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第二章 出奔
入店歓迎
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その街は、大都市の中間に位置しており、陸路の要衝として発達した。
夕方の大通りは、宿を求める旅人と、彼らを求める宿の客引きで混雑していた。
この人混みを当てこんで集う中には、別の利益を求める者も紛れ込んでいる。
「そこの兄ちゃん、いい宿あるよ。サービス満点、こちらへお泊まり」
「神の裁きが近づいております。救いを求めるみなさま、わたしたちと共に祈りましょう」
「うちの宿は新装開店! 全室ピカピカ!」
「てめえ、俺の財布抜きやがったな」
「手、離してよ!」
リズワーンとヴァルスは、シャラーラの後をついて大通りから裏路地へ入った。そこに並ぶ宿は、表通りにあるよりも格下で、宿代もその分安かった。
「表通りの宿は、綺麗だったなあ」
「誰のせいだと思っている」
ヴァルスは全くの無一文で、シャラーラたちについてきたのだった。
一緒に行動する以上、彼にかかる経費もシャラーラが負担せざるを得ず、重ねてきた節約も限界だった。
これまでのところ、まとまった金を稼げるような仕事も受けられなかった。
勝手についてきた彼に対して義理もないのに、何だかんだ面倒を見てしまう彼女は、ぶっきらぼうな外見と裏腹に、お人好しのようである。
「兄さん、綺麗な姉ちゃん連れているじゃないのさ。あたしたちとも一緒に遊ぼうよ」
「そこの色男、うちならまとめて面倒みるよ」
裏通りの客引きは、表通りよりも大胆に距離を詰めて迫る。女が多いのも、特徴的だった。
シャラーラは、兜を目深に被った鎧姿から、かなりの確率で男に間違われる。
男客を目当てにする女の客引きでも、彼女を男と見込み、色で気を引く者が後を絶たなかった。
シャラーラは彼女らを全員振り切り、客引きのいない建物へ入り込んだ。
そこは、裏通りの店にしては高級な感じのする食事処であった。テーブル席の間にいちいち仕切りが立てられ、半ば個室のように使うことができる。奥にはカウンターも備えてあった。
酒を酌み交わす客は、いずれも女連れである。それも、男ばかりが飲み食いを楽しみ、女は酒を注いだり、甚だしくは、料理を口元まで運んで食べさせたりして、側にいるだけで幸せそうな表情をしているのであった。
「いらっしゃい」
店内を見回す一行に、奥から店の男が声をかけた。用心棒を兼ねたような、体格のがっちりした男であった。
彼はリズワーンとヴァルスに素早く視線を走らせると、シャラーラの耳元へ口を寄せて囁いた。
「すまねえが、裏から回っておくんなさい。あっしも、すぐ行きやす」
そこで三人は一旦店の外へ出て、建物同士の隙間を通ってさらに裏へと進んだ。裏口には、肉付きも愛想も良い女が待ち構え、三人を建物の中へ導いた。やはり、リズワーンとヴァルスに、値踏みするような視線を向ける。
普段軽口を叩くヴァルスも、先が読めないのと、シャラーラの意図がわからないのとあって、黙ったまま成り行きを見守っていた。
案内の女が中へ消えるのと入れ替えに、先ほどの男が現れた。リズワーンのすぐ側に立つと、ほとんど背が変わらないことがわかった。
「こっちは上玉なんで、兄さんの言い値で買いやしょう」
リズワーンは一瞬だけ混乱し、理解した。ここは、女が男の客を接待する店で、彼は店員として店に買い上げられようとしているのだ。
兜を被ったシャラーラの表情は見えない。無言でいるところは、思いもかけない取引を持ちかけられ、彼と同様混乱したとも考えられた。
「相場は銀貨百枚からですが、特別に百五十枚はどうですかね。そっちの方も合わせたら、二百五十枚になりやす」
シャラーラが固まっているので、男がとりあえずの値段を提示した。明らかに安すぎる。リズワーンは、以前百枚と引き換えに、彼女に自分を身売りしたことを思い出した。
今ではそれが売値としては安すぎることを知っている。ただ、求められる義務や自由度を考えると、当時の状況と併せて、悪どい取引とまでは言えなかった。
「シャラ。僕たち、売られちゃうの?」
「店主。互いに行き違いがあったようだ」
ヴァルスの声に、シャラーラが我に返った。
「我々は、宿を求めて来たに過ぎない。こちらの店は、食事処だったのだな。手間をとらせてすまない。ついでながら、この辺りで安い宿を教えてもらえると助かる」
男はあからさまにがっかりした。
「せっかくのご縁です。体験入店ということで、今晩だけでも、こちらをお借りできませんかね。お給金も払いますぜ。うちは日払いで、一回フル稼働で銀貨五十枚から。売上によっては、報奨が上乗せできまっせ」
ぴくり、と反応したのは、ヴァルスである。
「じゃあ、僕が」
「ああ。こちらの子の場合です。うちは、給与体系が複雑で」
男があっさりとヴァルスを退けた。
ガックリしたヴァルスをよそに、シャラーラはリズワーンの一日入店体験とやらも断り、宿を紹介してもらった。
男の親切は、何かの折りにリズワーンを働かせよう、との魂胆からと思われた。
下心があるにせよ、男から紹介された宿は、予想外に穴場で、三人は久々に安眠を得たのだった。
翌日、シャラーラは仕事を探しに、ヴァルスは街を偵察に外出した。リズワーンは、人買いに攫われる心配を口実に、シャラーラから留守番を言い渡された。
リズワーンはエルフで頼りない外見ではあるが、いい大人である。シャラーラやヴァルスの先祖ほどの年月を生きている。魔術も相応のレベルを扱える。
間違っても攫われる心配はない。
要は、どさくさに紛れて彼に逃げられるのを、警戒しているのだ。それなら連れ歩けば良さそうなものだが、それもしない。
ふとした瞬間に、敵意を含んだ視線を向けられることもあった。
彼女の行動には、初めから理屈の通らない不可解な部分があった。
シャラーラは、リズワーンに何かを隠している。
今思えば、彼女が村を訪れたのも、彼を連れ出す目的だったと考えられた。
聞き出そうとしても無駄である。形の上で、彼は買われた身だ。
時が至れば、彼女の事情も明らかにされるだろう。
リズワーンは、そう思い定めて、シャラーラに従っているのだった。
魔術書を片手に食堂へ降りると、宿の女将が厨房で忙しく立ち働いていた。彼女は、亭主の遺産で悠々自適の身の上なのだが、不動産の管理と暇つぶしをかねて宿を営んでいるのであった。
予約が基本で、一見さんお断り。男の紹介があったとはいえ、当日急に現れたリズワーンたちが連泊まで許されたのは、女将に気に入られたからである。
シャラーラと女将は、その夜随分と話し込んでいた。どの点が好評を得たのか、説明はない。
「女将さん。茶をもらいます」
「ああ。そこにあるのを、勝手にやっておくれ。湯はこっちにある」
宿泊客は、リズワーンたち三人だけである。食堂は路地に面していた。宿ではなく、食事処としても成り立つ構えであるが、営業はしていない。
他に客のいない場所で、彼は自分で淹れた茶を飲みつつ、魔術書を読んだ。厨房からは、絶え間なく音が聞こえてくる。その音は読書の邪魔にはならず、却って彼に落ち着きをもたらした。
「女将、いるか」
前触れもなく引き戸が開くと、昨夜宿を紹介してくれた男が入ってきた。
リズワーンが一人でいるのに目ざとく気づき、側に立つ。
「暇そうですな。一晩休んで落ち着いたところで、一回試してみますか? お前さんなら、黙って座っているだけで通用する。ドレスも貸しますぜ」
昨夜の会話では、リズワーンを女と見間違えたかとも思えたが、彼はどうやら男と知った上で勧誘している。賃金は魅力的でも、客を騙すところに、リズワーンは危うさを感じた。それに、シャラーラの許可なしには勝手に動けない。
「いや。止めておく」
「あら、ドンくん。ちょうどパイが焼けたところよ。食べていけば?」
女将が洋梨のパイを持って、厨房から顔を出した。言われてみれば、香ばしい匂いが食堂を満たしていた。
彼女は切り分けたパイを、リズワーンと指し向かいの席にそれぞれ用意した。
ドンが、向かいの席に着く。
「ありがたく、いただくぜ」
リズワーンも本を閉じ、パイに手をつけた。彼女の料理は、どれも旨い。パイもまた、匂いから期待した通りの味わいだった。
「それで、何の用なの? また奥さんと喧嘩? だったら、うちへ来ないでとっととお帰り」
今にも蹴り出しそうな女将の様子に、ドンは慌ててパイを口に押し込む。
「ち、違う。女将から紹介してもらった娘が、戻らなくて。ひょっとして、何か事情を聞いているかと思って」
パイを口に詰めて喋る不明瞭な発音を、女将は耳ざとく聞き取った。
「まさか、ルシアのこと? 何も聞いていないよ。何があったの?」
「ルシアの両親が、仕事中に怪我をしたから、一旦家へ戻って欲しいって、使いが来たんだ」
女将に問われるまま、話し出すドンを前に、リズワーンは席を立つべきか迷う。皿の上には、食べかけのパイが残る。
二人とも、彼がいることなど気にする風もないので、そのままパイを食べ続けた。彼らの話は否応なく耳に入る。
ルシアは、ドンの店に年季奉公の形で雇われる身らしい。本来、どのような理由であろうと、仕事を休んだり、まして決められた住まいを離れたりすることは許されなかった。
しかし彼女は女将に紹介された、身元の確かな娘であった。勤務ぶりも生活態度も真面目なことから、ドンは三日の休みを与え、実家へ戻ることを許したのである。
ひとまず両親や家の状況を確認し、ドンに報告するという条件を出した。ここから彼女の実家までは、男の足なら半日で往復できる距離である。
その間に目処が立てば良し、事情によって戻れない時は使いを出す、と約束させた。ドンは、場合によっては年季を後回しにして、看病に専念させてやろうとまで考えていたのである。
「戻ってこねえのさ。使いも来ねえ」
昨日一日待って、今朝になっても音沙汰がないので、紹介者の女将に伺いを立てに来たのであった。
話を聞いた女将も、顔を曇らせた。
「ルシアは、そんな不義理をする娘じゃない。ご両親も、信心深い人たちでねえ。ただ、使いを出すにも人が見つからないってことは、あるかもしれないねえ。ドンくん、ちょいと誰か行かせてみたら?」
「俺も、そう思ったんだが、適当な奴が見当たらなくてな。女将も気になるだろう。何とかしてみるわ」
夕方の大通りは、宿を求める旅人と、彼らを求める宿の客引きで混雑していた。
この人混みを当てこんで集う中には、別の利益を求める者も紛れ込んでいる。
「そこの兄ちゃん、いい宿あるよ。サービス満点、こちらへお泊まり」
「神の裁きが近づいております。救いを求めるみなさま、わたしたちと共に祈りましょう」
「うちの宿は新装開店! 全室ピカピカ!」
「てめえ、俺の財布抜きやがったな」
「手、離してよ!」
リズワーンとヴァルスは、シャラーラの後をついて大通りから裏路地へ入った。そこに並ぶ宿は、表通りにあるよりも格下で、宿代もその分安かった。
「表通りの宿は、綺麗だったなあ」
「誰のせいだと思っている」
ヴァルスは全くの無一文で、シャラーラたちについてきたのだった。
一緒に行動する以上、彼にかかる経費もシャラーラが負担せざるを得ず、重ねてきた節約も限界だった。
これまでのところ、まとまった金を稼げるような仕事も受けられなかった。
勝手についてきた彼に対して義理もないのに、何だかんだ面倒を見てしまう彼女は、ぶっきらぼうな外見と裏腹に、お人好しのようである。
「兄さん、綺麗な姉ちゃん連れているじゃないのさ。あたしたちとも一緒に遊ぼうよ」
「そこの色男、うちならまとめて面倒みるよ」
裏通りの客引きは、表通りよりも大胆に距離を詰めて迫る。女が多いのも、特徴的だった。
シャラーラは、兜を目深に被った鎧姿から、かなりの確率で男に間違われる。
男客を目当てにする女の客引きでも、彼女を男と見込み、色で気を引く者が後を絶たなかった。
シャラーラは彼女らを全員振り切り、客引きのいない建物へ入り込んだ。
そこは、裏通りの店にしては高級な感じのする食事処であった。テーブル席の間にいちいち仕切りが立てられ、半ば個室のように使うことができる。奥にはカウンターも備えてあった。
酒を酌み交わす客は、いずれも女連れである。それも、男ばかりが飲み食いを楽しみ、女は酒を注いだり、甚だしくは、料理を口元まで運んで食べさせたりして、側にいるだけで幸せそうな表情をしているのであった。
「いらっしゃい」
店内を見回す一行に、奥から店の男が声をかけた。用心棒を兼ねたような、体格のがっちりした男であった。
彼はリズワーンとヴァルスに素早く視線を走らせると、シャラーラの耳元へ口を寄せて囁いた。
「すまねえが、裏から回っておくんなさい。あっしも、すぐ行きやす」
そこで三人は一旦店の外へ出て、建物同士の隙間を通ってさらに裏へと進んだ。裏口には、肉付きも愛想も良い女が待ち構え、三人を建物の中へ導いた。やはり、リズワーンとヴァルスに、値踏みするような視線を向ける。
普段軽口を叩くヴァルスも、先が読めないのと、シャラーラの意図がわからないのとあって、黙ったまま成り行きを見守っていた。
案内の女が中へ消えるのと入れ替えに、先ほどの男が現れた。リズワーンのすぐ側に立つと、ほとんど背が変わらないことがわかった。
「こっちは上玉なんで、兄さんの言い値で買いやしょう」
リズワーンは一瞬だけ混乱し、理解した。ここは、女が男の客を接待する店で、彼は店員として店に買い上げられようとしているのだ。
兜を被ったシャラーラの表情は見えない。無言でいるところは、思いもかけない取引を持ちかけられ、彼と同様混乱したとも考えられた。
「相場は銀貨百枚からですが、特別に百五十枚はどうですかね。そっちの方も合わせたら、二百五十枚になりやす」
シャラーラが固まっているので、男がとりあえずの値段を提示した。明らかに安すぎる。リズワーンは、以前百枚と引き換えに、彼女に自分を身売りしたことを思い出した。
今ではそれが売値としては安すぎることを知っている。ただ、求められる義務や自由度を考えると、当時の状況と併せて、悪どい取引とまでは言えなかった。
「シャラ。僕たち、売られちゃうの?」
「店主。互いに行き違いがあったようだ」
ヴァルスの声に、シャラーラが我に返った。
「我々は、宿を求めて来たに過ぎない。こちらの店は、食事処だったのだな。手間をとらせてすまない。ついでながら、この辺りで安い宿を教えてもらえると助かる」
男はあからさまにがっかりした。
「せっかくのご縁です。体験入店ということで、今晩だけでも、こちらをお借りできませんかね。お給金も払いますぜ。うちは日払いで、一回フル稼働で銀貨五十枚から。売上によっては、報奨が上乗せできまっせ」
ぴくり、と反応したのは、ヴァルスである。
「じゃあ、僕が」
「ああ。こちらの子の場合です。うちは、給与体系が複雑で」
男があっさりとヴァルスを退けた。
ガックリしたヴァルスをよそに、シャラーラはリズワーンの一日入店体験とやらも断り、宿を紹介してもらった。
男の親切は、何かの折りにリズワーンを働かせよう、との魂胆からと思われた。
下心があるにせよ、男から紹介された宿は、予想外に穴場で、三人は久々に安眠を得たのだった。
翌日、シャラーラは仕事を探しに、ヴァルスは街を偵察に外出した。リズワーンは、人買いに攫われる心配を口実に、シャラーラから留守番を言い渡された。
リズワーンはエルフで頼りない外見ではあるが、いい大人である。シャラーラやヴァルスの先祖ほどの年月を生きている。魔術も相応のレベルを扱える。
間違っても攫われる心配はない。
要は、どさくさに紛れて彼に逃げられるのを、警戒しているのだ。それなら連れ歩けば良さそうなものだが、それもしない。
ふとした瞬間に、敵意を含んだ視線を向けられることもあった。
彼女の行動には、初めから理屈の通らない不可解な部分があった。
シャラーラは、リズワーンに何かを隠している。
今思えば、彼女が村を訪れたのも、彼を連れ出す目的だったと考えられた。
聞き出そうとしても無駄である。形の上で、彼は買われた身だ。
時が至れば、彼女の事情も明らかにされるだろう。
リズワーンは、そう思い定めて、シャラーラに従っているのだった。
魔術書を片手に食堂へ降りると、宿の女将が厨房で忙しく立ち働いていた。彼女は、亭主の遺産で悠々自適の身の上なのだが、不動産の管理と暇つぶしをかねて宿を営んでいるのであった。
予約が基本で、一見さんお断り。男の紹介があったとはいえ、当日急に現れたリズワーンたちが連泊まで許されたのは、女将に気に入られたからである。
シャラーラと女将は、その夜随分と話し込んでいた。どの点が好評を得たのか、説明はない。
「女将さん。茶をもらいます」
「ああ。そこにあるのを、勝手にやっておくれ。湯はこっちにある」
宿泊客は、リズワーンたち三人だけである。食堂は路地に面していた。宿ではなく、食事処としても成り立つ構えであるが、営業はしていない。
他に客のいない場所で、彼は自分で淹れた茶を飲みつつ、魔術書を読んだ。厨房からは、絶え間なく音が聞こえてくる。その音は読書の邪魔にはならず、却って彼に落ち着きをもたらした。
「女将、いるか」
前触れもなく引き戸が開くと、昨夜宿を紹介してくれた男が入ってきた。
リズワーンが一人でいるのに目ざとく気づき、側に立つ。
「暇そうですな。一晩休んで落ち着いたところで、一回試してみますか? お前さんなら、黙って座っているだけで通用する。ドレスも貸しますぜ」
昨夜の会話では、リズワーンを女と見間違えたかとも思えたが、彼はどうやら男と知った上で勧誘している。賃金は魅力的でも、客を騙すところに、リズワーンは危うさを感じた。それに、シャラーラの許可なしには勝手に動けない。
「いや。止めておく」
「あら、ドンくん。ちょうどパイが焼けたところよ。食べていけば?」
女将が洋梨のパイを持って、厨房から顔を出した。言われてみれば、香ばしい匂いが食堂を満たしていた。
彼女は切り分けたパイを、リズワーンと指し向かいの席にそれぞれ用意した。
ドンが、向かいの席に着く。
「ありがたく、いただくぜ」
リズワーンも本を閉じ、パイに手をつけた。彼女の料理は、どれも旨い。パイもまた、匂いから期待した通りの味わいだった。
「それで、何の用なの? また奥さんと喧嘩? だったら、うちへ来ないでとっととお帰り」
今にも蹴り出しそうな女将の様子に、ドンは慌ててパイを口に押し込む。
「ち、違う。女将から紹介してもらった娘が、戻らなくて。ひょっとして、何か事情を聞いているかと思って」
パイを口に詰めて喋る不明瞭な発音を、女将は耳ざとく聞き取った。
「まさか、ルシアのこと? 何も聞いていないよ。何があったの?」
「ルシアの両親が、仕事中に怪我をしたから、一旦家へ戻って欲しいって、使いが来たんだ」
女将に問われるまま、話し出すドンを前に、リズワーンは席を立つべきか迷う。皿の上には、食べかけのパイが残る。
二人とも、彼がいることなど気にする風もないので、そのままパイを食べ続けた。彼らの話は否応なく耳に入る。
ルシアは、ドンの店に年季奉公の形で雇われる身らしい。本来、どのような理由であろうと、仕事を休んだり、まして決められた住まいを離れたりすることは許されなかった。
しかし彼女は女将に紹介された、身元の確かな娘であった。勤務ぶりも生活態度も真面目なことから、ドンは三日の休みを与え、実家へ戻ることを許したのである。
ひとまず両親や家の状況を確認し、ドンに報告するという条件を出した。ここから彼女の実家までは、男の足なら半日で往復できる距離である。
その間に目処が立てば良し、事情によって戻れない時は使いを出す、と約束させた。ドンは、場合によっては年季を後回しにして、看病に専念させてやろうとまで考えていたのである。
「戻ってこねえのさ。使いも来ねえ」
昨日一日待って、今朝になっても音沙汰がないので、紹介者の女将に伺いを立てに来たのであった。
話を聞いた女将も、顔を曇らせた。
「ルシアは、そんな不義理をする娘じゃない。ご両親も、信心深い人たちでねえ。ただ、使いを出すにも人が見つからないってことは、あるかもしれないねえ。ドンくん、ちょいと誰か行かせてみたら?」
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