神殺しの剣

在江

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第一部 第一章 エウドクシスの哀歓

1 後妻の罠

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 突然 怪物たちは現れた
 我が物顔にどかどかと
 家々も人々も踏み潰し
 この世のものを食い尽くす


 「今宵、父上は宴会に出席されます。また、エウドクシス様の楽しいお話を聞いて寂しさを紛らわせたいものですわ。是非、この間と同じようにあたくしの寝室までお出でくださいませ」

 すれ違いざま、イニティカは囁いた。手入れの行き届いた艶やかな黒髪が、後ろ髪を引かれるように靡くほど素早く、彼女は去った。
 薄物の上から透けて見える豊かな乳房が、鮮やかな残像となった。

 俺は生唾を飲み込むと同時に頷くのが精一杯だった。イニティカは親父の後妻で、弟たちの母親でもある。俺とは十歳も違わないから、義母というよりも年の離れた姉のような存在であった。

 であった、というのは、今は親父の目を盗んで密会する間柄となったためである。
 年上の女好きを自認する俺でも、さすがに親父の女に手を出すつもりはなかったのだが、向こうから熟練した手管で誘惑されては逆らえなかった。

 親父は俺のような息子がいるだけの年輪を重ねているし、役目柄、留守がちでもある。一方イニティカは若く精力に溢れているが、権力者の妻に手を出そうという命知らずはまず見当たらない。
 遅かれ早かれ目をつけられる事になっていたのだろう。

 俺とて悪い事だと承知しているから、一夜限りと己に言い聞かせて、俺から流し目をくれたり、誘いをかけることはしなかった。イニティカも誘う素振りを見せなかったので、今の言葉には正直なところ、耳を疑った。

 確かに今日、親父は宮廷の重要な集まりに出席していた。例によって夜通し宴会が催されるから、朝まで帰ってこないだろう。
 近頃、見たこともない怪物たちが近隣に出回って家作を荒すので、善後策を協議しに行ったのだ。弟たちは最早母親の手を離れてそれぞれの部屋で休んでいる。母親はさぞかし暇を持て余しているのだろう。

 いくら誘われたからといって、そう頻繁に会うのもどうかと思ったが、結局のところ俺にはイニティカに逆らえないことがわかっていた。


 シュラボス島の地下には、死者の世界を支配する冥王が住んでいると伝えられる。実際には死者の世界は地上と同じぐらい広い。冥王は地下の何処にでも住んでいると言える。シュラボスの伝説も、あながち間違いではない。

 冥王は、己の子である死の神を呼び出した。冥王は漆黒の髪に漆黒の肌、漆黒の鎧をまとい地下の闇に溶け込んでいる。ただ漆黒の瞳が時折緑色に光るので、その所在が知れるのであった。闇の中にひざまずく死の神を立たせ、冥王は用件を切り出した。


 「近頃、正体不明の生き物が地上を徘徊はいかいしている」
 「冥王でも正体がわからないのですか」

 死の神が尋ねた。死の神の姿も闇に溶け込んでいる。冥王の緑色に光る両眼が僅かに上下した。

 「うむ。寿命がわからぬ。生き物ではないのかもしれぬ」
 「天の御方は何と仰せられましたか」
 「あの方は世界に偏在している。我らとは異なる存在ゆえに、意思の疎通を図ることは困難だ。いずれ何らかの意思を示されるかもしれぬ。だが、それまで待てぬ。その生き物は地上を荒し、冥界にも影響を及ぼしている。死の神よ、一つ調べてもらえぬか」
 「承ります」

 死の神が再び跪き、冥王の緑色の目は閉じられた。死の神は立ち上がり、闇色の布を纏い地上に出た。
 地上は春真っ盛りで、小鳥がさえずり、新しい芽吹きが鮮やかな緑の絨毯となり、地表を覆っていた。
 辺りは平和そのもので、冥王が話していた怪物は見当たらない。

 死の神は山の戴きに登った。天に近い場所には、生命の息吹は見られなかった。人も小鳥も動物もいない。死の神は全身を覆っていた闇色の布を取り去った。闇は死の神の足元に蟠り、代りに漆黒の長い髪が風に呷られて神の全身を包んだ。
 漆黒の髪の間から、磨かれた大理石のような白い腕が伸ばされた。腕は向こう側の景色が透けてみえそうな透明感を持ち、白というよりもむしろ青白かった。

 「空にいるもの、風を司るものよ。汝の存在を知る死の神が命じる。風の勾玉を持つアウラエよ、我が元へ来れ」

 死の神は青白い両腕を天に向かって差し伸べたまま、暫くじっとしていた。空は変化しなかった。風の中で舞う僅かな精霊たちは、死の神を恐れて近付こうとしなかった。遂に死の神は腕を下ろし、闇色の布を纏った。
 山のいただきからも、怪物の姿は見えなかった。


 夜が待ち遠しかった。

 俺は食事も上の空で何時の間にか済ませていた。
 一日流した汗を浴室で清めた後は、いつもより念入りに脂を肌に擦り込み、前髪もきちんと固めて耳元から綺麗なウエーヴを描いて胸元まで垂れ下がるように整えた。後ろへ持っていった残りの髪も念入りに整えた。
 茶色がかった髪でも、これならば少しは見栄えするように思われた。

 本当は、気に入りの首飾りや腕輪や頭飾りを使って全身豪華に仕立てたいのだが、歩く度にじゃらじゃらと音が煩いので、そこは我慢して代りにとっておきの服を腰に巻く。

 イニティカの部屋へ行く支度を整えた俺は、全身を見下ろして物足りなく感じた。やはり何か飾り物がないと、寂しすぎた。考えた末、両腕に帯状の腕輪を一つずつと、やはり帯状の首飾りを一つ着けることにした。これならば気をつけて歩けば騒がしくないだろう。

 あれこれ思案しているうちに、夜も更けてきた。片付けをしている召使達の動きが徐々に鎮まる。人々の足音や、ざわめき、物を動かす音が消えるのに反比例して、俺の心は高鳴った。暗闇でじっと耳を澄ますことに耐え切れなくなり、俺は静かに扉を開けて外の様子を窺った。扉の外も真っ暗だ。念を入れて耳を澄ます。召使達も、もう寝室へ引き取ったらしかった。

 意を決し部屋から出た。イニティカの寝室へ向けて足を踏み出す。この先、誰に会っても言い逃れは出来ない。
 慎重に歩く俺の耳に、心臓の音がどくどくと響く。召使に聞き咎められやしないかと緊張し、余計に心臓が暴れ出した。
 無意識に作った握り拳を開くと、掌が汗ばんでいた。歩みを止めて呼吸を整え、更に耳を澄ます。誰の足音も聞こえなかった。少し落ちついた。幸い、誰にも会わずにイニティカの部屋まで辿りついた。もう半分がた、気力を使い果たしていた。

 イニティカの部屋にも灯りは点いていなかった。彼女は寝台の上で半身を起こしており、俺が入っていくと物憂げな顔を向け、口を利くなと身振りで示した。
 俺は閉めた扉の内側に貼り付いたまま、それ以上中へ入るのを躊躇った。

 イニティカは寝具を剥いだ。暗闇の中でも彼女が一糸も纏っていないのが見て取れた。俺は吸い寄せられるように寝台へ近付いた。
 輪郭がはっきりしてきた。黒い瞳が濡れて光り、唇が僅かに割れた隙間から白い歯が覗いている。
 すっきりとした喉の下には、三人の弟達に栄養を与えた豊満な乳房が丸々として重たげに二つ並ぶ。誘っている。
 使い果たしていた筈の気力がみるみる回復するのを感じ、敢えて高ぶりを抑えながら俺は寝台に手をかけた。

 「きゃあああぁっ!」

 俺は何が起こったのか、わからなかった。
 どどどどっ、と降って湧いたような人の足音がした。

 さっと扉が開き、眩しい光がイニティカの部屋を照らし、振り向いた俺の目を射る。
 灯りを手にした人々の影が逆光で黒々と見える。その中で、宮廷の宴会にいる筈の親父の姿だけが、何故かくっきりと判別できた。親父の顔は、引きつっていた。
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