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第四章 富百合

3 さすがに勉強した

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 背後から泣きそうな声が聞こえた。俺は、その声を、無視することができなかった。
 振り向くと、富百合が涙をこらえて見上げていた。眼鏡はずり落ちたままである。

 「あの、今日はいろいろとご迷惑をかけて、済みませんでした。どうか、話を聞いてもらえませんか」

 俺は後ろ向きに座り直した。富百合は横を向いて、素早くハンカチを目に押し当て、深呼吸した。

 「あの、先輩と呼ばれるのは嫌でしょうか」
 「別にいいよ。実際、年上だし」

 良い訳がない。あきらめの境地きょうちだった。富百合の表情が少し緩んだ。

 「そうしたら、フジノ先輩って呼ばせてちょう。先輩って、本当に、あの外山とび先輩とそっくりなんです」

 富百合が眼鏡を外した。正面から間近に見た顔は、とびきり可愛らしかった。
 しかも、服装も髪型も、俺好みであった。たちまち俺は、今日一日の、富百合による数々の迷惑を、許した。

 外山は富百合の高校の先輩で、富百合が目指す大学に現役で進学したのだそうである。

 彼が卒業する時に、富百合が思いを告白して付き合うことになったのだが、夏休み明けごろから大学の試験で向こううが忙しくなり、そのうち富百合の受験が近くなってきたから、という理由で、もうずっと会っていないのだそうである。

 俺は、フタケが、高校3年生の女の子と別れるときに使った口実を、思い出した。

 その外山というのは、富百合と別れたつもりなのだろう。まさか、同じ大学に進学するとまでは思うまい。
 しかし、目の前にいる可愛らしい富百合に、そのかなり確実な推測を告げることは、俺にはできなかった。

 外山に捨てられた衝撃に耐え、かつ受験を制することは、彼女には難しいのではなかろうか。

 「その先輩のためだけに、そこを受けるの?」
 「う~ん。そうでもあらせん」

 人の心配をよそに、富百合はあっさり否定した。

 「家から通える大学にしか、行かせてもりゃあせん。機械が元々好きで、小せゃあ頃はよう家にある家電を壊いて怒られました。どうせ進学するなら、工業大学の方が同じ専門を学ぶにしても、広う学べるか思って。あと、偏差値とか受験科目の問題もあるかな」

 「だもんで、外山先輩に会うためにも、どうしても合格してゃあんです。でも今は会えんで、せめて、フジノ先輩を見てはげみにしてゃあんです。勝手に触ったりしませんで、どうか怒らんでちょう。あと、時々お話してくれたら、嬉しいです」

 「わかった」

 可愛い女の子に話しかけられるのは、嫌いではない。体の関係を結ばない前提なら、余計な駆け引きはいらないのだ。触って欲しい気持ちはあるけれど。

 俺は承知した。それに、富百合なら、どのみち自分のしたいようにするに違いない。承知するより他にないのである。

 「わあ、ありがとうございます」

 とても可愛い笑顔で礼を言われた。

 一緒に帰ろう、と誘われるかと思ったが、富百合は予備校の玄関で、あっさり俺に別れを告げた。後をつけられた様子もなかった。


 翌日には、教室の隣り合った席を、2人分取っていた。授業中には時折視線を感じた。俺はいちいち見ないように気をつけねばならなかった。

 幸いにも、回を重ねるうち視線にも慣れ、授業に集中できるようになった。

 昼休みには、俺が食堂で食べるのと向かい合って、富百合が手弁当を食べた。

 授業中や、休み時間に感じる視線を除けば、富百合は大人しかった。初めて会った日のようなドジも、ほとんど見かけなかった。順応性じゅんのうせいが高い。

 数日後、前半の集中講義が最終日を迎えた時には、寂しく感じた。進学先も違う。もう会えないのだ。

 「後半も、何か受けるんですか」

 最後のお昼を一緒に食べながら、富百合が聞いた。

 「古典を受講する予定」
 「私は、理系数学を受講するんです。じゃあ、お昼は一緒に食べられやあすね。よかった」

 富百合がにっこり笑うのに釣られて、俺も笑顔になった。

 「嬉しい。やっとフジノ先輩が笑ってくれた」
 「俺、今まで笑わなかったかな」

 「ひゃい。すごい、迷惑だろうって、わかっとったんですけど、笑ってくれな、やっぱり落ち込みゃあす」
 「それは悪かった」
 「今はええんです」

 予備校の前で、また来年、と別れていった。
 最後ぐらい喫茶店でおごろうか、と思っていた俺は、肩すかしを食らった。

 何日か後には会えるのだ、と自分に言い聞かせる。たった数日の間に、富百合の存在が大きくなっていた。


 俺は、大晦日も問題集を解いて過ごした。年末年始の間も、夕食だけはエイミが用意してくれることになっていた。

 問題は昼食である。予備校がある間は食堂で食べられた。休日は大抵遊んでいたから、出先で食べた。図書館で勉強する間は、近くの喫茶店で食べていた。

 図書館も年末年始は休館である。喫茶店も休みであった。
 しかも、この日は唐突に雪が降った。開いている店があったとしても、まず出かける気分になれない。

 長らく開けていない台所の戸棚を覗くと、魚の缶詰があった。米だけはいつもあるので、炊飯器でご飯を炊く。
 炊きあがった頃に、冷蔵庫から朝食に使う卵を出して、フライパンで焼いた。

 下が焦げ付いて、無理に剥がそうとしたら、黄身が破れ、目玉焼きなのか卵焼きなのか、わからなくなった。
 俺も、このぐらいのことはするようになった。失敗したが。

 始めは、炊飯器の使い方すら知らなかったことを思えば、大きな進歩である。

 どうにか昼食を済ませて、余ったご飯は冷蔵庫へ入れる。作る時には空腹だから必死だが、満腹になった後の片付けは面倒だ。

 しかし、俺がしなければ、誰もしてくれない。仕方なしに片付けた。

 昼食の支度と後片付けまですると、よい気分転換になった。
 午後も引き続き、勉強に没頭した。夕方、エイミから電話がかかってくるまで、時の経つのも忘れていた。

 夕食にはちゃんと年取り魚が出た。年越しそばも用意されていた。

 実家で食べる時には、夕飯の後、紅白歌合戦を半分くらい見て、それからそばに取りかかるのだが、エイミの家にはテレビもないことであるし、まとめて食べたらいけない、という決まりもない。

 「二年参りか初詣はつもうでには、お出かけになりますか」

 「二年参りは無理だな。初詣ぐらいは、行った方がいいよなあ」

 「単に、心の問題だと思います」

 エイミの罰当たりな言葉には惑わされず、俺は初詣に行く、と宣言した。
 毎年行っているのに、ここで止めて、もし不合格になったら目も当てられない。
 合格のためには、プライドも外聞もなく、神頼みも辞さない構えである。

 とはいえ、夜中に知らない町をうろうろするのは気が進まず、二年参りは見送った。
 実家では、近所の神社へ二年参りをして、元日には青柳家と向坂家が挨拶にくるのを待って、菩提寺ぼだいじへ挨拶回りに出向くのである。

 「この近くに神社かお寺があったかな」

 「ありますよ」

 と、エイミは二つばかり神社を挙げた。俺は、名物の菓子に釣られて、初詣の神社を決めた。

 部屋を出ようとすると、エイミに小ぶりの重箱を渡された。

 「朝食にお雑煮をお召し上がりになりたい時には、お電話ください。お持ちします」

 自分の部屋へ戻ってから蓋を開けると、おせち料理であった。

 煮物、ごまめ、昆布巻き、なます、煮豆、きんとん、伊達巻き、紅白かまぼこ、茹で海老、かずのこといった料理が少しずつ、きれいに並んでいた。

 伊達巻きやかまぼこ、かずのこは、できあいの物と思われたが、あとは手作りのように見えた。
 これを全部作るのに、一体何時間かかったのだろうか。勉強もしないで。

 俺は感心を通り越して呆れてしまった。

 夜は勉強を止めて、みかんをむきながら漫然まんぜんとテレビを見た。日付が変わってしばらく経ち、そろそろ寝ようと仕度をしていたら、電話が鳴った。

 「あけましておめでとう。今年こそは合格ね」

 母からであった。俺は適当に返事をして電話を切った。
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