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第一章 レクルキス王国

1 誰だお前は

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 「わっ! できた!」
 「何これ何?」

 山の中にいた。夜である。
 目の前に黒い塊がいる。横長の楕円を小大と上下に二つ重ねたような形で、上側に左目だけ開いている。黒い片目雪だるま、と形容したいところ。

 『‥‥初めまして』
 「喋った」
 『あなたは私によって、この世界へ召喚されました。転生したと言った方が正確ですね。とにかく以後、私に付き従ってください』

 口もないのに、確かに話している。夢かもしれない。

 「嫌。帰る。というか、帰して?」
 『無理です。私は、あなたの真の名を取り込みました。よって、あなたは私に従属する存在です。それに、あなたは元の世界では、微細びさいな一片に過ぎず、仮に戻ったとしても、あなたの居場所はありません』


 なかなか理屈をこねる奴だ。夢だと気付けば、覚めるのは簡単な筈だが、手をつねって見ても状況に変化はない。
 そして、明らかに覚えのない服を着ている。奴はといえば、どこからか姿見すがたみを取り出した。こちらへ向ける。

 『ちなみに現在のあなたは、このような姿形をしています。神様と交渉して、色々能力値も上げてもらいました。お陰で、私はこんな姿です』
 「うっ」

 若返っている。肌触りも良い。目鼻立ちを微妙に修正している。髪は色も明るく変化しているし、異常に伸びているが、艶やかで手入れも行き届いている感じ。例の服と合わせて、ファンタジー世界の魔法使いらしい姿。

 『お気に召したら幸いです』
 「き、気に入ったとか、そういう問題じゃないよね」

 外見の変化といい、こちらの気持ちを見抜かれる点といい、やはり夢の中だ。どうせ覚めないのなら、抵抗しても無駄だ。

 「なら、どうしたらいい?」
 『まず、この世界での呼び名を決めましょう。私のことはグリエルとお呼びください』

 奴は姿見を瞬時に消し去り、名乗った。

 「グリ?」
 『グリエルです。ちなみに、私は元の世界では女でした』

 と、そいつは元の世界での個人情報を色々教えてくれたが、俺には覚えがなかった。黒い片目雪だるまは、その形状で、悲しみを表現してみせた。

 『残念です。私はいつも陰からあなたを応援していたのに。息子も懐いておりました』
 「ちょっと待て。じゃ、保護者の方」

 つい丁寧な呼び方をしてしまったのは、習慣である。俺は、お受験専門塾で小学校コースの講師をしていた。自分でも、人気講師だと自負している。
 しかし、生徒の名前を思い返しても、顔を思い浮かべても、聞いた名前とは結びつかなかった。夢のせいかも。

 『あ、いえ。うちは中学受験の方で』

 うちの塾には中学受験コースもある。たまに中学年のヘルプに入るが、その程度の接点なら知るわけがない。俺は、顧客データを忘れたのではないことに、ひとまず安心した。

 「それなら何で俺‥‥?」
 『素敵だからです。夫や息子、周りの人に怪しまれないよう、あなたの一部を手に入れるのに、ものすごく苦労しました』

 そいつ、グリエルとやらは、苦心譚くしんたん滔々とうとうと語った。全然気付かなかったけど、それって。

 「ストーカー」
 「かつと言ってください」

 ものは言いようだな。

 「んー。まとめると、まずお前がこの世界へ転生して、それから前世で手に入れた俺の一部を召喚して、その部分から、今の俺を作り上げた。代償に、お前は人間の姿を失った、と?」

 「おお、さすが、先生だけに理解も早い」

 褒めても何も出ないぞ。とにかく、元の世界の俺が行方不明とか死亡したとかいう訳ではなく、ストーカーのこいつは元の世界にいない。だから、妻と子供に心配がないことは、わかった。夢なのに、設定が細かい。

 『あなたの呼び名は、ベアトリーチェでどうでしょう』

 俺の内心を無視し、話を進める黒ダルマ。

 「それ女性名」

 つい突っ込んでしまう。その後、慌てて自身を探る。大丈夫、男の印はついている。さっき自分の姿を見て、大分綺麗きれいめに仕上がっていたので、もしやと疑ってしまった。

 『では、トリスにしましょう』

 グリエルはキッパリと言った。キリがなさそうだからな。
 昼から飲んだくれそうな名ではあるが、ベアトリーチェよりはいい。グリエルはダンテには到底見えないし、その恋人の名前で呼ばれるのも嫌だ。

 夢から覚めれば、俺には愛する家族がいるのだから。
 今は、こいつにくっついていないといけない設定なのだな。俺は早々に抵抗を諦めた。夢の中でも、逆らうのは疲れる。

 『呼び名が決まったところで、出発しましょう。まず、大きな都市を目指します。必要なことは道々話します』


 夢の中の時間は、異様に長い。夢だと思うと余計に長く感じる。

 『あなたは異世界に転生したのであって、これは夢ではなく現実です』

 説明を聞き流していたら、グリエルに念を押された。はいはい、そういう設定ね、とは心の中だけで応えたが、ため息をつかれたので、心の声はダダ漏れらしい。

 そいつ、グリエルは、足がないわりに動きが早い。夜間、木々の生い茂った山中を、滑らかに移動していく。浮いているのかもしれない。夢だから不思議はない。

 と、姿が消えた。べきべきと細い枝が折れる音。

 『ふぎゃ』

 下方から、カエルを踏み潰したような声が聞こえた。

 前方に、穴が出現している。慎重に近づいて覗き込む。結構な深さの底に、枝と枯葉まみれの黒い頭が見えた。手も足もないのだから、多分自力では上がってこられまい。

 丁度いい。このまま逃げてしまおう。穴の淵を回り込む。

 『逃げても帰れませんよ』

 耳元で声が響いた。驚いた拍子に足を滑らせ、俺は落下した。

 『うぐおっ』

 尻の下でうめき声。グリエルがクッションになって、俺の方はほとんど痛みを感じなかった。夢だから痛くないとも言える。

 『ですから‥‥』
 「あーっ! 何かかかっている! ゴブリンかな、オークかな?」

 夜の山に似合わない、明るい声がグリエルの言葉をかき消した。

 茂みをかき分ける音の後、穴の淵から顔を出したのは、少女だった。ただし、革鎧をまとい、右手に抜き身の剣を構え、背中には槍の穂先が覗く。俺を見て、暗がりでもわかるくらい、大きく目を見開いた。

 「ごめんなさい、旅のお方! あなたを落とすつもりじゃなかったんです! 村に猪とか、ゴブリンとかが荒らしにやってくるから、退治しようと思って。待ってください、今、助けますから!」

 ゴブリン、オークって‥‥。ますますファンタジー世界めいてきた。

 少女は一旦消えた後、ロープを持って戻り、束になったそれを穴に投げ入れた。俺は落ちてきたロープを体にしっかり巻きつけた。地上に伸びている方を引っ張ってみたが、びくともしない。端を木に結びつけたのだろう。太さも十分ある。俺は土の壁に足を掛け、ロープをたぐりながら穴を登り始めた。

 普段から体を動かす方だと自負していたが、自分の体がこれほど重いとは思わなかった。夢の中ぐらい、都合よくサクサクと登れるようにして欲しかった。
 俺の頭は、眠っていても常識に囚われている。

 少女も上からロープを引いてくれたおかげで、どうにか穴を脱出できた。

 「お怪我はありませんか」
 「大丈夫で」

 改めて間近に見た少女の顔に、俺ははっとした。夜目にも光る艶やかな黒髪、どこかで見たことがある。というかこの子は‥‥。

 「あーっ! 猫ちゃん、目が潰れちゃったの? 痛くない? よく我慢していたねえ」

 猫? と思う間もなく、少女は俺の後ろから、黒い塊を剥ぎ取った。猫の形をしているが、目つきの悪さはグリエルそのものだった。奴が張り付いていたせいで、体が重く感じられたのだ。

 そのまま穴に落としておこうと思ったのに。猫に変身できたのか。

 「猫ちゃん、お名前なんて言うの? わたしは、シーニャ。あなたのお名前は? どちらまで行かれる予定ですか? ご結婚なさっていますか? お子さんいらっしゃいますか?」
 「そいつは、グリエル。私は、」

 本当の名前を言おうとしたが、出てこなかった。思い浮かべることもできない。

 『あなたの真の名を取り込みました』

 グリエルの言葉が蘇る。彼女を見ると、奴も俺を見ていた。耳を後ろに倒している。そういえば、さっき呼び名をつけられた。

 「トリスです。君は」

 「シーニャとお呼びください。トリス様。わたしはこの近くの村で、粉挽きの両親を手伝って暮らしていますが、剣術が好きで、冒険に出たいと思っていたんです。どうか一緒に連れて行ってください!」
 「ちょっと待ってください。急に言われても困ります。行くとしても一度、ご両親にお会いして、許可を頂かないと」
 「戻ったら、鍛冶屋の息子と結婚させられてしまいます! そうしたら村から出られない‥‥あ、でもトリス様が結婚してくださるなら、大丈夫かも」

 夜目にもわかるくらい、顔を赤らめるシーニャ。俺は冷や汗が出てきた。何だこの夢は。
 俺は助けを求めてグリエルを見る。彼女はシーニャの腕から抜け出し、俺の肩に乗った。重い。

 「これ、どうすれば? 大体あの子‥‥」

 『偶然です。彼女があなたの後輩とか、お知り合いに似ていたとしても、その関係をここに持ち込む必要はありません。あと、私はペットということにしておいてください』

 「すごーい! 猫と話せるなんて! それも魔法ですか?」

 『さっきも説明しましたが、解読能力及び言語習得スキルを、最高レベルで付与してあります。魔法というより、努力の結晶と説明した方が良いでしょう』

 耳元で淡々と説明するグリエル。俺は初めて、この世界が夢であることを疑った。

 「猫ちゃん、グリエルちゃん、何て言っています?」

 「ああ、ええと、お腹が空いて眠い、かな」

 適当に答える。その前に色々返答に困るような話を持ち出していた。とにかく話を逸らせたい。

 『この娘、連れて行っても構いませんよ。振り払うの面倒ですし。ただ、家族から許可をもらった方がいいと思います』

 「そっか、猫ちゃん、お腹空いているのね。トリス様、食料‥‥お持ちでなさそうですね。じゃあ、両親に引き合わせますから、食事でもしながら、将来について、じっくりお話しくださいね」

 シーニャの双眸そうぼうがキラキラしている。悪い予感しかしない。
 しかし、初めての場所、夜の山中で、地元の人間の追跡を逃れる自信もない。
 グリエルも逃げる気はなさそうで、俺に選択肢はなかった。

 「では、あなたの家に行きましょう」
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