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第四章 富百合

7 バレンタインに期待してしまった

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 「冗談だろう」

 「冗談ではありません。真面目にお伺いします。ユーキ様は、磯川霞いそかわかすみとお付き合いしたいと、お考えですか」

 「そんな急に聞かれても。同級生としか、思ったことないし。しかも、磯川が陰でそういうことをしていた、と聞いたら、余計に付き合う気になれない」

 「今のは私の推測に過ぎません。磯川は、濡れ衣を着せられているかもしれないのです。そうしたら、お付き合いなさいますか」

 エイミは霞に同情的な口調に切り替えた。俺はその口調の完璧さに、反感を覚えた。

 「だめだめ。室越の親友とは、付き合えない」

 棗の部屋で、二人きりで話をした時のことを思い出した。
 もしかしたら、棗は霞が俺のことを好きなことを知っていたために、告白できなかったのかもしれない、と考えついた。

 俺はあれが客観的には妄想で片付けられることを理解していたが、それでも、あの時棗に言われたことは真実だった、と信じていた。

 「そうですか。では今後、そのつもりで対処します」

 俺の反応に合わせたのか、エイミの口調がまた変化した。ころころ口調を変えられると、信用ならない人間に思えてくる。だが一応は、俺のために動いている筈、なのだ。

 「対処って、どう対処するんだよ」

 「機会があれば、警察に突き出すのが安心ですね。ああいうタイプは、誠実に対応しても放置しても、言動がエスカレートする傾向にあります」

 平然とした顔で、人情のかけらもない発言をする。俺には霞が警察に突き出されるほど、ひどい行動をするとは思えなかった。


 2次試験の受験票が、無事に届いた。本当に1次試験を突破できたのだ、と実感する。
 フタケもコトリも、足切りを免れた、と聞いた。

 私立大学の入試が始まり、予備校へ出てくる人数は、さらに減っていた。俺は国立大一本であるが、フタケは国立大の他に私大も受験する、と言っていた。

 コトリはここの国立大が本命で、あとは法学部のある県内の大学を、片端から受けると言う。故郷の隣県にも総合大学があり、両親は滑り止めにそちらの大学を受験させるつもりだったらしいが、コトリは雪と交際を続けるため、市内の大学にぜひとも進学したいのである。

 「離れるとどこかへ行ってしまいそうで、心配なんだ」

 雪はどこへも行きそうにない、と俺は思うのだが、コトリが真剣に言うのをからかいはしなかった。


 2月に入ると、チョコレートの広告がむやみと目につく。

 地下鉄の吊り広告にも、女性向け雑誌の特集で「初めての手作りチョコ」「オリジナルチョコで彼氏のハートをゲット」「ワインと合う高級ショコラでライバルに差をつける」とチョコレート絡みの見出しが躍る。
 2月14日はバレンタインデーだ、と否応なしに認識させられる。

 俺は富百合を思い出した。正月の短期集中講座が終わって以来、一度も連絡がない。俺に住所と電話番号を聞いたのは、もしかしたらバレンタインにお礼のチョコを贈ってくれるのかもしれない、と思い当たって胸がときめいた。

 そんな折り、家から小包が届いた。開けてみると、缶詰や漬け物と共に、高そうな箱入りチョコレートが入っていた。手紙までついている。

 読む限り、母は完全に諦めた訳ではないようである。

 それでも、受験を邪魔されることはなさそうだと分かって、俺はほっとした。早速チョコレートの箱に手をかける。バレンタイン用の包装でなかったら、大き過ぎてお歳暮を流用したのかと思ってしまう。

 開けると、2段重ねで様々な色形の大粒チョコが、升目ますめ状にぎっしり詰まっていた。

 傷むものでもなし、冷蔵庫に入れて少しずつ食べよう。俺は早速1粒つまみ食いして、チョコレートの箱を冷蔵庫にしまい、漬け物などの比較的傷みやすい物と缶詰を選り分けた。俺だって、そのぐらいの判断はできる。

 夕飯の時間には早いが、母から届いた荷物を持って、エイミの部屋へ持っていくことにした。
 年明けからは、休みの日にも夕食を一緒に取るようになっていた。

 今は受験前だから仕方ない、と自分に言い聞かせている。エイミも同じ立場であることは意識の外へ追いやるようにしていた。大学へ進学したら自炊するつもりである。

 「すみません。まだ仕度が整っていないんです」

 エイミはエプロンに包丁を持ったまま、玄関に出て応対した。もし不審人物の訪問だったら、その包丁で脅すつもりだったことは、明白である。

 「こっちが早く来たのだから、気にしなくていいよ。上がって待たせてもらってもいいかな。お袋が食べ物を送ってきたから、持ってきた」

 「ありがとうございます。どうぞ、お上がりください」

 部屋の中は甘いのとだし汁の入り交じったような、変わった匂いが漂っていた。エイミの部屋に上がり込んだところで、何の暇潰しにもならない。

 薄暗く感じて、部屋の電気を点けた。その辺に置くように言われた漬け物その他を、冷蔵庫にしまう。もう、勝手知ったる何とか、である。

 扉を開けると、大きなトレイの中に、直径3cm程度の丸い物体が、整然と間をおいて並んでいるのが、透明なラップ越しに見えた。

 「何これ? 丸い奴」
 「トリュフです」

 エイミは鍋の蓋を取って中を覗き、また包丁作業に戻った。

 「トリュフって何だっけ」

 「フォアグラ、キャビアと並ぶ世界三大珍味の一つです。フォアグラは鵞鳥ガチョウの肝臓、キャビアはチョウザメの卵、トリュフは松露しょうろとも呼ばれるキノコですが、冷蔵庫に入っている物はチョコレートです。キノコのトリュフと形が似ているので、同じように呼ばれているようです」

 受験生らしくすらすらと答えが返ってきたが、まず試験には出ない。

 もしかしたら、私大の地理辺りならば、図のdは世界三大珍味の一つとして有名な農産物が獲れる地域であるが、ここの輸出品目に関するグラフを下記ア~オより選べ、などと出題されるかもしれない。そのチョコレートは、俺に食べさせるために作ったのだろうか。

 「俺、お袋から、すごくたくさんチョコレートを送ってもらったんだ」

 「ご心配なく。そのトリュフはフタミに送るものです。ここ1年世話をかけたので」

 さりげなく要らない、とアピールしたつもりが、とんだ肩すかしを食らった。

 そうなると、却って食べたくなるのが人情である。
 母から貰ったチョコレートの中にトリュフがあるか不明だし、冷蔵庫の中身はエイミが手作りした物のようである。
 エイミが洋菓子を作るのを、初めて見た。

 「1個食べてもいい?」
 「だめです」

 エイミはフライパンで肉を炒め、切った野菜を追加した。よそ見をしては危険だからであろう、ということはわかっているものの、俺を見向きもしないのが、冷たく感じられる。

 「1個ぐらいいいだろう。あんなにあるんだから」
 「ユーキ様は、先ほどお館様からたくさんチョコレートをいただいた、と仰ったではありませんか。それだけあれば充分でしょう」

 塩こしょうを振りかけて、火を止める。鍋の火も止める。皿を出して、盛りつけを始めた。
 話の接ぎ穂に俺が手伝おうにも、入る隙がない。ただ、隣に立ってぼうっと手際てぎわを眺めているだけである。

 「あれ、アオヤギが作ったんだろう。誰か味見した方がいいと思うぞ」

 顔を覗き込むようにして言った。エイミが、俺を見た。

 「必要ありません。もし勝手に味見なさったら、磯川霞の応援に付きますよ」
 「げ」

 眼鏡の奥の目は、本気を表していた。俺が声を漏らしたのは、エイミの迫力もさることながら、ベランダに張り付くようにしている人影に、気付いたからでもあった。

 そいつは、レースのカーテンの向こうから部屋を覗いていたのだが、合わせ目の隙間から、べったりとガラス戸にくっついた手のひらが俺に見えたので、存在に気付くことができたのだ。
 部屋の電気をつけたせいで、中から外は反射でほぼ見えなくなっていた。

 すぐ異変に気付いたエイミは、くるりと向きを変え、ベランダへ突進した。

 間髪入れずレースのカーテンごとガラス戸を開け、身を乗り出したが、そこまでだった。

 「だめだ。見失った。暗すぎる」

 外の冷気が部屋に吹き込む。俺は身震いした。

 エイミはしばらく外の様子をじっと観察していたが、やがてガラス戸を閉めた。
 カーテンは、きっちり二重に引いた。

 「ぬかりました。電気をつけた時点でカーテンを全て引いておくべきでした。誰か分かりましたか」

 俺は首を振った。その後、夕飯を食べる前に戸締まりを確認するため、一緒に自室へ戻って点検してみたが、おかしなところは見つからなかった。

 結局俺はトリュフを1個食べさせてもらうことに成功した。

 エイミはいくつか種類を作ったのであるが、食べたのはトリュフそのものに似たチョコレート色の丸い物であった。異なる種類のチョコレートが二層になっていて、周りにココアがまぶしてある。

 口の中で溶ける感覚が目新しく、美味しいことは美味しかったが、期待していたほど劇的ではなかった。期待し過ぎたのかもしれない。

 「だから味見なさる必要はない、と申し上げたのです」

 俺の顔色を読んで、エイミが言った。
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