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第四章 富百合

1 一大決心だった

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 フタケに川相雪の正体が、泰之という男性だと知らされたコトリは、昼休みに教室を飛び出していったきり、次の日も予備校に姿を現さなかった。

 雪も欠勤しているかどうかについては、俺は知らなかった。用もないのにわざわざ事務局まで行く気になれなかった。

 週末には、一次試験本番直前の模擬試験がある。
 コトリが順当に成績を上げて維持してきたのは、真面目にこつこつと授業を受けていたからであろうと思われるだけに、この時期になって休むのは、本番に不利になること間違いなしであった。

 「川相さんは出てきていたな」

 昼休み、俺が聞きもしないのにフタケが言った。親が幹部ならば、なおさら欠勤しにくいであろう。

 フタケは由香子と別れて以後、受験本番を控え、さすがに女遊びを断っているようである。

 少なくとも、俺を遊びに誘うことはなかった。

 俺が明巴の別荘に呼ばれた一夜のことを、どこからか漠然と耳にしているようでもあった。俺は誰にも言っていないのに。俺を誘わないのは、そのせいかもしれない。
 だとすれば、雪のことといい、恐るべき情報網である。

 俺も、いよいよ受験が迫ってきたというだけでなく、近頃は、女性と付き合うことに疲れを覚えていた。

 体の欲望がおとろえたのではなく、むしろそちらの方は、生身の感触を知ってますます厄介やっかいな状態だが、体の欲望を満たすに至るまでの手順を踏むのが、面倒臭くなったのである。風俗に注ぎ込む金もない。

 せめて、もう少し心に余裕があれば、過程を楽しむこともできるのだろうが、今はそんな余裕などない。だから、フタケに誘われないのは、むしろありがたかった。

 「コトリ、大丈夫かなあ」

 翌日も、彼は1日姿を見せなかった。俺は相変わらず、平日の夕食をエイミの部屋で取っていた。もはや習慣と化している。

 「どうぞお召し上がりください」

 「ご飯お代わりなさいますか」

 「食事がお済みでしたら、お茶をお入れしましょうか」

 「焼きリンゴはいかがですか」

 エイミも相変わらず、必要最低限のことしか喋らない。部屋にはテレビもなく、黙って食べるのも気詰まりであるから、俺の方から話題を持ち出すのであった。

 前日の騒ぎについて、俺はフタケとコトリのやりとりから話した。エイミは箸を休めずに聞いていた。

 「模試の日も欠席するようなら、様子を見に行かれれば、よろしいのではありませんか。誰しも一人で考えたい時があるでしょう」

 それはよい考えのように思われた。

 この時期になれば、授業はもう、ひたすら問題を解くばかりである。模試も授業もさして変わりない。ただ、模試は全国一斉に行われる。自分が今、受験生の中でどの辺りに位置するのか、大体のところがわかる。

 それに、人生の岐路に立たされることなく、受験を体験できる。本番に向けた実践練習、まさに模擬試験だ。

 模試も予備校ごとに実施されるから、そこから算出さんしゅつされた合格率を鵜呑うのみにしてはいけない。そもそも、模試を受けない受験生もいるのだ。模試で高順位につけたとしても、油断できない。

 俺が心配するまでもなく、コトリは模試の当日、予備校へ来た。試験の合間にはそれぞれ勉強するので、話しかけることもなかった。

 コトリが話しかけてくることも、ない。
 全試験終了後、俺は思い切って、足早に教室を去ろうとするコトリの後を追った。フタケは、来なかった。

 「タカ」

 コトリの歩みが止まった。振り向くまでに、一瞬の間があったように感じられた。俺を見た時には、笑顔を浮かべていた。ややぎこちない。

 「久しぶりだな」
 「うん」

 俺が歩き出すと、コトリも並んでついてきた。
 予備校を出てしばらくは黙って歩いた。別にどこへ行くとも聞かずに、俺は地下街の喫茶店へコトリを誘った。

 メニューも見ず、勝手に2人分のコーヒーを注文する。おかきの入った小皿がついた、コーヒーが運ばれてくるまで黙っていた。

 「結論、出たのか」
 「うん」

 コーヒーをすする。コトリもコーヒーに手をつけた。俺は、何を思ってコトリを呼び止めたのだろう、と自問した。

 成り行きを聞き出すのは、単なる好奇心に過ぎない。
 急に、余計なおせっかいを焼こうとしているようで、恥ずかしくなった。それでも一応尋ねた。

 「何か手伝えそうなこと、あるか」
 「いや、ないよ」
 「そうか。何かあったら言ってくれ。それだけだ」

 俺はおかきを食べ出した。コトリは目をみはって俺を見つめていた。気恥ずかしいので、俺はひたすらカップを見つめる。そのうち、コトリもおかきを食べ始めた。
 互いにコーヒーを飲み終わると、俺はコトリをうながした。

 「出よう」
 「俺、アメリカの弁護士資格も取ろうと思う」

 俺は座り直した。


 「でさあ、西海岸の辺りは日本より制度も進んでいて雰囲気も寛容かんようみたいだから、そっちで暮らしてもいいように備えたいんだってさ。もし将来、戸籍の性別表記を変更できるようになったら、結婚して日本で暮らすつもりみたい。だから日米両方の弁護士資格を取るんだって」

 夕食の席で、俺は喋り放しだった。誰かに言わずにはおれなかったのである。おいそれと、人に言える話ではない。発端であるフタケには、どうも話しにくかった。

 フタケの父親と雪の父親が知り合いだったことが、そもそもの始まりだった。コトリと雪の決断を、雪の父親が喜ぶとは思えない。

 もし話が漏れたら、思い切った手を打つかもしれず、そうなれば、コトリはさすがに耐え切れないだろう。それで、他に話が漏れる心配のないエイミを、相手として選んだのである。

 エイミは驚く様子も見せず、淡々と箸を進めていた。喋り甲斐がいのない人間である。しかし遮られないことをいいことに、俺はありったけ話した。

 「彼らが、希望を持てる道を見出すことができて、よかったですね」
 「そうだな。それが一番よかったな」

 聞いているのかすら危ぶまれる表情であったが、ちゃんと聞いていたような感想を述べた。


 冬は寒い。だが、俺の地元のように、雪が積もるほどの寒さではなかった。

 コトリは模試以来、落ち着きを取り戻していた。
 フタケもクリスマス用に女の子を調達しようなどと言わず、真面目に勉強しているように見えた。今年ばかりは、クリスマスパーティなど、もってのほかだ。

 俺も真面目に勉強しているつもりではあったが、クリスマスが近付くにつれ、男女カップルがやたら目につき、何とも面白くなかった。

 母からは、クリスマスにケーキが届くよう手配したから、家にいるように、と連絡があった。

 これも、母からの牽制けんせいかもしれない。

 予備校講師と付き合っているという電話は、(すでに別れたので)フタミによって否定され、エイミからも、付き合っている生徒は俺と別人(由香子と付き合っていたのはフタケ)で、既に生徒(俺)と付き合っていた講師(明巴)は辞めた、と報告したことで、落ち着いた。色々意図的に省略しているが、嘘ではない。


 母に対してはそれで済んだが、その母が騒ぎ立てる電話を入れ、明巴に過激な行動を取らせる原因となった犯人は、放置のままである。
 ただ、その後の動きもなく、捕まえようもない。


 当日、届いたのはホールのチョコレートケーキで、大きさもガッツリ通常サイズだった。俺は母にお礼の電話をしてから、エイミに電話した。前もって、ケーキのために夕食を断っていた。

 「ケーキもらってくれ」

 丸ごと隣の部屋へ持って行くと、エイミが切り分け、すぐ食べる分を除いてラップに包み、保存の準備をしてくれた。俺はその場で3分の1を食べることにし、3分の1をエイミに譲った。
 
 コーヒーを飲んでケーキを口に運ぶと、俺は思わず知らずため息をついた。

 「来年の今頃には、もっと楽しいクリスマスを過ごせると思いますよ」
 「そうだな」

 「お部屋にお客様がいらしたようですが、どうなさいますか」
 「何でわかる?」

 エイミは人差し指を口元に立て、壁を指した。かすかにチャイムの音がする。意外と聞こえるものだ。

 「俺の部屋? 今、ここから出て行くわけにはいかないだろう」

 「それはそうですが、私が出て様子を見る、という手段もあります」

 「いや、いいよ。電気消してきたから、留守だってわかれば帰るだろう。別に誰かが来る予定ないもの」

 言い終わる前に、今度はエイミの部屋のチャイムが激しく連打された。思わず腰を浮かした俺の肩を、エイミが素早く押し戻した。すでに音もなく立ち上がっている。

 「様子を見て参ります。ユーキ様は、ここでお待ちになっていてください」

 目つきが鋭い。俺は座り直した。

 エイミは玄関まで行くと、わざと大きな物音を立てて、ドアを開けた。手にホウキを持っている。
 開けた途端に襲撃を喰らうこともなく、誰の姿もなかったようだ。半身を乗り出して廊下を左右覗き込む。それから外へ出て、ドアを閉めた。いつの間に持って出たのか、鍵まで掛けた。

 耳を澄ましていたが、足音は一つも聞こえなかった。ほどなく、エイミは戻ってきた。

 「誰もいませんでした。ドアに鍵をかけておかれたのは、正解です。あの勢いでは、中へ入って暴れたかもしれません」

 「さっきの、本当に俺の部屋だった?」

 「音の聞こえ方からして、間違いありません」

 無言のうちに、心当たりを問われていた。俺も、今は隠し立てするつもりはないが、訪問者には全く思い当たらなかった。
 信じてもらえたのか、疑われているのか、エイミの表情からは窺えない。

 「一夜限りのお付き合いの方々には、ご住所や電話番号を、お知らせなさったことはありませんよね」
 「当然」

 威張いばることでもない。エイミは俺の過去の女性関係を辿たどっているらしい。単なる家違いなのではなかろうか。

 「梶尾先生とは、手を切られましたね」

 「あの人の性格だったら、先に電話すると思う」

 「確かに。すると、梶尾先生とお付き合いされていた頃、お母様に電話をかけた、その人物が姿を現したのかもしれません」

 「誰だよ、それ」

 明巴の別荘で過ごした一夜を思い出し、俺は鳥肌を立てた。あの時明巴はいろいろなことを言っていたのだが、内容は忘却の彼方に消えていた。エイミは眉根を寄せて考え込んでいる。

 「わかりません。他に心当たりが思い浮かばないのです。いっそのこと、部屋を間違えたのであってくれればよいのですが。今夜は部屋へ戻られても、電気をつけずにお休みなされた方がよいと思います。何かあったらお電話でも、壁を叩いてくださっても結構です。すぐ駆けつけます」

 「ありがとう」

 俺は素直に礼を言った。エイミはもう一度、廊下に人影がないか確かめてから、俺を部屋から送り出した。部屋へ入るまで見守られる。俺は言われた通り、電気をつけずに支度をして眠りに就いた。

 その晩、再びチャイムが鳴ることはなかった。
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