番賑わしく、市場も港に隣接した広場に立っていた。

 魚や貝など海産物の種類はさすがに多く、独特の臭気が市場の空気に溶け込んでいた。俺は小腹を満たす焼き貝などを摘みながら、市場をぶらぶらと一周した。

 小さな市場はすぐに見終わった。神殿でもあれば一応お参りするのだが、店の人に聞いた話では、さっき見た山の方の建物だけのようである。
 あそこまで往復するのは面倒だった。どうしようか、と俺は市場の端で考えあぐねた。

 「あの、もしかして、シュラボス島のエウドクシス様でいらっしゃいますか」

 後ろから、おずおずとした声がかかった。振り向くと、籠を手に提げた女が遠慮がちに俺を見ていた。
 頭に布を被っているが、挨拶代わりに小腰をかがめた拍子にずれて顔が見えた。シュラボス人らしい縮れた黒髪を長く垂らし、短い上着の端からは豊満な胸がはみ出ていた。俺が返事を躊躇いつつも、その胸から目が離せないでいると、女が聞きもしないのにくどくどと言い訳をした。

 「人違いでしたら、申し訳ございません。実はわたしの姉がエウドクシス様のお屋敷へ奉公しておりまして、あの、少しばかり目をかけていただいたものですから、わたしも姉からエウドクシス様の素晴らしさをいつも聞かされ羨ましく思っていたところ、ご立派なあなた様をお見掛けして、もしやと思い、声を掛けたのです」
 「如何にも、僕がエウドクシスです。あなたのお姉さんは何という名ですか」

 俺はいい気になって見知らぬ女に名乗りを上げた。女の挙げた名には心当りがなかったが、適当に誤魔化しておいた。きっと、一夜限りの相手をしたのだろう。女の姿形が俺好みであるところを見ると、姉の相手をした可能性は大いにあり得る。

 「あの、よろしかったら家でお食事でもなさいませんか。貧しいので大してご馳走もできませんが、夫が漁に出ておりまして女一人では不用心で、エウドクシス様のような方にいらしていただければ、心強いのです」

 幸運である。どうせデリムの奴は今日中に帰ってきやしないから、ついでに一晩過ごせばよかろう。
 この女なら、朝まで可愛がってやってもいい。俺は精一杯誠実そうな笑顔を作り、ではお邪魔しましょう、と言った。

 女は暴れる籠に気を取られ、渾身の俺の笑顔を見ていなかったが、返事は聞こえたらしく、嬉しそうに先立った。

 女の家は町の外れも外れにある小さな一軒家だった。
 元は小さな集落だったのか、同じような家がばらばらと建ってはいるが、ほとんどが空家のようだった。

 近くにある海岸には、うち捨てられたボロ船が斜めになっていた。女は恥ずかしそうに俺を家へ招き入れた。
 子どももいないようであった。一目で家全体が見渡せた。

 女は暴れる籠を台所へ置き、寝台に腰掛けさせられている俺の元へ戻ってきた。籠の中身は魚らしい。俺の側を通り過ぎる時に生臭い臭いが鼻を掠めた。

 「このようなあばら家で、さぞ驚きでしょうが、心からおもてなししますので、どうかお気を悪くなさらないでください。ただ今、料理を作ってお持ちします」

 女は俺のすぐ側に立っていた。触れなば落ちん風情である。道中暴れる籠にてこずり、上着の胸がはだけているのもそのままにしている。俺は女の手をそっと握った。

 「あれ、エウドクシス様。おたわむれを」

 言葉では逆らいつつ、女は握られた手を解こうとはしない。

 「あなたの姉も素晴らしかったが、あなたの方が魅力的に見える」
 「わたしの方が若くて経験も豊富ですわ。どうか比べてくださいな」

 女は早くも息を荒くして、俺に倒れ掛かってきた。豊満な女の胸が俺を圧迫した。俺達はしっかり抱き合ったまま、寝台に転がった。


 長い長い交渉の果てに、俺達は抱き合ったままぐったりと寝台に横たわっていた。女がなかなか離してくれなかったのだ。長い夏の日もさすがに暮れかかり、灯りのない家の中はほとんど暗闇だった。
 女が寝台の下を手探りした。快楽を貪って虚脱した俺の首筋に、短剣が突きつけられた。

 「どういうつもりだ」

 声で脅そうとしたつもりが、掠れ声しか出なかった。女はむしろ悲しげな顔をしていた。

 「あの方より素敵だったわ。あんなに気持ちよかったのは初めて。でも、あんたが死なないと、あの方が後継ぎになれないのよっ!」

 あの方? 聞き返す前に、短剣が首を切りつけた。焦って力が入り過ぎたのか、皮膚の上を滑った。女は慌てて、短剣を振り上げ、背中に刺した。まるで練習したように滑らかな動きだった。
 俺は避ける間もなく短剣を身に受けた、つもりだった。

 「きゃあああっ!」

 女はイニティカみたいな金切り声を上げた。
 その手から短剣が落ちた。
 からん、と乾いた音を立てたそれを、俺は体を起こして拾い上げた。

 根元から曲がっていた。女を見た。寝台で仰向けになったまま、丘に上がった魚のように手足をじたばたさせていた。恐怖で顔が引きつっていた。

 「ば、化け物! 殺さないで、お願い。頼まれた、だけなのよ!」

 俺が寝台から降りても、女は起き上がれない。腰が抜けている。俺のせいではなさそうだ。
 俺は曲がった短剣の刃を自分の腕に当てて切ってみた。砂を切るように凹むだけで、一向に切れなかった。
 こんななまくらで俺を殺そうとしたのだろうか。俺は短剣の刃を女に向けた。女の顔が更に恐怖に歪んだ。

 「止めてえ、頼まれただけなのよお!」
 「頼まれたって、誰に?」
 「イニ」

 びゅん、と矢が飛んできて、女の頬に刺さった。

 狭い家の入り口に、矢をつがえた男がいた。明白にシュラボス人であった。他にも背に武器を携えた人間が控えているのが見て取れた。

 俺は服を掴むと同時に曲がった短剣を反対側の手で握り、台所へ逃げた。どたばたと走り込む大勢の足音が起こる。
 台所には、もう静かになった籠の他、めぼしいものは何もなかった。
 兵士の詰所ほどにも道具がない。まるで生活の跡が感じられなかった。

 最初から仕組んでいやがったのか。その割には結構ヤらせてくれたものだ。俺も随分と堪能させてもらった。
 服を適当に巻き付け、台所の扉を開けて外へ飛び出した。そこにも武器を手にした男達が待ち構えていた。俺には武器がない。逃げよう。

 逃げ道は海しかなかった。
 俺は空家の間を必死になって走った。ごつごつした海岸が目の前に拓けてきた。追いつかれた。背後から切りつけられる。

 「死ね、エウドクシス!」
 「うわあああっ」

 俺は恥も外聞もなく悲鳴を上げた。野太い男の悲鳴が重なり、ぱきりと乾いた音がした。
 好奇心に負けて足を止め振り向くと、追いついた一団の先頭に立つ男が引きつった顔で俺の前の宙を見つめている。

 前に突き出している両手には、しっかりと剣の柄が握られており、剣先は折れて浜に落ちていた。俺は折れた剣先を拾い上げ、呆然と突っ立っている男の首筋に叩きつけた。

 「ぎゃあああっ!」

 盛大に血飛沫ちしぶきが噴き出した。男も盛大な悲鳴を上げながら倒れた。
 男の悲鳴で、事態の推移を見守っていた男達が目覚めたように動き出し、素早く左右に散らばり俺を取り囲んだ。
 俺の武器は曲がった短剣だけである。ないよりましだ、と倒れた男が握っていた柄だけの剣ももぎ取った。

 ひゅん、と耳元を矢が掠めた。俺は弓矢の男を睨みつけ、柄だけの剣を投げつけた。折れ口がちょうど顔面に当り、男は弓矢を取り落とした。
 まるでそれが合図だったように、一斉に男共が襲いかかってきた。相手は俺一人だ。かちかちと味方同士の剣がぶつかる。

 「離れろ、二、三人ずつかかれ!」

 誰かが怒鳴った。その時には俺は奴らの刃の下をくぐり抜けて、外側にいた。
 町場へ逃げたら、誰か助けてくれるだろうか。巡回中のレグナエラ兵なら、助けてくれるかもしれない。

 頭ではそう考えながら、足は敵のいない反対方向へ進む。多勢に無勢。足の速い奴に追いつかれ、またも背中から切りつけられる。
 刃が押しつけられ、押し下げられる感触を肌にはっきりと感じた。膝から力が抜け、手から曲がった短剣が落ちる。もうだめだ、どこのどいつだ、俺を殺すのは。首だけ捻じ曲げて後ろを見た。

 夕闇の中、シュラボス人の男が勝ち誇って剣を振り上げていた。その顔に見覚えはない。
 男は仰向けに倒れた俺の上に馬乗りになり、両手で逆さに握り直した剣を俺の胸に突き刺した。

 ぱきぱきぱき。

 俺達は顔を見合わせた。剣は胸に当る側から枯れ枝のように折れた。俺の胸には根元まで刃が折れた柄が当っている。男の顔に恐怖が染みてきた。

 「うわあああ、化け物!」

 男は飛び退いた。俺は起き上がった。そう言えば背中も痛くない。片手で探ってみたが、服が切れているだけで出血はしていなかった。何だか知らんが、どうも俺はこいつらの剣では切れないようだ。
 それなら、町場へ逃げた方がいいに決まっている。

 飛び退いた男の後から、他の奴らが追いついて来ていた。武器も持たずに逃げ出そうとしている男を、不思議そうに一瞥しながらも、すぐに俺に焦点を合わせてそれぞれの得物を構える。
 俺は、勢いをつけて奴らに向かって素手で突進した。中央突破だ。
 敵が驚いたように一瞬引いたのを幸い、無理矢理相手の陣中へ飛び込んだ。

 敵もさるもの、すぐに体勢を立て直した。前後左右から剣や棍棒が突き出され、降りかかる。的中した武器はことごとく砕けた。さすがに敵も異常を感じたらしい。

 「何だこいつは?」

 戸惑いのざわめきが広がった。それでも俺の包囲を解こうとはしない。敵方も相当武器を失っているにもかかわらず、俺はまだ敵陣を突破できないでいた。士気の高さは、ただの盗賊ではないことを物語っていた。こいつらはどうして俺を狙うんだ?

 「こいつには異人の血が流れている。純正のシュラボス人ではない。あの魔性の異人の血が怪物を生んだのだ」

 後ろでまだ武器を構えている連中の誰かが言った。微かに聞き覚えのある声だった。そうだ、そうだ、という声が男どもの間で呼応した。俺の頭がすうっと冷えた。それからたちまち頭に血が上った。頭がくらくらした。

 「母を悪く言うのは止めろ!」

 俺は近くにいた男に殴りかかった。男はするりと逃げた。また別の男が出てきて包囲の壁を作った。

 「シュラボス人でもない奴が俺達の上に立つのは許されない。武器で殺せないのなら、捕えろ! 毒なら効くかもしれん」

 たくさんの手が俺に伸びた。俺は両手をぐるぐる回して振り払った。次から次へと手は伸びてくる。
 足は一向に進まない。相手の武器を奪おうにも、奴らの武器は俺の体に当って失われていた。誰かが足を引っ掛け、俺は転んだ。
 奴らは次から次へと体を投げ出してきた。重い。遂に俺は奴らの下敷きになって、身動きが取れなくなった。
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