規則は守られるために

在江

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 右左 もう一度右見て渡ろう 青信号
 左右見て 横断歩道を渡りましょう
 あぶないよ とびだし きけん

 世の中にはあまりにも多くの看板があり過ぎて、却って大切な事に注目させることができない。
 規則を守らせることと、魅惑の美女や食欲をそそるご馳走とを、対等に競争させようと考えた奴らが間違っていた。言い出しっぺの奴ら自身、規則を守っていたかどうか怪しいものだ。

 カシャリ。人工のシャッター音が、何もない部屋に響く。直前から耳に声が流れ込んでいた。

 「25歳男。ソフトモヒカン色ブラック。グレイスーツにブルーシャツ、ネクタイはグリーン。茶色靴に茶色鞄。信号無視」

 視界にスーツを着た男は1人しかいない。俺はスーツのツのところで引き金を引き、後は声の説明が男と一致することを確認している。

 声が途切れる頃には、その男は道路に頽れており、別働隊が道路の状況を見ながら体を邪魔にならない場所へ運び出している。
 男は既に死んでいる筈だ。別働隊は蟻のように熱心に働く。死体が発生するや否や、どこからともなく湧き出して、死体とともに、どこへともなく消える。

 俺は、規則遵守監視員である。
 法律を守らない人間が多すぎる。法律なんて、最低限の決まり事である。
 守ってもらわなければ、いずれ社会全体が困る。人間は増え過ぎて、警察だけでは手に負えない。それで監視員の職が作られた。

 法律に違反した人間を即座に殺すことができる。これが基本的な規則遵守監視員の仕事である。
 殺人や詐欺といった難しい事件は、昔ながらの警察が管轄する。

 監視員が請け負うのは、タバコの投げ捨てや信号無視といった、昔なら些細な犯罪と意識されないで行われたような違反行為である。
 法律的には立派な犯罪であるが、窃盗を万引きと言い換えた時と同様、比較的手間をかけずにできる違反なので、周囲も犯人にも自覚が薄い。しかし、違反は違反である。

 初めは、ちょっと信号無視しただけで殺されるということが無意識の違反に慣れた人びとから猛反発を食らい、政権がひっくり返りそうになるほど強い反対運動が起こった。
 しかし、結局のところ、そもそも違反する方が悪いという話に落ち着いて、現在に至る。

 反対運動の名残もあって、監視員の身分は公安並みに秘匿されている。俺も世間向けには別の顔を持っている。仕事場も関係者しか知らない。

 ちなみに警察に入るには、公的な試験を受けて合格しなければならず、最終合格までに係累だの思想だの犯歴だの徹底的に調べられる。
 ここまでは規則遵守監視員も似たようなものだ。

 最終合格の後、警察では全寮制の学校へ入れられて徹底的な思想教育を受ける。警察官は、自分を正義の味方と信じて卒業する。自分を正義と信じるよりは、正義の味方と信じる方がまだましである。

 規則遵守監視員は、自分を正義の味方とは思っていない。そんな風に信じる奴は、監視員になれない。

 世間にしつこく流布する噂がある。監視員は皆殺人狂だ、と。あながち間違いではないから、噂が消えないのだろう。
 事実は、規則遵守監視員の中には、殺人狂でない者もいる、である。まず俺がいわゆる殺人狂である。殺人狂という言い方は気に入らないが、世間的にはそう見えるだろうぐらいの認識はある。

 元々は、銃のマニアだった。改造した銃で(これだって違法である。監視員になるまでに殺されなくて運がよかった)いろんな物に狙いをつけた。初めは鳥を撃ったが、小さい上に飛ぶから、数の多い割に当たりが悪い。次に猫を撃った。跳んでもたかが知れてるし、大きさも手頃で面白かった。たちまち近隣の猫を撃ち尽くした。犬はつながれていて面白くない。
 次は子どもかな、と思ったところで、規則遵守監視員の職に誘われた。合法的に人を撃てる。俺は即座に受けた。

 実際は、監視員の仕事は想像したほど簡単ではなかった。
 合法的に人を殺すためには仕方がない。そう観念できるまで、結構時間がかかった。

 違反した人間しか殺せないし、違反しても未成年は殺せない。ただし、未成年でも結婚していれば殺せる。ところが、妊婦も殺せないときている。

 そのせいか、妊婦が目に見えて増えた。少子化問題が俎上に上らなくなったことと引き換えのように、増えた妊婦の横柄な態度が槍玉に上がりつつある。

 将来は妊婦でも何らかの制限をつけて殺せるようになるのではないか。未成年や妊婦を区別するためには、脳内に埋め込まれたチップを読み取る必要がある。
 だから無届け妊婦なら殺せるのだが、妊娠に気づかない妊婦は滅多にいないし、いても胎児が小さすぎて、撃ったところで面白味がない。

 殺し方にも決まりがある。事前に届け出をした方法しか使えない。それに、殺す前に相手の違反証拠を確保しなければならない。
 慣れるまでには、随分と獲物を取り逃がし、却ってストレスが溜まったものだった。

 俺の場合、違反証拠は相棒が写真に収めてくれる。奴は殺人狂ではない。が、人が死ぬのを見て興奮するタイプだ。死ぬ瞬間を写真に撮る行為に、快感を覚えている。

 俺は奴の名前も知らないし経歴も知らないが、一緒に仕事をしているうちに、それだけはわかった。世の中上手い具合に出来ている。適材適所というやつだ。奴も俺について知る事はご同様だろう。互いに、相手を詮索しない。

 いくら人殺しが趣味でも、年がら年中同じ場所にいては、飽きがくる。
 飽きた時には、場所を変えることができる。場所の代わりに方法を変えることもできる。

 いずれも届け出が必要だ。たまたま知っているが、刃物で殺すのが好きな監視員もいる。承知で違反したと言っても、刃物を振り回されれば、どうしても人間は逃げるので(またそれを追いかけて殺すのが面白いと聞いた)、刃物で殺す監視員は人の目が多い場所には配置されない。
 多少人口のある場所でも、夜間のみといった具合に活動時間が設定される。

 あるいは、別働隊に配属されて、監視員が殺し損ねた人間に止めを刺す役を務めたり、死刑執行人に回される場合もあるらしい。これは巷の噂である。この場合の死刑は、昔ながらの警察が掴まえた犯人が、裁判で宣告されてのことである。

 これだけ規則遵守監視員が普及したら、人口がものすごく減るか、皆が違反しないように気をつけるのではないかと心配した時期もあったが、俺の仕事が減る気配はない。

 奴らは自分たちで決めた規則を守るよりも、規則を破っても生きられる工夫をする方に力を注ぐ。
 規則は破られるためにある、とか言った誰かは正しい。奴らは破ってもらうために規則を作るのだ。
 破った奴を責めるために規則を作る。
 規則遵守監視員として決まりを守って生活している俺は、バカを見ているのか。

 「65歳男。禿頭。後ろ向き。(カチッ)焦げ茶ズボンに白っぽいワイシャツ。吸い殻投げ捨て」

 倒れた中年男に別働隊が群がり、素早く運び去る。周囲の人間は何事もなかったかのように通り過ぎる。
 今や、目の前で人が死んでも誰も驚かない。人はいつかは死なねばならないのは確かだ。
 人びとは、これまで元気だった人が突然目の前で死んでも平気になった。そして規則は破られ続ける。

 「30歳女。乳児を抱き、3歳男児の手を引いている。短髪パーマ茶色明るめ。スーパーの買い物袋。(カチッ)信号無視」

 倒れた女に驚いているのは、3歳男児と道の向こう側から駆け付けた5歳女児だけだ。乳児も泣いているが、何が起きたか全くわかっていないに違いない。

 「ママー、ママー。あんたのせいよっ!」

 駆け付けた女児が男児を怒鳴りつける。声の大きさに、女に取りすがって泣いていた男児が、きょとんとして泣き止む。
 恐らく、道の向こう側にいた女児に気を取られて、女は信号を見落としたのだ。
 女児にはきっとそのことが分かっている。原因を押し付けられた男児はどこまで事態を理解できるだろうか。

 別働隊が現れて、3人の子どもごと、女の死体を運び去る。女児は抵抗して泣きわめきながら抱えられる。乳児も泣き叫ぶ。男児ばかりは茫然としている。
 通行人はこの間中、一顧だにせず各自の生活を営み続けた。あの子どもたちはこの先どうなるのだろう。そんなことを気にかける俺は、馬鹿を見ているのか。

 俺は上司を呼び出した。上司の方はどうか知らないが、俺は奴の名前も知らない。

 「今日、3人の子どもの母親を殺したんですが、違反の原因となった上の子が、責任を下の子に押し付けたんです。それで、その後どうなったのか気になってしょうがないんですが」
 「心配ない。遺族には原因を正確に説明した」

 上司は調子を変えずに答えた。あまりに即答だったので、俺は質問の意図が正確に伝わったか一瞬だけ疑った。もちろん、疑いはすぐに消えた。そういう仕組みになっている筈だ。仮に上司が今真相を知ったとしても、後から遺族とやらに説明がいくだろう。

 「配置換えを希望するかね」

 上司が言った。俺の動揺を見抜かれているようだった。俺は動揺していたのか。

 「はい。お願いします」
 「わかった。1時間ほどしたら新しい任地を知らせる。明日は異動日の扱いで仕事はない」
 「ありがとうございます」

 俺は礼を言った。引退にはまだ早い。俺はまだ人を殺せる。引退するのは、もう少し楽しんでからだ。
 規則遵守監視員はいつでも引退できる。年齢は関係ない。人を殺すのが嫌になった時が潮時だ。

 厳重に隠蔽された監視員の引退は、誰にも知られない。全身整形して、新しい身分をもらって、好きな場所に住むことができるそうだ。
 引退したら即座に殺されるという噂も耳にしたことがある。それが本当なら、死ぬまで引退しなければいい。いずれにしても、いい仕事だ。人殺しに良心の痛みさえ覚えなければ。

 俺は、あの子どもたちを忘れることにした。
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